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インド生まれのゴア・トランスとサイケデリック・トランス
  - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (10)
  - シュポングル/ハルシノジェン/インフェクテッド・マッシュルーム/ジュノ・リアクター | MUSIC & PARTIES #036
Photo: ©RendezVous
2023/11/27 #036

インド生まれのゴア・トランスとサイケデリック・トランス
- エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (10)
- シュポングル/ハルシノジェン/インフェクテッド・マッシュルーム/ジュノ・リアクター

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

MUSIC & PARTIES #035では90年代にヨーロッパから誕生したエピック・トランスについて紹介しました。ドイツでトランスとテクノというエレクトロニック・ダンス・ミュージックが発達していた90年代前半、インドのリゾート地のゴアでは“ゴア・トランス"というジャンルが成長していました。

そもそもゴアはインドの西海岸中部に位置しする州です。11世紀初めから貿易港として発展し、16世紀初めにポルトガル王国によって占領されました。19世紀の初めにフランスのナポレオンがポルトガル本国を占領すると、ゴア州がフランスの手に渡ってしまうことを恐れた英国は一時的に占領しました。その後、英国がインドに植民地帝国を建設した後も、ポルトガルはゴアを領有していました。1961年にようやくポルトガルによる植民地支配が終わりました。

こういった背景から、ゴアには植民地時代の建物や文化が根付き、インドに併合された後も国内外の観光客や若者のバックパッカー(低予算で国外を個人旅行する旅行者のこと)が訪れるリゾート地として栄えました。ヨーロッパ発、あるいはヨーロッパに輸入されていた様々な音楽もゴアに持ち込まれるようになり、地元の有機的で民族的な音楽と混ざって生まれたのが“ゴア・トランス"です。その音楽と切っても切れないのが、野外パーティー(いってみればレイヴの原型)です。

今回はゴア・トランスと、そこから発展して生まれたサイケデリック・トランスについて紹介します。


2.ゴア・トランスの誕生とポール・オーケンフォールド

60年代後半から、ゴアは徐々にアメリカやヨーロッパのヒッピーやフリークの聖地となっていきました。彼らはその土地の美しい自然、土着的なスピリチュアリティ、植民地としての歴史から西洋人に寛容だった態度を楽園として捉え、そこに住み着くようになりました。明るいカラフルなファッションを身にまとったヒッピーたちは、一日中マリファナを吸ったり、音楽を演奏したり、ヨガをしたり、フリー・マーケットでアートを売ったりして、のんびりとした日々を過ごしていました。ビーチ・パーティーではライヴ・ミュージックが中心でしたが、演奏の合間にはカセット・テープやレコードかけられるようになっていました。人気の音楽はグレイトフル・デッド、ピンク・フロイド、ザ・ドアーズなどのサイケデリック・ロックでした。





80年代には、海外からクラフトワークなどのエレクトロニック・ミュージックのカセットやレコードが輸入されるようになり、80年代半ばごろにはビーチ・パーティーでかかる音楽はほとんどエレクトロニックになっていました。その背景にはゴア・ギルなどのDJの活躍がありました。アメリカ出身のヒッピーであったゴア・ギルは、60年代末、サン・フランシスコのサイケデリック・ミュージック・シーンが衰退しつつあると感じ、アムステルダムへ渡り、その後インドに渡って最終的にゴアに安住しました。80年代からゴアのビーチ・パーティーにサウンドシステムを持ち込んでDATテープで朝までDJプレイをするようになります。ゴア・ギルらは西洋のエレクトロニック・ミュージックからヴォーカルを抜いた“ダブ"ヴァージョンにアシッド・ハウスやサイケデリック・ロックのサンプルを重ねました。更に土着のスピリチュアリティが混ざり合って独自のシーンが形成されていきます。また、マリファナや、LSDなど幻覚剤の使用が広く行われていた野外のビーチ・パーティーはレイヴの原型ともなりました。

90年代に入るとスヴェン・ヴァスが自身のレイベルからリリースしていた、ワールド・ミュージックの要素を取り入れたテクノ・トランスも輸入されるようになります。こうしてゴア・トランスのサウンドが確立されていきます。スヴェンの1枚目のオリジナル・アルバム『Accident in Paradise』の1曲目の『Ritual of Life』は、テクノのビートにシタールやディジュリドゥの音が重なっており、このサウンドこそがゴア・トランスです。スヴェンは、90年代前半にゴアに訪れた時に自分の音楽がこの土地で既に親しまれており、“ゴア・トランス"と呼ばれていたことに驚いたそうです。

90年代前半から、ビーチ・パーティーを体験するためにヨーロッパ、イズラエル、そして日本のバックパッカーやDJたちがゴアを訪れるようになり、ピーチ・パーティーの規模は、500人規模から1500規模へと膨れ上がりました。彼らは母国にゴア・トランスや“レイヴ"というパーティーの形を持ち帰っていきました。その1人が英国人のポール・オーケンフォールドです。

オーケンフォールドは90年代前半に英国のロック・グループのリミックスを手がけたり、U2のツアーに参加するなど、既にビッグ・ネイムになっていました。94年にはピート・トングの『エッセンシャル・ミックス』に2度も出演し、両方ともゴア・トランスを多く取り入れた2時間のセットが放送されました。特に2つ目のエッセンシャル・ミックスは『ゴア・ミックス』という名で知られるようになり、その後CDとしてリリースされるほど伝説的なミックスとして知られています。このミックスをきっかけにゴア・トランスは英国を始めヨーロッパでも広く認識されるようになります。オーケンフォールドは、90年代後半にも自身のレイベル「パーフェクト」のリリースや、「グローバル・アンダーグラウンド」のミックスCDの中でもそのサウンドを大きく押しました。


3.ゴア・トランスからサイケデリック・トランスへ

94年から97年の間に、ゴア・トランスは商業的な全盛期を迎えることとなりました。いくつものゴア・トランスのレイベルが立ち上げられ、多くのアーティストが活躍することとなります。この頃から“ゴア・トランス"という名称に代わって“サイケデリック・トランス"という名前も使われるようになります。

その中で主要人物として知られるのがラジャ・ラムという人物です。オーストラリア出身のラジャはいわゆる“ヒッピー・トレイル"を行くために50年代に旅に出て、65年にはニューヨークに渡ってジャズを勉強しました。69年より英国のサイケデリック・ロックのバンド「クインテッセンス」のフルート奏者として活動しました。同バンドは1980年までヨーロッパを中心に活動しましたが、アメリカでブレイクすることはありませんでした。

ラジャは1990年に初めてゴアに訪れ、トランス・シーンに衝撃を覚えます。その後英国に戻るとすぐに「The Infinity Project」(略してTIP)というゴア・トランスのバンドを組みました。更にレコード・レイベルも立ち上げ、ロンドンを中心に「TIPパーティ」を開催するようになります。こうしてラジャはゴア・トランス・シーンの中心的な人物となるのです。

また、ラジャは1996年には英国のエレクトロニック・ミュージシャンのサイモン・ポスフォードと共にシュポングルというデュオも組み、サイケデリック・トランスとアンビエントを融合させた“サイビエント"というサブジャンルを生み出しました。そのサウンドは幻覚剤によって引き起こされたサイケデリック体験を再現しようとしたものといえます。

ポスフォードは、1993年から「ハルシノジェン」という名義でソロ活動も行います。1995年にリリースされた1枚目のアルバム『Twisted』は、サイケデリック・トランスの歴史的な名盤とされています。因みに“ハルシノジェン"は「幻覚剤」を意味する英語の言葉です。

イズラエル出身の「インフェクテッド・マッシュルーム」もサイケデリック・トランスを代表するアーティストです。子供の頃にクラシカル音楽を学び、趣味でパソコンを使ってエレクトロニック・ミュージックを作っていたエレズ・アイゼンと、ヘヴィ・メタルの大ファンで、ゴアで1年間暮らし、イズラエルに戻ってきたばかりのアミット・デュブデブは意気投合し、1996年にデュオとして音楽制作を始めます。1999年のデビュー・アルバム『The Gathering』はイズラエルのサイケデリック・トランスを世界に認知させ、2000年にリリースされた2枚目『Classical Mushroom』は日本を始め世界各地でその人気を確たるものとしました。

英国出身のベン・ワトキンズを中心とした「ジュノ・リアクター」は、サイケデリック・トランスのアーティストの中で最も商業的に成功したグループの1つです。ジュノ・リアクターはアート・プロジェクトとして1990年にスタートし、実験的な音楽やアート・インスタレイションや映像作品用の音楽の制作からスタートします。1993年にリリースしたデビュー・アルバム『Transmissions』は、サイケデリック・トランスを代表する作品です。ジュノ・リアクターは他にも映画音楽で知られており、『マトリックス リローデッド』と『マトリックス レボリューションズ』に曲を提供したり、宮部みゆきのファンタジー冒険小説『ブレイブ・ストーリー』を原作とした2006年のアニメ映画のサントラも手がけています。

日本におけるサイケデリック・トランスの主要人物として挙げなければいけないのが、DJ TSUYOSHIです。TSUYOSHIは日本大学芸術学部を卒業した後、映像作家を目指してヴィデオ・アートを制作するかたわら、YMOや英国のニュー・ウェーヴを意識したバンドで音楽活動をしていました。1990年初頭に西麻布の「Space Lab Yellow」でKUDOのDJプレイに衝撃を受け、自らインドに渡ってゴア・トランスに浸りました。1992年に単身で渡英し、ゴア・トランスのレイベル「MATSURI PRODUCTIONS」を立ち上げました。その後DJとして世界各地で活躍しながら、ゴア・トランスを日本に伝道するために頻繁に日本のクラブやレイヴでプレイを行います。DJ TSUYOSHIは1997年にはISSEY MIYAKEの東京/パリコレクションのファッション・ショーでDJを担当しました。

DJ TSUYOSHIは、1997年にリリースしたコンピレイション・アルバム『Let It Rip』のライナー・ノーツに『R.I.P: Mother Theresa, Princess Diana, William Burroughs & Goa Trance』(マザー・テレサ、プリンセス・ダイアナ、ウィリアム・ボローズ、ゴア・トランスよ、安らかに眠れ)と書いており、その頃にゴア・トランスとサイケデリック・トランスの世界的な1回目のブームは終息しました。しかし、その後もサイケデリック・トランス・シーンはヨーロッパや日本を中心に続いていくこととなります。

オススメのサイケデリック・トランスのアルバム


4.サイケデリック・トランスから発展した野外レイヴ/アート・フェス文化

ゴア・トランスのブームを受けて、90年代末にはエレクトロニック・ダンス・ミュージックだけのための野外レイヴが数多くヨーロッパで開催されるようになりました。これらのレイヴはゴアのビーチ・パーティーのスピリッツを受け継ぎ、数日間に渡ってコミュニティーが形成され、音楽のみならずアートやデコレイション、パフォーマンス・アート、ファッションなどが表現されました。こうしたレイヴには前述のサイケデリック・トランスのアーティストたちが頻繁に出演しています。

1997年にポルトガルには「ブーム・フェスティヴァル」がスタートしました。隔年に開催されるこのフェスはヨーロッパ最大のサイケデリック・トランス・フェスとされています。近年のイヴェントでは5つの音楽ステージが設けられ、“サイケ"以外にもテクノ、ハウス、ワールド・ミュージック、チルアウト・ミュージックなど様々なスタイルの音楽の演奏やDJプレイが行われています。音楽以外にも映画の上映、ヨガ、集団での瞑想、ストリート・シアター、パフォーマンス・アートや様々なアートの展示会も開催されます。このイヴェントのテーマは愛と平和、サステナビリティ、クリエイティヴィティ、オルタナティヴ・カルチャー、エヴォリューションなどです。広告などは“視覚的な汚染"ということから、企業スポンサーは原則ついていなくて、チケット販売のみで運営されています。

同じ1997年にはドイツで「フュージョン・フェスティヴァル」もスタートしました。かつて軍用飛行場として使われていた施設を会場としたこのフェスは、毎年6月の下旬に4日~6日間に渡って開催され、約70,000人が動員されています。音楽はエレクトロニック・ダンス・ミュージックがメインとなっており、トランスやテクノ以外にもヒップホップやレゲエも演奏されることがあります。音楽以外にも映画祭やいくつかのアート・インスタレイションが併設されています。来場者は仮装したり、自分たちのアート作品を持ち込むことができ、会場ではヴェジタリアンのための食事のみが販売されています。

2004年からはハンガリーでは「O.Z.O.R.A.」という野外レイヴも開催されています。毎年40,000人以上訪れるこのフェスは、ヨーロッパ最大のサイケデリック・ミュージックのイヴェントの1つとされており、「21世紀型のウッドストック」とも称されています。因みに日本でも2020年1月18日に、新木場のスタジオ・コースト(ageHa)で「O.Z.O.R.A. ONE DAY IN TOKYO」というイヴェントも開催され、話題となりました。

2013年からは、オランダで「Psy-Fi」という野外レイヴ/アート・フェスが開催されており、ヨーロッパ各地から多くの人が訪れるようになっています。1回目のコンセプトは「ヒッピー・ラヴとゴア・トランスづくしの65時間の瞑想トリップ」といい、来場者は「ネオ・ヒッピー」と称されています。2018年のテーマは「シャーマニック・エクスペリエンス」で、開会式にはメキシコ、グリーンランド、ニュー・ジーランド、北米からの伝統的なシャーマンが登場しました。2019年から食事はヴェジタリアンのみが提供され、使い捨ての日用品の販売は禁止されるようになりました。

そもそもゴアのビーチ・パーティー以外にこういった野外レイヴ/アート・フェスの先駆けといえるのが、1986年よりアメリカのネヴァダ州のブラックロック砂漠で開催されている「バーニング・マン」です。晩夏に9日間に渡って砂漠で開催されるこのフェスには毎年数万人が訪れ(2018年には70,000人を超えました)、この期間にだけ外部の世界から地形学的にほとんど遮断された「街」が形成されます。このイヴェントの最大の目玉は、街の象徴として中心に立ち続けている人型の巨大な造形物に火がつけられる儀式です。バーニング・マンには十か条の根本理念があります:
『どんな者をも受け入れる共同体である』(Radical Inclusion)
『与えることを喜びとする』(Gifting)
『商業主義とは決別する』(Decommodification)
『他人の力をあてにしない』(Radical Self-reliance)
『本来のあなたを表現する』(Radical Self-expression)
『隣人と協力する』(Communal Effort)
『法に従い、市民としての責任を果たす』(Civic Responsibility)
『跡は何も残さない』(Leaving No Trace)
『積極的に社会に参加する』(Participation)
『「いま」を全力で生きる』(Immediacy)


5.エピローグ

MUSIC & PARTIES #028 でも紹介したように、90年代初頭の英国のアシッド・ハウスとバレアリック・ビート、そして違法レイヴは、多くの英国の若者にとってイビザ島という楽園を疑似体験する方法でした。同時にヒッピーたちにとっては、イビザ・シーズンが終わっても常夏の雰囲気を味わえる場でもありました。

そして94年ごろからゴア・トランスが爆発的な人気を集めるようになると、ゴア・トランスやサイケデリック・トランスのパーティーや野外レイヴは、ゴアを訪れたことがない人にとってゴアという楽園を疑似体験する場となりました。

トランス・ミュージックは現代の“ヒッピー・ミュージック”なのです。ゴアのビーチ・レイヴ・シーンの中心的なDJであったゴア・ギルは、ダンスを瞑想の一種として捉え、ダンス・ミュージックをサイケデリック・ミュージックの進化形だと考えていました。MUSIC & PARTIES #035で取り上げたエピック・トランスのヴォーカルも、基本的に“ラブ&ピース”や“スピリチュアリティ”を歌った歌詞が多いのもこの影響なのでしょう。英国のアバヴ・アンド・ビヨンドに至っては瞑想用の音楽もリリースしており、毎週放送しているトランスのレイディオ番組の名前は「グループ・セラピー」です。彼らのレイベル「アンジュナビーツ」は、ゴア・ギルがプレイしていた「アンジュナ・ビーチ」に由来しています。

また、60〜70年代のヒッピー・ムーヴメントがそうであったのように、トランス・ミュージックのファン層も白人が多いことも特筆すべきことでしょう。踊るためのブラック・ミュージックとは違って、トランスは“心”や“脳”を直接踊らせるための音楽であり、例えぎこちない動きでも高揚感や多幸感をもたらします。そもそもトランスのテンポはハウスやテクノに比べて早く、ステップを踏むようなダンスには向いていません。いってみればトランス・ファンは“祈るように”あるいは“悟るように”踊るのです。トランス・ミュージックは縦揺れのノリノリのビートであり、横揺れのグルーヴ感はありません。

ヒッピー・ミュージックであるトランス・ミュージックの目的は、できるだけ多くの人の心を動かし、ハッピーにさせることだといえるでしょう。そのため、敢えてエッジがないのかもしれません。カッコいい音楽を追求するアメリカのポピュラー・ミュージックからすると“トランス”にはダサいイメージがありますが、90年代以降、世界中の多くの人々をハッピーにさせてきたことは、間違いありません。

次回は日本のレイヴ・シーンを取り上げます。


MUSIC & PARTIES #036

インド生まれのゴア・トランスとサイケデリック・トランス - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (10)


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