1.プロローグ
日本の近代文学の特徴は、“私小説"であると思います。“私"の中に生じる“感情"が中心となる叙情的な物語です。
一方、アメリカの近代文学の特徴は、誰が何をするかということだけを表し、内面の描写のない叙事的物語です。
そのためアメリカの小説は、とても映画化しやすく(最終的な映画の良し悪しは別として)、日本の小説は映像化には、適していないと思われます。
こうした傾向は、文学や映画だけのことだけではなく、人物を評価するときにも同じようなことが当てはまると思われます。
日本人は、なぜそういうことをしたのか、また、それを理解できるかという感情的な視点で価値判断をしてしまいます。
一方、アメリカ人は、より現実的で、何をしたかったという事実と(最近の政治・社会環境はさておき)、それは金銭的にいくらになったかを気にします。
こうした違いは、もちろん、どちらが“良い"とか“悪い"というのではなく、文化的な違いを表している例なのです。
さて、今回は子供の頃から、現在に至るまでの僕のお気に入りのアメリカの文学作品について書きます。
2.『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』マーク・トゥエイン(著)
マーク・トゥエイン
僕の初めての本格的読書体験は、小学校4年生のことです。多くのアメリカの少年と同様、マーク・トゥエインの『トムソーヤの冒険』と『ハックルベリーフィンの冒険』を最初に読みました。英語版のものと、母が日本から取り寄せてくれた日本語訳の両方の作品を読みました。その時に感じたある種の違和感みたいなものが、やがて成長していきます。
僕が翻訳家になったのは、この経験があったからなのだと思っています。
昨年(2017年)に、東京大学名誉教授の柴田元幸先生が『ハックルベリーフィンの冒険』を翻訳されたことを知り、同作と2012年に翻訳された『トムソーヤの冒険』を読みました。
子供の頃の心境やアメリカの“匂い"みたいなものが甦りました。
原書と読み比べることで、柴田先生の翻訳の素晴らしさを痛感し、もっともっと翻訳の勉強をしなくてはならないと思い知らされました。
3.『かもめのジョナサン』リチャード・バック(著)
中学時代にもっともインパクトを受けた文学作品は、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』です。
この作品を読んで感じたことは、ジョナサンが日本的なもの、日本的な精神を持っているということです。
自分は、アメリカ人なのか、日本人なのかといういわゆる“アイデンティティ"について悩んでいる頃に読んだため、“ジョナサン"に強い感情移入をしたことを覚えています。
日本に来て、五木寛之による日本語版を始めて読んだ時には、翻訳というものの面白さを痛感しました。原作を元に再構築された別の作品となっていたのです。
当時、僕は、日本語と英語、日本文化とアメリカ文化は、あまりに違うために、翻訳をすることは不可能なのではないかと考えていたので、五木寛之の大胆な“再構築"には、とてもインパクトを受けました。
2014年に44年前に封印された第4章部分を含めたいわゆる“完全版"を電子書籍で、英語と日本語で読みました。
その際、五木寛之の訳は、翻訳ではなく“創訳"となっていることに感動しました。
4.『ライ麦畑でつかまえて』 J・D・サリンジャー(著)
中学生時代の僕が、文学の方向の勉強を本格的にすることを決めたのは、『The Catcher in the Rye』がきっかけです。言葉というものが、これ程、人の心を動かすのかと感じたからです。文字が繋がり、物語を紡ぐことで、無限の世界を表現できることをこの作品を通じて知りました。
上智大学に留学した際に、白水Uブックスの野崎孝の翻訳版『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ時、あまりに誤訳が多かったので、いつかは僕が翻訳してやろうと思っていました。
すると数年後に、あの村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として新訳を発表しました。発売当日にすぐ書店で購入し、一気に読んでしまいました。
村上春樹に僕の一つの目標を奪われてしまいました。
5.『グレート・ギャッツビー』F・スコット・フィッツジェラルド(著)
高校生時代に一番影響を受けた本の一つはF・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』です。多くの日本語の翻訳が存在しており、大学に入って始めた英語を日本語訳に翻訳する技法の研究には、とても適していました。
しかし、大学生当時、納得のいくものはなく、自分でもこの作品の翻訳にいつかは、挑戦しようと思っていました。
ところが、またあの村上春樹によって、とても高い壁が作られてしまいました。それでも僕は、その壁に卵をぶつけてやります。
6.ビート・ジェネレイションの作家たち
●『路上 / オンザロード』 ジャック・ケルアック(著)
●『吠える』 アレン・ギンズバーグ(著)
●『麻薬書簡』 ウィリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグ(著)
●『裸のランチ』 ウィリアム・バロウズ(著)
僕が大学生時代に、強いインパクトを受けたのは“ビート・ジェネレイション"の表現者たちです。日本では、彼らの作品は、過小評価されていますが、米国においては、とても大きな存在です。
1914年から1929年までの第一次世界大戦後の“狂騒の20年代"に生まれ、1955年から1964年にかけてアメリカ文化に大きな影響を与えた世代のことを“ビート・ジェネレーション"と呼びます。ちなみに“ビートニク"という呼び方がされることもありますが、この言葉は正確にいうと同時のメディアが作り出した軽蔑的な呼び方で、ビート・ジェネレーションの連中がヒップスターでえせインテリであるというステレオタイプを広めた言葉です。
彼らは、ヒッピーからの支持を受け、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックスらに強い影響を与えました。
7.世界観を持つ作家
●『メイスン&ディクスン』トマス・ピチョン(著) / 柴田元幸 訳
●『ティファニーで朝食を』トルーマン・カポーティ(著) / 村上春樹 訳
●『冷血』トルーマン・カポーティ(著)
●『ホテル・ニュー・ハンプシャー』ジョン・アーヴィング(著)
●『サイダー・ハウス・ルール』ジョン・アーヴィング(著)
●『熊を放つ』ジョン・アーヴィング(著) / 村上春樹(柴田元幸)訳
アメリカの作家の特徴は、“世界観"を持っていることだと思っています。これは、アメリカという国が多民族国家であるということと関係があると思います。このことは、ほぼ単一民族で構成されている日本と比べると、まったく違う文化・社会の構成を持つことを意味しています。
日本の県とアメリカの州が似たようなものだということを言う人がいますが、それは全くの誤解です。State(州)というものは、国に近い感覚で、実際に法律も違います。(江戸時代の“藩"には、近いかもしれません)
アメリカにおいて、州が違うということは、地理的な差を意味するだけではなく、人種の違い、収入の違い、思想・宗教の違いを意味しています。
その1つ1つの“セル"は、独立していて、とても硬い細胞壁で守られています。
各々の“セル"には、独自の歴史と伝統、それぞれの価値観があります。なので、その1つ1つの“セル"についての物語は、とてもとても個性的でディープなのです。
NYの白人のお金持ちの“セル"と南部の貧しい地域の“セル"とカルフォルニアの日系人の“セル"とでは、全く“世界"が異なるのです。
8.映画と文学の関係
●『シャイニング』 スティーブン・キング(著)
●『スタンド・バイ・ミー』スティーブン・キング(著)
●『ペリカン文書』ジョン・グリシャム(著)
●『評決のとき』ジョン・グリシャム(著)
これまで、紹介してきた小説の幾つかは、映画化されています。
70年代以降の小説の多くは、映画化をされることを前提に書かれているからです。
アメリカ人は、あらゆる点において、極端なところがあって、小説を読む人は、ほとんど1日中、1年中読んでいるし、読まない人(読めない人)は、一生涯、1冊の小説も読みません。
売れる小説と売れない小説も明確で、映画化された原作は、とてもよく売れるので、どうしても小説家は、映画化されるような作品を書くことになるのです。
文章が映像化されるためには、心理描写が多い作品は、敬遠されます。誰が何をするのか、誰が何を言うのか、誰が何を着ているのかが重要になるのです。
一方、日本では“私小説"の伝統があるので、自ずと独白や心理描写が多くなります。つまり、映像化に向かないのです。
又吉直樹の『火花』の小説は、そこそこ本では読めるのに、映像化された映画やTVドラマが全くつまらないのは、そのためです。
スティーブン・キングとジョン・グリシャムは、そうしたアメリカの作家の中でも映画化される作品がとても多く、興業的にも成功しています。
両氏の小説は、読んでいてイメージが湧きやすく、ストーリーの展開もスリリングでとても楽しめます。
日本でも最近、映像化しやすい作家としては、東野圭吾や宮部みゆきなどがいますが、世界的な出版不況の中、映像化しやすい文学が今後も増えていくでしょう。
9.ハードボイルドとミニマリズム
●『老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ(著)
●『大聖堂』レイモンド・カーヴァー(著) 村上春樹(訳)
●『ロング・グッド・バイ』レイモンド・チャンドラー(著) 村上春樹(訳)
●『ニューヨーク3部作』(ガラスの街 / 幽霊たち / 鍵のかかった部屋)ポール・オースター(著) 柴田元幸(訳)
●『翻訳夜話』村上春樹、柴田元幸(著)
ハードボイルドというと、ぶっきらぼうな探偵やキザな男が出てくるサスペンスというイメージがありますが、本来は“固ゆで卵"のことで、感情を交えずに客観的な事柄をシンプルな表現で描く、手法・文章のことで、もともとは必ずしも探偵物のことではありませんでした。
そういう意味で、「ハードボイルド」の代表的作家と言えばアーネスト・ヘミングウェイかもしれません。
村上春樹が翻訳する2人の“レイモンド"もそう言った共通点があるのです。
ハードボイルドというスタイルは、芸術論的に言えば、“ミニマリズム"と言い換えてもいいかもしれません。
“ミニマリズム"というスタイル/スタンスは、日本の美意識とも深く繋がっていて、“わび・さび"といった感覚や“禅"といった仏教の考え方とも共通点を多く持っています。
村上春樹の文体が“アメリカ的"だと表現されますが、僕からすると“日本的なミニマリズム"にも感じられます。特に、村上春樹の作品を英語の翻訳版で読むとそのことが、より強く感じられます。
村上春樹と柴田元幸の両氏の翻訳技術は、翻訳家の末席を汚す1人として、いつも頭がさがる思いです。
原文のニュアンスやリズムを保持しながら、日本語としても読みやすくする技術とセンスは、とても勉強になっています。
10.エピローグ
BigBrotherは、“日本語と英語は文法はもちろんのこと、文化的背景が全く違うものだからと、直訳することは不可能だということを、決して忘れてはいけない"と常々言っています。
“翻訳をするには、文化的・歴史的背景を考えながら、訳さないと本来の意味が伝えられなくなる。"とも言っています。
先日、ある有名な方の記者会見で次のようなやり取りがありました。
記者:好きな言葉は何ですか
ある有名人:“let it be"です
もちろん、これはビートルズの名曲のタイトルであり、本人は、“ありのままで"とか“自然体でいたい"ぐらいのつもりでおっしゃったのでしょうが、これは、大変大きな間違いだとBigBrotherは、烈火のごとく怒り出しました。
ここで用いられている“let"も“it"も“be"も英語において最も注意しなくてはならない用語だというのです。
“let"は、“Let’s ~"の形で“~しましょう"という軽い意味で使われていたり、辞書でも“~させる"という翻訳が用いられていますが、例えば旧約聖書の「創世記」では “Let there be light" (光あれ)と、神の命令として登場します。本来的には、“神が許す"という意味で、“make"の“人や状態が~させる(使役)"とも異なるのです。
“it"は、神が直接作っていないものを指しており、知性のない赤ん坊のことは、him、herではなくitを使うのは、その名残なのでしょう。この場合の“it"は、人間が作ってしまった状況のことを指している。
“be"という言葉もbe動詞の原形という軽い感じではなく、シェイクスピアの有名な“to be or not to be, that is the question"の“be"であり、生きるか死ぬかの問題であって、“存在する"という意味が含まれます。
更に言えば、この“let it be"という表現自体が「新約聖書」の「ルカによる福音書」(1-38)に出てくる表現です。しかも、ここでいいう“神"は、もちろんキリスト教の神であります。
なので、BigBrotherが意訳をするならば“let it be"という言葉は、“愚かな人間が作ってしまったこんな状況が、滅ぶことなく、続くことをキリスト教の神(聖母マリア)が許してくれることを願っております"という意味になるというのです。
ビートルズの曲もそういう意味で一度聞いてみてください。
しかし、八百万の神々は、“それ"を許すことはないのでしょう。“言霊"とは本当に恐ろしいものです。