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ハウス・ミュージックのメインストリーム化とEDMの世界的な大成功
  - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (12)
  - デヴィッド・ゲッタ/アフロジャック/アヴィーチー/スクリレックス/マーティン・ギャリックス/ゼッド | MUSIC & PARTIES #038
2024/04/29 #038

ハウス・ミュージックのメインストリーム化とEDMの世界的な大成功
- エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (12)
- デヴィッド・ゲッタ/アフロジャック/アヴィーチー/スクリレックス/マーティン・ギャリックス/ゼッド

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

前回MUSIC & PARTIES #037では、日本のクラブ・シーンと野外レイヴ・シーンについて取り上げました。日本では90年代後半に、いくつもの野外レイヴが立ち上げられ、2000年頃には、商業的にも大きな成功を収めました。しかし、2000年代後半には、徐々に衰退へと向かうという経緯を紹介しました。

一方、アメリカにおいては、シカゴ、デトロイト、ニューヨークを中心にエレクトロニック・ダンス・ミュージックは、アンダーグラウンド・カルチャーとして80年代から成長してきました。90年代に入り、アメリカのエレクトロニック・ダンス・ミュージック・シーンのもう1つの震源地が、フロリダ州に誕生します。

1980年代初頭のフロリダ州は、東海岸の比較的裕福な人々が退職した後に転居する人気地域として知られていました。不動産物件が多いことから、徐々にセレブやモデルたちも移住するようになります。1984年には『特捜刑事マイアミ・バイス』というテレヴィの刑事ドラマが大ヒットし、フロリダ州を訪れる観光客も増えました。ニューヨークのパーティー・ピープルがナイトクラブに向かったように、フロリダを訪れるパーティー・ピープルはビーチに出向くようになります。ヨーロッパ人がイビザ島やゴアに憧れていたように、アメリカ人もフロリダのビーチ生活に憧れるようになります。

そんな中、1986年からマイアミの40km北に位置したフォート・ローダーデールのマリオット・ホテルで、エレクトロニック・ダンス・ミュージックの“業界人"向けに「Winter Music Conference」というイヴェントが開催されるようになりました。初年は90人くらいの業界人が出席した小さなイヴェントでした。その後徐々にスケイルが拡大していき、90年代初頭にはマイアミ・ビーチ付近に会場を移すこととなりました。プロモーター、レイベル、著名DJのマネジメント、ブランドなどが一同に集い、当初は“コネづくり"が主な開催目的でしたが、次第にスケイルが大きくなり、その先クラブ・シーンの1年の予定を立てたり、トレンドを探ったり、ダンス・ミュージック界が取り組むべき課題について様々な討論会やセミナーが開催されるようになります。もちろん、息抜きのためのプール・パーティーやカクテル・パーティーも夜な夜な開かれています。同時に毎年「International Dance Music Awards」も開催され、メインストリームからアンダーグラウンドまで優秀なDJや作品、クラブやレイベル、レイディオ賞/ポッドキャストや音響機材に賞が贈られます。

1999年からは、「Ultra Music Festival」 (当初は「Ultra Music Beach Festival」)というレイヴがWinter Music Conferenceの一環として開かれるようになりました。この期間にはマイアミ周辺のナイトクラブで関連イヴェントも開催され、1週間の間に世界中のトップDJを一箇所で見られるということで、業界人以外の一般のパーティー・ピープルも大勢集まるようになりました。「Ultra Music Festival」自体も2000年には1日で1万人を動員するという規模からスタートし、2010年ごろには3日間に渡って10万人を超える規模まで膨れ上がっていきました。

このイヴェントの成長の背景には、世界中からダンス・ミュージック・ファンがマイアミを訪れるようになったこともありますが、それ以上にアメリカにおけるダンス・ミュージックのメインストリーム化の影響が大きかったのでしょう。3月中旬という開催期間は、大勢のアメリカの大学生がフロリダ州などに詰め寄って羽目を外すいわゆる“スプリング・ブレイク"の期間と重なっていたことの影響があります。それまでクラブをろくに訪れたことのなかった大学生たちは、このマイアミのビーチ・パーティーで幅広いジャンルのダンス・ミュージックに触れ、中毒となっていくこととなりました。

今回のコラムでは、アメリカにおけるエレクトロニック・ダンス・ミュージック・シーンがメインストリーム化する中で重要な役割を果たしたアーティストたちや、この流れで2010年代に大ブレイクした“EDM"のアーティストたちを紹介します。


2.ハウス・ミュージックのメインストリーム化

2000年代後半、ちょうど日本のクラブ・シーンとレイヴ・シーンが衰退し始めた頃、アメリカではエレクトロニック・ダンス・ミュージックに特化した大型レイヴが軌道に乗り、年々規模を拡大させていきました。この人気を後押ししたのが、フランスのダフト・パンクやデヴィッド・ゲッタ、アメリカのカスケイド、カナダのデッドマウスらによるハウス・ミュージックのメインストリーム化です。

音楽とヴィジュアルを融合したEDMフェスのステージ・ショーの1つの金字塔とされているのが、ダフト・パンクが2006年~2007年に行った大規模なワールド・ツアーです。ダフト・パンクの2人はロボットの衣装をまとってステージ上の巨大なピラミッドに鎮座し、代表曲をマッシュアップした演奏とそれに連動した映像や照明のスペクタクルに、ロック・ファンですら度肝を抜かれました。ダフト・パンクはこのピラミッドのセットと共に2006年の日本でのサマーソニックで“マウンテン・ステージ"のトリを飾りました。このワールド・ツアーから2007年のパリ公演の音源がライヴ・アルバム『Alive 2007(ピラミッド大作戦)』としてリリースされています。

同じくフランス出身のデヴィッド・ゲッタは、堂々と“売れ線"を狙ったフレンチ・ハウス・スタイルで世界的に人気となり、「EDMのゴットファザー」という異名を得ることになります。ゲッタは90年代にフランスでDJとオーガナイザーとして下積み時代を過ごし、2000年代は活動の場を徐々に英国やアメリカにも広げます。イビザ島の名物ナイトクラブ「パシャ」でも自身のクラブ・ナイト『Fuck Me I'm Famous』(日本語に訳すると「やべえ、俺有名人じゃん!」)をスタートさせました。彼のステータスを大きく押し上げたのが、ポップ/R&Bアーティスト(特に黒人アーティスト)とのコラボです。その代表例が2009年のアルバム『One Love』のシングル『When Love Takes Over』です。元デスティニーズ・チャイルドのケリー・ローランドをヴォーカルに迎えた本作は、世界で550万枚を売り上げ、ゲッタはグラミー賞「最優秀ダンス・レコーディング賞」にノミネイトされました。

ゲッタは同年、アメリカのヒップホップ・グループBlack Eyed Peasの5枚目のオリジナル・アルバム『The E.N.D.』のために『I Gotta Feeling』という曲を制作しました。本作はシングルとしてリリースされると、iTunesでは現在も史上最もダウンロードされた曲となり、グラミー賞「最優秀レコード賞」も受賞しました。その後もゲッタは数多くのヒップホップ・アーティストとコラボレイションを行い、“EDM"を牽引する存在として活動を続けています。2011年に「DJ Magazine」のトップ100人のDJ で1位にも選ばれ、現在に至るまで毎年トップ10入りしています。

スウェーデンからもハウス・ミュージック/エレクトロ・ハウスを世界的にブレイクさせたアーティストが現れました。2000年代終盤に名を挙げたスウィーディッシュ・ハウス・マフィアという3人組です。それぞれがソロのDJ/プロデューサーとしても活動するスウィーディッシュ・ハウス・マフィアはDJ界の“スーパーグループ"と称されるようになります。スウィーディッシュ・ハウス・マフィアがリリースしたシングルは、どれも平凡なハウスやEDMのトラックなのですが、彼らがUltra Music Festivalを始め世界中のEDMフェスでヘッドライナーとして招かれるようになったのには理由があります。ミックス・アルバム『Until One』『Until Now』を一度聞いてみてください。そうすれば、その理由が分かるはずです。オープニングからラストまでアゲアゲなチューンをこれでもかという程にミックスし、大バコのナイトクラブやフェスの観客を熱狂させる“ビッグ・ルーム・ハウス"というスタイルを確立させていきます。2011年12月には、彼らはダンス・ミュージックのアーティストとして初めてニューヨーク・シティのマディソン・スクェア・ガーデンでヘッドライナーとしてコンサートを開くこととなります。

スウィーディッシュ・ハウス・マフィアの元メンバーでもあるエリック・プリッヅも“ビッグ・ルーム・ハウス"の主要人物です。2008年にリリースしたシングル『Pjanoo』は現代のピアノ・ハウスを代表するキャッチーなトラックであり、英国のダンス・チャートの首位、シングルズ・チャートで2位を記録するヒットとなりました。また、2009年にリリースしたシングル『Miami to Atlanta』では、小節の最後にコンプレッサーを極端にかけたスネア・ドラムが使われており、このスネア・ドラムは“プライダ・スネア"と名付けられるほどEDMで多用されるテクニックとなりました。

北米では2008年にシカゴ出身のハウス・ミュージックDJのカスケイドとカナダのプログレッシヴ・ハウスのプロデューサーのデッドマウスが『Move for Me』というコラボレイション・トラックをリリースし、アメリカでブレイクしました。本作はレイディオでヒットとなり、ビルボードの「ホット・ダンス・エアープレイ」チャートで1位を記録しました。それに引き続きリリースされた『I Remember』は英国のシングル・チャートで14位となり、2009年のクラブ・シーンを代表するヴォーカル系のプログレッシヴ・ハウスのトラックとなりました。

アメリカを代表するDJとなったカスケイドは、お酒にもドラッグにも手を出したことのないモルモン教の信者として知られます。子供時代を過ごしたシカゴの郊外ではモルモン教の家族が少なかったことからアウトサイダーとして育ちます。19歳から伝道旅行で日本で2年間を過ごしました。カスケイドはティーネイジャーの頃に、アウトサイダーの音楽であったハウス・ミュージックと出会い、シカゴ・ハウスが生まれたナイトクラブ「ウェアハウス」のスピリッツを受け継いだティーン向けのクラブ「メデューサ」でフランキー・ナックルズのプレイに酔いしれました。こういった背景から、カスケイドのメロディアスな作品には独特のポジティヴさと“ナチュラル"な高揚感があります。

ゲイム・オタクと機材オタクであることで知られているデッドマウスは、ネズミの被り物で注目を集めました。2012年には、EDM系のアーティストとして初めてアメリカの音楽雑誌「ローリング・ストーン」誌の表紙を飾りました。彼のステージ・ショーは前述のダフト・パンクのショーに強く影響されていますが、狙いは大きく異なります。ダフト・パンクはロボットのヘルメットを被ることによって個性を隠し、謎めいた空気を演出しているのに対して、デッドマウスは音楽と連動して光るヘルメットをかぶることでむしろ目立とうとしました。また、ステージ装置に関しても、ダフト・パンクは“ピラミッド"を用いたのに対して、デッドマウスは “立方体"を用いています。

2000年代以降、ラス・ヴェガスもアメリカのEDMシーンの震源地の1つとなりました。2008年にはポール・オーケンフォールドが「パームズ」というカジノ・リゾート内のナイトクラブのレジデントとなり、照明やダンサーなどのパフォーマーを演出に取り入れた大人向けのショーで当時まだ商業的でなかったダンス・ミュージックをアメリカ人に紹介しました。その後多くのDJがオーケンフォールドの先例に倣うこととなります。2009年にカスケイドは狭義の“EDM"アーティストとして初めてラス・ヴェガスのナイトクラブ「XS」のレジデントDJとなりました。2013年、オランダのDJティエストは、アブダビ王家の王子が展開していた「ハッカサン」というレストラン/ナイトクラブのレジデントDJとなり、大きな反響を呼びました。以後、オランダ出身のDJティエストは現在に至るまでそのレジデンシーを続け、アメリカを活動の拠点としています。そもそもラス・ヴェガスのイメージが“カジノ"から“ナイトクラブ"へシフトした背景には、2008年のARCHIVESによって人々が一時的にギャンブルを控えるようになったことも大きかったと言われています。その後、ラス・ヴェガスはEDM産業によって景気はすっかり回復し、ラス・ヴェガスでレジデントを務める大物DJは1夜で数十万ドルを稼ぐといわれています。(2020年6月現在では、コロナ・ショックによって、その勢いは再び止まっていますが。)


3.“EDM"の世界的な流行

デヴィッド・ゲッタやカスケイドらがアメリカ市場で大ブレイクした背景には、アメリカの音楽業界がハウス・ミュージックやエレクトロ・ハウスやトランスなど、それまではアンダーグラウンドなシーンの音楽であったものを、“EDM"という名称でリ・ブランディングを図ろうとする動きがありました。2013年にビルボードはEDMに特化した「ダンス/エレクトロニック・ソング・チャート」を導入し、人気曲を売上枚数だけでなく、レイディオでの放送回数、クラブでの再生回数、ネット上のストリーミング回数を総合的に見てトップ50の曲を算出するようになりました。また、多くのブランドはいわゆる“ミレニアル世代"の消費者にメッセージを届けるためにEDMの曲をCMに積極的に取り入れるようになりました。こういった流れの中、2010年代には多くのEDM系のDJ/プロデューサーが世界的に有名になりました。

英国の最大のEDM系のスターはカルヴィン・ハリスです。スコットランドで生まれたハリスはティーネイジャーの頃から自宅の部屋でパソコンを用いて音楽を制作するようになり、SNSの「マイスペース」で注目を浴び、2006年に大手レコード会社と契約を結びました。80年代のエレクトロの影響を強く受けたサウンドは英国で人気となり、2007年にカイリー・ミノーグに曲を提供したことをきっかけに、多くのポップ/ヒップホップ・アーティストとコラボレイションするようになりました。2011年にリアーナのために制作したエレクトロ・ハウスの曲『We Found Love』がアメリカを始め世界20各国以上で音楽チャートの首位に輝き、ミュージック・ヴィデオはグラミー賞とMTVヴィデオ・ミュージック賞で「最優秀ミュージック・ビデオ賞」を受賞しました。この曲で世界的にブレイクしたことを受け、2012年からラス・ヴェガスの総合型リゾート「ウィン・ラスベガス」のレジデントDJとなり、2013年以降はティエストと同じく「ハッカサン」のレジデントとしても活躍しています。2013年~2015年まで3年間連続で「フォーブス」誌が発表する「世界で最も稼いだDJ」リストで首位を飾りました。ルックスもいいことから、2014~2015年の間にはエンポリオ・アルマーニの下着のイメージ・モデルにも抜擢されました。

オランダからはアフロジャックマーティン・ギャリックスというEDM系のスターが輩出されました。アフロジャックは2000年代後半にエレクトロ・ハウスのDJ/プロデューサーとしてクラブ・シーンで注目を集めるようになり、2010年代に入って世界的にブレイクしました。2011年にマイアミ出身のラッパーのピットブルに提供した曲『Give Me Everything』はアメリカと英国で大ヒットとなり、同年にデヴィッド・ゲッタと共に手がけたマドンナのシングル『Revolver』のリミックスでグラミー賞を受賞しました。同年にラス・ヴェガスの総合型リゾート「ウィン・ラスベガス」のレジデントDJとなり、2012年にはアメリカ・ツアーを組むほどの人気を集めるようになりました。アフロジャックは、日本のダンス&ヴォーカル・グループ「EXILE」からスピンオフした「三代目J Soul Brothers」に『Summer Madness』 というトラックを提供したことでも話題となりました。

マーティン・ギャリックスは 8歳の時に2004年のアテネ・オリンピックの開会式におけるティエストのDJプレイに魅了され、DJになることを決意しました。 その後DAWソフトをダウンロードして音楽制作を始めます。やがてティエストに才能が見出され、2012年にティエストやアフロジャックを含む多くのオランダのEDMアーティストが所属する「Spinnin’ Records」と契約を結びました。2013年にシングル『Animals』がヨーロッパで大ヒットとなり、史上最年少(17歳)で「Beatport」で1位を獲得しました。翌年には史上最年少(17歳)でUltra Music Festivalのヘッドライナーを務め、世界的にも知られるようになりました。その後はアメリカと英国の多くのポップ/ヒップホップ・アーティストからプロデューサーとして指名されるようになり、2017年にはアルマーニ・エクスチェンジのイメージ・モデルにも抜擢されました。ギャリックスは2016年から2018年まで、3年間連続で「DJ Magazine」のトップ100人のDJランキングで首位に選ばれ、2018年の平昌オリンピックでは閉会式のメインDJを務め、現在人気の絶頂にあります。

ヨーロッパのEDM系のスターたちはハウス・ミュージックやトランスという“ダンス・ミュージック"の影響が強かったのに対して、アメリカで頭角を表したスターたちは、よりヒップホップ色の強いEDMサウンドで21世紀の“パーティー・ミュージック"を生み出しました。そのシーンで特筆すべきなのが、ディプロスティーヴ・アオキです。ミシシッピー州出身のディプロは、“サザン・ヒップホップ"やカリブ海の音楽に強い影響を受けた“マイアミ・ベイス"など、遊び心のある、洗練されていないヒップホップのサブジャンルの要素をEDMに取り入れた独特のサウンドで2000年代後半にアメリカで注目を集めるようになりました。2015年に歌手のジャスティン・ビーバーとアメリカのダブステップのプロデューサーのスクリレックスとコラボレイションしたシングル『Where Are Ü Now』がアメリカと英国を始め世界的なヒットとなり、グラミー賞「最優秀ダンス・レコーディング賞」を受賞しました。

スティーヴ・アオキは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校在学中からDIYで音楽を制作し、寮でパーティーを開催していました。19歳の時に自身のレイベル「Dim Mak」を立ち上げ、2000年代を通してアメリカのエレクトロ・ハウス・シーンの中心的な役割を果たしました。年間を通してアメリカ各地で数多くのパーティーを開き、クラウド・サーフィンをしたり、観客にケーキを投げるなどの演出で、アメリカの大学生の間で絶大な人気を得たパーティーDJになりました。2010年代以降は様々な大物ヒップホップ/ロック・アーティストとのコラボレイションが目立つようになり、2013年のオリジナル・アルバム『Wonderland』で世界的にブレイクしました。本作はグラミー賞の「最優秀ダンス/エレクトロニカ・アルバム賞」にノミネイトされました。因みに、スティーヴ・アオキの父親は、実業家でアメリカで人気の鉄板焼きチェーン「ベニハナ」の創業者であるロッキー青木氏です。妹のデヴォン青木は映画『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』にも出演しており、ファッション・モデルとして活躍しています。

スウェーデンからはEDM界の最大のスター「アヴィーチー」が誕生しました。アヴィーチーはティーネイジャーの頃から自宅の部屋で音楽制作を始め、同じスウェーデン出身のスウィーディッシュ・ハウス・マフィアやエリック・プリッヅに強く影響された高揚感のあるハウス・サウンドで2000年代後半にヨーロッパで注目されるようになりました。2010年に大手レコード会社と契約を結び、2011年にシングル『Levels』で世界的にブレイクしました。

2013年にリリースしたデビュー・アルバム『True』に収録されたシングル『Wake Me Up』は米ビルボードの「ダンス/エレクトロニック・チャート」で14週間連続1位に輝き、『Levels』を上回る大ヒットとなりました。EDMとカントリー/フォーク・ミュージックを融合させたサウンドは当初ダンス・ミュージック・ファンの間で物議を醸しましたが、アメリカでEDMが流行る大きな後押しとなりました。アヴィーチはその後、多忙な音楽制作とツアーのスケジュールでバーンアウトし、2016年に健康上の不安からDJ活動から引退することを発表しました。2017年には再び音楽制作を始めますが、精神的に立ち直ることができず、2018年に自殺しました。彼の死は、クラブ・カルチャーやEDMの闇について広く話し合われるきっかけとなりました。

EDMの波は日本の音楽市場にも影響を及ぼしています。前述のEXILEもエレクトロやEDM寄りのトラックを数々発表しており、2015年のアルバム『19』の特別版には世界の有名DJがEXILEの曲をリミックスした付属のCDもついていました。特に「三代目J Soul Brothers」は直球のEDM系の曲を多くリリースしており、もはや“Soul Brothers"というよりかは“EDM Brothers"と呼ぶのがふさわしいのかもしれません。

また、日本のEDMで忘れてはならないのが中田ヤスタカです。YMOや“渋谷系"のバンドに強く影響された中田氏は1997年に「カプセル」という“ネオ渋谷系"のバンドを結成し、2001年にデビューしました。彼の転換期となったのが、2003年からエレクトロ・ポップのトリオ「パフューム」をプロデュースし、大成功したことです。パフュームは、2000年代前半は80年代のテクノ・ポップやアニメ音楽をブレンドしたサウンドで話題を呼ぶようになりますが、中田氏の下でよりSF的なイメージに転換し、ダフト・パンクなどヨーロッパのエレクトロやハウス・ミュージックを強く意識したサウンドが特徴の『ポリリズム』などのシングルでブレイクしました。

中田氏は2011年から「きゃりーぱみゅぱみゅ」のプロデュースも手掛け、『PONPONPON』や『つけまつける』などのヒット曲を世に送り出しました。きゃりーぱみゅぱみゅは原宿の“KAWAII"カルチャーを受け継いだスタイルと独特なユーモアのセンスが際立つミュージック・ヴィデオはアジアをはじめ欧米でも話題を呼ぶようになりました。 2011年にはカリフォルニア州で開かれた“KAWAII"系のファッション・ショーで演奏し、アメリカ・デビューを果たしました。その後もアジア、アメリカ、ヨーロッパでライヴを行い、世界中の様々なメディアで現代日本のポップ・カルチャーを象徴する存在として取材を受けています。


4.英国のダブステップの誕生とメインストリーム化

2000年代にハウス・ミュージックがメインストリーム化する中で、英国ではアンダーグラウンドなダンス・ミュージックの進化が続きました。その代表的なジャンルがUKガラージや2ステップ、ジャングルやドラムンベイスなどをブレンドして生まれた“ダブステップ"という音楽スタイルです。激しいリズムとベイスで聴き手を圧倒するドラムンベイスに対して、サブ・ベイス"という、耳で聞くのではなく体で感じる超低音を大袈裟に揺らしたサウンドで聴き手を圧倒するのがダブステップです。インストゥルメンタルが中心となっており、雨が降りしきる都会の夜を連想させる暗くて重い曲調が特徴です。

ダブステップは南ロンドンのクロイドン地区で生まれました。その中でパイオニア的な役割を果たしたのが、当時まだティーネイジャーであったヴィデオ・ゲイム好きのSkreamBengaです。地元のレコード店で知り合った2人は、DAWソフトを使って自宅で音楽制作を始めました。Skreamが2005年にリリースした『Midnight Request Line』は、ダブステップの発展におけるとても重要な曲です。2人は2000年代後半にDJ/プロデューサーとしての活動を続ける中で、徐々にダブステップを普及させ、英国を始めヨーロッパのアンダーグラウンド・シーンの注目アーティストとなっていきました。2011年よりBBC Radio 1の番組のナビゲイターを務めるようになり、2012年から2014年まではダブステップを取り上げた冠番組を持つほどの人気を博すようになっていました。

ダブステップが普及した背景にはパイレート・レイディオ局「Rinse FM」でダブステップの番組を持っていたKode9というDJ/プロデューサーの活動も大きかったといえます。Kode9は2004年に「Hyperdub」というレイベルを立ち上げ、多くのダブステップ・アーティストを輩出しました。その中で最も有名なのがダブステップをより実験的な方向に進化させたBurialです。ヴィデオ・ゲイム好きである彼は、曲のパーカッションの音を『メタルギアソリッド』の効果音を使って組み立てたり、レコードを“ディッグ"してサンプリングするのではなくYouTubeのカヴァー曲をサンプリングするなど、マニアックなこだわりで独特の重苦しいサウンドを作り出しました。2007年のセカンド・アルバム『Untrue』でマーキュリー賞を受賞し、多くの音楽メディアに2000年代を代表する歴史的な名作と評されました。多くのDJ/プロデューサーが様々な活動することで目立とうとする中で、BurialはDJプレイやライヴを行わず、ほどんと公に姿を表さない謎のアーティストとしてむしろ話題を呼ぶようになりました。

SkreamやBurialのダブステップ・サウンドと、ディアンジェロなどのネオ・ソウル/R&Bの歌を組み合わせたサウンドで話題を呼んだのがシンガーソングライターのジェイムズ・ブレイクです。ブレイクは2000年代後半に自宅の部屋で音楽制作をはじめ、2010年ごろからBBC Radio 1などのレイディオ局のDJにピックアップされるようになりました。彼は2013年のセカンド・アルバム『Overgrown』でマーキュリー賞を受賞し、同年にはグラミー賞の「最優秀新人賞」にもノミネイトされるなど、世界的にブレイクしました。その後もビヨンセやジェイZなどのアーティストに曲を提供し、近年はよりポップ路線へとシフトしている印象があります。

2010年代に入ってダブステップは、アメリカにも渡たりました。英国のダブステップはロー(ベイス音)を強調していたのに対して、アメリカでは、よりミッド(ベイス以外の楽器やヴォーカル)を強調した“ブロステップ"というスタイルが生み出されました。その中で突出したのがスクリレックスでした。

L.A.で生まれたスクリレックスは子供の頃から学校でいじめられ、14歳の時からホーム・スクーリングを受けるようになり、16歳の時に自分が養子であることを初めて知り、大きなショックを受けました。そんな彼の拠り所となったのが、パンク・ロックのコンサートやエレクトロ・ハウスのレイヴでした。彼は2004年にオルタナティヴ・ロックのバンドのヴォーカルとしてキャリアをスタートさせ、2008年からは「スクリレックス」という名義でDJ/プロデューサーとしてソロ活動を始めました。エレクトロ・ハウスのサウンドをベイスに、パンクの“うるささ"を取り入れたサウンドはネット上で注目を集め、デッドマウスのレイベルと契約と結ぶこととなりました。2010年にリリースしたEP『Scary Monsters and Nice Sprites』はグラミー賞「最優秀ダンス/エレクトロニカ・アルバム」を受賞する快挙となり、ダブステップというアンダーグラウンドのミュージック・スタイルがメインストリームのEDM界への仲間入りを果たすこととなりました。

スクリレックスは2013年のEP『Bangarang』と2016年にディプロと共同で制作した『Jack Ü』でもグラミー賞「最優秀ダンス/エレクトロニカ・アルバム」を受賞し、これまでEDMのアーティストとしては最多の8つのグラミー賞を受賞しています。

スクリレックスの『Scary Monsters and Nice Sprites』を含むいくつかリミックスで2010年に広く注目されるようになった「ゼッド」も2010年代を代表するEDMのDJ/プロデューサーです。ロシアで生まれ、ドイツで育ったゼッドは、エレクトロ・ハウスにダブステップやクラシカル・ミュージックなど幅広い音楽の要素を取り入れたサウンドで知られます。2013年にリリースしたシングル『Clarity』でアメリカ市場でブレイクし、グラミー賞『最優秀ダンス・レコーディング賞』を受賞しました。安室奈美恵の2013年のシングル『Heaven』をプロデュースしたことも日本でも話題となりました。以後、セリーナ・ゴメズやアリアナ・グランデなどのポップ・シンガーとのコラボレイションをリリースする一方、世界ツアーやEDMフェスでのDJプレイで世界中のファンを魅了し続けています。


5.エピローグ

このコラムで見てきたように、EDMがアメリカをはじめ世界で爆発した背景には、有名なDJとヒップホップのラッパーやポップのシンガーの数えきれないコラボレイションがありました。ダンス・ミュージックに“歌"を加えることはすなわち“ポップ化"を意味し、レイディオやMTVなどで繰り返し放送されようなフォーマットに落とし込むことでもありました。それまではDJが勝手にポップ歌手の歌をリミックスしてナイトクラブで限られていた観客に向けてプレイしていたのに対して、現在ではポップ歌手やレコード・レイベルがDJにリミックスやコラボレイションをお願いするという大逆転が起きているのです。

EDMシーンのもう1つの特徴的な点は、いわゆる“ベッドルームDJ"の出現です。パソコンや音楽制作ソフトの進化により、ナイトクラブ(あるいはレコーディング・スタジオ)を訪れたことのない若者(多くの場合はティーネイジャー)がノートパソコンを使って自宅でヒット曲を作り出すという現象が起こりました。彼らはYouTubeのチュートリアル動画を見たりして音楽制作の基本を学んだため、ライヴでの演奏経験がないので、人気が出てブッキングの問い合わせが来るようになると、急遽DJのスキルを学ばないとけないという不思議な現象が起きました。とはいえ、大型フェスにおける1時間という短いDJセットの場合、多くのDJは事実上“再生ボタン"を1回押すだけであるということも現実にはあります。近年ではDJ専用ソフトの進化で曲と曲を繋げることはかつてないほど簡単になりました。

一方、従来のDJにはオリジナル曲が求められるようになり、“セレクター/キュレイター"から“プロデューサー"になることが求められました。その結果、ある一定の知名度は得ていたけど、商業的なオリジナル曲を制作できないDJのために、いわゆる“ゴースト・プロデューサー"という存在が影で活動するようになりました。前述のマーティン・ギャリックスは、まさにそうした状況からキャリアをスタートさせ、レイベルに認められた1人です。

こういった多くの“プロデューサー"を所属させることは、大手レコード会社にとっても大きなプラスでした。若手のポップ・シンガーの場合、お金をいくらつぎ込んだとしても“一発屋"で終わってしまうリスクがあります。しかし、プロデューサーはそれぞれのアーティストを最大限に輝かせる曲を長い期間制作することができます。

ただ、その結果、ダンス/エレクトロニックのチャートの曲を聴き比べてみるとどれもが似通っているという現象も起きました。曲の構成もマンネリ化し、前述の“プライダ・スネア"のように多くのプロデューサーが同じテクニックを真似ることが日常茶飯事となりました。音楽ストリーミング・サーヴィスの発達と普及によって、リスナーたちはどんな曲を好んでいるかのデータ・マイニングも簡単におこなわれるようになり、その動きはさらに加速しました。そもそも以前よりエレクトロニック・ダンス・ミュージックはよく「全部同じように聞こえる」「同じことを繰り返しいるだけ」と批判されてきましたが、ダンス・ミュージックが商業化される中でこうした指摘が再びされるようになってきています。

2010年代を通して、EDMはアメリカの音楽シーンで中心的存在となります。 “ビッグ・ルーム"向けのサウンドは大きな金を生み出し、その結果ヒップホップやポップ・ミュージックにまでその影響が及びます。近年のアメリカの音楽チャートを見るとEDMの影響を受けた作品がほとんどを占めるようになりました。アメリカ人は、“オイシイ"となると、なんでも一緒にしてしまいます。ハンバーガーしかり、サンドウィッチしかり、サラダもしかり。EDMのメインストリーム化は、ダンス・ミュージックのアメリカナイズなのです。

さすがのアメリカ人も、毎日ファスト・フードのジャンボ・サイズばかりの食生活にはやがて飽きてしまいます。2016年ごろからEDMのプロデューサーたちはこれまでの人気のサウンドに飽きはじめ、いろんなサウンドの方向性を探りはじめました。経済アナリストたちによると、2018年以降は、EDMの市場そのものも縮小し始めているそうです。2018年にアヴィーチーが亡くなったことは、EDM業界が限界に達していたことを示していたといえるのではないでしょうか。どんなに技術の卓越したDJでも、ポップ・チャートのトップ40のヒット曲ばかりを、しかもそのアゲアゲの部分のみを繋げているだけでは、オーディエンスは疲れてしまいます。


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