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映画の黎明期と“ハリウッド"が誕生するまで (前編)
  – 世界の映画史 (1) – 
 トーマス・エディソン/リュミエール兄弟/ジョルジュ・メリエス | CINEMA & THEATRE #050
Photo: ©RendezVous
2023/10/16 #050

映画の黎明期と“ハリウッド"が誕生するまで (前編)
– 世界の映画史 (1) –
トーマス・エディソン/リュミエール兄弟/ジョルジュ・メリエス

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

今回から「世界の映画史」シリーズの本編に入ります。第1回の前半では、映画の黎明期から、ハリウッドという南カリフォルニアの街と産業が誕生した経緯までをたどります。後半では、1900~30年代に話題となり、今も歴史的作品として称賛されているサイレント映画の代表作を紹介します。100年前のこうした映画作品は、現在のハリウッド映画にも強い影響を与えています。


2.映画の発明

19世紀末頃、世界中の発明家たちは、動画を録画し、それを再生する技術を開発しようとしていました。中でも商業化へと繋がるきっかけを作ったという点でまず挙げなけらばいけないのが、アメリカの発明家のトーマス・エディソンです。エディソンは、1877年にレコード・プレイヤーの前身となる蓄音機を発明し、人々が自宅で音楽を楽しめるホーム・エンタテインメントの革命を起こしました。その蓄音機とセットになるような「目を楽しませるような機器」を作りたいと思ったエディソンは、東海岸のニュー・ジャージー州にあった自身が運営する研究所の若いアシスタント、ウィリアム・K・L・ディクソンに大きなコンセプトを提示し、その開発を託します。

ディクソンが開発したのが「キネトグラフ」という動画カメラと「キネトスコープ」というプレイヤーでした。エディソンは蓄音機との使用を想定していたため、その映写機は大勢の人が同時に動画を観るためのプロジェクターではなく、1人がのぞき穴を通して動画が観れる“のぞき眼鏡式映写機"でした。エディソンはまた、キネトスコープ用の動画を作るストゥディオ(制作会社)を立ち上げ、初期の頃は演芸人などを呼んで固定されたカメラの前でパフォーマンスする様子を録画していました。1894年ごろからは、450kg以上もの重たさがあったキネトスコープはペニー・アーケイド(当時の“ゲーセン")、遊園地、ホテルのロビーなどに設置されるようになります。

エディソンはこうしたカメラもプレイヤーの技術に関して、国際特許を申請しませんでした。その結果、これらの機器はヨーロッパ各地で模範され、その技術は改造・改修されていきました。その中でお客から料金をもらって動画を鑑賞してもらうという形を確立したのがフランスのリュミエール兄弟でした。

1894年、写真の研究をしていたアントワーヌ・リュミエールは、首都パリでの実演でキネトスコープを目の当たりにし、弟のルイと共に動画の研究を開始しました。兄弟が開発した「シネマトグラフ」は、カメラと映写機としての機能を両方合わせもち、重さも9キロ程度で比較的移動しやすいものであったことから、各地で行われる上映会に向いていました。そこで上映されていた内容は、屋外のロケイションで撮影された、ワンショットからなる1分前後の白黒の“記録動画"でした。内容は日常の風景、イヴェント、スポーツ、ちょっとしたギャグなどで、音声が伴わないサイレント映画でした。彼らは「リュミエール協会」を立ち上げ、世界中に撮影技師(カメラマン)を派遣し、世界各地の異国的な光景を多く撮影しようと試みました。その活動を通して動画撮影と動画投影の技術がヨーロッパ各地、オーストラリア、そして日本にも伝わりました。当時はまだ、その技術は“映画"というよりかは、むしろ写真の延長としての“動画"として捉えられていました。

1895年、リュミエール兄弟はシネマトグラフで撮影した記録動画をパリで上映することを始めました。12月の実演には、魔術師のジョルジュ・メリエスが参加し、その技術に衝撃を覚えました。マジック・ショーの劇場も経営していたメリエスは、その技術を用いればステージ上での生のパフォーマンスでは実現不可能な演出が可能となると感じました。彼は独自でプロジェクターを入手し、それを改造して撮影のできるカメラを作りました。また、1897年にはガラスの天井をした撮影用のストゥディオを建て、そこでセットを組み、自分が書いた脚本を役者に演じさせました。メリエスはそれまで主流だった記録動画とは違う、物語性のある映画を作り始めました。しかもその過程で、フェード・インやフェード・アウト、多重露出、スロー・モーションなど、魔術師ならではの様々な“トリック"を発明していきました。こうしたことからメリエスは“世界初の職業映画監督"とも呼ばれています。


3.バイオグラフ社と“エディソン・トラスト"

ハリウッドがアメリカの映画産業の中心地となる前、前述のトーマス・エディソンの研究所を始め、アメリカの映画会社の多くは東海岸北部のニュー・ジャージー州を拠点としていました。しかし、この土地はとても寒く、日光の少ない冬場でも撮影活動を続けるための拠点を必要としていました。

1900年代終盤から1910年代にかけて多くの映画製作会社は、温暖な気候、異国的な雰囲気、比較的安価な労働者がいることから、南部のフロリダ州のジャックソンヴィルにも拠点を設置しました。ところがジャクソンヴィルの住民は、保守派であったことから、自分たちの街が映画撮影のロケとして使用されることを嫌がり、この地で映画製作を行うことに反対しました。1917年に保守派の市長が当選すると、映画製作を取り締まる動きが強まりました。このことをきっかけに映画会社の多くは西海岸の南カリフォルニアに移ることとなりました。これ以外にも映画産業が東海岸から西海岸に移り、ハリウッドが栄えた背景には、他にもいくつかの理由があります。

前述のキネトスコープを開発したウィリアム・K・L・ディクソンは、1895年にエディソンの研究所を離れ、知り合いの発明者や実業家と共に「アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社」という映画会社を東海岸のニュー・ジャージー州で立ち上げました。アメリカにおいて初めて映画製作と上映に特化した会社となったバイオグラフ社は、約20年間にわたってアメリカを代表するサイレント映画の製作会社となりました。初期は主に記録動画を製作していましたが、エディソンやヨーロッパの映画製作者などとの競合によって映画技術はどんどん発展し、やがて物語性のあるサイレント映画を製作するようになりました。バイオグラフ社からは、D・W・グリフィスという監督が有名になっていきます。

1910年、グリフィスはアメリカの先住民を題材にしたサイレント映画を製作するためにロス・アンジェレスに行きます。その際にロケイション・ハンティングのためにハリウッドという“村"を初めて訪れました。彼はその村の美しい風景とフレンドリーな住民に魅了され、その後度々当地を訪れ、ハリウッドで初めて撮影された短編映画も製作しました。映画製作に最適なその場所の噂を聞きつけた東海岸の映画会社は、その後、徐々に拠点をハリウッドに移すこととなります。その動きの背景には、トーマス・エディソンの手の届かない場所へ逃げるという目的もありました。

当時エディソンは、映画撮影用カメラに関するアメリカ国内の特許のほとんどを所有していて、競争企業を次々と提訴していました。結果的に1900年代のアメリカの映画業界は、エディソンの会社と、独自の映画撮影機器を用いていたバイオグラフ社の2社による独占状態となっていました。追い込まれた競合企業はエジソンに対して特許使用許可を得るための交渉をもちかけます。その結果、1907年に「エジソン特許システム」が成立します。しかし、エディソンはバイオグラフ社をこの交渉から除外したため、2社の対立は激化しました。

連邦裁での争いを経て、2社はようやく交渉をはじめ、結果的に1908年に「モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー」(MPPC)が成立することとなります。その傘下にはバイオグラフ社のほかアメリカの大手映画会社が所属し、ジョルジュ・メリエスの米国法人なども所属していました。別名「エディソン・トラスト」とも呼ばれていたこの企業合同は、事実上アメリカの映画業界をエディソンの管理下に置くものとなりました。

ところがその後、アメリカ各地で独立系の映画制作会社が次々と現れ、その独立系の映画を上映する映画館が急速に増加することで、裁判所から特許侵害者に対する禁止命令を得るという作業が追いつかなくなります。そしてMPPCは勢いを失い、ついに1915年10月に連邦裁判所の「アメリカ合衆国対モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー裁判」においてMPPCの行動はシャーマン反トラスト法(独占禁止法)に照らして違法な取引制限であるという判決が下され、MPPCは終焉を迎えることとなります。このことにより、アメリカの映画産業は急速に成長し、ハリウッドへのシフトに拍車がかかりました。

この動きを更に後押ししたのが、1914年に第一次世界大戦が勃発したことです。ヨーロッパの市場が閉ざされたことは、比較的ヨーロッパ市場に頼っていたMPPCの映画会社にとっては大きな打撃となりました。一方、独立系の映画会社は主にアメリカ国内向けのウェスタン映画(※8)を製作していたため、打撃は最小限に済んだのです。そして何より、英国、フランス、ドイツなどヨーロッパ各地における映画産業が止まっていたため、ハリウッドは敵なしの状態で世界の映画界の中心となることができたのです。


4.アトラクションから一大エンタメへ

こうしたハリウッドを中心とした映画産業の成長の裏には、アメリカ映画の上映専用の劇場が誕生した1900年代初期という時代が関係しています。それまで映画というものは、エディソンのキネトスコープのように1度に1人しか楽しむことができないもの、あるいは劇場で上映される場合でも、踊り、歌、手品、漫才など様々なパフォーマンスの内の1つとして位置づけられる程度のいわば見世物でした。初めて全国的に普及し、商業的に成功した映画館という形態は、“ニッケルオデオン"というものでした。入場料が“ニッケル"1枚(5セント)であることに名前が由来するニッケルオデオンは、小さなスペースに座り心地の悪い木の椅子を200席くらい詰め込んだ庶民的な劇場でした。上映されていた作品は音声が伴わない“サイレント映画"であったため、劇場によってはピアノ演奏や観客による合唱など行われることがありました。この形態は1900年代半ばごろから急速に普及し、1910年には1万軒にも登るの劇場が全国各地に存在するようになりました。毎週2600万人のアメリカ人が映画館に足を運んでいたと推測されるほどの人気を得たのです。

映写機が開発されて間もない頃、観客の目当ては映画の作品ではなく、その目新しい機械を見ることでした。多くの映画会社が設立され、映画作品が多く製作され、それを上映する映画館が増えると、観客は今度は映画作品を目当てに映画館を訪れるようになります。こうしてようやく、技術そのものより、作品の面白さが問われるようになったのです。こうなると、映画館主は、いろんな短編映画を組み合わせ、いかに面白いプログラムを組むかが大事になりました。こういったニッケルオデオンが普及することによって、映画は大衆向けのエンタメという地位を確立することとなりました。そしてこの流れは世界各地にも広がることとなります。

ニッケルオデオンの大繁盛は、映画作品の進化をもたらし、それは結果的にニッケルオデオンの衰退にもつながりました。映画製作会社同士の競争が激しくなるにつれ、各社は差別化を図るためにより長い、より複雑な構成の作品を製作するようになっていきます。当初は1ショットから成っていた作品は、複数のショットを編集して繋げたより長い作品となり、やがて数分から数十分程度の短編映画から1時間超の長編映画が主流となっていきました。これによって映画の内容も、記録動画やニューズの伝達から物語性のある作品、いわゆる“物語映画"や“劇映画"というものへシフトしていきました。また、映画作品が長くなると、観客はより心地良い、より良い設備を求めるようになります。こうして大型劇場のニーズが生まれました。大型劇場ではサイレント映画にパイプ・オルガンや場合によってはオーケストラの演奏が伴うようになりました。こういった映画作品や映画館の進化によって観客動員数はさらに成長し、入場料はそれまでの5セントから10セントに上昇しました。



また、映画産業が20世紀初期に成長し続けた背景には、大物映画俳優を生み出す“スター・システム"の誕生も忘れてはいけません。当初は、映画に出演する俳優の名前はクレジットされていませんでした。その理由の1つは、演劇界からきた俳優にとって映画は教養のない大衆向けのものであり、そこに出演することは恥だという思いがあったからです。また、前述のMPPCは、映画俳優への支払いをなるべく抑えるためにパフォーマーの名前をクレジットしないという方針を取っていました。一方、独立系の映画会社は積極的に人気俳優の名前を売り込み、観客を惹きつける大事な要素として捉えていました。1910年ごろから映画作品の中で俳優のクレジットが表示されるようになり、それをきっかけにサイレント映画スターという存在が生まれることとなりました。


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