1.プロローグ
前回『20歳までに読んでおくべき日本の名著』シリーズでは、戦前の日本の知の巨人を取り上げました。
今回は戦後の日本の知の巨人を紹介します。日本では敗戦後、欧米の民主主義をモデルとした“戦後民主主義"という思想・価値観を普及させようとした左派の“進歩的文化人"と、それまでの日本をいとも簡単に否定しようとする彼らに対して、疑問を投じた右派の思想家たちの間で活発な議論が巻き起こりました。
こういった“右と左"の対立軸が戦後日本の論壇の最大の特徴でもあります。今回取り上げる知の巨人の主張を紹介すると共に、それぞれの思想がどのように相互と“対話"し、戦後日本に向けた警告を発信したかについて考察したいと思います。また、21世紀を生きる私たちが考えるべきメッセージについても言及したいと思います。
2.思想の座標軸が無い日本を批判した丸山眞男
敗戦という試練を味わった戦後日本人の心を捉えたのは、“戦後民主主義"と呼ばれる“サヨク思想"でした。“戦後民主主義者" “進歩的文化人"の代表といえば、東大の丸山眞男を挙げなくてはなりません。
丸山眞男の代表作といえば岩波新書から出している『日本の思想』でしょう。「新書」というものはそもそも岩波書店が「現代人の現代的教養を目的」に1938年に創刊したスタイルです。現在では新書は1冊を2時間くらいで読める比較的やわらかい内容のものというイメージがありますが、1961年に刊行された『日本の思想』は独特な文章、引用文が多く、ある程度の教養がないとついていけない難解な書として有名です。
丸山は本書のまえがきで日本には日本思想論や日本精神論が盛んであっても日本思想史の包括的な研究が少ないと指摘しています。例えばこのコラムでも後に紹介する土居健郎の『「甘え」の構造』のように、日本社会のある時代のある1個の思想を抽出してその内部構造を分析する研究はあっても、それが同じ時代の他の観念とどういう関係性を持ち、それが時代を超えてどのように変容していくのかということについて解析しようとする研究は、著しく貧弱であると言っています。また、その1つの思想を基に、違った立場の者との対話の中からその思想を発展させようとする試みも少ないと指摘しています。
その理由は「あらゆる時代の観念や思想に否応なく総合連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で―否定を通じてでも―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想伝統はわが国には形成されなかった」からだと丸山は論じています。例えばヨーロッパであればキリスト教、中国には儒教の伝統が座標軸として存在し、その周りで思想が形成され展開されてきたという歴史があります。しかし日本には基本的に外国の思想を輸入してきたという歴史があります。古墳時代に持ち込まれた儒教や、大和・奈良時代に持ち込まれた仏教しかり、明治維新の時に持ち込まれた西洋思想しかり、そして戦後民主主義もしかり。しかも新しい思想を輸入する度に、それまでの古い思想をまるでなかったことにしようとする傾向さえあることを丸山は指摘しています。
このように日本独自の思想というものが蓄積されずに、毎回新しいものが輸入される度に1から始めようとしてきたのは、座標軸がないからなのです。
このことは現在においても、「サンデル・ブーム」とか「地頭力ブーム」(地頭力とは、大学などで受けた教育を通して得た知識とは違う、その人本来の頭の良さのこと)などが社会現象として一時的に起きてもすぐ忘れ去られてしまうということにも表れているのでしょう。日本人は、どんどん新しいものへと関心が移るのです。そしてその後、同じような議論が沸き起こったとしても、前の到達点から出発せず、「そう言えば、昔こんなのがあったよね」程度の感覚で、また1からスタートするのです。また、座標軸がないからこそ、日本人は新しく入ってきた思想を評価することができず、さほどの抵抗も起こらずに安直に受け入れることができるという側面もあるでしょう。
では、日本にはオリジナルの思想が全くないのでしょうか。例えば『20歳までに読んでおくべき日本の名著』シリーズで以前取り上げた本居宣長の国学は、外国の思想の影響を受けていないといえるでしょうか。丸山は、本居は国学を儒教や仏教の思想に対するアンチテーゼとして提示していることや、神道という日本固有の信仰の内容を合理的に説明できなかったことを問題視します。こうした感覚的な思考様式を展開した本居の国学と、その影響で強まった非合理主義的な態度を丸山は「実感信仰」と名付けています。こういった思考はやがて“超国家主義"(極端な国家主義のことで、ファシズムとも呼ばれます)、言い換えるとファシズムを生み出し、戦争へと日本を導いたと考えています。敗戦後、ファシズムが再び根付かないように、丸山は民主主義という座標軸を確立しようと試みました。
一方、丸山と対照的な論客が、以前取り上げた小林秀雄です。小林は、本居の国学を徹底的に研究したことからも分かるように、日本には思想の伝統がすでにあると考えていました。丸山が合理的に、そして客観的に日本と西洋の思想を“批判"したのに対して、小林は文学的に、そして内省的に日本と西洋の文化の“批評"を展開したことで知られます。
丸山は、戦後の“進歩的文化人"と共に、小林が戦中に書いた愛国心にあふれた文章が結局ファシズムを追認し、戦争を賛美したものだと批判しました。これに対して小林は「僕は無知だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」と発言しました。これは一見、暴言のように聞こえますが、実際には敗戦するとすぐに“左翼"に急変し、後知恵によって突然ファシズム批判を展開した自称“知識人"たちを揶揄した発言なのです。戦争に負けたからと、それまでの日本の歴史を否定し葬ろうとする彼らの軽率な態度こそ、小林は危険だと考えたのです。
3.国家は共同幻想だと訴えた吉本隆明
戦後日本の左派思想を代表するもう一人の思想家が吉本隆明です。吉本と丸山は同じ左派でありながら、対照的なスタンスを取っていたともいえます。丸山眞男は近代の西欧文化をモデルとして戦後民主主義の形成を望んでいた“市民派"の象徴であったのに対して、吉本は市民派的な見方を非難し、日本という国家を成り立たせているものを日本の“民衆社会"の中に見出そうとしました。それを試みた代表作が1968年に出版された『共同幻想論』です。
吉本は本書の「角川文庫版のための序」というまえおきで、国家は幻想の共同体であると捉えることをマルクス主義から学んだと述べています。吉本が特に驚いたのは、日本をはじめとしたアジア的の国々の人々は国家の概念として、「国民の全てを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもの」であると感じているのに対して、西欧的なイメージでは「国家は社会の上に聳えた幻想の共同体」であって、人間の社会から分離された概念として捉えられているということでした。
そもそもマルクス主義とは、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが確立した社会学的思想です。マルクスは、資本家が資本をどんどん拡大してお金持ちになる一方で、労働者は豊かにならない当時の社会の現状を見て、マルクスは資本主義社会の限界に気づきました。資本家が資本を独占する限り、社会は良くならないと考え、そこで資本を社会の共有財産とし、それを分配すべきだと主張しました。戦後の日本の左派的思想家や“進歩的文化人"はこの思想に強い影響を受けていました。
マルクス主義において社会全体を把握するための基礎的概念が「下部構造」と「上部構造」です。「下部構造」とは経済的構造のことで、生産力や生産関係の総体のことです。この下部構造が“土台"となって規定されるのが、政治や社会、文化や精神などが構成する「上部構造」なのです。「上部構造」は「下部構造」の変化に伴って変化するとされ、生産関係に階級対立や矛盾が生じることによって最終的に上部構造が変革され、歴史が動いたとマルクスらは考えました。つまり、マルクスは資本主義の高度な発展により社会主義社会が必然的に到来すると考えたのです。
吉本は、マルクス主義のこういったいわゆる「下部構造決定論」に対抗する形で独自の「幻想論」を展開していきます。「上部構造」として括られていたものを「全幻想領域」として捉えなおし、政治や社会、文化や精神、そして経済も全て幻想によって制御されている側面があると主張します。つまり生産様式ではなく、この「幻想」というものが人間の様々な活動を規定していると考えました。吉本が『共同幻想論』で論じているのは、「国家」という幻想が成立する以前の時代(つまり古代の日本)においてどのような“幻想"が存在し、それがどのように共同幻想へと成長し、やがて国家という概念に結晶していくかということです。その生産過程を明らかにするために、吉本が足ががりとしたのが本来なら民俗学や古代史学の対象である柳田國男の『遠野物語』や、日本最古の歴史書とされる『古事記』です。
本書は、古代の日本に焦点を当てていますが、その議論を通して吉本が敗戦後の日本に送りたかったメッセージというものを汲み取ることができます。前述の丸山眞男は、戦後、非合理的で宗教的な性質を持つ“天皇制"という“国体"(戦前における“国体"とは、天皇制のこと)の形から“民主制"という合理的な“国体"の形へのシフトを訴えました。一方で吉本からすると、“民主主義"を拝むこと自体も“共同幻想"であり、ある種の“宗教"でもあり、そういう意味では“天皇制"と同じだと言おうとしているのではないでしょうか。人間を個人として大切にし、市民派的な考えを持った“進歩的文化人"にとって、この「共同幻想」という考え方はなかなか受け入れがたいものだったはずです。
4.“進歩的文化人"の平和論を批判した福田恆存
“進歩的文化人"に批判的であったもう1人の知識人が、保守派の論客を代表する福田恆存です。
福田は1912年に東京で生まれ、東京帝国大学文学部英吉利文学科を卒業しました。卒業後は中学教師、出版社での勤務を経て文芸評論を始めるようになりました。戦後の時代に数々の評論を発表する一方で、シェイクスピアの「4大悲劇」(『ハムレット』『マクベス』『リア王』『オセロ』をはじめとする戯曲やヘミングウェイの『老人と海』などを翻訳し、劇作家・演出家としてもシェイクスピアの作品や自身の作品の演出を手がけました。
福田の代表作といえば、「中央公論」の1954年12月号に掲載された『平和論に対する疑問』という評論です。当時は、平和論を推し進める“進歩的文化人"たちの風潮があまりにも強く、「中央公論」の編集部は批判を恐れてタイトルを『平和論の進め方についての疑問』と変えて掲載しました。この評論の内容は、米軍基地や原水爆に反対し、日米同盟を拒否する当時“進歩的文化人"の平和論に対する批判です。 福田の最大の疑問は、「“サヨク"による平和論は平和的共存というものを信じているようだが、何を根拠にそれを信じることができるのか」というものです。当時は活発な論争を巻き起こし、福田は保守派の論客として注目されるようになりました。
※中央公論とは1887年に日本で創刊され、現在も発行されている月刊総合雑誌です。
福田の著作の特徴の1つは、“歴史的仮名遣い"(表音的仮名遣いに対し,一定の過去における仮名の用法を基準にした仮名遣い)で書かれていることです。彼は戦後の国語国字改革を批判し、“現代かなづかい"と“当用漢字"(1946年に国語審議会が答申し、内閣が告示した当用漢字表に掲載された1,850の漢字のこと)の不合理についても説きました。その運動の集大成として、歴史的仮名遣いの正当性を立証しようとしたのが『私の國語教室』です。本書は国語問題の本質に迫っており、現代を生きる私たちに戦後教育の功罪について考えさせる内容となっています。本書は第12回読売文学賞を受賞しました。
私は本書を読んで、福田が扱っているテーマとは異なるものの、日本人の名前のローマ字表記の問題を思い浮かべました。日本人が「名前→名字」という表記にするようになったのは、明治時代以降の欧米化政策の中で徐々に定着したものだとされます。21世紀に入り、変わろうとしています。2019年5月に河野外相は「外務省としても令和という新しい時代にもなりましたし、中国の習近平主席をXi Jinpingとか、韓国の文在寅大統領をMoon Jae-inというふうに表記している外国の報道機関が多いわけですから、安倍晋三首相も同様にAbe Shinzoと表記をしていただくのが望ましいと思っております」と発言しました。日本政府は海外メディアにも「名字→名前」の順番で表記するように要請し、強制力はないものの、言葉や名前というものがいかに深く国や文化のアイデンティティと結びついているかについて改めて考えるきっかけとなっています。
5.日本人の甘えの心性を研究した土居健郎と、戦後の日本論・日本人論を研究した青木保
戦後の日本論・日本人論を考える上で、必読の書が土居健郎の『甘えの構造』と青木保の『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』の2冊です。
土居健郎は日本の精神科医、精神分析家です。東京で生まれ、東京帝国大学医学部を卒業した後、米国のメニンガー精神医学校やサンフランシスコ精神分析協会に研修留学しました。そこで経験したカルチャーショックをきっかけに、日本人の心理にある特異性を探求し始めました。日本人の育児様式を観察して分析を行い、日本人が生まれて成長するまでの社会化の過程の基本となっているのが「母子への依存」であることに着目しました。日本人は成人しても家庭や職場など、あらゆる人間関係において「母親」と同じような精神的な拠り所を求めるという「甘えのメンタリティ」が人間関係の基本にあると分析しました。土居は、その「甘え」論を50年代に学術雑誌ですでに発表していましたが、71年に『甘えの構造』として一冊の本にまとめて出版するとたちまちベストセラーとなり、「甘え」という言葉は流行語にもなりました。以前『20歳までに読んでおくべき日本の名著』シリーズで取り上げたアメリカの社会学者で『ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓』の著者として知られるエズラ・ボーゲルは「おそらく、西欧の精神医学の思考にインパクトを与えた、精神医学のトレーニングを受けた日本人による、最初の本であろう」と評しました。
『甘えの構造』は、なぜ一世を風靡したのでしょうか。文化人類学者の青木保は、1990年の著書『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』の中で、当時は日本論・日本人論というものが「大衆消費財」として消費されるようになった時期だったと指摘しています。当時の日本の経済は絶頂期を迎え、海外へ旅行したり海外で仕事をする日本人の数が飛躍的に増えていました。国際社会において欧米と対等な「大国」としてのアイデンティティが必要となったことで、日本人の間で「日本人とは何なのか」という問いが広くに認識されるようになり、当時の「日本社会のシステム」が敗戦国のものではなく、肯定的に捉えられ直すきっかけとなりました。
青木保のこの著書は、以前『20歳までに読んでおくべき日本の名著』シリーズで取り上げたアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』を出発点として、戦後40年間の間に発表された日本論・日本人論の代表作を客観的に分析し、それぞれの時代背景やその本が社会に与えた影響を分析している良書です。青木はこれらの作品を4つの時代に分類しています。
・「否定的特殊性の認識」の時代 (1945年~54年)。敗戦直後で、民主主義国家を新しく作り上げることが国の課題であったため、それまでの日本社会の基本的枠組みを否定する論が主流でした。
・「歴史的相対性の認識」の時代(55年~63年)。高度成長期が始まる中、他のアジア諸国と比べて近代化に“成功"し、独特の和洋折衷の文化を持つようになった“現在"の日本を肯定的に捉えた論が主流でした。
・「肯定的特殊性の認識」の時代(64年~83年)。日本経済の絶頂期という時代背景から、「日本のシステム」の優秀さを強調する論が多く発表されました。79年に発表されたエズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓』もその1つと言えるでしょう。
・「特殊性から普遍性へ」の時代(84年〜)。80年代に入ると経済・貿易摩擦もあり、経済大国日本への風当たりが強くなりました。「日本のシステム」や「日本的経営」は日本社会ではうまく機能しても、海外(特にアメリカのような多民族・多言語・多文化社会)においてはむしろデメリットの作用が目立つと指摘されるようになります。そんな中、日本論・日本人論の課題は、特殊な日本的な性質をいかに普遍化するかであると青木は述べます。
この2作を読み終えて思うことは、日本論・日本人論はあくまでも“論”であって、“学問”ではないということです。根拠や調査による実証デイタを欠くものや、個人の経験に基づいた印象を述べたものが中心で、科学的な検証というよりも人間の洞察力のたまものといえる研究が多いのが特徴です。これは本居宣長の国学に対する丸山眞男の批判とも結びつきます。
前回のコラムでは、西田幾多郎などは西洋的な科学的世界観とは異なる日本的、あるいは東洋的世界観があるのではないかと主張していることについて言及しました。その点では日本論・日本人論はそういう性質を多分に持っているからこそ、真実を捉えているという一面もあるのではないでしょうか。
しかし、青木は『「日本文化論」の変容―戦後日本の文化とアイデンティティー』の「おわりに」で次のように述べています。「自文化に対する肯定と否定は、それが論理的であるよりも多分に感情的な性格をもつ(あるいはイデオロギー的な)がゆえに、常に政治的に危険な作用をする。」そういう“論”がイデオロギー性を帯び過ぎると、ナショナリズムや自国民族中心主義、人種差別につながりかねないと警告しています。