1.プロローグ
前回のMUSIC & PARTIES #016ではジミ・ヘンドリックスの渡英によって英国の労働者階級から生まれたサイケデリック・ロックとハード・ロックを取り上げました。
今回は、英国の中産階級出身のミュージシャンたちが生み出したプログレッシヴ・ロック(通称“プログレ")というジャンルについて解説します。英国の中産階級の人々は幼い頃から格式高いクラシック音楽や高度なジャズ音楽に慣れ親しみ、アメリカ的なロックとは違う、英国的なロックあるいはヨーロッパ的なロックを生み出そうとしました。
そもそもサイケデリック・ロックが生まれるきっかけとなったのは1966年にリリースされたビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』や67年にリリースされたビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』です。これらのアルバムは、ポップ音楽は芸術となりうることを証明しました。オーケストラの演奏、実験的な楽器や効果音を取り入れた『ペット・サウンズ』は、クラシック音楽とロックを融合したプログレの誕生を予言する作品でした。
とはいえ、ビーチ・ボーイズやビートルズの作品はどこまでいっても、最終的にはラヴ・ソングであったり、「戦争と平和」という単純な図式に基づいた大衆のための音楽でした。それに対して、“プログレ"というジャンルに分類されるミュージシャンたちはこうしたラヴ・ソングではなく、より芸術性の高い叙事詩を、壮大なストーリー性を持ったアルバムとして構築することを試みるようになりました。時には1曲20分にも及ぶような大作も創られました。レイディオ放送向きではなく、レコード・プレイヤーによる再生に向いていました。ドラマチックなサウンドは、小さなライヴ・ハウスではなく、クラシックなども演奏するコンサート・ホールやアリーナで演奏されることを前提とした音楽でもありました。
今回は70年代前半に多彩な作品を発表し、全米のアリーナをツアーするまでに人気を博すようになったプログレの知っておくべきバンドについて紹介します。このプログレというジャンルが生まれた背景と、アメリカや日本における評価についても言及したいと思います。
2.プログレのマニフェストを打ち立てたキング・クリムゾン
最初に取り上げるのは、プログレッシヴ・ロックのマニフェストを打ち立てた「キング・クリムゾン」です。
サイケデリック・ポップのバンドとして活動していたギタリストのロバート・フリップとドラマーのマイケル・ジャイルズはアルバムを1枚発表したもののイマイチ売れず、より前衛的なサウンドを目指して、マルチ・プレイヤーのイアン・マクドナルド、作詞家で照明も担当していたピーター・シンフィールド、そしてベイシストのグレッグ・レイクを迎え入れて1968年に「キング・クリムゾン」として再出発しました。バンドはマクドナルドの提案で「メロトロン」と呼ばれる電子鍵盤楽器を取り入れ、オーケストラを用いたような音楽を構築していこうとします。この楽器はその後プログレのサウンドには欠かせない楽器となりました。
キング・クリムゾンは、1969年7月にザ・ローリング・ストーンズがロンドンで開催したフリー・コンサートでライヴ・デビューを果たし、すぐにブレイクしました。同年の10月に発表したファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』はプログレの記念碑的アルバムとして現在も高い評価を得ています。当時主流だったロックはブルーズの影響が根底にあったのに対して、クラシック音楽やジャズの要素を積極的に取り入れた本作は、ロック・シーン大きな衝撃をもたらしました。アメリカのロックとはまるで違う、ヨーロッパ的なロックが生まれた瞬間でした。
『クリムゾン・キングの宮殿』
キング・クリムゾンのファースト・アルバムです。全英アルバム・チャートでは5位、全米アルバム・チャートでは28位を達しました。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ『史上最高のプログレ・ロック・アルバム50』のランキングにおいて2位に選ばれています。
1曲目の『21世紀のスキッツォイド・マン』は7分以上にも及ぶ大作で、現代からするとヘヴィ・メタルとも言えるような要素とジャズの要素を融合した曲となっています。当初の邦題は『21世紀の精神異常者』でしたが、レコード制作基準倫理委員会の基準の変更によって改定されました。本作は、ヴェトナム戦争によってアメリカの兵士とアメリカという国家がPTSDを負い、存在意義を失った状態で21世紀を迎えることを予言した曲と捉えることができるでしょう。この曲は、プログレの代表曲として多くのミュージシャンに影響を与えました。
英国各地でのライヴを経て、バンドは米国ツアーに出発します。ところが、ツアー生活の疲れやバンドの方向性に対する不安が募り、キイボーディストのマクドナルドとドラマーのジャイルズは脱退することになります。しばらくの“空位時代"を経て、キング・クリムゾンはフリップのリーダーシップの下でラインアップを度々変えながら、クラシックの室内楽や前衛的なジャズなどの要素を取り入れながらアルバムを発表し続けていきます。
1972年に、フリップは前衛的なパーカッショニストのジェイミー・ミューアと元イェスのドラマーであったビル・ブルフォード、ヴァイオリニストのデヴィッド・クロスなどを迎え、バンドのサウンドはより一層実験的でヘヴィーな方向へと“進化"します。スタジオでもライヴでも即興演奏がより多く取り入れられるようになりました。このメンバーでリリースした1973年の『太陽と戦慄』ではメロトロンに代わってクロスのヴァイオリンがフィーチャーされており、打楽器の即興を得意としたミューアはチャイム、鐘、ミュージックソーや道端で拾った様々なガラクタを用いてエグゾチックなサウンドを出しています。
『太陽と戦慄』
キング・クリムゾンの5枚目のスタジオアルバムです。全英アルバム・チャートで20位、全米アルバム・チャートで61位を記録しました。
このように度々メンバーを変えながらも常により実験的で、より複雑で、よりヘヴィーなサウンドを追求していったキング・クリムゾンの中心的役割を果たしてきたのが、ギタリストのロバート・フリップです。フリップは10歳の誕生日に両親からアコースティック・ギターをプレゼントしてもらい、11歳にはロックンロールを弾けるようになり、13歳からはジャズを弾くようになったと言われています。大学では、経済学と歴史を勉強しながら、ビートルズやジミヘンにハマる一方で、バルトーク・ベーラやアントニン・ドヴォルザークなどのクラシック音楽にも魅了されました。その結果、ブルーズをベイスにした当時のロック・ギタリストとは一線を画し、クラシック音楽やジャズの影響が強いギタリストとして知られるようになりました。フリップのトレードマークは、ロック・ギタリストでありながらスツールに座って演奏することでした。
フリップは “guitarist’s guitarist"(ギタリストが喜ぶようなギタリスト)として知られており、キング・クリムゾンは “musicians’ musicians" (ミュージシャンが喜ぶようなミュージシャン)といえるでしょう。ポップ音楽のトレンドに背を向き、敢えて難解さを追求したキング・クリムゾンはプログレ精神そのものと言えるでしょう。
3.プログレというジャンルを超越したピンク・フロイド
キング・クリムゾンが「ロックをより高度な芸術に進化させる」というプログレのマニフェストを提示したとしたら、この目標を実際に成し遂げたのがピンク・フロイドの最高傑作である『狂気』といえるでしょう。
ピンク・フロイドは、ロンドンの大学で建築を学んでいたロジャー・ウォーターズ(ベイス)、ニック・メイソン(ドラムズ)とリチャード・ライト(キイボード)と、ウォーターズの幼馴染みのギタリストのシド・バレットを中心に1963年に結成されました。当初はリズム&ブルーズのカヴァー曲を中心に演奏していましたが、徐々にバレットがオリジナル曲を作るようになります。一方、ライヴでは長いインストルゥメンタルだけの演奏やジャズの影響を受けて即興演奏を取り入れるようになります。1965年ごろにバレットはLSDを初めて使用し、やがて常用するようになります。この影響でバンドのサウンドはサイケデリック・ロックへとシフトしました。1967年8月にバンドはデビュー・アルバム『夜明けの口笛吹き』(オリジナル・タイトルは“The Piper at the Gates of Dawn")をリリースし、英国を代表するサイケデリック・ロック・バンドとなりました。
『夜明けの口笛吹き』
11曲のうち8曲がシド・バレットのよる作詞・作曲です。バレットは、レコーディング時は過度なLSD摂取により正常な状態ではなかったとされます。その結果、後のプログレッシヴ・ロックよりのサウンドとは大きく異なり、完全にサイケデリック・ロックのサウンドとなっています。発売当初の邦題は『サイケデリックの新鋭』というタイトルでした。『ローリング・ストーン』誌は本作を『歴代アムバム500』のランキングで347位に選びました。
このアルバムのリリース後、バレットのLSDの過度の摂取がバンド活動に支障をきたし、1968年には彼の役割を補うためにギタリストのデヴィッド・ギルモアが加入することになります。その後、バレットはバンドを脱退することとなりました。このことをきっかけに、ピンク・フロイドのサウンドはサイケデリック・ロックからプログレッシヴ・ロックの方向へとシフトしていきます。ウォーターズがバレットに代わって作詞やアルバムのコンセプトを担当するようになり、ギルモアの独特なギター・サウンドと歌声はバンドのサウンドの中核となっていきました。
この過渡期にピンク・フロイドはバンドの最大の特徴である幽玄な音の世界を完成させていきます。多くの画期的なサウンド・エフェクトを取り入れることで、まるで宇宙の彼方を飛んでいるかのような気分にさせてくれます。言ってみれば、ピンク・フロイドはプログレッシヴな方向性を模索しながらも、常に“トリップ"させてくれるような音楽を作り出していきました。この頃の代表曲の1つとしては『原子心母』(オリジナルのタイトルは“Atom Heart Mother")が挙げられるでしょう。 1970年の 『原子心母』はアルバムのA面全体に及ぶ壮大なロックの組曲で、ストリングズやブラスバンド、コーラス隊を用いた大胆な挑戦となっています。
1973年に発表された『狂気』(オリジナル・タイトルは“Dark Side of the Moon")は、対立、拝金主義、時間、死、精神病などをテーマとしたコンセプト・アルバムです。ピンク・フロイドのアートの多くを手がけたストーム・ソーガソンによるジャケット・デザインは、ロックの最も象徴的なイメージの1つと言えるでしょう。本作は評論家からの評価も高く、商業的な面でも大成功となり、ピンク・フロイドの最も売れた作品となりました。これによってピンク・フロイドは世界的なロック・バンドとして知られるようになり、メンバーの4人は富と名声を得ることとなりました。皮肉にも、アルバムの中で最も売れた曲は、シングル・カットされた『マネー』でした。この曲は小銭の効果音をドラム代わりに用いており、拝金主義や消費者主義をユーモラスに描いた歌詞となっています。
『狂気』
ピンク・フロイドの8枚目のオリジナル・アルバムです。売り上げは5,000万枚以上を記録しました。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ『史上最も偉大なアルバム500』リストにおいて43位に選ばれています。
ピンク・フロイドは商業性よりも音楽性を重視したプログレというジャンルで活動しながら、最も商業的にも成功した数少ないバンドとなりました。また、このコラムで取り上げている他のプログレのバンドに比べても、圧倒的に広い支持層を誇っています。プログレというジャンルは、海外の音楽評論家やアメリカのロック好きに物笑いの種にされることも多いのですが、ピンク・フロイドだけは格別という認識があります。
その理由は、ピンク・フロイドにとって実験的な音や斬新なことをすることそのものが目的ではなく、“ピンク・フロイド"という独特な音の世界を目指したからなのではないでしょうか。彼らは独りよがりの音楽性をひけらかすのではなく、多くの人々に受け入れられる普遍的な音楽性を追求したからなのでしょう。
また、一般的なプログレのバンドが難解な詞やファンタジーやSFを意識したストーリーを掲げていたのに対して、ロジャー・ウォーターズの詞は繊細で、どこまでも人間という存在について哲学的に考察していることが特徴です。一方、より速く、より複雑なギター・プレイを見せびらかした多くのプログレのギタリストとは違って、メロディアスなサウンドで知られるギルモアのギター・プレイは、より少ない音をより効果的に弾くことで音の世界観を作り上げました。テクニックを見せるためのテクニックではないのです。(ギルモアは、「自分の指はそれほど早くはない」とも発言しており、ピンク・フロイドには“楽器のテクニシャン"がいないことからプログレには分類されるべきでないと訴えるハードコアなファンもいます。)
ウォーターズの人間味のある詞とギルモアの哀愁漂うギターが生み出したもう1つの傑作が1975年にリリースされた『炎~あなたがここにいてほしい』(オリジナル・タイトルは“Wish You Were Here")です。アルバムの最初と最後に分割されて収録されている『クレイジー・ダイアモンド』は9つのパートで構成された大作で、詞の内容はロジャーズがシド・バレットに捧げたものだとされています。
『狂気』の大ヒットによって成功と名声を手に入れたピンク・フロイドの4人は、そこまでたどり着くために犠牲にしてきたもの、失ってきた友達について思い巡らしていることが伺えます。当時に、商業性ばかりを追い求める音楽業界に対するウォーターズの幻滅も露わにされています。この作品が象徴するように、ピンク・フロイドには、他のプログレのバンドにはなかった内省的な面があり、客観的な自己認識があったと言えるのでしょう。
『炎~あなたがここにいてほしい』
1975年にピンク・フロイドが発表したスタジオ・アルバムです。全英と全米のアルバム・チャートで1位を記録する大ヒットとなりました。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ『史上最も偉大なアルバム500』リストにおいて211位に選ばれています。
4.プログレ界のスーパートリオ、エマーソン・レイク・アンド・パーマー
「キング・クリムゾン」のベイシストのグレッグ・レイクとプログレ・バンドの「ザ・ナイス」のキイボーディストとして活動していたキース・エマーソンが意気投合し、スタートさせたのが「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」、略して「ELP」でした。結成当初は元「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」のドラマー、ミッチ・ミッチェルに声をかけたもののすぐには決まらず、何人かをオーディションした末、ティーネイジャーの頃からアメリカのジャズ・ドラマーに憧れていたカール・パーマーを迎えることとなります。
ELPの最大の特徴は、リード・ギタリストの代わりに、キース・エマーソンというキイボードの天才が所属していたことでした。エマーソンはロックというジャンルにクラシック音楽の要素を多分に持ち込むことで、より高度なものへと進化させようとしました。これ見よがしのテクニックと目まくるしいほどのスピード、ステージ上での存在感で、プログレを自宅のガラージで聴くような音楽から、スタジアムを揺らすようなサウンドへと成長させました。1枚目のアルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』(1970年)の収録曲『ラッキー・マン』の終盤では、ロックの定番であるギター・ソロではなく、モーグ・シンセサイザーのソロを演奏しています。
『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』
1970に発売されたELPのデビュー・アルバムです。全英アルバム・チャートでは4位、全米アルバム・チャートでは18位まで登りました。
ELPの最初の代表作とされるのが2枚目のオリジナル・アルバム『タルカス』(1971年)です。表題曲は20分超の組曲です。(ロング・プレイのレコードの一面ギリギリの長さです。)アルマジロの体と戦車を合体させたような想像上の怪物 “タルカス"が地上のあらゆるものを破壊して海へ帰っていくという壮大なストーリーが描かれています。本作は全英アルバム・チャートで1位、全米アルバム・チャートで9位を獲得しました。
『タルカス』
1971年にリリースされたELPのセカンド・アルバムです。全英アルバム・チャートでは1位を、全米アルバム・チャートでは9位を記録する大ヒットとなりました。
エマーソンはロシアの作曲家・ムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』のパフォーマンスを見て感動し、それをバンド用にアレンジしたいと思うようになります。それをコンサート・ホールでの演奏したものをライヴ・アルバムとしてリリースし、全英・全米のアルバム・チャート両方でトップ10入りするという快挙となります。つまり、ELPはある意味、アメリカのポップ・ミュージック・チャートにクラシック音楽をチャート・インさせるという偉業を成し遂げたのです。
『展覧会の絵』
本作は1971年11月に発売されたELPのアルバムです。全英アルバム・チャートでは3位、全米アルバム・チャートでは10位を記録しました。
ELPは1974年に「カリフォルニア・ジャム」というロック・フェスで英国のハード・ロック・バンド「ディープ・パープル」と共に出演しました。トリを務めたELPの演奏は伝説となりました。エマーソンがグランド・ピアノの前に座って弾きだすと、急に宙に浮がび上がり、前転し始めました。この時の演奏はライヴDVD『Beyond the Beginning』に収録されています。ピアノごと宙返りしながら弾き続けるエマーソンの姿に熱狂するカリフォルニアのファンたちは、摩訶不思議な光景と言えるでしょう。
度重なる指の怪我や鼻の骨折もあり、この演出はそう長くは続かなかったようです。また、ベイシストのレイクは、この演出の時のピアノは中身が取り除かれて空っぽになったもので、エマーソンは当て振りで弾いていたことを後に明かしています。プログレというジャンルは「テクニックを聴かせるためのテクニック」と批判されることがありますが、こういった突飛な演奏は皮肉にもその一面を象徴していると言っていいのかもしれません。