6.高度消費社会のひとつの理想像を考えた山崎正和
戦後の日本言論・政治分野において、“左派"の代表的論者が丸山眞男だとすれば、“右派"の代表的インテリの一人が山崎正和です。
山崎は1934年に京都府京都市で生まれ、京都大学文学部哲学科を卒業しました。大学院在学中から戯曲を執筆し、1963年に能の大成者として知られる世阿弥を題材にした『世阿彌』で岸田国士戯曲賞を受賞しました。その後は、評論家としても活動をはじめ、1972年には近代日本文明論を展開した『劇的なる日本人』で芸術選奨新人賞を受賞し、翌年1973年には、森鴎外について論じた『鴎外 戦う家長』で読売文学賞を受賞しました。その他、『徒然草』や『方丈記』など古典の現代語訳も行いました。1984年に出版した『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』で、吉野作造賞を受賞しました。
70年代から80年代にかけて、高度経済成長期を経た日本社会は、産業化社会から高度消費社会にシフトしようとしていました。『柔らかい個人主義の誕生』は、そんな過渡期の中で人間の考え方や生き方、そして消費の仕方がどのように変わるかについて、山崎が鋭く予言したものです。
明治維新以降に西欧から日本へ流入してきた産業化社会においては、人々がある特定の専門分野に特化し、生産性をあげるために、時間を無駄にせずに一所懸命に働き、お金を浪費せずに富を増やすことが美徳とされました。こうした禁欲主義とも言える硬い信条、会社に所属することで存在意義を見出す「組織の呪縛」、自分の専門分野の枠内に引きこもる傾向を山崎は「剛直で硬質の」個人主義(個人主義とは、個人の権利と、自由による思想と行為を尊重した立場のこと)と捉えます。そんな産業化社会における消費は、あくまでも労働力の生産を目的とした消費でしかありません。
しかし80年代頃から日本人の間でも「自己表現」をしたいという欲望が目覚め始めたと山崎はいいます。例えばファッションで言えは、機能性よりもデザイン性を求め有名ブランドの商品を求めるようになります。洋服やお化粧を使って自分をカッコよく見せたり、かわいく見せたりしたいという気持ちが表面化してきます。また、山崎は「時間の消費」という概念も提唱しています。効率ばかりを追い求める“生産社会"から、充実した時間の消耗を目的とする“消費社会"へのシフトです。21世紀に入り、若者は自動車を買わなくなったとか、“モノ"ではなく“コト"を消費するようになったとされますが、山崎は、すでにそのことを予言しているといえます。このような「表現する自我」や「消費する自我」を山崎は「柔らかい個人主義」と呼んでいます。
ここでポイントなのは、自己表現することも、時間を消費することも、山崎は「社交を楽しむ」ことでもあるという結論にたどり着いていることです。つまり、自己表現は自己満足のためではなく周りとコミュニケイションを取る手段であって、相手の欲望の充足は、自分の欲望の充足でもあるということを期待しています。また、時間を消費するということで言えば、決められた定食をできるだけ早く口にかき込んで食事を済ませるのではなく、友人と、じっくり考えてメニューを決め、会話を楽しみながら食事を待ち、運ばれた品は例え少量でも、多くの時間をかけて楽しむことです。山崎はその究極の形は「茶の湯」だと言います。「ただひとつまみの緑茶の粉を消耗するために、おびただしい時間と礼儀とて仕事の技を費やすのである。」消費社会の理想の形のひとつとして、山崎は最終的に日本の伝統的な儀式に、その答えを見出すのです。劇作家として日本の伝統と日本人の生き方について考え抜いた山崎ならではの分析と言えるでしょう。
7.日本を代表する政治家と経営者が執筆した『「NO」と言える日本』
戦後の保守政治家として、東京都知事として、そして芥川賞作家として知られる石原慎太郎と、ソニーの創設者の一人である盛田昭夫の共同執筆による1989年のエッセイ『「NO」と言える日本』は、日本国内でベストセラーになる一方、非公認の翻訳書が多く作られて多くの国々に拡散され、アメリカの政治学者や経済学者にもインパクトを与えた一冊です。
本書は日本が高度経済成長を遂げ、バブル期に入り、日米貿易摩擦の真っ只中の時期に出版されたものであります。日本はビジネスでも国際問題でも、アメリカを初め他国に依存しない態度をとるべきだと、石原と盛田は主張しています。
当時、石原は自民党の衆議院議員として竹下内閣の下で運輸大臣に就任していました。政治家の観点から、日本はもっと尊重されるべき強国であり、アメリカとの取引をする際にも自分たちの権利をより強く主張すべきだと論じています。欧米の国や白人社会によって世界が支配されている当時の現状を批判し、日本は半導体の生産など技術の優位性を交渉の武器として使用する必要性を説いています。また、日米安全保障条約を終わらせ、自衛するべきであるという意見も展開しています。
一方、盛田はニューヨークでの長期滞在経験があり、経営者として成功した観点から、アメリカ企業の欠点を指摘したりやビジネス手法を批判し、日本が国際的な地位を向上させるためには何をしなければならないかについて述べています。例えば、アメリカ企業はM&Aなどのマネイゲイムばかりに気をとられるあまり、商品の創造や製造力をないがしろにしていることや、重役の収入が多すぎて企業のためになっていないという意見を述べています。(この2つ目の主張を聞いて、日産のゴーン元会長の逃亡劇を思い浮かべる人も多いでしょう。)また、日本人はアメリカ人と交渉するために、西洋の文化や言語をもっと勉強する必要があるということや、もし日本が世界のリーダーになりたいのであればよりアジアの復興に協力し、対外援助を増やすべきだとも主張しています。
本書に対する批判的な意見としては、情緒的・感情的な反論が多く、特に石原の技術に対する主張は非科学的であるという意見があります。また、政治家や経営者に焦点を置くあまり、一般消費者や労働者の立場を無視しているという意見もあります。しかし、時代背景からすると、著者2人の目的は、アメリカや日本の悪口をいうことではなく、日本政府や日本の経営者の目を覚ますことであったことだったのではないでしょうか。それに加え、「他国に依存しない」という明確なヴィジョンの基に、日本が「NO」といえるようになるための戦略と具体的な戦術が提案されていることも、大いに見習うべきところでしょう。
8.自身の戦争経験を基に古代日本文化を捉え直そうとした梅原猛
前回『戦前の知の巨人』で取り上げた京都学派の延長として “梅原日本学"と呼ばれる世界観を確立した梅原猛も、戦後の日本論・日本人論を考える上で忘れてはいけない存在です。
梅原猛は1925年に宮城県仙台市で生まれ、愛知県で育ちました。高校時代を戦時中に過ごし、その経験が哲学への関心を後押しする形となりました。第二次世界大戦末期には、深刻な労働力不足を補うために、中学校以上の生徒や学生は軍需産業に動員されますが、梅原も名古屋の三菱重工の工場ではたらかされました。そこがアメリカ軍による空襲を受けた際、梅原自身は防空壕へ逃げ込んで助かりますが、同じ工場で働いていた他の学生の多くは死亡しました。この経験を通して、梅原は「自分がこの戦争で死ぬのはほぼ確実だ」と考えるようになり、多くの哲学書や宗教書を読み漁って「死」について研究するようになりました。やがて、梅原は西田幾多郎ら京都学派の哲学に関心を持ち、1945年に京都帝国大学文学部哲学科に進学しました。その直後に徴兵されますが、その数ヶ月後に終戦を迎え、大学に復学することとなりました。
梅原は、西田幾多郎を乗り越えるという目標を立て、西洋哲学の研究を踏まえた上で、日本仏教の観点から日本人の精神性について研究しました。彼の日本仏教の研究の結晶とも言えるのが『最澄と空海―日本人の心のふるさと』でしょう。本書は、平安時代の日本仏教を代表する最澄と空海という2人の僧の思想を対比させ、そこからいかに日本独自の仏教が創造されたについて論じています。最澄は、この世とあの世における善い行いの積み重ねによって成仏できると説いたのに対して、空海は、即身成仏を説きます。2人の教えは対極的でありますが、梅原はそこに日本人の「精神の拠り所」を再発見しようとします。
梅原の関心は仏教にとどまらず、古代史や歴史一般も研究するようになりました。『古事記』の神話は史実でもなく同時にフィクションでもなく、「律令国家のイデオロギーの書」という解釈を展開した論文を発表しました。奈良にある法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたと論じた『隠された十字架 法隆寺論』(1972年)など、次々と提示された大胆で独創的な仮説は反響を呼び、 “梅原日本学"と呼ばれるようになりました。
学会の定説を否定することから形成された“梅原日本学"は、梅原自身の理不尽な戦争体験から生まれた懐疑的なスタンスが原点となっています。彼はナショナリズムこそ日本を破滅させた真犯人だと捉え、“国学"というレッテルから日本の古代学を解放したいという強い意志の下で様々な仮説を提示しました。また、自身の戦中の経験から憲法9条を擁護し、「平和憲法を守る」という左派のスタンスを一貫して守りました。
注目すべきは、梅原は左派でありながら“進歩的文化人"とは一線を画したことなのではないでしょうか。日本の文化と歴史を否定するのではなく、それを独自の視点から捉え直そうとしました。もっというと、梅原は日本の文化を熱烈までに肯定的に捉えている人物なのです。それを象徴するのが、「多神教は一神教より本質的に『寛容であり優れている』」という梅原の主張です。これは日本仏教を徹底的に研究した彼だからこそ見出せた日本思想の本質であると同時に、究極的には「生き物の多様性を認める」という左派的な主張でもあったのです。
9.「論敵なのに嫌いな人間は同じだった」西部邁と佐高信
ここまで見てきたように、戦後日本の言論について考える上で欠かせない視点が「左派的“進歩的文化人"」と「右派的知識人」の存在であり、「右と左」の対立です。特にこのコラムで取り上げてきた論客は高度な議論を展開しているため、それぞれ孤立した存在として把握しようとしても、それぞれの代表作を別々に理解しようとしても、その本質が非常に見えにくいと言えるでしょう。だからこそ、多くの人に避けて通られてきた“難解の書"として悪名高い側面もあると言えるのではないでしょうか。ここまでに紹介してきた人物やその代表作を孤立した存在としてではなく、同時代の他の論客や作品と対比し、自分の中で“対話"させることで、初めてその主張の本質が見えてくるのです。
丸山眞男は『日本の思想』のまえがきで、「学者や思想家のヨリ理性的に自覚された思想を対象としても、同じ学派、同じ宗教といったワクのなかでの対話はあるが、ちがった立場が共通の知性の上に対決し、その対決の中から新たな発展を生み出してゆくといった例」は少ないことを問題視しています。この視点を踏まえて、最後に取り上げたいのが保守論客を代表する西部邁と左翼論客を代表する佐高信の2人です。
西部邁は1939年に北海道で生まれ、東京大学経済学部を卒業しました。その後東京大学の助教授と教授となりました。しかし、(以前このコラムで南方熊楠を紹介した際に取り上げた)中沢新一を東京大学教養学部助教授に推薦するものの教授会で否決されると、これに抗議して東京大学を辞任しました。(これは一般的に「東大駒場騒動」として知られます。)その後はテレビ朝日系列の討論番組『朝まで生テレビ』に出演し、保守派の論客として一般的に知られるようになりました。残念ながら、2018年1月21日に死を選択しました。
佐高信は1945年に山形県で生まれ、慶応大学法学部を卒業しました。高校教師や経済誌の編集長を経て、左派の評論家としての活動を始めました。
西部と佐高は、トーク番組『西部邁・佐高信の学問のすヽめ』に出演しました。毎回様々なテーマを取り上げ、それに関係した話題や人物、書籍や映画や音楽にスポットを当てて語り合い、それを踏まえてこれからを生きる人たちに向けた応援メッセージを届けようとしました。この番組の内容を書籍化したのが『思想放談』です。しかし、残念ながら現在では中古本でしか手に入りません。
西部と佐高は、これ以外にも何冊かの対談集をリリースしています。『ベストセラー炎上』で2人は、勝間和代、村上春樹、内田樹、竹中平蔵、塩野七生、稲盛和夫のベストセラーを取り上げ、対談形式で辛口批評を展開しています。ポイントは2人が単純に著者の悪口を言うことを目標としているのではなく、「中身のない」出版を行う出版社や編集者の拝金主義、ある分野の歴史をわきまえずにテレヴィなどで視聴者受けを狙う論客、そして中身のない本をベストセラーにする日本の国民そのものを問題視しているところです。
佐高は『論敵なのに嫌いな人間は同じだった西部邁』と題した、とても興味深い記事を2015年12月の『週刊ダイヤモンド』で発表しています。その中で佐高は、『西部邁・佐高信の学問のすヽめ』に出演していて一番驚いたのは、「関心を持っている思想家」と「嫌いな人間」が西部と重なっていたことだったと述べています。「発言に体重がかかっていない、あるいはペラペラしゃべる口先だけの人間を侮蔑するという共通感覚を持っていたのである」と振り返っています。思想的には対立的な立場の2人が対談を通して共通点を見出し、議論をより豊かなものにしようとした姿勢には、私たちは見習うべき点が多くあるのではないでしょうか。
10.エピローグ
日本人は、難しいものを避けようとし、面倒くさいものを先送りする癖があります。
例えば、戦後の日本で自称“知識人"たちがそれまで自分たちが従っていた国体を否定し、“戦後民主主義"を無反省に謳い始めたのも、正にこの現れと言っていいのではないでしょうか。新しい思想を偏見なく、抵抗なく取り入れる日本人は、良く言えば思想の座標軸がないが故の「柔軟性」を持っていますが、悪く言えば「歴史から学ぼうとしない」愚かな国民でもあるとも言えます。
近年でいうと、テレヴィに出たり、新書を次々と出版する売れっ子論客の姿勢にも同じことがいえるのではないでしょうか。どんな読者、どんな視聴者にも理解できる優しい言葉で語るのは、マーケットにそれが要求されているという側面もあるかもしれません。表面的な議論を喜ぶ大衆にアピールしなければ、出版社は潰れてしまうのでしょう。過激な発言も、あるいは予定調和な慰め合いも、真剣に課題に取り組むことより“受け"を優先したものとなっています。
最近では、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて日本国民は不安と恐怖に陥っています。そこでニューズを見ていて気になるのが、安倍政権の危機管理に対する野党の批判、政府から助成金を求めるビジネス、トイレット・ペイパーを買い漁る国民です。本来ならば危機において国民が一体となって危機を乗り切ろうとするべきところなのに、各自が自分勝手なわがままと目先の損得を最優先しているところが目立ちます。吉本隆明は『共同幻想論』のまえがきで、日本人が持つ国家の概念は「国民の全てを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもの」と述べていますが、日本国民は最後は「政府が守ってくれる」という幻想に陥っていることも否めないでしょう。この姿勢は正に土居が指摘した「甘え」でもあります。
特に議会においては、各党の党首は“しっかりと議論したい"と言う一方で、実際には与党に一方的に“批判"を突き付けたり、自分のわがままが通らないと議会をすぐに放棄し、建設的な“提案"は一切なされてません。議論を深めよう、議題を解決しようと言う姿勢は見受けられないのです。それで重要な事項に関して政治的決定ができず、先送りされている状態が続いています。しかし、そういう人の多くは、読んだこともない難解な哲学書を「読むに値しない」と切り捨ててしまいます。野党も安倍首相嫌いの人々も “自由"を個人のわがままと履き違えて、文句ばかりを言い、その他、最後は政府に救ってもらえると勘違いしているのではないでしょうか。そういう人々は、自由というものには責任が伴うということを、自分にとって都合が悪いからと忘れてしまっています。今回取り上げた著書は、そういう事態の危険性を警告しているのではないでしょうか。
このコラムの冒頭で、丸山眞男は「日本思想には座標軸はない」と説いたことを紹介しました。つい先日、日本の仏教学者である末木文美士は、『日本思想史』というとても興味深い本を岩波新書から出版しました。「王権」と「神仏」という視点から、古代から現代まで、日本思想の構造の大きな流れを捉えようとした挑戦的な著作です。是非読んで見てください。