9.『二都物語』チャールズ・ディケンズ(著)
『二都物語』は19世紀終盤のフランス革命直前のロンドンとパリを舞台にした歴史小説です。フランス革命に至るまでのフランスと英国の社会状況、政治状況が描かれています。
当時は絶対王政の専制政治の下でフランスの農民は苦境にあり、不満が溜まりに溜まっていました。一方で英国では産業革命によって職を失った労働者たちが都市に集中し、犯罪が増加していました。1776年のアメリカ独立革命も社会不安の背景にありました。本作でディケンズは、専制政治に対して批判的であると同時に、革命後の恐怖政治に対しても批判的です。
チャールズ・ディケンズによる本作の長い冒頭部分は、英文学の歴史上、最も有名なフレイズと言われています。その一部を抜粋します。
It was the best of times, it was the worst of times, it was the age of wisdom, it was the age of foolishness, it was the epoch of belief, it was the epoch of incredulity, it was the season of Light, it was the season of Darkness, it was the spring of hope, it was the winter of despair…
それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。
(訳:佐々木直次郎 「青空文庫」より)
こうした状況はフランス革命だけでなく、いつの時代にも当てはまる事なのではないでしょうか。ICTの発達は、私たちの生活を計り知れないくらい便利にしてくれたが、同時に私たちの苦難の源ともなっています。新型コロナウイルスの大流行も、人類にとって「絶望の冬」であると同時に、人生において本当に大切なものを見つめ直すきっかけとなり、「希望の春」をもたらすものなのかもしれません。
10.『不思議の国のアリス』ルイス・キャロル(著)
『不思議の国のアリス』は、英国の数学者ルイス・キャロルが執筆した児童小説を代表する1冊です。幼い少女のアリスが白ウサギを追いかけているうちにウサギ穴に落ちてしまい、不思議の国に迷い込んでしまうというファンタジー物語です。にやにや笑うチェシャ猫や水タバコを吸うイモムシなど不思議な動物やトランプの「ハートの王女」など個性的なキャラクターと出会う奇想天外なストーリーが繰り広げられます。
当時の英国の児童文学においては、文学の中で教育的な特質を強調する「教訓主義」が主流でした。『不思議の国のアリス』の中では、当時よく知られていた教訓詩や流行歌のパロディが挿入されており、時代の風潮をあざ笑うかように多数のナンセンスな言葉遊びが含まれています。児童書というジャンルを「教訓主義」から解放したことで文学史上確固とした地位を築いています。
また、本作は子供の成長物語ともいえます。アリスの体が小さくなったり大きくなったりしながら奇妙な世界を彷徨う様子は、思春期を表していますし、答えのない謎々を問いかけられるのは、実社会の不合理性を表しています。アリスは初めは自分が学んだ教訓を口にしていますが、徐々に学校で学んだ知識のみでは解決できない問題が世の中にはたくさんあることを学んでいきます。
その点、『不思議の国のアリス』は成長に伴う「無邪気さの喪失」の物語とも言えます。主人公のアリスはわずか7歳なのに、こうした経験を強いられるのは、欧米社会において子供はいかに早く大人になることが求められていることを物語っているのです。
11.『風と共に去りぬ』マーガレット・ミッチェル(著)
マーガレット・ミッチェルの著作『風と共に去りぬ』(第1巻・第2巻・第3巻・第4巻・第5巻)は奴隷制が残る19世紀後半のアメリカ南部・ジョージア州を舞台に、農園主の娘スカーレット・オハラの半生を描いた大河物語です。南北戦争が繰り広げられる中、自己中心的で野心的なスカーレットは、自分の従姉妹のミラニーと結婚したアシュリーと異端児のレットとの三角関係に悩まされます。
本作は1939年に映画化され、世界的なヒットとなり、アカデミー賞にて作品賞・監督賞・主演女優賞・助演女優賞・脚色賞など、9部門で受賞しました。主人公のスカーレットを演じるのは英国の女優であるヴィヴィアン・リーであることがとても興味深い点です。
数年前に、アメリカ南部に立っている、南部連合に捧げられた銅像を巡って問題となっていることが日本のニューズでも取り上げられました。これは実は長年問題になっていることなのです。南部に暮らすアフリカ系アメリカ人が、奴隷制というアメリカの闇を思い起こさせるということで像の撤去を求め続けてきました。それに対して地元の白人は、南部文化を破壊しようとしていると反発してきました。トランプ大統領も議論の的となっている像や記念碑を「美しい」と評価し、それらが撤去されるのは非常に残念であるとツイートしました。
Sad to see the history and culture of our great country being ripped apart with the removal of our beautiful statues and monuments. You.....
— Donald J. Trump (@realDonaldTrump) August 17, 2017
南北戦争が終わってから150年以上も経ちますが、未だに敗れた南部側の歴史をどう残すかについて激しい議論が繰り広げられているのです。実は『風と共に去りぬ』という題名にある「風」とは「南北戦争」のことで、その風によってアメリカ南部の白人たちの貴族文化社会が消え去ったということ表しています。本書を読むと、南部の白人がなぜここまで自分たちの歴史を守ろうとするかがよく分かることでしょう。
12.『高慢と偏見』ジェイン・オースティン(著)
ジェイン・オースティンは、18世紀末から19世紀初頭の英国の田舎の中流社会を舞台に、女性の私生活を描いた小説で知られます。その物語の中心となるのが、女性の結婚事情です。その最高傑作が『高慢と偏見』だとされます。
本作の主人公は、知的で感情的なエリザベスです。エリザベスは5人姉妹の次女で、一家には男子がいないことから、娘たちがうまく結婚相手を見つけなければ財産を受け継ぐことができない状況にあります。そのため母親は娘を結婚相手となる男性と引き合わせようと舞踏会の約束を取り付けます。そこでエリザベスは冷淡なダーシーと出会います。2人は徐々に惹かれあっていきますが、様々な誤解や虚栄心のため、恋のすれ違いを繰り返します。2人は自身が抱える「高慢と偏見」に気付き、それを捨てることで少しずつ関係を深めていきます。
出版前にオースティンが想定していた題名は「ファースト・インプレッションズ」(第一印象)だったそうで、人は見かけによらないことがテーマとなっています。また、本書の日本語訳題は『高慢と偏見』以外にも『自負と偏見』『自尊と偏見』があり、アメリカと英国の文化の違いや翻訳の難しさが見受けられます。現在英語の“pride"という言葉は「自尊心」や「自負」を意味する肯定的な表現ですが、当時の階級社会の英国においては「驕り」や「優越感」のような意味合いがありました。
『高慢と偏見』はこれまで度々テレビ・ドラマ化、映画化されており、映画『ブリジット・ジョーンズの日記』の元ネタともなりました。
13.『白鯨』ハーマン・メルヴィル(著)
ハーマン・メルヴィルの著作『白鯨』(上・中・下)はアメリカ文学の代表格とされる壮大な冒険小説です。ところが、大体アメリカ人に読んだことがあるかを聞くと、ほとんどの人が何とか返事をごまかそうとするのです。本作を読み始めた人は必ずどこかで挫折します。それほど退屈で長く、表現も高雅な文体となっており、読み切ることは“闘い"を覚悟しなければなりません。
『白鯨』は、義足の捕鯨船船長エイハブと、彼の足を奪った白い巨大なマッコウクジラ“モービー・ディック"の壮絶な闘いを描いています。エイハブは何が起ころうと復讐を図るべく、天敵を地の果てまでも追いかける勢いで挑みます。言い換えると、『白鯨』は自然を制御しようとするアメリカ人の愚かさを描いた物語なのです。もちろん、人間は最初から負ける運命にあります。
また、本作は、一つのことに執着しやすいアメリカ人の性格も見事に捉えています。例えばブッシュ米大統領がイラク戦争を仕掛け、サダム・フセインを追跡したのもその一例ですし、トランプ大統領が何が何でもメキシコとの間に「壁」を築きたがるのもそうでしょう。アメリカン・ドリームとは自分の夢を追いかける権利であるわけですが、時にその追跡の旅そのものが目的化し、人の生き甲斐となるようです。
因みに、作者のメルヴィルはダンス・ミュージックのDJ/プロデューサーとして著名なモービーの曽々おじだとされます。そして偶然にも、モービーは動物保護家であることでも知られています。
また、レッド・ツェッペリンの名ドラマーのジョン・ボナムのソロ曲にも“モービー・ディック"があります。
14.エピローグ
アメリカの読者や文学評論家の間には、“The Great American Novel"(偉大なアメリカ小説)という概念があります。ある時代を壮大に捉え、その時のアメリカ社会を象徴する代表的な1冊を見出したがるところがあります。それはアメリカという国が240年ちょっとの歴史しかないからこそ、偉大な物語に憧れるところがあるのです。このコラムで取り上げたアメリカの作品はどれもこのレッテルが貼られたことのある作品です。
その点で今回取り上げた英国の文学作品の多くは、ある田舎の階級社会を舞台とし、日常生活の些細な事柄を描いた取るに足りない内容の小説だったりします。それでも作品にどこか壮大な空気が漂うのは、その背景に国の長い歴史やゆるぎないアイデンティティがあるからなのではないでしょうか。
アメリカ文学の作品というものの中心には、必ず“大きな夢"があります。それはすなわち「人は誰もが生い立ちに関係なく、自分の夢を追いかけ、名声と富を手にいれるチャンスと権利がある」という「アメリカン・ドリーム」のことです。その夢を肯定する物語なのか、その夢は幻想でしかないことを嘆く物語なのかの違いはありますが、主人公は必ず何かを探し求めており、自分の夢を追いかけているのです。
ところがヴェトナム戦争の泥沼化やイラク戦争、拝金主義の蔓延とリーマン・ショック、9.11と民主主義を中東に定着させるという戦略の失敗など、ここ50年間で様々な事件がアメリカのアイデンティティを揺るがしてきました。経済格差は広がり、人種間の問題は解消されるどころが悪化する一方で、アメリカ社会は大きく分断されています。アメリカは消費主義、資本主義という夢を掲げ、効率性を追い求めましたが、それが国民にもたらしたのは結局は不幸でした。
21世紀に入り、アメリカ社会から夢というものが喪失され、かつての輝きが薄れてしまいました。自分の夢を粘り強く追いかけるアメリカ人が挫折してしまいました。だからこそ、トランプ大統領が掲げる“Make America Great Again"(アメリカを再び偉大な国に)というスローガンが窮屈な生活を強いられた人々の間で受け入れられたのです。トランプに反対する人々の間でさえも“America Has Always Been Great"(アメリカはずっと偉大な国だ)というスローガンを自分に言い聞かせようとさえしています。
一方で、第一次世界大戦後から大英帝国という超大国にはすでに陰りがさしており、第二次世界大戦の終わりを持って大英帝国が終焉したと言われます。それを象徴するのが、英国にとって最大で最も重要な植民地であったインドが1947年に独立したことでしょう。1997年には、事実上英国の最後の植民地であった香港の主権が中華人民共和国へ返還されました。70年代ごろから外国からの移民が増えることによって社会の形が少しずつ変わり始め、現在はブレグジット騒動で今後のあり方が問われている真っ只中です。英国からもかつての輝きは薄れ、暗い時代が訪れています。(王子の一人も問題行動を続けており、エリザベス女王も次世代に不安を感じているようです。)
ここで注目して欲しいのが、メディアの発達です。19世紀から20世紀初めに小説というフォーマットが発展し、アメリカと英国の庶民に普及した時代においては、テレヴィや映画産業は存在せず、読書が主な娯楽でした。生活そのもののペースが現代と比べてゆったりとしていて、読者には小説を心ゆくまで読む時間と余裕があり、書き手はそんなオーディエンスの暇つぶしとなる長編を書きました。アメリカの作家は国を横断したり海外でいろんな旅をしたり、同時代の作家との交流の中で偉大な冒険を構想していきました。裕福な社会に生きていた英国の作家は、自身が経験した社会交流や恋愛体験を元に、壮大なラヴ・ストーリーを作り上げていきました。現代人からすれば回りくどい物語や無駄が多い文体に感じるかもしれませんが、当時の人々にとってはグダグダと長く書くことにこそ意味があり、価値がありました。そして長くて無駄の多い読書の“旅"そのものを楽しんでいたのです。今回取り上げた文学作品はそんな時代の賜物といえるでしょう。
ところがこの50年のメディアの発達によって、人々の生活スタイルは大きく変わってきました。テレヴィの普及によって食卓は家族が話し合う場所からブラウン管をぼーっと眺める場所となりました。ニューズからドラマまで、番組内容は誰でも分かるような深みと厚みのないものが大量生産され、大量消費する文化が生まれました。そして21世紀に入り、インターネットとSNSの普及によって、人々は情報をできるだけ効率的に得ようとするようになり、記事の内容もどんどん短く浅くなりました。今では読者に(ツイートの文字制限でもある)280文字以上読んでもらうのは至難の技となりました。
現代社会は効率性を追求し、私たちの生活から出来るだけ無駄や重複、情報科学の言葉を借りればいわゆる“冗長性"を取り除こうとしてきました。その結果、私たちは自分たちが欲しい情報を欲しい時にすぐ手に入れられるようになりました。アマゾンから注文した商品は当日、遅くとも翌日に手に入るようになりました。
こうした状況に対して、新型コロナウイルスの大流行は私たちに大きな“赤信号"と示しているのではないでしょうか。アメリカや英国だけでなく、世界中の人々が今、これまでのライフスタイルを振り返り、「本当の幸せとは何か」を自分たちに問いかけています。彼らは外出自粛しながら、「どれだけ効率的に情報を取り入れられるか」という日々から「どれだけ時間を楽しく潰せるか」という日々を送るようになっています。
ところが日本人はどうでしょう。こんな事態においても仕事を休むことはもちろんもってのほかで、テレワークもなかなか普及していないようです。先日厚生労働省がLINEに委託して実施した全国調査によると、テレワークの実施率はなんと5.6%に過ぎないという衝撃的な結果が出ました。そんな日本人にこそ、今回取り上げた英文学の名著は必読の書なのかもしれません。