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書籍レヴュー: 『英語コンプレックス粉砕宣言』 が教えてくれる英語苦手意識を克服するヒント
  - 鳥飼玖美子/齋藤孝(著) | LANGUAGE & EDUCATION #049
Photo: ©RendezVous
2025/03/17 #049

書籍レヴュー: 『英語コンプレックス粉砕宣言』 が教えてくれる英語苦手意識を克服するヒント
- 鳥飼玖美子/齋藤孝(著)

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KAZOO
翻訳家 / 通訳 / TVコメンテイター

目次


1.プロローグ

3月19日の総集編の放送を持って『世界へ発信!SNS英語術』が終わり、この2年間のことを振り返ると様々なことを学んだこと、新たなことに気付かされたことが実に多く、とても貴重な経験をさせてもらったことを感謝する今日この頃です。

中でも、日本の英語教育という大きな課題に、全身全霊で取り組む鳥飼玖美子先生の姿には、ただただ自分の考えの甘さに気づかされてばかりいました。例えば、番組では他の英語教育番組では取り上げないような新しい旬の英語表現を紹介することが度々あり、僕としてはそれを視聴者と共有できることはとてもやりがいのあることの1つでした。しかし、ネイティヴ・スピーカーとしては、いくらでも解説できそうな特殊な表現であっても、25分という限られた時間の中では、どうしても解説は最小限に編集されてしまいます。複雑なニュアンスを持った言葉をさらっと触れるだけでは、視聴者に偏った印象を与えてしまい、それがやがて外国人との会話やメールなどの英語のやりとりの中でとんでもない失態につなるかもしれません。また、アメリカの若者が日常的に使うような表現であっても、その背景を丁寧に伝えないと、とても下品な表現になってしまった場合があります。例えば日本人が驚いた時に「オー・マイ・ゴッド!」と連発するようなみっともない事態を引き起こしてしまうのです。

番組で自分が紹介する表現に関して細心の注意を払う鳥飼先生の姿をみていると、「本当に日本人のためになる英語教育とは何か」ということや、「ネイティヴ・スピーカーに求められること」とは何かということについて僕は毎回のように深く考えさせられました。

今回はそんな鳥飼先生と、明治大学教授の(派手なネクタイでよくTVに出演されている)齋藤孝先生が、月刊誌『中央公論』の企画で行った対談をまとめた中央新書ラクレの『英語コンプレックス粉砕宣言』をレヴューします。この対談は2020年度から大きく変わる大学入試制度や延期となった民間英語試験導入の話題から始まり、日本人が英語にこだわる理由、小中高における英語教育のあり方、とりあえず日常の中で実施できる英語など、様々なテーマについて2人の熱い語り合いが繰り広げられています。ところどころに『世界へ発信!SNS英語術』の裏話も散りばめられておりますので、番組を見てくださっていた方々にも是非とも読んでいただきたい1冊です。


2.英語コンプレックスの本質とは

僕は15年位前の大学時代に日本に留学した際、「英会話教室」「英会話学校」というものが日本で大流行していることを知ってびっくりしたことを覚えています。アメリカには、例えば“Japanese language school"(日本語学校、日本語教室)、“Spanish conversation class"(スペイン語での会話に集中した授業)や“French conversation group"(フランス語で会話をすることを目的とした集まり)のようなものはあったものの、ある特定の言語で会話ができるようになることだけに特化した教室や学校というのは、僕が知らなかったからです。その時に日本人全般が異常なほど英語のスピーキングに対するコンプレックスを持っていることを知りました。

本書では、すでに大半の大学ではスピーキングに力を入れた英語教育が行われていること、近年では高校、中学校、そして小学校にでさえ同じ傾向が生まれている現状について紹介されています。英語を(あるいはどんな言語でも)学ぶ上で「聞く」「話す」「読む」「書く」という “四技能"を総合的に学ぶことが大事であるはずなのに、日本人は“ペラペラ"話すことだけにこだわり過ぎていることを指摘しています。その理由は、多くの場合些細なことで、例えば巷で道を尋ねられてうまく教えられなかったことや、外国人が集まったパーティでうまく会話についていけなかったというような“トラウマ"ということです。

アメリカ人(主に男性)というものは、パーティで自分の主張を強くすることでその場を“制する"ことを生き甲斐とするところがあります。アウトサイダーの立場に置かれた日本人は、どうにかして自分の意見を口にして、存在を認められたいという気持ちになるのでしょう。困惑している表情をすれば構ってもらえる、というような日本的な“甘え"は通用しないのです。

鳥飼先生は、外国語の“四技能"を身につけるには、核となるのはまず「読む力」であり、それが「聞く力」と「書く力」に結びつき、その上でようやく本当の「話す力」が身につくのだと言います。例えば国際的な活動をするビジネスパーソンにとって何より必要なのは、Eメールや契約書を読み書きできる能力です。学者や研究者にとっても資料や論文を読んだり書いたりするスキルが最も求められます。こういった職業についている人以外、日本で暮らしていて日常的に英語が必要な人は人口の1%にも満たないと、齋藤先生は推測します。にもかかわらず、多くの日本人は「英語ができなきゃいけない」という思い込みに悩まされているというのです。

近年は、英語を聞き流すだけで英会話力が身につくとするリスニングの教材が流行るなど、「英語を学ぶこと」から「いかに楽に英語を身につけるか」へ目的がシフトしていると鳥飼先生は指摘します。しかし、母国語でない言語を習得し“マスター"するということは、並大抵の努力ではできません。今では有名な話ですが、カナダのジャーナリストのマルコム・グラッドウェルは、2008年の著書『Outliers』(日本語版:『天才! 成功する人々の法則』)で、あるスキルをマスターするためには1万時間の練習が必要であると説いています。仮に英語学習についてこの法則が当てはまる“スキル"として捉えるとどうなるのでしょうか。例えアメリカに移住して1日8時間、完全に英語漬けになったとしても、英語をマスターするまで3年半かかりますし、例えば小学校1年生の子供が1日2時間英語の勉強をしたとしても、13年間かかるという計算になります。これは単純計算でしかありませんが、言語を習得するには地道な努力しかないことが分かります。齋藤先生は言語であれ、どんな勉強でも「自ら摑み取るしかない。岩によじ登るような覚悟が必要だ」(p.39)といいます。こういった血の滲むような努力もせずに、多くの日本人は「なぜ英語ができないんだ」と嘆き、その原因を学校教育のせいにするところがあります。

本書で齋藤先生は次のように述べています。「母語がありながら英語にこだわるのは、ある意味で植民地的な悲哀に近い」(本書 p.58より)。日本語という豊かな母国語があるのに、それをないがしろにし、「英語を話す」ことばかりにこだわるというのは、正に“自己植民地化"と言える現象でしょう。こういった動きを肯定する側の論理としては、「グローバル・スタンダード」まで日本を持ち上げるために英語が必要であるという考えがあるのかもしれません。しかし2人は英語を使えるということは“アメリカン・スタンダード"でしかなく、日本人はとんでもない勘違いをしていると指摘します。

確かに日本は戦後以来ずっと、アメリカに対するコンプレックスを抱いてきています。その本質は、「英語をできるようになりたい」ということではなく、「アメリカに認められたい」あるいは「アメリカのようになりたい」ということなのです。令和の始まりは戦後の時代との1つの区切りとして捉えたがる人がいますが、日本人がアメリカに対するコンプレックスを引きずり続ける限り、日本の戦後の時代は完全には終わったとは言えないのではないでしょうか。

本書は、そんな英語コンプレックスを粉砕するための様々なヒントを与えてくれます。


3.鳥飼先生と齋藤先生がオススメする「英語コンプレックス克服法」

鳥飼先生と齋藤先生は、本書の中でどうせ小学校で英語教育をやるのであれば、「英語をペラペラ話したい」というコンプレックスをまず乗り越えさせることに力を入れるべきだという答えにたどり着きます。その上で、中学校で文法を学び、高校では意味のあることを読んだり書いたり話したりすることを学ぶという、大きな英語教育の構想を提案しています。そのためには、小学校ではまず、子供に英語の名作や古典を声に出して読むことで、発音に自信を持ってもらい、英語を感覚的に好きになってもらうことが大事となります。

齋藤先生の専門の1つは身体論であり、「身体を基盤とした心技体」を持論とされています。心・技・体とは、スポーツや武道の世界でよく使われる言葉であり、心と技術と身体のバランスが整った時に最大限の力が発揮できるという教訓です。本書の中で齋藤先生は、次々とクリエイティヴな英語学習メソッドや英語コンプレックス克服法を提案しています。

その1つが、カラオケで英語の発音を練習するという方法です。そもそも日本人はカラオケが大好きですし、英語の歌を歌う場合は、どんな“カタカナ英語"を喋る人でも、自ずと本物っぽく発音しようとするものです。齋藤先生曰く、カラオケの場合、「英語の強弱は音符と連動しているので、歌うことで英語の発音とリズムが身につくと思うんです」(p.85)とのこと。

ところで齋藤先生の十八番は、どうやらクイーン(正確にはフレディ・マーキュリー)の『I Was Born to Love You』のようです。この曲はもともとあまり有名でない曲でしたが、木村拓哉のテレヴィ・ドラマ『プライド』の主題歌に使用されたことで、一気に日本で有名になりました。(そもそもクイーンというバンドは、欧米よりも日本で人気を博したことでも知られています。)歌詞はシンプルで、例えば“born"と“love"という言葉もあることから“l"と“r"の発音の違いの練習にもなるため、小学生の教材にしてもいいのではないかと2人は盛り上がりますが、僕はこの点では2人とやや意見が異なります。歌詞にはこんな部分があるからです:

You are the one for me
I am the man for you
You were made for me
You’re my ecstasy
If I was given every opportunity
I’d kill for your love

君は僕の運命の人
僕は君の運命の人
君は僕のために生まれた
君は僕のエクスタシィ
究極的には
君の愛のためならなんでもする

「エクスタシィ」は「有頂天」という意味もありますが、ここではおそらく幻覚剤のことを指しています。また、“I’d kill for ...” はおそらく「〜のためならなんでもする」という意味ですが、何しろ究極の愛の歌なので、「君の愛を得られるなら、人を殺すこともいとわない」とも捉えられる表現です。そして“If I was given every opportunity”という表現は一般的ではなく、ここでは意訳として「究極的には」にしていますが、直訳としては「あらゆる機会が与えられたとしたら」になり、不自然な表現です。

とはいえ、このメソッドについては小学生のみならず、大人や英語教師を目指す人にも効果的でしょう。今は新型コロナウイルスの拡散で外出自粛ムードになっていますが、齋藤先生が本書の中でいうように、YouTubeには、有名な英語の歌のカラオケ・ヴァージョンが数多くアップされているので、いつでも手軽に始められるトレイニングの1つです。

鳥飼先生は、日本人なら誰でも小学校2年生の国語の教科書で読む『スイミー』を英語の教材として使用することを提案しています。『スイミー』はオランダ生まれ、イタリア育ちのユダヤ人、レオ・レオニによる絵本です。ストーリーは、赤い魚の群の中で唯一身体が黒い「スイミー」が自分探しの旅に出るというものです。レオニはムッソリーニの台頭を受けてアメリカに亡命し、第二次世界大戦が終わってしばらくするとイタリアに戻りますが、自分がどのように生きたらいいのかが分からなくなったそうです。その経験が『スイミー』の中心にある「自分探しの旅」の基となったそうです。

実は、僕も小学2年生の時に、アメリカのカリフォルニア州の日本語補習校で『スイミー』を読みました。その時の日本語(国語)の先生は、「例え一人一人は小さな力であっても、一団となって力を合わせればどんな困難も乗り越えられる」と解説してくれたことを覚えています。しかし僕には、生まれつき特別な魚が旅に出発し、リーダーとなって大敵に立ち向かうという、アメリカ人が大好きなヒーローの物語にしか思えませんでした。むしろ、僕は日本社会では個人の活躍ではなく集団意識が求められることに初めて気がついたことを覚えています。

「文化の違い」に気づいてもらうためにも、まずは小学2年生の時に日本語で読んでもらい、5年生ごろに英語を音読させると面白いのではないかと鳥飼先生は言います。同じ物語を日本語と英語の両方で読むことは、僕も昔からしていますが、とても有効的な英語の(そして日本語の)勉強法だと確信しています。


4.スポーツが教えてくれるトレイニング法とネイティヴ・スピーカーの“壁"

本書を読んでいてとても興味深かったのは、齋藤先生のスポーツの例えでした。齋藤先生は以前、テニス・スクールでコーチをしていたこともあったそうですが、日本の学校では、英語の授業の時に先生が一方的に喋るだけで生徒があまり積極的に話さないことの比喩として「ボールを打っていない。スポーツは量をこなすことが大事だとされていますが、勉強も一緒です」(p.41)といっています。他にも、文法を学ぶことを「素振り」とし、それに関する例文を音読することを生きた球を打ち返して「球慣れ」することに例えるなど、徹底的に反復トレイニングをすることで、身体で外国語を覚えることをオススメしています。

この点については、2人の意見は少しぶつかります。齋藤先生は、日本の生徒がトレイニングやドリルというようなものに嫌悪感を持つようになってしまったことを問題視しているのに対して、スポーツの訓練を受けたことがないという鳥飼先生は、小学校の英語で徹底的にドリルや暗記をさせることに抵抗があるといいます。“drill"という言葉は元々軍事用語であり、兵士を「訓練する」「鍛え上げる」ことを意味するので、確かに小学生に徹底的に“ドリル"をやらせることには僕も少し抵抗を感じます。

とはいえ、プロのテニス・プレイヤーが必ずしも良いコーチになるとは限らないように(むしろ、アンドレ・アガシ選手のコーチを務めたブラッド・ギルバート、シモナ・ハレップ選手のコーチを務めるダレン・ケイヒル、大坂なおみのコーチを務めていたサーシャ・バインなどのように、プロ選手としてはそこそこの成績を残した人が後にコーチとして才能を開花させることがあります)、ネイティヴ・スピーカーだからといって優れた英語教師になるわけではないと、2人は合意します。

この点については僕にとって、少し耳が痛いところがありました。『世界へ発信!SNS英語術』では度々MCのはるひさんやパートナー役のヒデさんやゴリさんに発音を聞かれることがありましたが、僕は無意味に口元を指差しながらゆっくり発音することしかできず、舌をどのように動かせばいいかということを正確に伝えるだけの知識がありませんでした。その点、音声学を学んでいる鳥飼先生は、こうした質問に適確に答えており、出演者はできるようになるととてもスッキリした表情を見せていました。

ネイティヴ・スピーカーの“壁"というものは、本業の翻訳の仕事をこなしていく中でも、痛切に経験してきました。アメリカで生まれて育った僕は、アメリカで初等教育を受ける中で英語の文法について細かく習ったことは一度もありませんでした。母国語として英語で日常会話を繰り返し、多くの本を読む中で、自然に「正しい英語の感覚」を身につけることができました。(本書ではこのことを「違和感センサー」と呼んでいます。)

ところが、日本に来て日本語から英語への翻訳の仕事をするようになって、焦ることが多々ありました。流暢な英語を話せるクライエント、あるいはまったく英語ができないクライエントは、多少のニュアンスやトーンの確認はあっても、スムーズに訳文を受け入れてもらえました。それに対して、英語をペラペラ話せる気になっているクライエントからは、内容でなく、文法に関するいささか“意地悪"な質問を多く返されたことがあったのです。相手は「ああじゃないか」「こうじゃないか」と僕に問い詰める中、僕は何故それが違うのか、感覚としては身に付いていたけど「文法」という理屈では説明できませんでした。その後、英語の基本である「文法」を一から学び直すことになりました。その時に参考になったのが、筑波大学教授の池永勝雅の『問題を解きながら学ぶ中学生の英文法』と、多くの英語参考書を執筆したことで知られる中原道喜の『マスター 英文解釈』でした。


5.英語で意味のある話をするためには、日本語で意味のある話をできなければならない

本書の中でも齋藤先生と鳥飼先生は、難解な英文を解釈することがもたらす快感についても述べています。

2人が考える小中高の英語教育の大きな枠組みとしては、小学校では「ペラペラ・コンプレックス」を克服し、中学校では文法を身に付けたならば、高校では「意味のある話」をできる能力を身につける努力をするべきだといいます。意味のある話をするためには、意味のあることを書くスキルが必要であり、意味のあることを書くためにはそもそも意味のある文章を読めることが大前提であります。2人はその教材として超一流の知識人や、文豪と呼ばれるような作家の文章が最適だといいます。

齋藤先生は、難解な文章をうまく解釈するためには、「一方で構造的に迫りつつ、もう一方で文脈から迫る必要がある。その両輪を同時に回すような感覚」(p.148)だと言います。そうすることで、爽快感と達成感を覚えることができるのです。しかし、鳥飼先生は最近の学生は「構造は放っておいて前後の文脈も考えず、ただ単語の意味を辞書で調べ、目に入った訳を適当に並べるだけ」(p.150)だと指摘します。

結果的にアウトプットされる日本語訳は、日本語としても意味をなしていないとんちんかんなものとなります。(不完全な、パソコンやネットの自動翻訳のような。)英語に対する理解は一向に深まりません。生徒が自分の不自然な日本語にすら気づかないのは、そもそも母国語である日本語力が足りないからであり、つまり国語教育に問題があると、2人は問題の本質にたどり着きます。なにしろ、母国語の日本語で表現できないことは英語で表現できるわけがないはずです。

同時に、文科省が推し進める英語教育がどんどん「話す力」に焦点を置くようになるにつれて、一流の作品から引用される英語の例文は捨てられ、教科書自体が会話文中心になってきているそうです。今の日本の教育現場では、英語の授業を全て英語でやるというトンデモない方向にシフトしつつあり、生徒は英語を日本語に訳して理解するのではなく、英語で教えられたことを英語で理解しようとし、それについて英語で書いたり話したりするように求められていると鳥飼先生は危惧しています。このことは生徒のみならず、“ジャパニーズ・インフリッシュ"しか話せない教師たちにも大きな負担となるとも訴えています。

そもそも、国語教育が薄っぺらになったのは何故なのでしょうか。齋藤先生は、第二次世界大戦の終戦で、それまでの徹底的な日本語についての語学教育や教養教育が失われて、代わりに敗戦によるコンプレックスを抱くようになったからだと言います。そのコンプレックスとは英語コンプレックスでもあり、アメリカに対するコンプレックスでもあり、同時に日本語コンプレックスでもあります。

敗戦後、戦前の日本の歴史や思想をいけないものとして全否定する中で、英語は論理的で優れており、日本語は情緒的で劣等であるという勘違いが蔓延したと、2人は推測します。その後の国語教育の改革でも論理が重視され、情緒的な日本文学は非論理的なものとして煙たがれるようになりました。その延長で高度で難解な文章も、国語教科書からも消えつつあります。昔は夏目漱石や芥川龍之介などの文豪の文章を教科書に載せていたものを、近年は味わいのない説明的な文章を専門家に書き下ろしてもらって使用するようになっているそうです。

最終的に、戦後のコンプレックスを振り切るにも、日本の自己植民地化を食い止めるためにも、何よりもの急務なのが日本語を守ることです。日本語の読解力を再生することです。パーティで外国人の会話についていけなかったことや、英語で道を聞かれてもうまく返事ができなかったことをいつまでも引きずることはもうやめにした方がいいでしょう。それより、日本文化に興味のある外国人から日本の古典や近代文学について聞かれたのに、日本語ですらうまく返事できない日本人こそ、国際人として最もダメな存在なのではないでしょうか。


LANGUAGE & EDUCATION #049

書籍レヴュー:『英語コンプレックス粉砕宣言』 が教えてくれる英語苦手意識を克服するヒント - 鳥飼玖美子/齋藤孝(著)


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