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1970年代の世界的なディスコ・ブームの絶頂と衰退
  - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (1)
  - ビー・ジーズ/マイケル・ジャクソン/ジョルジオ・モロダー/クラフトワーク/YMO | MUSIC & PARTIES #026
2022/01/31 #026

1970年代の世界的なディスコ・ブームの絶頂と衰退
- エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (1)
- ビー・ジーズ/マイケル・ジャクソン/ジョルジオ・モロダー/クラフトワーク/YMO

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

これまで『カリフォルニア生まれの音楽』シリーズで取り上げてきたように、60年代後半のヒッピー・ムーヴメントは、カリフォルニア州のサンフランシスコを中心地とした白人のカウンターカルチャーでした。中流階級の白人の若者たちは戦後の時代において、ある程度裕福な家庭の中で育ち、やがて親の保守的な価値観や物質主義に対して反抗するようになりました。彼らを魅了したのが、反抗精神を象徴したロック・ミュージックと、意識を解放させ多幸感を引き起こす幻覚剤でした。そこから生まれたサイケデリック・ロックは、その後の多くのポップ・ミュージック(いわゆる商業的な音楽のこと)や実験的な音楽に多大な影響を与えました。

そもそもサイケデリック・ミュージックとは、幻覚剤(主にLSD)の使用よって引き起こされる幻覚体験を音楽として表現したもので、その体験を引き起こす、あるいは増幅することを目的とした音楽のことです。LSDが“アシッド"(酸または酸味)と呼ばれていたことから別名“アシッド・ロック"とも呼ばれました。(アシッド・ロックの代表的なロック・バンドにはグレイトフル・デッド、ジミー・ヘンドリックス・エクスペリエンス、クリームなどがあります。)

とはいえ、ロックはいくらサイケデリックな方向に進んでも、大衆音楽であるロックである以上、リスナーにとってギター・サウンドと歌詞の内容は重要だったのです。ロックとは基本的に、反抗者や反逆者の物語を歌った曲です。そのため、生の楽器演奏を用いたロックはサイケデリックな体験を引き起こすというよりかはサイケデリックな経験を間接的に伝えたに過ぎませんでした。サイケデリックな体験が最も直接的に得られるために生み出されたのが、70年代のディスコ、80年代以降のナイトクラブといった、電子的な音楽とダンスとファッションと照明やレイザー光線が融合された“空間"の中だったのです。

今回から数回に渡って、60年代後半のヒッピー・ムーヴメントやサイケデリック・ミュージックをルーツに生まれたエレクトロニック・ダンス・ミュージックの系譜を取り上げていきます。今回はエレクトロニック・ダンス・ミュージックの先駆けとなったディスコ・ミュージックと、そこから発展したいくつか音楽ジャンルを紹介します。


2.ディスコテックとディスコ・ミュージックの誕生

“disco"とは“discothèque"(ディスコテック)の省略であり、リズムを強調した音楽のレコードをかけるダンスホールのことです。もともとは第二次世界大戦中にナチス占領下のフランスで生まれた違法なアンダーグラウンド・クラブがその原型です。アメリカの黒人やユダヤ系のコミュニティに由来していたという理由から、ナチスはパリのジャズ・クラブの営業を禁止したため、ジャズは一種の対抗の象徴となりました。クラブでバンドに生演奏してもらうのはさすがに目立つことから、ジャズのレコードをかけ始めるようになったと言われています。戦後、小さなダンスフロアが備えられた、おしゃれな大人のためのエクスクルーシヴ(排他的)な空間へと発展しました。

こうした流れは60年代にニューヨークに輸入され、高額な会員制のクラブとしてビジネス化されます。しかし、こうしたアンダーグラウンド的な排他的なスタンスは、ロックンロールやブリティッシュ・インヴェイジョンの人気によって、時代の風潮と徐々に合わなくなります。60年代半ばにはより幅広いオーディエンスを受け入れて全員がその時々の流行りのダンスを踊れる場となっていきます。60年代後半にはカウンターカルチャー向けの遊び場が求められるようになり、“ダンス・ホール"というよりかは、ハイになったヒッピーたちが自由に自己を表現するための“サーカス"のような異空間となっていました。

1969年6月28日の「ストーンウォールの反乱」を受けて、バーン・アウトしていた“ディスコテック"という形態は、70年代に入ってゲイ(ゲイとは同性愛者のことですが、一般的には同性愛者の男を指すことが多いです)の人々をはじめ、黒人やヒスパニック系の人々によって再生されることとなりました。彼らは、主に中流階級の白人からなっていた60年代後半のカウンターカルチャーのシーンには居場所がなく、フラストレイションが溜まっていたマイノリティでした。ディスコを再びエクスクルーシヴな場とすることによって、こういったマイノリティが安心して遊べる安全地帯、いってみれば彼らにとっての“教会"が次々と生まれていきました。そこではドラッグやセックスを自由に行う快楽主義が探求され、踊りが下手な白人のためのロック・ミュージックではなく、踊ることでエクスタシー状態にさせてくれる“ディスコ・ミュージック"が発展することとなりました。その中でグロリア・ゲイナーの『恋のサバイバル』のようなゲイ・アンセムが人気を博すようになりました。

70年代初頭のディスコでかかっていたのは、主にソウル・ミュージックやモータウンなど、いわゆる“ディスコ・ミュージック"の先駆けとなったブラック・ミュージックでした。“ディスコ・ミュージック"の最初の曲とされるのが、3月末に新型コロナウイルスによって引き起こされた病気によって亡くなったばかりの、カメルーン出身のジャズ・サックス奏者のマヌ・ディバンゴの『Soul Makossa』という曲です。この曲で使われているカメルーンの方言のリフレイン(反復句)は、後にマイケル・ジャクソンによるディスコの代表曲『スタート・サムシング』でも引用されています。

特定のメロディや歌詞に物語性がなく、ダンス・ビートをベイスに繰り返される“モチーフ"(キャッチーな短いメロディ)は、ディスコ・ミュージックの原型となりました。このスタイルの上にサイケデリック・ソウル、ファンク・ミュージック、オーケストラの弦楽器や金管楽器を大々的に加えた“フィラデルフィア・ソウル"などのブラック・ミュージックの要素が加えられ、人々が長く踊れるように曲は徐々に長く作られるようになり、ディスコ・ミュージックは1つのジャンルとして確立されていきました。因みに、“フィラデルフィア・ソウル"の特徴がはっきりとわかる代表的な曲が、オージェイズの『裏切り者のテーマ』です。

こうしたアンダーグラウンドのムーヴメントが全米的に認知されるようになったきっかけとなったのが、ヴァン・マッコイの『ハッスル』(1975年)の大ヒットでした。

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3.70年代後半のディスコ・シーンのメインストリーム化

70年代のディスコ・ミュージックは、音楽的には60年代後半のサイケデリック・ミュージックや、そこから発展を遂げたサイケデリック・ソウルやファンクをルーツとしつつ、社会的にはヒッピー・ムーヴメントの中に居場所がなかった“アウトサイダー"たちのニーズによって生み出されました。70年代初頭においては、ニューヨークなどの都市部のゲイや黒人やヒスパニック系の人々のものでしたが、70年代も時代が進むにつれ、やがてヒッピー・ムーヴメントに乗り損ねていた若い白人のベイビィ・ブウマー世代にも人気が集まるようになっていきました。60年代後半にヒッピーたちがドラッグと音楽によって意識の解放や性の解放を思う存分に味わっていたことに対して、彼らはそれをうらやましく思いながらも、髪の毛を伸ばしたり、社会慣行に背を向けるといった思い切った行動を取れずにいたのです。ディスコ・シーンが発達したことによって、彼らは入場料を払うだけでヒッピーたちがかつて味わっていた“自由"に似た体験を得ることが可能となったのです。

ドラッグやセックスを自由に探求するというスタンスにおいては、ディスコは一見ヒッピー・ムーヴメントの延長にも見えます。しかし、ディスコがロック的なヒッピー・ムーヴメントと決定的に違うのは、世界観が洗練された、キラキラした都会的なものであったことです。若者たちは、タイダイのTシャツやジーンズで“ドレス・ダウン"するのではなく、派手な柄の襟付きシャツやスパンコールなどが施されたズボンで“ドレス・アップ"した格好でディスコに出向きました。ヒッピー・ムーヴメントに置いてけぼりにされていた郊外の中流階級の白人やブルー・カラーの労働者たちは、ディスコへの入場料を払うだけでこの洗練された音楽と空間に浸ることができたのです。

アメリカ人が抱くこの“上昇志向"のイメージを映像化したのが、ジョン・トラヴォルタ主演の『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)でしょう。同作のサウンドトラックはアメリカでも英国でも爆発的に売れ、ディスコのアルバムとして唯一グラミー賞最優秀アルバム賞を受賞しました。サウンドトラックを主に手がけたビー・ジーズは世界的スターとなり、ディスコはメインストリームでブレイクされるきっかけとなりました。

こういった流れの中で、ギタリストのナイル・ロジャーズを中心としたディスコ/ファンクバンドのシックが結成され、『おしゃれフリーク』(1978年)などヒットを世に送り出しました。ジャクソン5もこの頃からディスコ色の強い曲を発表するようになります。マイケル・ジャクソンのソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』(1979年)は、ディスコの最高傑作の1つといえます。一方、ジェームズ・ブラウンやアース・ウィンド・アンド・ファイアなどのファンク系のアーティストたちもよりディスコを意識した曲を発表するようになりました。その象徴的な一曲が1979年にリリースされた、『Boogie Wonderland』でしょう。

ディスコがメインストリーム化し、全米的に人気が高まると、ロック・ファン(いってみれば踊れない白人)を中心にアンチ・ディスコの感情も高まりました。彼らは繰り返される“モチーフ"はくだらないとし、洗練されたスタイルは過剰だとし、都会的でクールだったシーンをむしろ“ダサい"と主張しました。1979年7月12日に、シカゴで開催されたベイスボールの試合で、近所のレイディオDJらがオーガナイズしたアンチ・ディスコのデモが行われ、センター・フィールドでディスコのレコードが爆破されて火をつけられるという事件が発生しました。その日にディスコは“死んだ"とされ、人気も一気に崩落しました。

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4.ユーロ・ディスコとユーロビート

70年代の半ばに、ヨーロッパでは“ユーロ・ディスコ"というジャンルが生まれました。かつてアメリカから輸入されていたジャズやロック、ソウルやファンク、そして初期のディスコ・ミュージックをベイスに、フランスやイタリアのポップ・ミュージックが合わさってヨーロッパならではのダンス・ミュージックが発展を遂げようとしていました。

このスタイルを確立した1人の中心的人物が、ドイツのミュンヘンを拠点にしていたイタリア人のジョルジオ・モロダーです。モローダーはドラム・マシーンを使ってファンクの複雑なビートをいわゆる“四つ打ち"と呼ばれる単純化したリズムに変え、生楽器ではなくシンセサイザーを中心にしたエレクトロニック・ミュージックを作っていました。アメリカ出身の黒人シンガーのドナ・サマー(※31)をヴォーカルに迎え、70年代には、数々のディスコ・ヒットを生み出しました。代表曲の『I Feel Love』は、アメリカのディスコ・シーンにも強い影響を与えただけでなく、後にディスコの焼け跡から生まれたハウス・ミュージックの先駆けともなりました。

世界的にブレイクし、ユーロ・ディスコ最大の商業的成功を得たアーティストといえば、日本でも高い人気を誇ったABBAでしょう。スウェーデン出身のこの男女混成の4人組は英語のヴォーカルで『恋のウォータールー』(1974)『ダンシング・クイーン』(1976年)『ギミー!ギミー!ギミー!』(1979年)など数々のヒット曲を世に送り出しました。『ギミー!ギミー!ギミー!』のメロディは2005年にマドンナの世界的ヒット『ハング・アップ』でサンプリングされ、2000年代以降のディスコ・リヴァイヴァルを象徴する曲ともなりました。

70年代末にアメリカにおいてディスコが死んだ後にも、ユーロ・ディスコは世界的な人気を保ち続け、進化を続けました。80年代には、イタリア人が強いイタリア訛りで英語歌詞で歌った“イタロ・ディスコ"があまりにも人気を博したことによって、“ユーロ・ディスコ"に代わる名称として使われるようになりました。“ユーロ・ディスコ"や“イタロ・ディスコ"というジャンル名は、バナナラマやペット・ショップ・ボーイズなど英国のダンス・ポップ・グループを指すようになり、後にはオーストラリア出身のカイリー・ミノーグなども指すようになりました。

一方で日本では80年代半ばごろから、ヨーロッパから輸入されたハイ・エナジーなイタロ・ディスコをエイベックスなどの日本のレコード会社が“ユーロビート"と呼ぶようになります。この頃には「ジュリアナ東京」や「マハラジャ」といったディスコやパラパラ・ダンスなど独自のナイトクラブ・カルチャーも急速に発展しました。80年代末期にはユーロビートはヨーロッパ以上に日本のナイトクラブで高い人気を誇り、イタリアのプロデューサーたちは日本向けのユーロビートを制作するようにまでなっていました。

この時期に、当初輸入レコードの卸販売業として営業していたエイベックスの松浦勝人らが、ユーロビートのコンピレイション・アルバムのシリーズをリリースするようになります。また、プロデューサーの小室哲哉と組んだことにより、90年前後にバブルが崩壊した後にもユーロビートは日本で根強い人気を保ち続けます。エイベックスからデビューしたTRF、安室奈美恵、浜崎あゆみらは全員、ユーロビートを基本にした音楽で90年代を代表するJ-POPスターとなっていきました。

オススメのユーロビートのアルバム


5.クラフトワークとYMOが生み出したエレクトロとシンセ・ポップ

ナイトクラブにおけるレコードの再生を基本としたディスコがアメリカとヨーロッパで発達した70年代と同時期に、電子楽器を用いたライヴ演奏に重きをおいたエレクトロニック・ミュージックの先駆者たちもいました。その代表的なグループが、ドイツのクラフトワークと日本のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)です。

クラフトワークは70年代に西ドイツを拠点に実験的なロック・バンドとして結成されましたが、早い段階からシンセサイザー、ドラム・マシーン、そしてヴォコーダーなどのエフェクターを取り入れてライヴ演奏をするようになりました。クラフトワークの音楽の特徴はポップ的なメロディー、ミニマルなアレンジ、テクノ・ミュージックの先駆けとなった機械的なビートなどであり、彼らはそのサウンドを“ロボット・ポップ"と呼びました。また、お揃いの衣装を着たファッションや謎めいたペルソナが話題を呼び、サウンドの面でもスタイルの面でも後のダンス・ミュージックの重鎮たちに計り知れない影響を与えました。

一方で1978年に日本でデビューしたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)はクラフトワーク、ジョルジオ・モローダーのユーロ・ディスコ、ファンク・ミュージック、日本の伝統音楽、アーケイド・ゲイムなどの幅広い要素を融合させたスタイルで独自のエレクトロニック・ミュージックを追求していきました。『Computer Game』(1978年)はアメリカで40万枚を売り上げ、英国でも音楽チャートのトップ20入りというヒットとなり、日本のミュージシャンとしては世界的な一定の成功を得た数少ないバンドとなりました。YMOはシンセサイザー、サンプラー、シーケンサー、ドラム・マシーンなどの最新のデジタル・テクノロジーを積極的に用いて、79年には最高傑作『Solid State Survivor』をリリースします。シングル曲の『Behind the Mask』は国際的なヒットとなり、後にマイケル・ジャクソンはこの曲にメロディを加えて歌詞を一部変えたヴァージョンをレコーデイングしました。(当初はアルバム『スリラー』に収録される予定でしたが、YMOのマネージメントとの交渉が破綻し、ジャクソンの死後までお蔵入りとなりました。)この曲は、エリック・クラプトンもカヴァーしています。

クラフトワークやYMOに強い影響を受けながら、特にファンク・ミュージックの要素を強く意識して発展したのが“エレクトロ"というジャンルです。エレクトロを最も商業的にヒットさせた曲の1つが、ジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックの『Rockit』です。エレクトロは徐々にロックなどのサンプルを取り入れてよりハードなサウンドを追求するようになり、80年代後半にはオールド・スクール・ヒップホップと融合し、Run-D.M.C.などのニュー・スクール・ヒップホップへと進化していくこととなりました。

同時期には、英国を中心にニュー・ウェーヴというジャンルが生まれました。ニュー・ウェーヴはパンク・ロックとディスコとエレクトロニック・ミュージックを融合させたサウンドが特徴的です。代表的なアーティストや曲には、デュラン・デュランの『グラビアの美少女』(1981年)、ヒューマン・リーグの『愛の残り火(Don’t You Want Me)』(1981年)、ユーリズミックスの『スイート・ドリームス』(1983年)、などがあります。 彼らのサウンドはシンセサイザーや電子楽器を用いていたことにより、“シンセ・ポップ"や“テクノ・ポップ"とも呼ばれるようになりました。

エレクトロやニュー・ウェーヴのグループは、アメリカのケーブル・デレヴィの音楽専門チャンネルMTVの後押しもあって、世界的に広く人気を博すようになりました。90年代以降にエレクトロニック・ダンス・ミュージックが徐々にアメリカでも受け入れられていく基盤を作ったといえます。

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6.エピローグ

なぜディスコはアメリカでは受け入れられず、ヨーロッパや日本ではその後も人気を保ち続けたのでしょうか。

そもそもディスコ・ミュージックが培養されたゲイ専用のナイトクラブは、それまでアメリカ社会に居場所のなかったゲイの人口にとって安心して踊ることのできる聖地のような場所でした。また、黒人にとってはそもそも音楽は聴くものではなく踊るためのものでしたし、ヒスパニック系の間でもパートナー・ダンスの文化が根強くあり、踊ることが大好きな民族です。彼らにとって、ブラック・ミュージックやラテン・ミュージックの影響を取り入れたディスコ・ミュージックは“踊るための音楽”としてすぐに親近感を覚えたのでしょう。

一方で、ロック好きな白人アメリカ人にとって、ディスコ・ミュージックは魂が抜かれた人工的な商業音楽として嫌われるような存在になっていました。ステップをうまく踏めない白人からすると“踊れない”という嫉妬感と、それまで抑圧していたマイノリティのコミュニティに、自分たちが踏み入れることのできない“聖地”ができたことを受け入れられず、それを“殺す”ことでロックの正当性を示す必要があったのでしょう。これまでにこのシリーズで見てきたように、アメリカのポップ・ミュージックの全ては、ブラック・ミュージックを白人向けに再解釈されたものなのです。だからこそ黒人を中心としたダンス・ミュージックというものは、時折例外的なヒットがあったとしても、ジャンルとしての居場所がなかなか認められていませんでした。次回以降取り上げていきますが、ダンス・ミュージックが少しずつアメリカのメインストリームで受け入れられるようになったのは、英国というフィルターを通してレイヴ・カルチャーがアメリカに逆輸入された後からなのです。

ヨーロッパでは、これまで英国のサイケデリック・ロックを見てきたように、そもそも労働者階級の間でアメリカのブラック・ミュージックに対する強い憧れ(と同時に嫉妬と反発)がありました。一方、ヨーロッパでは、ジョルジオ・モロダーを始めとするプロデューサーやDJがディスコをヨーロッパ風に解釈したことでマーケットが成熟していきます。有色人種的なファンクやラテン系のリズムは単純化され、同時に弦楽器や金管楽器を多用することでクラシカル・ミュージックとも親和性が高まりました。人種や職業が関係なく、誰もが平等で全員が一体となれるダンスフロアは、第二次世界大戦によって引き裂かれていたヨーロッパの国々の人々の関係性を修復させる場としても機能したのかもしれません。

日本においては、ヨーロッパと同じように、白人音楽と黒人音楽を区別する意識は昔から薄く、MUSIC & PARTIES #022 でも取り上げたように、ソウル好きな志村けんやアース・ウインド・アンド・ファイアのモノマネで知られるビジーフォーや黒人のドゥーワップを真似たシャネルズ(後にラッツ&スター)を見ると、白人音楽より黒人音楽に対する憧れの方がむしろ強いといえるかもしれません。(ビジーフォーやラッツ&スターがやったような、黒人になりきるためのメイクアップは、今では大問題となりますが。)また、ディスコの洗練された都会的なサウンドは、日本で70年代後半に東京を中心に流行したシティ・ポップとも親和性が高く、ドライヴのBGMとしてカー・ステレオ(当時はカセット・テープ)によくかかっていました。また、90年代においては、地方出身者の間でコテコテなユーロビートをベイスとしたエイベックスの音楽が大流行しました。

次回はアメリカで、ディスコの焼け跡から不死鳥のごとく舞い上がったハウスとテクノ・ミュージックを取り上げます。


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