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“英国的なロック・サウンド"を目指したプログレッシヴ・ロックという実験 (後編)
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (5)
  - イェス/ジェネシス/ピーター・ゲイブリエル/フィル・コリンズ/四人囃子 | MUSIC & PARTIES #019
2021/11/29 #019

“英国的なロック・サウンド"を目指したプログレッシヴ・ロックという実験 (後編)
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (5)
- イェス/ジェネシス/ピーター・ゲイブリエル/フィル・コリンズ/四人囃子

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


5.人々を高揚させるような音楽を目指したイェス

キング・クリムゾンの初期のライヴに感動を覚え、「イェス」というバンドを作ったのがビル・ブルフォードというドラマーです。(日本では一般的に「イエス」と表記されますが、イエスとはキリスト教の始祖のことですので、注意が必要です。)

イェスのラインアップを見ると、前回のコラムで取り上げた労働者階級出身のロック・ミュージシャンたちとは種類が違う面々であることがわかります。例えばブルフォードは全寮制の学校に通い、BBCで見たアメリカのジャズ・ドラマーに憧れてドラムを始めました。ベイス担当のクリス・スクワイアは幼い頃から近所の教会や学校の合唱団で歌っていました。キイボード担当のトニー ・ケイはミュージシャン一家に生まれ、6歳の時にクラシック・ピアノを始めました。コンサート・ピアニストになることを夢見ながら育ちましたが、ジャズと出会ったことをきっかけに、ジャズやロックに興味を持つようになりました。そしてヴォーカル担当のジョン・アンダーソンは、賞をとるような社交ダンスのダンサーであった両親の下に生まれました。彼の歌はブルーズ色の強い一般的なロックの歌手とは違って、英国国教会の合唱団を彷彿とさせるヴォーカルが特徴です。

結成当初のバンドのサウンドは荒削りだったものの、爽やかなコーラス・ワークが特徴でユニークなものとして注目されるようになります。メンバーたちはその演奏技術に磨きをかけていきながらアルバムの制作を続けました。

70年代に入ってクラシカル・ギターやジャズ、フラメンコなどに強い影響を受けていたギタリストのスティーヴ・ハウが加入しました。脱退したキイボード担当のトニー・ケイの代わりに王立音楽大学出身のリック・ウェークマンが加入したことより、アンサンブルのサウンドに重厚さとスケール感がもたらされることとなりました。(ケイは、プログレの定番の楽器とも言えるメロトロンやモーグ・シンセサイザーを取り入れることに消極的だったとされます。)このラインアップでイェスは4枚目のアルバムとなった『こわれもの』をリリースし、黄金期を迎えました。

『こわれもの』
イェスの4枚目のスタジオ・アルバムです。全英アルバム・チャートで7位、全米アルバム・チャートでは4位を記録しました。キイボード担当のリック・ウェークマンによると、アルバム名はレコーディング中のバンドの状態に由来しているそうです。

このアルバムの1曲目である『ラウンドアバウト』はプログレの代表曲とも言えるでしょう。(“ラウンドアバウト"とはイギリス英語で「環状交差点」のことです。)8分以上にも及ぶ長さはレイディオには不向きとされ、3分半に削られたものがアメリカのレイディオで流されて、大ヒットとなります。このシングルはビルボードのシングル・チャートで13位まで登るという快挙となりました。また、同アルバムに収録されている『キャンズ・アンド・ブラームス』は、ウェークマンがブラームスの交響曲4番第3楽章をキイボードで多重録音したものです。

1972年にリリースした5枚目のオリジナル・アルバム『危険』は、イェスの最高傑作であり、最も壮大な作品とされています。4つの楽章によって形成された表題曲はレコードのA面全体に及ぶ大作です。この曲が生まれた背景ですが、ヴォーカル担当のアンダーソンが、『こわれもの』のツアー時のある日、ホテルでジャン・シベリウスの『交響曲第6番』と『交響曲第7番』をかけながらJ・R・R・トールキンの長編『指輪物語』を読んでいた最中にこの曲の着想を得たと発言しています。

『危険』
イェスの5枚目のスタジオ・アルバムです。全英アルバム・チャートで4位、全米アルバム・チャートで3位に登る快挙となりました。

アルバムの完成後、イェスの陽気で軽い雰囲気のサウンドに不満を感じていたブルフォードはバンドを脱退し、キング・クリムゾンに加入することとなりました。イェスはその後も活動を続けますが、より壮大で緻密な曲を追求するうちに多くの音楽評論家から「尊大」と評されるようになりました。『危険』の原題は“Close to the Edge"ですが、黄金期のイェスは正に“ギリギリの線"を走っていたと言えるのかもしれません。


6.最も英国的なプログレ・バンドであったジェネシス

多くのプログレのバンドがいる中でも演劇的なライヴで地位を確立したのが「ジェネシス」です。

そもそもジェネシスは1967年に英国のエリート校「チャーターハウス・スクール」の同級生が在学中に結成したバンドです。ヴォーカル担当のピーター・ゲイブリエル、ベイス担当のマイク・ラザフォードらは音楽性を模索しながら徐々にアート・ロックの方向性を意識するようになります。

70年にはギタリストのスティーヴ・ハケットとドラマーのフィル・コリンズが加入し、よりプログレッシヴなサウンドを追求するようになりました。ライヴでは特にゲイブリエルの演劇性たっぷりのステージ・パフォーマンスが話題となり、バンドはベルギーやイタリアを始めヨーロッパで人気を博すようになりました。4作目の『フォックストロット』で母国・英国でもブレイクし、全英アルバム・チャートで12位を記録しました。ゲイブリエルはこのアルバムのツアーで初めてトレードマークとなった“コスプレ"をするようになりました。アルバム・ジャケットにも写っている赤いドレスと狐の被り物をまとったり、頭にコウモリの翼をつけてブラックライトのペンキを顔に塗るなどの七変化を見せ、観客を魅了するようになりました。

『フォックストロット』
ジェネシスの4枚目のスタジオ・アルバムです。全英アルバム・チャートで最高12位に達しました。“フォックストロット"とは社交ダンスの一種ですが、ジャケットにはドレスを着た狐が描かれています。

『フォックストロット』の目玉は、23分にも及ぶロックの叙事詩『サパーズ・レディ』です。(「サパー」はイギリス英語で「夕食」を意味します。)あるカップルの壮大な旅を描いたこの曲は『ヨハネの黙示録』を題材にしており、全7パートに分かれたストーリー構成となっています。ライヴで演奏する際には、ゲイブリエルは各パートで冠や仮面をかぶったり奇怪なコスチュームを身にまとったことが話題となりました。

ジェネシスは、このアルバムのために英国とアメリカのツアーを行い、アメリカにおける知名度の向上に成功しました。しかし、音楽評論家たちからはELPやピンク・フロイドなどと比べると劣ると評されていました。レイベルはバンドの意向に反対してライヴ・アルバムをリリースし、2~3ヶ月以内に新作を制作するように求めます。その結果が『月影の騎士』です。原題である“Selling England by the Pound"(イングランドを量り売り)は、当時の労働党のスローガンから取られたもので、英国メディアに「ジェネシスは英国を裏切ってアメリカを優先しようとしている」と言わせないために採用されたとされています。本作は英国の民族文化の衰退やアメリカ文化の輸入、消費者主義などをテーマに扱っている、いかにも“英国ならでは"のアルバムとなっています。

『月影の騎士』
ジェネシスの5枚目のオリジナル・アルバムです。本作は全英アルバム・チャートで3位、全米ポップ・アルバム・チャートで70位を獲得しました。

この作品の成功を受けて、バンドは次作の制作に取り掛かりますが、徐々にバンド内でゲイブリエルが浮いた存在となっていきました。その最大の理由は、ゲイブリエルとコリンズの間に生まれていたライヴァル関係がついに対立関係へと変貌したことでした。また、メディアではゲイブリエルのコスチュームについてばかり報道されたことに対して、コリンズら他のメンバーたちは腹を立てていました。彼らからすると、ゲイブリエルのアート/シアター作品のために自分たちの音楽性が利用されていたと感じていたのかもしれません。ゲイブリエルは結局1975年にバンドから去り、ソロ活動を始めました。

残りのメンバーたちは新しいシンガーのオーディションを行いますが納得できず、最終的にコリンズがリード・シンガーを担当するようになりました。このラインアップで制作した最初のアルバム『トリック・オブ・ザ・テイル』(1976年)は、評論家にも評価され、商業的にも成功し、ゲイブリエルがいなくてもバントとして活動を続けられることを示しました。因みに、このアルバムの収録曲『スコンク』は、レッド・ツェッペリンの『カシミール』を意識して作られた作品だそうです。

『トリック・オブ・ザ・テイル』
本作はジェンネシスの7枚目のオリジナル・アルバムです。全英アルバム・チャートでは最高3位に達し、全米アルバム・チャートでは31位に達し、初のトップ40入りとなりました。

ゲイブリエルの脱退によってシアトリカルな演出とウィットに富んだ歌詞のセンスは失われますが、コリンスのポップよりでスムーズな歌声は女性を含むより幅広い音楽ファンにアピールしました。コリンスの下でジェネシスは80年代にかけて、徐々にポップやニュー・ウェーヴを意識したサウンドへと進化し、スタジアム・ロックで世界的な成功を収めることとなりました。


7.アメリカ人はプログレッシヴ・ロックをどのように見たか

70年代にはこういった数々のプログレ・バンドがアメリカ市場に進出し、大きな商業的な成功を収めました。英国社会では中産階級出身者による、ロックとクラシック音楽を融合させるという“進歩的"な挑戦だったものが、アメリカ社会においては「白人(男性)による白人(男性)のための音楽」として人気を博すようになっていきました。プログレにハマったブルー・カラーの白人労働者たちは、黒人化が進むアメリカの音楽とは違うサウンドを求めていたのかもしれません。

また、プログレは格式高いクラシック音楽の要素を取り入れたり、難解な詞を好むという特徴がある一方で、「演奏技術的な派手さ」があったのです。例え古典音楽の知識がないアメリカ人でも、ギターやキイボードをとにかく早弾きするプレイヤーたちには、誰にでも認識できる“分かりやすさ"がありました。派手なコンサートの演出も単純にショウとして面白かったのでしょう。

しかし、アメリカの音楽評論家の間では当初から懐疑的な受け止め方をした人が多かったようです。彼らは、見た目や聴いた感じではいくらすごくても、中身は空っぽであり、「テクニックを見せるためのテクニックでしかない」と評しました。また、プログレのバンドはスタジオの録音技術や効果音、エクゾチックな楽器にこだわり過ぎた結果、音楽そのものの温もりや人間味が失われていったとも指摘しています。

アメリカの音楽ファンの間でも、時代が経つと共にプログレの評価は徐々に“下方修正"されました。彼らは、ロックを「芸術」に見立てようとする、いかにも英国的で“スノビッシュ"(もったいぶった)な感じがするので、嫌気がさすようになります。アメリカ人からするとやはり本物のロックは青春期や恋愛といったテーマを歌った“子供"の音楽であるべきなのでしょう。大人の知的な感じはむしろダサいのです。楽器演奏が異常に巧いことも、それを見せびらかそうとするのも同じ様に、むしろダサいと感じるのです。

そして決定的だったのは、グルーヴ感があるアメリカのロックンロールに対して、ブルーズやR&Bの影響が少ないプログレは、全く踊れない音楽であることです。アメリカ人にとって音楽とは踊るためのものなのです。

アメリカ人から見たプログレの堅苦しさを象徴する話として、音楽評論家たちやプログレに批判的だったロック・ファンは当初、「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」というバンド名に対して、ロック・グループより弁護士事務所の名前にふさわしいと揶揄したものです。(英語圏の弁護士事務所の名前には、パートナーの苗字を連ねてできたものが多いのです。)


8.日本におけるプログレッシヴ・ロックの人気

一方で、アメリカに比べ、日本では70年代当時から現在に至るまでプログレは多くの音楽ファンに受け入れられてきました。さて、アメリカにおける評価と日本における評価が違うのはなぜでしょうか。

その最大の理由は、音楽教育にあるのではないでしょう。日本人は英国人を始めヨーロッパ人と同様、幼い頃からクラシック音楽に触れる機会が多くあり、学校でもある程度の音楽教育を受けます。(アメリカの子供のほとんどは、歯医者の待合室くらいでしかクラシック音楽に触れる機会がないのです。)音楽の教養がある視聴者にとっては“プログレ"も高度な音楽として聞こえますし、教養のない人にとっても、やはり表面的な技術のすごさが分かります。

また、プログレの作品にはインストゥルメンタルが多かったり、歌詞も抽象的なものが多いことから、英語の苦手な日本人にとってありがたかったのかもしれません。多くの場合メッセージ性のあるアメリカのロックとは違って、英国のプログレにはメッセージ以上に曲が醸し出す“雰囲気"や“空気"が重要なのです。ヴォーカルがある場合でもサウンドに強いエフェクトをかけています。イェスのように繊細なコーラスなど、言葉よりサウンドがポイントとなります。

そして、プログレにはファンタジーやSFのストーリー性が多く取り入られており、独特の“オタクらしさ"があることも否めません。プログレのミュージシャンたちは自分たちのヴィジョンをとことん追求し、こだわりの結晶ともいえるような作品ばかりを残しています。

英国発のプログレの人気にあやかり、日本独自のプログレ・バンドも誕生します。その代表例が、1971年に結成された「四人囃子」です。プログレの最盛期とも言える1974年にリリースされたデビュー・アルバム『一触即発』は、日本のロックの名盤とされています。

『一触即発』
四人囃子の本格的なメジャー・デビュー作品となった、1枚目のスタジオ・アルバムです。

70年代前半の欧米の音楽シーンでは、アメリカではウェスト・コースト・ロックやサザン・ロック、英国ではハード・ロックやプログレなど、ロックが様々な方向に枝分かれし始めていた時期でした。当時の日本の音楽シーンといえば、主流は相変わらず演歌や歌謡曲でしたが、若者の間で人気だったのは井上陽水や吉田拓郎といったフォーク・ミュージシャンでした。日本語で歌う和製ロックの道を切り開いた「はっぴいえんど」は72年に解散しており、ロックというジャンルはまだマイナーでアンダーグラウンドな存在でした。

そうした状況の中、四人囃子は欧米のロックを内在化した上で、そこに日本的な感性を持ち込むことで日本独自のロックを生み出しました。四人囃子というバンド名に、能や歌舞伎、寄席や祭で演奏される“囃子"を連想させる言葉を用いているように、彼らのシュールな日本語の歌詞は、日本のありふれた日常的な風景の中に潜む非日常を感じさせます。例えばザ・ドアーズの『ライダーズ・オン・ザ・ストーム』を彷彿とさせる『空と雲』の歌詞にはこんな一節があります。「そのあたりには 古いお寺がたくさんあって/子供たちが楽しげに遊んでいた」。さらに、『一触即発』の3曲目の題名は、『おまつり』です。他にも「夏の蝉の声」という歌詞であったり、ピンポン玉が弾む凛とした効果音など、“ノイズ"に音楽的な魅力を感じる日本人独特の感性が全体的に感じることができるのが四人囃子のロックの特徴です。

バンドのメンバーの中でも特筆すべきなのが、ギターの森園勝敏と、ベイスの佐久間正英です。森園は繊細なサウンドからアグレッシヴなサウンドを引き分けられる個性的なギタリストで、ハスキーな歌声も音楽の世界観とマッチングしています。彼は後にジャズ・フュージョン・バンドの「PRISM」に参加したり、セッション・ミュージシャンとして広く活動しています。佐久間はベイス以外にもキイボードやギターも弾けるマルチ・プレイヤーで、後に「BOØWY」「ザ・ブルーハーツ」「GLAY」「JUDY AND MARY」「エレファントカシマシ」など数々のJ-POPのアーティストたちを手掛けた名プロデューサーとして活躍します。

近年、海外では日本のシティ・ポップが流行っているようですが、是非「四人囃子」が奏でる日本的なロックを一度聴いてみてください。2019年には『一触即発』の発表45周年を記念した、リマスター音源やライヴ音源を加えたデラックス・エディションがリリースされたばかりです。


9.エピローグ

これまでの各バンドの紹介でもなんとなく匂わせてきましたが、英国におけるプログレ・ブームは10年も立たないうちに終焉を迎えることとなりました。

キング・クリムゾンは度々のラインアップの入れ替わりと解散を経て、1981年にロバート・フリップとビル・ブルフォードを中心に再結成されますが、その時にはサウンドは当時流行していたポップやニュー・ウェーヴの要素を取り入れたものとなっていました。

一方でELPは79年に解散しました。85年にはエマーソンとレイクは違うドラマーを迎えて再結成しますが、1枚のアルバムをリリースして解散します。

イェスは、81年に解散し、83年に新しいラインアップで再結成しますが、70年代とはまるで違うポップよりなサウンドでアメリカ市場において大きな商業的成功を手に入れます。

そしてピンク・フロイドは70年代後半の時点ではすでにプログレというジャンルの枠を超越していましたが、79年にリリースした『ザ・ウォール』は、プログレの最後の傑作と言っていいのではないでしょうか。アルバムの代表曲であり、シングルとして全米1位を記録したピンク・フロイド唯一の作品である『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール Part II』には、ディスコを彷彿させるビートが採用されています。

『ザ・ウォール』
本作はピンク・フロイドの2枚組のコンセプト・アルバムです。全英アルバム・チャートでは3位、全米チャートでは1位を記録し、全世界で3,000万枚以上売れた大ベストセラー・アルバムとなりました。

架空のロック・スターの人生を描いたストーリー仕立てになっている本作は、社会の中の抑圧や疎外感を“壁"に例えています。前作のアルバムでのツアーで初めて大型スタジアムでコンサートを開催するようになったピンク・フロイドのメンバーたちは、アメリカの会場におけるファンの行儀の悪さを嫌うようになっていました。前列のファンは熱狂するだけで音楽を聴こうとせず、後列のファンに至ってはほとんどステージを見えていないということもあり、ロジャー・ウォーターズはバンドと観客の間には“壁"があると感じるようになっていました。『ザ・ウォール』に伴って行われたワールド・ツアーでは、ステージ上で巨大な“壁"が築き上げられるという演出が話題となりました。ツアー中にメンバー4人の関係が悪化し、その後ウォーターズとギルモアは対立関係となります。最終的にウォーターズが85年にバンドを去ることとなりました。

プログレの終焉の背景には、2つの理由があるでしょう。プログレの演奏者たちがジャンルの限界に気付き、飽き始めたことと、同時期にパンクやニュー・ウェーヴといった“アンチ・プログレ"の音楽が流行りだしたことがあります。若いロック・ファンの間ではプログレは“オールド・ウェイヴ"と称されるようになりました。

英国の労働者階級から生まれたパンク・ロックのミュージシャンからすると、プログレの尊大さほど耐えられないものはなかったのでしょう。20分以上もの大作を生み出したプログレに物申すかのように、余分な要素を全て削ぎ落とした数分程度の短い曲を次々と発表していきました。パンク・ロックのアイコンである「セックス・ピストルズ」のヴォーカルであるジョニー・ロットンは、ピンク・フロイドのシャツに手書きで“I HATE"という文字を加えて着たことで人気となりました。


MUSIC & PARTIES #019

“英国的なロック・サウンド”を目指したプログレッシヴ・ロックという実験 (後編) - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (5)


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