1.プロローグ
前回は、“ビートニク"という文学・芸術運動が影響を与えたヒッピー・ムーヴメントの誕生と、そこから生まれた音楽や映画を紹介しました。
50年代における“ビートニク"または“ビート・ムーヴメント"は、先進的な文化人による“エリート"への反抗であったものが、60年代に入り、ヒッピー・ムーヴメントは、より大きな大衆運動となっていきました。
公民権運動やヴェトナム反戦運動、フェミニズム運動といった社会的な価値観変化によるトレンドがヒッピー・ムーヴメントの表の推進力であったとすれば、裏の推進力は、間違いなく“ドラッグ"であったのでしょう。
今回から数回に渡って、ドラッグによって意識を“解放"しようとしたミュージシャンたちによるサイケデリック・ミュージックと、そこから発展した様々な音楽を紹介していきます。それを通じて、ヒッピー・ムーヴメントの文化や価値観がどういった経緯でカリフォルニアから全米、そしてヨーロッパや日本までに広がったかを見ていきます。更に、アメリカにおけるドラッグ問題の本質についても解明していきたいと思います。
今回はサイケデリック・シーンの中心地であったサン・フランシスコについてより考慮します。
2.「愛と平和」を謳ったフラワー・チルドレン
60年代のサン・フランシスコを象徴する曲といえば、スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』ではないでしょうか。
If you’re going to San Francisco
Be sure to wear some flowers in your hair
もしサン・フランシスコに行くつもりなら
必ず髪に花を飾るように
愛と平和を求めたヒッピーたちにとって賛歌となった『花のサンフランシスコ』という楽曲は、実は、ロス・アンジェレスを拠点に活動していたフォーク・グループであったママス&パパスのジョン・フィリップスが作詞・作曲したもので、野外コンサート「モンテレイ・ポップ・フェスティバル」のプロモーションのために使われた曲です。(ママス&パパスとモンテレイ・ポップ・フェスティバルについては、次回より詳しく紹介します。)モントレーとは、カリフォルニア州の中央の海岸部を指すセントラル・コーストにある都市で、北カリフォルニアのサン・フランシスコと南カリフォルニアのロス・アンジェレスの間に位置します。つまり、それだけサン・フランシスコはこのムーヴメントの中心地としてアメリカ各地、ひいてはヨーロッパで広く認識されていたということになります。
この「花」のモチーフは、ヒッピー・ムーヴメントと強く結びついており、「ヒッピー」の別名として「フラワー・チャイルド」という言葉があったことからもよく分かります。狭義の「フラワー・チャイルド」は、60年代後半にサン・フランシスコに集まったヒッピーたちを指します。ヒッピー的な価値観や理念をファッションやトレンドとしてではなく、心から確信しているというニュアンスを含みました。
「フラワー」という用語はもともとは、前回取り上げた、ビート・ジェネレイションの作家であり活動家でもあったアレン・ギンズバーグらによる「フラワー・パワー運動」に由来します。彼らはヴェトナム戦争に対する平和的な抗議として、警察官、マスコミや政治家に武器ではなく、花をあげることを促しました。それを受けてヒッピーたちは「平和」「愛」「友情」のシンボルとしての「花」を積極的に取り入れるようになりました。実際に花を髪に刺し、派手で色とりどりのファッションを身につけてたりして楽観的で希望に満ちた態度でアピールしました。
こういった価値観に共鳴した全米各地の高校生や大学生たちが、“花のサン・フランシスコ"に集まりました。これにより、1967年の夏のことを「サマー・オヴ・ラヴ」といいます。彼らの多くは、ヒッピー・ムーヴメントの発祥地であったヘイト・アシュベリー地区を拠点に、路上生活をしたり、コミューンを形成していきました。ユートピアを目指したこういった生活共同体は、かつてない規模での“アメリカ的な実験"と捉えられました。
3.「意識を解放せよ」と訴えたティモシー・リアリー
“サマー・オヴ・ラヴ”以前のサン・フランシスコにおけるヒッピーの存在は、メインストリームから孤立したマイノリティーでありました。そんな彼らは、LSDを中心に実験的に様々なドラッグ(※)を使用するようになりました。それは社会規範から自分の意識を“解放”し、ある種のスピリチュアルな“悟り”を得ることが主な目的でした。
前回も取り上げたティモシー・リアリーこそ、このドラッグの使用を伴うヒッピー・ムーヴメントを牽引した“確信犯”と言えるでしょう。彼はハーバード大学の教授であった頃に幻覚剤を使用した実験を行い、LSDなどを使用することで、人はそれまでの人格を“無”にし、新たな人格を「刷り込む」ことが できると主張しました。結局は1963年に、ハーバード大学から解雇されますが、その後もアメリカ各地を回ってLSDの使用を促しました。「サマー・オヴ・ラヴ」の前兆とも言えるヒッピーの祭典「ヒューマン・ビーイン」では、サン・フランシスコに集まった30,000人のヒッピーを前に“Turn on, tune in, drop out”と呼びかけ、意識の自由を訴えました。(「スイッチを入れろ」を意味する“turn on”はすなわち「ドラッグの力で意識を拡大させよ」のことで、「波長を合わせろ」を意味する“tune in”とは「意識を解放しライフスタイルを変えよ」のことであり、“drop out”とは「社会に背を向け、脱落せよ」という意味です。)
1967年の秋を前に、ヘロインを売る、より暴力的なドラッグ・ディーラーや、自分たちの目でヒッピーを見たかった観光客がヘイト・アシュベリー地区を訪れるようになります。こうした外部からの訪問者の増加によって「サマー・オヴ・ラヴ」は終わりを迎えることとなります。その後、フラワー・チルドレンの多くはサン・フランシスコを去って帰郷したり、別の地方でコミューンを形成したりするなど、ヒッピー・ムーヴメントの文化や価値観の種を各地で撒くことになります。
※ドラッグの種類について。ドラッグはアッパー系、ダウナー系、サイケデリック系(または幻覚系)に大きく分かれます。アッパー系のドラッグは、その言葉の通り、いわゆる“ハイ"という高揚状態にさせるドラッグのことで、最近日本の芸能人が使用したことでも知られます。覚せい剤やコカイン、MDMAが含まれます。広い意味ではニコチン(つまりタバコ)やカフェインもアッパー系のドラッグとも言えます。ダウナー系のドラッグは、心身をぐったりさせたり究極のリラックス状態にさせるドラッグのことで、その代表例がヘロインです。広い意味では、お酒も含まれると言えるでしょう。一方でサイケデリック系のドラッグは、幻覚体験を引き起こすもののことで、その代表例がLSDです。因みに大麻に関してはその種類、あるいは使用する人によってハイになったり、ぐったりさせたりするものがあり、一概に分類できないドラッグです。
4.サン・フランシスコ発祥のサイケデリック・ロック
こういったドラッグの実験と並行して発達したのが、サイケデリック・ロックでした。サイケデリック・ロックとは、幻覚剤(主にLSD)の使用よって引き起こされる幻覚体験を音楽として表現したもので、その体験を引き起こす、あるいは増幅することを目的とした音楽のことです。LSDが“アシッド"(酸または酸味)と呼ばれていたことから別名“アシッド・ロック"とも呼ばれています。
ここで、こういった音楽性を持つサン・フランシスコ発祥のバンドを3組紹介したいと思います。
●ジェッファーソン・エアプレイン
ジェッファーソン・エアプレインとは、カリフォルニア州サン・フランシスコのロック・バンドであり、サイケデリック・ロックの先駆的バンドとして初めて商業的な成功を手にしました。
『シュールリアリスティック・ピロー』
1967年に発表された本作は「サマー・オヴ・ラヴ」を代表するアルバムであり、当時ローカルなシーンだったサン・フランシスコ・サウンドを、アメリカ全土に届けた記念碑的アルバムです。2003年には「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のランキングで146位に選ばれました。グレイトフル・デッドのギタリスト、ジェリー・ガルシアも何曲かに参加しています。
●グレイトフル・デッド
グレイトフル・デッドとは、カリフォルニア州ベイエリアに結成されたロック・バンドです。ヒットチャートを賑わすようなバンドではなく、トリッピーなライヴ・パフォーマンスで伝説となり、ロックにおける“ジャム・バンド"(※)の先駆者として知られます。また、即興(インプロヴィゼイション)を中心とするため、同じライヴが2度はないということから、バンドを追いかけて全国を回るファンが多く生まれ、彼らは“デッドヘッド"と呼ばれました。また、ファンには自由にライヴを録音させ(後には、こうしたファンのために無料で録音できるシステムまで提供しました)、そういったライヴのブートレグをメンバー同士で共有していた“デッドヘッド"のコミュニティーは、正にある種のコミューンといえるでしょう。
『ライヴ/デッド』
ライヴ演奏で、果てしなく続くようなインプロヴィゼイションを演奏し、観客をトリップさせる、グレイトフル・デッドのサウンドが見事に収録されたバンド初のライヴ・アルバムです。2003年には『ローリング・ストーン』誌の『歴代アルバム500』のランキングで244位に選ばれました。
●サンタナ
サンタナとは、メキシコ系アメリカ人のギタリストであるカルロス・サンタナを中心としたロック・グループのことです。ロックやジャズとラテン・ミュージックやワールド・ミュージック、サイケデリック・ミュージックを融合したサウンドで知られています。サンタナはグループとソロでこれまで10のグラミー賞を受賞し、「ローリング・ストーン」誌が2011年に発表した『歴史上最も偉大な100人のギタリスト』のランキングにおいて20位に選ばれています。
『ザ・ベスト・オヴ・サンタナ』
デビューからの30年間のキャリアの中から16の名曲を収録したベスト盤です。
69年ごろまではサン・フランシスコのローカルなバンドであったサンタナは、ウッドストック・フェスティヴァルにおける演奏によって、一夜にして全米にその名を轟かせました。実は、サンタナはステージに上がる数時間前に、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアに幻覚剤のメスカリンを受け取っていたそうで、演奏中は幻覚体験をしながらなんとかリズムをキープしようと踏ん張っていたと後にインタヴューで語っています。ラストの『ソウル・ サクリファイス』の頃にはそのトリップから帰還し、“悟りを開いた"とされる伝説的なプレイを見せています。
5.フラワー・チルドレンがドラッグを積極的に使った理由
ここまでサン・フランシスコから生まれたフラワー・チルドレンやサイケデリック・ロックを見てきましたが、1つ特筆すべき点があります。
それは、「ヒッピー」や「フラワー・チャイルド」と称されていた人たちは主に中流・上流階級の家族に生まれた白人が中心であったということです。彼らの親の世代は、大恐慌時代を生き抜き、大人になってからは身を粉にして一所懸命働き、それなりに裕福な家庭を築きました。そんなぬるま湯の中で育ったからこそ、フラワー・チルドレンは物欲主義・消費主義・資本主義に嫌気がさし、それまでの親たちの価値観に反抗したのでしょう。違った言い方をすれば、“スクウェア"な(ダサくてイタイ)大人になりたくない彼らは、“ヒップ"な(イケている)フラワー・チャイルドになることで大人になることから「逃げた」と言っていいのかもしれません。「意識を解放する」ドラッグは、実は「現実を受け入れない」手段であったとも言えます。
そういう意味では、ヒスパニック系のジェリー・ガルシアやカーロス・サンタナは狭義の「ヒッピー」や「フラワー・チャイルド」には当てはまらないのでしょう。しかし、白人を中心としたアメリカ社会におけるある種の部外者として、民族性に多様なサン・フランシスコという土地に自分の居場所を見出したのでしょう。彼らのようなマイノリティのコミュニティにとってドラッグは、貧しさや苦しい生活から、それに差別から逃れる手段でもあり、“悟りを開く"ことで苦境を超越する手段であったのかもしれません。
グレイトフル・デッドとサンタナの作品には、「花」のモチーフを伺うことができます。例えばグレイトフル・デッドが1971年にリリースした2枚目のライヴ・アルバムの表紙には頭に赤い薔薇の冠を乗せた骸骨が描かれています。一方で、サンタナは『ムーン・フラワー』や『ロータスの伝説』といった、花のモチーフを利用したライヴ・アルバムをリリースしています。
「花」というモチーフは、ドラッグ、特にマリファナのような“ナチュラル"なドラッグと強く結びついています。かつてシャーマンはこういった“薬"を用いて、自らや仲間をトランス状態にさせ、スピリチュアルな体験を引き起こすことで肉体的・精神的症状を克服させようしていました。今でこそ「クスリ」や「ヤク」という隠語が用いられますが、ヒッピーたちやガルシアやサンタナなどのミュージシャンからすると、ドラッグを進んで使ったのは、それを“悪"や“罪"や違法なものではなく、病的な物欲社会に対する“薬"と考えていたからなのではないでしょうか。
次回は南カリフォルニアのサイケデリック・ロックを取り上げます。こうした音楽を通して、現在も続くアメリカのドラッグ問題をより深く掘り下げていきます。