1.キラキラしたハリウッドとザ・モンキーズ
前回の『サイケデリック・ミュージックの真骨頂』シリーズのコラムでは、北カリフォルニアのサン・フランシスコ(S.F.)で誕生したサイケデリック・ロックやフラワー・チルドレンについて取り上げました。
前回は、S.F.のサイケデリック・ミュージックを説明しましたので、今回は、ロス・アンジェレス(L.A.)を中心とした南カリフォルニアのサイケデリック・ミュージックの流れを紹介します。L.A.といえばハリウッドという映画産業を中心としたエンタメ業界の中心地です。その輝かしくて派手なイメージから、“ティンセルタウン"とも呼ばれます。(ティンセルとは、様々な輝かしい色をした金属あるいはプラスチックの細い薄片を織り込んだ糸のことです。) MUSIC & PARTIES #013で紹介したように、60年代の終わりまでは、映画業界は、大手映画会社が君臨し、所属のスターを起用した作品を量産していたいわゆる「ハリウッドの黄金時代」が長く続いていました。
音楽の面でも、1960年代の南カリフォルニアからは、多くのポップ・グループが輩出されました。その代表例が、ザ・モンキーズです。彼らの生み出したサウンドは、陽だまりのように明るくて暖かい印象を与えたので「サンシャイン・ポップ」と呼ばれました。大量の車が生み出したスモッグが覆いかぶさっていた“人工的"なL.A.という街を、音楽の力で輝かしい街として見せようとしていたのではないでしょうか。
L.A.を中心とした南カリフォルニアには、S.F.に負けないくらいのロック・ミュージックのシーンがあり、L.A.のバンドたちはサイケデリック・ミュージックの発達に大きく貢献してきました。このコラムではそのシーンのミュージシャンたちを紹介し、そこから見えてくる北カリフォルニアと南カリフォルニアの地域性の違いにも言及します。
2.L.A.の光と陰を象徴するザ・ビーチ・ボーイズ
60年代前半に頭角を表した南カリフォルニアのポップ・グループといえば、ザ・モンキーズ以上に有名なのが、ザ・ビーチ・ボーイズでしょう。サーフィン・車文化・ビキニの娘をテーマに、60年代前半の南カリフォルニアの若者文化を象徴するような楽曲を次々と発表しました。美しいヴォーカルのハーモニーで大人気となりました。
ザ・ビーチ・ボーイズは、実にL.A.らしい矛盾を抱えていました。当時のいわゆる「サーフ・ロック」はインストゥラメンタル中心であったのに対して、ザ・ビーチ・ボーイズはヴォーカルを中心としたグループでした。しかし、この「サーファー」というイメージは、実は“人工的"に作られたものでした。メンバーの中で本当にサーフィンをしていたのは、ウィルソン3兄弟の真ん中のデニス・ウィルソンただ一人でした。こうしたことで、デビューした当時は「偽物」呼ばわりすることもありました。
60年代半ば頃には、ザ・ビートルズなどを筆頭とした「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれるムーヴメントによってアメリカのポピュラー・ミュージックの市場は彼らに独占され、ザ・ビーチ・ボーイズのようなアメリカ人のグループは肩身の狭い思いをすることとなります。(ブリティッシュ・インヴェイジョンについては次回詳しく取り上げます。)
しかし、それでもザ・ビーチ・ボーイズの人気は根強く、忙しいツアーのスケジュールによって、グループのリーダーであったブライアン・ウィルソンは、ノイローゼになり、その結果、スタジオでの制作に徹することになります。ウィルソンは、1965年からはドラッグでトリップしながら音楽を制作するという実験を始め、気楽なビーチ沿いの暮らしを彷彿させるようなテーマを封印すると決めます。苦しい心情を吐露したような歌詞やより高い音楽性を取り入れることで、カウンターカルチャー運動を象徴するようになります。そのピークは、『ペット・サウンズ』というアルバムと、その直後にリリースされたシングル『グッド・ヴァイブレーション』でしょう。
『ペット・サウンズ』
ザ・ビーチ・ボーイズが1966年にリリースした本作は、グループの最高傑作とされますが、ブライアン・ウィルソン以外のメンバーはヴァーカルとコーラスのみでの参加だとされています。ウィルソンは、ポップ音楽にチェンバロやフルートといったクラシックの楽器や、自転車のベルや犬笛など数多くの音響効果を多重録音によって加え、多くの人を驚かせました。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』ランキングでは、ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に多大な影響を与えたということから、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に続いて2位に選ばれました。
『ペット・サウンズ』のリリースを受けてブライアン・ウィルソンは、メディアから「天才」と称されるようになりますが、その後も精神状態はどんどん悪化していきました。他のメンバーのドラッグ問題もあり、これ以降アルバムの制作は難航し、グループは長いスランプ期に入ることとなります。
3.サイケデリック・ロックのサウンドを決定づけたザ・バーズ
ザ・ビーチ・ボーイズが、L.A.のサイケデリック・“ポップ"を開拓した代表的なグループだとすれば、同じくL.A.のグループであったザ・バーズはサイケデリック・“ロック"を開拓した代表的なグループと言えるでしょう。ザ・バーズは、アメリカの音楽市場がザ・ビートルズなど英国のグループに圧倒されていた1965年に、ボブ・ディランの『ミスター・タンブリン・マン』のカバーをリリースし、ブリティッシュ・インヴェイジョンと商業的に対抗できるジャンルとしての“フォーク"・ロックのグループとしてブレイクしました。
※ポップとロックの違いについて。ポップとはポピュラー・ミュージックのことであり、キャッチーさが重視されたシンプルなメロディーと歌詞が特徴です。ロックはリズムが重視され、大音量で聞かれることを前提とした反抗の歌が多いです。また、ポップ・サウンドはヴォーカルが中心であるのに対して、ロック・サウンドはギターとドラムを中心に作られます。
ザ・バーズは、66年の3月に、多くのロックの評論家が「最初のサイケデリック・ロックの曲」だと称する『エイト・マイルズ・ハイ』というシングルをリリースしました。ジャズの巨人として知られるジョン・コルトレーンやインド音楽のラヴィ・シャンカルの影響を強く受けたこの曲は、サイケデリック・ロックと呼ばれるジャンルのサウンドを確立します。当時、彼らは曲名に含まれる「ハイ」という言葉は、飛行機でロンドンに飛んだことに由来しているとしていましたが、実際には、ドラッグによる「ハイ」のことを指していると考えるべきでしょう。
ザ・バーズの実験的な音楽は、1968年の『名うてのバード兄弟』で頂点に達しました。
『名うてのバード兄弟』
ザ・バーズの最高傑作と言われる本作は、サイケデリック・ミュージック、フォーク・ロック、カントリー、ポップ、ジャズなど様々なジャンルの音楽のスタイルを融合させました。様々な実験的な(“人工的な")録音技術を用いて制作されました。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』ランキングでは、171位に選ばれています。
このアルバムのレコーディングの最中にメンバー同士の軋轢が悪化し、レコーディングが終わると、中心的なメンバーの2人がクビにされます。その後は新メンバーの加入を受けて、ザ・バーズの音楽のカントリー色が強まります。彼らが作り出したカントリー・ロックというジャンルは、60年代末を境にヒッピー・ムーヴメントとサイケデリック・ミュージックの黄金期が終焉すると、ウェスト・コースト・ロックの主流となっていくこととなります。
4.ママス&パパスとモントレー・ポップ・フェスティバル
S.F.の魅力を象徴する曲が『花のサンフランシスコ』だとすれば、L.A.の魅力を象徴するのがママス&パパスの『夢のカリフォルニア』でしょう。実はこの2曲は、ママス&パパスのメンバーのジョン・フィリップスを中心に制作されたものです。
All the leaves are brown and the sky is gray
I’ve been for a walk on a winter’s day
I’d be safe and warm if I was in L.A.
California dreamin’ on such a winter’s day
木の葉は全て茶色く、空は灰色
私は散歩に出かけていた 冬の日に
私は安全で暖かかっただろう L.A.にいたならば
カリフォルニアの夢を見る こんな冬の日に
そんな夢を見てL.A.にやってきたママス&パパスが、1967年にオーガナイズしたのが、「モントレー・ポップ・フェスティヴァル」でした。1967年6月の中旬に開催されたこの野外フェスは、“サマー・オブ・ラヴ”の始まりとされます。ジェファーソン・エアプレーン、ザ・グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリンなど、このシリーズでこれまで紹介してきたミュージシャンだけでなく、カリフォルニア各地や英国からもビッグ・ネームのミュージシャンや、それに加え前述のラヴィ・シャンカルも参加しました。
このイヴェントの演奏の中で何よりも有名なのが、ジミー・ヘンドリックスのものでしょう。ジミヘンが率いるジミー・ヘンドリックス・エクスペリエンスが、この規模のステージでアメリカで演奏するのは、実はこの時が初めてでした。オーディエンスにとって、ジミヘンのギターから溢れ出したマーシャルのアンプを用いてディストーション(ファズ)をかけたサウンドは、それまで聞いたことのないようなもので、とても衝撃的だったようです。そしてジミヘンが演奏の最後に、ギターをステージの床に置き、火をつけてステージに叩きつけたシーンは、ロック史に残る伝説的な瞬間でした。(ジミヘンについてはまた今度、このシリーズでより詳しく取り上げます。)
『モンテレー・ポップ・フェスティヴァル完全版』
アメリカのドキュメンタリー映画監督であるD・A・ペネベイカーによるコンサート・ドキュメンタリーです。
『ライヴ・イン・モンテレー』
モンテレー・ポップ・フェスティヴァルにおけるジミー・ヘンドリック・エクスペリエンスの演奏のみを収録したライヴ・アルバムです。
モントレーは、カリフォルニア州の中央の海岸部のいわゆるセントラル・コーストにある都市で、北カリフォルニアのS.F.と南カリフォルニアのL.A.の間にあります。そういう意味で、北カリフォルニア・南カリフォルニア・英国・インドの音楽の流れが1つになる場所としてもふさわしかったのです。
5.ザ・ドアーズとサイケデリック・ロック・シーンの闇
サンシャイン・ポップがL.A.の「陽」だとすれば、「陰」の部分を象徴するバンドがザ・ドアーズです。
ザ・ドアーズの代表作の『ズィ・エンド』は、サイケデリック・ロックの名作と言っていいでしょう。60年代末のアメリカに漂っていた不安感をとてもよく表現しています。(この曲は映画監督フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』のオープニング・シーンにも起用されたことで有名です。)
「ザ・ドアーズ」というバンド名は、英国の作家オルダス・ハクスレーが執筆した、幻覚剤によるサイケデリック体験の手記と考察である『知覚の扉』に由来しています。ハクスレーは、この表現を18世紀の英国の詩人ウィリアム・ブレイクの詩の一節から取りました:
もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える。
ブルーズ・ロックとサイケデリック・ロックの要素に、こういった哲学的な視点から書かれたジム・モリソンの“詩"が合わさり、そこにジャズの要素を加えたのがザ・ドアーズのサウンドの特徴です。そのことが良くわかるのが、サマー・オヴ・ラヴの時期にレコーディングされた2作目のオリジナル・アルバムです。
『まぼろしの世界』
1967年のサマー・オヴ・ラヴの間に完成させ、同年10月にリリースされたザ・ドアーズの2枚目のオリジナル・アルバムです。ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に衝撃を受けたメンバーは、スタジオで様々な実験を重ね、1作目で見せた幻想的な世界観をよりディープに掘り下げていきます。サイケデリックなサーカスを連想させるジャケットのデザインも特徴的です。本作は「ローリング・ストーン」誌の『歴代500のアルバム』ランキングで409位に選ばれました。
ジム・モリソンは、バリトンの歌声、幻想的な“詩"、それに加えて独特なカリズマ性を持っていたことから、ロックのフロントマンとして神格化されている人物です。しかし、ロックのカリスマたちの伝説には影の部分があります。1970年には、前述のジミヘンやシンガーのジャニス・ジョプリンが薬物の過剰摂取で“27歳"という若さで亡くなりました。翌年にはモリソンも同じく“27歳"で亡くなることになります。1994年には人気のグランジ・ロック・バンドのニルヴァーナのカート・コベインが同じく“27歳"で亡くなると、「27クラブ」という概念が生まれます。コベインが残した遺書には、「フェードアウトする(だんだん消えていく)よりバーンアウト(燃え尽きる)する方がまし」という、アーティストの理想像を表したニール・ヤングの詞が含まれていました。モリソンらは、死んでもL.A.のエンタメ業界に飲み込まれることだけは、避けたかったのかもしれません。
6.南カリフォルニアのサイケデリック・ミュージックから見えてくるもの
ここまで見たきたように、L.A.を中心とした南カリフォルニアから出てきたサイケデリック・ミュージックには、北カリフォルニアの「愛と平和」という理想とは決定的に違う、苦悩や失望感やひねくれた世界観が表現されています。
この傾向はサウンドや詞だけではなく、ミュージシャンたちの人生そのものからも伺うことができます。例えば「ザ・ビーチ・ボーイズ」「ザ・バーズ」「ママス&パパス」が奏でた美しいヴォーカル・ハーモニーの裏側には、グループ内の激しい対立や衝突がありました。
ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンはあまりに“人工的"な音楽業界の商業主義にうんざりし、スタジオに引きこもってこだわり抜いた末に最高傑作を生み出しました。しかし、その結果、精神的には崩壊してしまいます。ザ・ドアーズのジム・モリソンは権力というものを嫌い、アメリカの闇について歌いましたが、結局自分自身もその闇に飲まれて溺れてしまいます。
このように、1960年代のカウンターカルチャー運動は、北カリフォルニアと南カリフォルニアの両方において優れたサイケデリック・ミュージックを生み出します。S.F.では理想主義(アイディアリズム)に基づいていたのに対して、L.A.にはある種の不信感(シニシズム)が根強くありました。これは、北カリフォルニアと南カリフォルニアという土地柄と強く深く結びついているのでしょう。
7.サン・フランシスコの理想とロス・アンジェレスの理想
北カリフォルニアは、19世紀半ばに、一攫千金の夢を追ってアメリカ各地から大勢が集まったいわゆる「ゴールド・ラッシュ」によって開拓された土地です。自分たちの生活を変えるチャンスだと捉えた彼らは、それまでの生活を捨て、家族を連れて北カリフォルニアに住み着きました。
その約100年後に生まれたフラワー・チルドレンは、この土地で“本気"でユートピアを作りたいと思い、コミューンで共同生活をするようになります。彼らは“本気"でドラッグの使用によって自分たちの「意識を解放」することができると考え、“本気"で愛と平和が世界を救うと信じていました。
ヒッピーの理想とした「愛と平和」の夢が崩壊した後に、注目されるようになったのが、皮肉にも“人工的"なテクノロジーに対する信仰なのです。北カリフォルニアの人たちはテクノロジーが世界を救うと確信し、S.F.とその周辺のベイ・エリアをシリコン・ヴァレーと呼ばれる地域へと発展させていきます。この土地から発展したICT企業の創業者たちは、パソコンやインターネットが“本気で"人を幸せにできると考えており、多くのスタートアップ起業は、経営理念に「世界をもっとよくすること」といった理想を大々的に“本気で"掲げています。
一方で、南カリフォルニアにはハリウッドという“人工的"に設計させた街があり、今なおエンタメ業界の中心地的な土地です。そこで発展を遂げた会社は、「幸せ」はある方程式に基づいて大量生産できるという考えの下で、映画や音楽を次々と発表してきました。何しろ、ハリウッドには前述の“ティンセルタウン"以外にも“夢の工場"というニックネームさえあるのですから。
ブライアン・ウィルソンやジム・モリソンは、こうした“人工的に"生み出された偽善的な価値観に対して幻滅したわけです。しかし大衆は、むしろそのイリュージョンの虜となっていきました。多くの米国の大衆にとってヒッピー・カルチャーやドラッグは、所詮ファッション感覚で楽しめるものでしかありませんでした。そして現在のハリウッドのセレブたちも、環境保護運動、動物保護運動、ヴェジタリアンイズムや様々なダイエット法といった“人工的なファッション"にハマっていくわけです。今でもこの地域性は根強く残っているのです。
8.気候と地理が文化の違いを生む
北カリフォルニアの人と南カリフォルニアの人の価値観がここまで違うのは、実は気候と地理が大きく関係しているからなのではないでしょうか。一般的には、カリフォルニア州といえば太陽が降り注ぎ、人々が一年中Tシャツと短パン姿で過ごしているというイメージがあるでしょう。
しかし、カリフォルニア州の面積は日本の面積の約1.1倍もあり、気候は全体的に日本よりはマイルドではあるものの、北と南ではまるでステイト(国)が違うかのように大きく異なるのです。北カリフォルニアは雨や霧が割と多く、冬になればジャケットなしでは過ごせません。一方で、南カリフォルニアはもともと砂漠地帯であり、太陽が照りつく乾いた土地なのです。
環境に対する意識も対照的です。北カリフォルニアにはヨセミテ国立公園に代表されるような美しい“自然"が多くあることから、“自然"に対する感度が高いです。ゴールド・ラッシュや工業化による環境破壊からこの土地を“本気で"守ろうという認識が、多くの環境保護運動を生みました。“自然"を愛する気持ちは、やがてヒッピーたちにも影響を与えていきました。S.F.近郊では地下鉄やバスなどの公共交通機関が整備されており、シリコン・ヴァレーが発展を遂げるとともにエコ・カーも普及してきました。
一方で、南カリフォルニアは、一年中同じような温暖な気候が続きます。夏になると発生する山火事は、年々悪化しています。その中心にあるL.A.という都市は砂漠地帯に“人工的"に作られた、無秩序に広がった街なのです。L.A.の住民が使う水の50%は、パイプラインを使って北カリフォルニアから“人工的に"引いてきたものなのです。北カリフォルニアの人からすると、自分たちの大切な資源が南に奪われているという認識すらあります。また、L.A.は公共交通機関が整備されておらず、車移動が中心となっています。そのため、時間帯によってはとても酷い渋滞が発生し、10マイル(約16km)を移動するにも、1時間以上もかかってしまいます。
こういった土地柄は、S.F.とは違ったスタイルのサイケデリック・ミュージックを生み出しました。「花のサンフランシスコ」北カリフォルニアの自然の美しさに魅せられたヒッピーたちは、“自然な"大麻によって意識を解放させ、宇宙との一体感を味わいました。その結果、「ラヴ・アンド・ピース」を語り、“自然"の力を愛でた曲を作りました。北カリフォルニアのサイケデリック・ミュージックは、夢の世界へと誘ってくれます。
一方で、太陽が降り注ぐ「夢のカリフォルニア」に憧れてL.A.を目指したアメリカ各地からのミュージシャンは、“人工的"な街並みに失望し、次なるヒットのことばかりを考える映画会社やレコード会社が君臨するエンタメ業界に幻滅したのではないでしょうか。そして“人工的な"ドラッグを使用し、L.A.に覆いかぶさったスモッグのように、むしろ朦朧としたのではないでしょうか。そういったカリフォルニアの闇や社会の矛盾を歌ったのが南カリフォルニアのサイケデリック・ミュージックなのです。
思想的にも地理的にも、北カリフォルニアと南カリフォルニアは別々のステイトであり、その違いはそこから生まれるサイケデリック・ミュージックにも表れています。このことを念頭に、今回と前回取り上げた音楽を聴いてみてください。きっと、私が言いたいことがわかってもらえると思います。
次回は、ブリティッシュ・インヴェイジョンと英国のサイケデリック・ミュージックについて紹介します。