1.プロローグ
20世紀後半から21世紀にかけてICT革命が情報化をもたらし、目まくるしいスピードで社会は変化を遂げてきました。パソコンやスマフォ、インターネットやSNSの普及によって人々は欲しい情報、欲しいコンテンツをいつでも、どこでもすぐに手に入れられるようになりました。地球の反対側にいる人とも一瞬にして動画で会話をできるようになりました。
ところが、こうした変化によって、私たちは幸せになったのでしょうか。
近年では、「合理的」に事を運ぼうとすることによって、人間社会にもたらせる豊かさには限界があることを感じさせることの方が多いのではないかと感じています。「効率化」ばかりを無闇に目指してきたことによって、むしろここ50年、100年間で失ったものの方が大きいことに、私たちは気づき始めるべきなのではないでしょうか。
今回のコラムでは、西洋近代が理念とした合理主義という概念が行き詰まったこの事態を切り開く鍵となる、日本の戦前の知の巨人の主張に注目したいと思います。彼らが模索し提示した日本独自の思想を紹介し、そこから現代を生きる私たちが得るべき教訓を考えたいと思います。
2.東洋思想と西洋科学を統合した南方熊楠
まず1人目は博物学者の南方熊楠です。1867年に和歌山県で生まれた南方は、東京で学生生活を経て渡米し、その後英国に渡って大英博物館で研究を進めました。子供の頃から書籍を読むだけで記憶し、帰宅して書き写すことを繰り返して勉強していた彼は、世界各地で和漢洋の書物を読み漁り、ほとんど独学で研究に没頭しました。英国滞在中の時期から世界的な科学の権威の雑誌『ネイチャー』に寄稿をし、51本にも登る論文が掲載されました。14年間の海外生活を経て日本に帰国した南方は和歌山県に居住し、柳田國男と交流しながら日本の民族や宗教を世界の事例と比較して論じる中で、「民俗学」の確立に大きく貢献しました。
南方の研究の対象は、粘菌をはじめとした生態学や植物学、その他にも人類学や民俗学など多方面に渡りました。ひとつの分野を研究する上で関連性のあるすべての分野を知ろうとする姿勢が伺えます。学問と知識に対するこのアプローチは、曼荼羅になぞらえることができると指摘されています。宗教史学者の中沢新一の編集による『南方熊楠コレクション』の第1巻である『南方マンダラ』では、南方のそんな中心思想が解説されています。
『南方マンダラ』
南方は東洋思想と西洋科学を統合し、「南方曼荼羅」と呼ばれる独自の因果関係のモデルを考え出しました。近代西洋科学では原因と結果が一直線でつながり、二次元的な世界観であるのに対して、「南方曼荼羅」では複数の曲線と直線が絡み合い、相互に影響し合っている複雑な因果関係が描かれており、三次元的な世界観が提示されています。
南方には多くの肩書きがありますが、彼の研究を一言で表すと“博物学"と呼ぶべきでしょう。博物学とは動物、植物、鉱物、地質など、自然界全体に存在するものの種類や性質の研究のことであり、それを秩序よく分類することを目的とした学問です。現代では「動物学」「植物学」など各分野に高度に分化されていますが、南方の研究及び「南方曼荼羅」という思想は、博物学的な観点から自然界の様々なものの関連性を捉えようとする重要性を指摘しているように思います。
3.「日本人とは何か」について考えた柳田國男
日本の民俗学の父として知られる柳田國男は、1875年に現在の兵庫県で男ばかりの8人兄弟の六男として生まれました。生家では両親や兄弟らと貧しい暮らしを強いられ、飢餓も体験します。13歳の頃に茨城県に住む兄に引き取られると、近所のお寺で貧しさのあまり、母親が“間引き”をする絵馬を見て衝撃を受けました。こうした幼少経験から、柳田は「経世済民」の志を抱くようになり、その思いが東京帝国大学で農政学を学ぶきっかけにもなり、後に民俗学を確立する原動力となったとされています。
東京帝国大学から卒業した柳田は、一度農商務省の高等官僚となりました。視察や講演旅行で東北を中心に地方を訪れ、各地の実情に触れるうちに、普通の人々や民族(民俗)的なものへの関心が深まっていきました。当時の「怪談ブーム」とも重なり、岩手県遠野の民話を集めた『遠野物語』を執筆し、1910年に世に出します。(BOOKS & MAGAZINES #009で取り上げた小泉八雲もそのブームを引き起こした文豪の一人です。)
『遠野物語』
柳田の民俗学の研究の出発点とも言える本作は、その題名が示すように、中央から遠く離れた地に残る昔からの言い伝えをまとめたものです。本作では古くから伝わる習慣や信仰、人々の暮らしに溶け込んでいた自然や動物という存在が描かれています。多くの登場人物が、幽霊なのか、それとも生きているのかが曖昧であるなど、あの世の話とこの世の話が入れ子状態になっています。また、とても興味深いことに、柳田は巻頭に「この書を外国にある人々に呈す」という献辞を掲げています。つまり、日本のローカルの日常こそ、世界に日本人というものの本質を伝えるための重要な素材になると柳田は気づいていたのです。
一般的に民俗学というと、地方の不思議な祭りや習慣を謎解きするいささか趣味的な学問というイメージがありますが、柳田の民俗学の中心には「日本人とは何か」というアイデンティティの問題と、「農民はなぜ貧しいのか」という疑問があります。支配者や政府高官を中心に取り上げた従来の歴史学を批判し、名もなき庶民(常民)の文化や生活史を明らかにする必要があると考えていました。柳田の中には、民俗学は、日本人の自己認識の学であると同時に、貧困の中にある農民を救うためのものだったのです。
柳田は「学問は結局世のため人のためでなくてはならない」という名言を残しています。世の中の学問や研究がどんどん専門分野に細分化されていく現在、改めて柳田のこの姿勢を見習うべきなのではないでしょうか。
4.西洋の哲学と東洋思想を融合した西田幾多郎
哲学・倫理学の分野における日本の知の巨人として、最初に挙げなければならないのは西田幾多郎でしょう。
西田幾多郎は、1870年に現在の石川県で生まれ、1945年に亡くなりました。つまり、明治維新の直後に生まれ、第二次世界大戦が終戦を迎えた年に息を引き取ったということです。日本という国のアイデンティティが揺らぎ、最終的に東洋と西洋の思考が対立することとなった波乱の時代を生きたのです。そんな中、西田は、西洋の哲学と東洋思想を高次元で融合した“西田哲学"を生み出しました。
西田は若い頃に姉と弟の死、父の事業失敗による破産、学歴差別、自らの子供の死など、多くの苦難を味わった人物であります。こういった“言葉"や“涙"だけでは表せない経験が彼の哲学の根本問題となっていきます。大学卒業後は故郷の石川県に戻って中学の教師となり、同時に座禅に没頭し、哲学の思索にふけるようになります。
そもそも「哲学」という言葉は「叡智を愛すること」を意味する“philosophy"の訳語です。(“philo"は愛する、“sophy"は智慧。)この考え方は西洋の古代ギリシャ哲学に由来し、明治維新後に二千数百年にも及ぶこの哲学という西洋文化の“伝統"が一気に輸入されました。西田は日本に学問としての「哲学」を定着させる重要な役割を果たしただけでなく、そこに東洋的な発想を持ち込み、日本的な「叡智」のあり方について深く考えました。彼の最初の著作である『善の研究』ではその西田哲学を探る様子が伺うことができます。
『善の研究』
近代日本哲学の始まりとされる本書では、西田は自らの座禅体験に基づいて見出した「純粋経験」の存在を主張します。純粋経験とは、反省や思惟を意識し、主観・客観が区別される以前の直接的な経験のことで、言い換えると、「何かについて」の情報を知ることではなく、その「何かそのものを」認識することだということです。(西田のいう「認識」とは、頭と身体の両方で知ることです。)。つまり西田は何かを定義したり数量化したりして解析しようとする、西洋的な科学的世界観とは異なる日本的あるいは東洋的世界観があるのではないかと主張しており、それを「純粋経験」と呼んでいます。また、西田は「純粋経験」を通じてのみ「実在」を経験できると論じています。「実在」とは「ありのままの世界」のことであり、究極的には「真理」のことです。転じて、「純粋経験」を通じてのみ、ものごとの「コツ」や「本質」を知ることができるということなのです。
『善の研究』は、日本において哲学の言語がまだなかった時代に書かれただけあって、難解な文体なのですが、西田の教訓を心得たいのであれば、文章を細かく解読しようとするのではなく、そこに記されている言葉と言葉の“間”にある本質を感じ取ることが大事なのではないでしょうか。西田は難解な言葉を通して、言葉や論理では伝えられない“何かが存在する”と私たちに伝えようとしています。
西田は『善の研究』で自らの哲学者としての目覚めを書き記し、この書がその後も読まれ続けているのは、彼の言葉が私たちの中の哲学者としての生き方を目覚めさせてくれているからと言えるでしょう。
『善の研究』の高い評価によって京都大学に赴任した西田は、1913年に文学博士の学位を取得し、教鞭をとるようになります。彼に師事した多くの哲学者たちによって形成された学派のことを「京都学派」と呼びます。この学派の代表者の1人が次に取り上げる和辻哲郎です。
5.人間を「人と人との間柄」と捉えた和辻哲郎
1889年に兵庫県で生まれた和辻は、若い頃から文学や美術に関心を持ち、西洋の学問と思想について深く学びます。初期は西洋哲学を日本に紹介する研究をしておりましたが、やがて西洋の「利己的な個人主義」を批判するようになりました。そこで西洋と東洋を比較することで、日本人独特の、「和辻倫理」と呼ばれる倫理の体系を提示します。
『人間の学としての倫理学』
1934年に出版された本書で和辻は、西洋哲学の人間観や倫理学を紹介した上で、人間存在を中心とした独自の倫理学の筋道を提示しています。
和辻のもう1つの代表作として取り上げるべき著作が『風土』です。1931年に刊行された本書で和辻は「風土が人間に影響する」という思想を提示しています。風土を「モンスーン」「砂漠」「牧場」に分け、それぞれの風土がどのように文化や思想に影響を与えたかを追究しています。
和辻がいう「風土」とは、ある土地の気候、地質、地形、景観など、人間を取り巻く環境全般を指すものです。ここで気をつけなければいけないのが、和辻がそれらを「自然」や「環境」と呼んでいるのではなく、「風土」と呼んでいるところです。「自然」とは自然科学の対象であり、「自然」そのものとそれを観察する「人間」が分断されて考えられることが多いものです。しかし「風土」という言葉は、人間と自然環境を分解できないひとつのものとして捉えているのです。
冬の一番寒い季節になると、日本人は必ず挨拶がわりに「寒いですね」と言う習慣があります。誰かが「寒い寒い」と言うと、なぜか自分も寒く感じてしまうという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。それこそが、西田のいう「純粋経験」であり、和辻のいう「間柄」と「風土」の現れなのではないでしょうか。
6.鈴木大拙が説いた日本的霊性
西田幾多郎と石川県の高校以来の友人であり、『日本人が英語で書かれた日本論・日本人論』(BOOKS & MAGAZINES #009)でも紹介した鈴木大拙の“日本的霊性"も、この文脈の中で紹介すべき作品であります。
鈴木大拙は、仏教思想と日本の禅文化を海外に広くしらしめた日本の仏教学者です。西洋文学や西洋哲学に精通していたことにより、禅の精神性を、西洋人にも伝わる言葉で解説する多くの英文著書を残しました。彼は西洋における東洋思想への理解を深める上で、最も重要な役割を果たした一人であると同時に、日本人も忘れてしまった「日本の精神性」を再発見する上でとても重要な人物であると言えるでしょう。
『日本的霊性』
本書で鈴木は、日本人が持つ“霊性"、つまり日本人の真の“宗教的意識"が覚醒したのは、鎌倉時代であると説いています。そもそも仏教は大和・奈良時代に日本に持ち込まれましたが、当時は上層階級や学者によって概念的に理解されていたいわば「学問」でありました。学問としての仏教ではなく、「体験」としての仏教が開花し定着したのは、鎌倉時代に武士の間で広まった禅と、民間に広まった浄土宗であると鈴木は主張します。いわゆる“鎌倉仏教"によって人々は魂の救済が得られることになったのです。
そこで鈴木が言いたいのは、仏教が根付いたことによって日本的霊性が生み出されたということではなく、“日本的霊性”という形のないものが、仏教が根付いたことによって顕現されたということです。
鈴木のいう「日本的霊性」とは、主体的であると同時に客体的であり、個別的であると同時に全体的であります。彼は「精神」や「心」というものには「物質」という反対概念があるのに対して、「霊性」というものは主観と客観の対立を超越した「無分別智」であるとした上で、「日本的霊性」はそういう経験をさせてくれるのだと主張しています。
7.エピローグ
近代の欧米文化というものは、科学技術の進歩で全てが解決できるという合理的な考え方の下で成り立っています。
例えば、工業化社会においてより効率的な移動手段が必要となると、欧米人は蒸気機関車、そして後に自動車というものを発明します。そして例えば「スピード」「馬力」「燃費」など、主に数量的に測れる形で技術の進化を試みます。
一方で、日本人は「乗り心地」や「使い勝手」などといった、言葉ではうまく説明できないようなところで“改善"をしようとします。これは日本社会では合理的に対応するより、言葉にはできないがなんとなくそこにある“空気"を読んで対応することが求められることにも表れています。日本人にとっては当たり前のことかもしれませんが、西洋からすると日本社会は全く合理的ではない“空気"で動いているのです。
人々の暮らしが必要以上に便利になり、物質的には充分豊かになったのに、なぜか現在の人々は不幸が蔓延しているように感じています。今回取り上げた思想家たちはこうした状況の打開策のヒントを与えてくれるのではないでしょうか。今回紹介した人物や書物は日本人の暮らしや、古くから伝わる伝統の中にこそ「幸福の種」があることに気づかせてくれます。
言い換えれば、いくら物事をバラバラにしてその中身や働きを理解しようとしてもその全体像が見えてこないのであれば、いろんなバラバラになったものの関連性を見出し、まとめていくことで初めて見えてくるものがあることを知るということなのです。これは南方熊楠の博物学にある考え方です。
西田幾多郎や和辻哲郎が、西洋的な哲学と日本的な思想を融合することができたのも、こうした“統合"というアプローチを取っていたからなのではないでしょうか。そして鈴木大拙が『日本的霊性』で言おうとしているのは、日本人こそ、いろんなものを統合する力を持っているということです。神仏習合もしかり、明治維新後に日本が西洋の技術をうまく取り入れて世界の大国の仲間入りをできたこともしかりです。
こういった日本の良書の中にはこれまで英語を始め多言語に翻訳されてきたものもありますが、その思想や価値が海外の限られた一部の人々にしか伝わっていないことはとっても残念なことです。また、翻訳の過程で本質的なことが失われていることも残念です。今回紹介した日本的思想の本質がなかなか外国語にすることはできず、論理的に説明できるようなことでないとするなら、それは日本人の“生き様"を通して示すしかないのではないでしょうか。日本人はものごとの“コツ"をテキスト化やシステム化することは苦手ですが、“師弟関係"というものがあるように、自らの行動を通して相手に伝える術を持っています。今正に世界ではそういったものが求められているのではないでしょうか。