1.プロローグ
MUSIC & PARTIES #017では、ジミ・ヘンドリックスと、彼の超人的なプレイに刺激された英国の労働階級出身の3大ロック・ギタリスト(エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ)が生み出したサイケデリック・ロックについて取り上げました。
英国でデビューしたジミヘンはモントレー・ポップ・フェスティヴァルやウッドストックでの伝説的な演奏を通して母国・アメリカの白人の間でも人気を博すようになったことを紹介しました。一方で、アフリカ系アメリカ人社会の間では比較的冷たい目で見られていたことに対して、ずっと悩みを抱えていました。彼は黒人コミュニティーに受け入れてもらおうと何度も試みましたが、結局生きている間にはそれは叶いませんでした。しかし今日では、多くの黒人ミュージシャンやアーティストに影響を与えた偉人として称える存在となっています。
今回のコラムでは、そんなジミヘンのキャリア晩年の葛藤と、彼の影響を受けた、80~90年代ロックを代表する黒人系ギタリスト3人を取り上げたいと思います。
2.晩年に自身の黒人としてのアイデンティティを取り戻そうとしたジミヘン
1969年ごろ、英国のベイシストとドラマーと「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」というトリオでブレイクしていたジミヘンは、葛藤を抱えていました。音楽には“白人音楽"も“黒人音楽"ないという自身の強い理念を持ちながらも、社会一般からすると、黒人である自分が白人音楽として見られていた“ロック"というジャンルで、白人の間で人気となっていたからです。更に「性欲過剰」で「いつもドラッグでハイになっている」という黒人男性に対するステレオタイプのレッテルを白人のファンによって貼られていたことにも、もどかしさを感じるようになり、自分は真面目なミュージシャンではなく、白人が楽しむための見世物(英語で言うところの“freak show")として見られていたことに気づき始めました。彼は黒人としての自身のルーツと再び繋がりたいと思っていました。ところが、黒人からすると、公民権運動やブラック・パワーの時代においてジミヘンの存在は、白人に媚びへつらう“裏切り者"として見られているところがありました。
いわゆる“black radio"(黒人による、黒人のためのレイディオ局)には自分の音楽をかけてもらえないことにも悩んでいました。当時、“黒人音楽"といえばモータウン・サウンドが主流で、ロックはやはり“白人音楽"として見られていました。ジミヘンからすると、ロックはそもそもブルーズやR&Bをルーツとしており、正真正銘の“黒人音楽"なはずでしたが、黒人社会からすると、 彼は主流に逆らっていた異端児として煙たがられていました。
1969年6月にザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを解散すると、ヘンドリックスは軍隊時代に出会っていた黒人ベイシストのビリー・コックスらを迎え入れ、新しいバンドを組みました。同年8月のウッドストックで演奏をした彼のバックバンドは、「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」のドラマーであった英国人のミッチ・ミッチェル以外、全員黒人でした。
その伝説的なステージから数週間後の9月、ジミヘンは知り合いに促され、ニューヨークのハーレムでフリー・コンサートを開きました。ところが、ジミヘンたちがステージに上がった頃には既に夜中になっていて観客はまばらでした。しかもバンドが演奏を始めると、ボトルや卵がステージに投げつけられました。
その後もジミヘンは黒人のミュージシャンと組んで活動を続けようとしたものの、どれも長続きしませんでした。70年には「ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」は再結成しますが、ベイシストは前述の黒人のビリー・コックスでした。ヨーロッパのツアーの途中にコックスは病気で演奏できなくなり、ヘンドリックスは新しいベイシストを探そうとしますが、その前に亡くなってしまいました。
ジミヘンが生前に発表したアルバムとしては最後になったのが、70年1月にニューヨークで録音されたライヴ・アルバム『バンド・オブ・ジプシーズ』です。この時のバンドのメンバーはベイスがビリー・コックス、ドラムはバディ・マイルズという、全員がアフリカ系アメリカ人のトリオでした。ジミヘンのギター・サウンドを中心としていながらも、それまでのサイケデリック・ロックとは違い、R&Bやブルーズ、ソウルやハード・ロックの要素が加わり、後にファンク・ミュージックとして知られるようになる“黒人音楽"のサウンドを模索しています。このアルバムはファンク・ミュージシャンとして有名なジョージ・クリントンやブーツィー・コリンズ(この2人についてはまた後日詳しく取り上げます)、そしてこのコラムで紹介するレニー・クラヴィッツやスラッシュなどの黒人系ミュージシャンに強い影響を与えました。
『バンド・オブ・ジプシーズ』
ジミ・ヘンドリックスが1970年に制作・発表したライヴ・アルバムです。
ジミヘンは生前、黒人社会に完全に受け入れられることはありませんでしたが、彼の影響はその後のロックだけでなく、ファンクやヒップホップなどの黒人音楽にも大きな影響を与えました。パブリック・エナミーやア・トライブ・コールド・クエストなど、数多くのヒップホップのアーティストがジミヘンの曲をサンプリングした曲を発表しています。自身のことを「神がこれまで創造した中で最も偉大なアーティスト」だとするラッパーのカニエ・ウエストは、アメリカのファッション誌『ハーパーズ・バザー』のインタヴューで、ジミヘンが演奏した『見張塔からずっと』を一番好きな曲として挙げています。
3.変幻自在なペルソナで“白人音楽"と“黒人音楽"を優越したプリンス
白人のロックと、黒人のファンクとソウルの要素を融合したという点でジミヘンの“後継者"的存在として見られているのが、2016年に亡くなったプリンスです。プリンスは歌やマルチインストゥルメンタリストとして知られますが、ロック・ギタリストとしても高い評価を受けております。特に1984年の『パープル・レイン』はポップ、ファンク、サイケデリック・ミュージックの要素を融合し、ロック・アルバムの傑作とされています。本作は発表された週に100万枚を売り上げ、アメリカの「Billboard 200」チャートで1位を獲得し、トップに24週間も居座り続けました。しかし、プリンスも白人のメインストリームに受け入れられ、ポップ・チャートのトップに君臨するまでには、長い道のりがありました。
『パープル・レイン』
1984年にリリースされた、プリンスの 6枚目のアルバムです。プリンスが主演した映画『プリンス/パープル・レイン』のサウンドトラックです。
若きプリンスはワーナー・ブラザース・レコードと契約を結ぶ際に、「R&B部門」ではなく「ポップ部門」に所属したいと強く要求しました。ところがキャリア初期の4年間、彼の音楽は主に黒人市場に向けて売り出され、主に黒人向けのR&Bのレイディオでかかっていました。主に白人を対象としていたロックのレイディオは相手にしてくれませんでした。
音楽ジャンルの境界線を曖昧にする音楽性もその理由の1つでしたが、それ以上に問題視されていたのが、性別の区別を曖昧にした彼のペルソナでした。彼はメイクアップをしたり、ヒールを履いたり、派手な衣裳を着てステージに登場していました。歌も、男らしい積極性がありながらどこかシャイで、女々しくて感傷的なヴォーカル、性的快感を“与える"だけでなく“受ける"ことに焦点をおいた流動的な歌詞など、独特なものでした。“男らしさ"に対する固定観念が根強くあった黒人社会にとって、その中性的なスタイルは衝撃的なものでした。プリンスは保守的な社会からすると、正真正銘の “フリーク"だったのです。そのペルソナや音楽を通じて、「黒人は白人(かつての奴隷所有者)によって植えつけられた人種のステレオタイプの枠の中に収まる必要がない」ことを示し、ビルボードの「Top R&B Albums」チャートで人気を集めるようになりました。
プリンスは1981年、様々な人種・性別のメンバーからなるバックバンド「ザ・レヴォリューション」と共に、L.A.でザ・ローリング・ストーンズの前座として演奏しました。ところが主に白人からなっていた観客からは罵声や性差別的な言葉が飛び交い、プリンスは強いショックを受けたそうです。それでもめげることはなく、変幻自在なイメージをより一層表に出して活動を続けました。やがてギター・ソロが目玉となったロック・チューン『リトル・レッド・コルヴェット』で1983年に全米ポップ・シングル・チャートでもトップ10入りを果たし、翌年の『パープル・レイン』に収録された『ビートに抱かれて』で1位を初めて獲得しました。
『1999』
1982年にリリースされた、プリンスの5枚目のアルバムです。
その後も、1986年の『キス』などの自身の代表曲や、他のアーティストに提供した数々の曲が全米のポップ・チャートを賑やかしました。その代表が、白人の女性を中心としたロック・バンド「バングルス」の『マニック・マンデー』と、アイルランドの歌手シネイド・オコナーの『ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー』です。こういった活躍を通して、プリンスは“黒人アーティスト"のレッテルを振り払い、 “白人音楽"と“黒人音楽"というジャンルを優越することに成功しました。日本公演でプリンスが『ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー』を演奏した際に、日本人のオーディエンスがなんでプリンスがこの曲を演奏するのか理解できず、会場がシーンとなったことを覚えています。
プリンスはいわゆる“スピリチュアル"や星占いにも興味があり、自分は“双子座"であると良く主張していましたが、正に彼のアイデンティティの中心にあったのが“二面性"です。黒人音楽と白人音楽、男らしさと女らしさ、エロさとスピリチュアリティ、優しさと激しさ。彼のイメージ・カラーであった紫も、正に赤と青を混ぜて作られた色なのです。
90年台半ばには、プリンスは契約のせいで思うように自由の活動ができなくなり、レコード会社と喧嘩になりました。レーベルに反抗する形で彼は一時期、アーティスト名を「プリンス」から男性(♂)と女性(♀)の記号を融合した、発音不可能の記号へと変えました。これはファンの間で「ラヴ・シンボル」と呼ばれるようになっていました。今でこそ性別は二者択一ではないとする「ノンバイナリージェンダー」という考え方が広まりましたが、プリンスは当時からその固定概念に疑問を投げかけていました。同時に、この行為は「自分はレコード会社の言いなりにはならない」というある種の“反乱"だったのです。プリンスは「白人を楽しませる見世物としての黒人アーティスト」の歴史を覆そうとしていたのではないでしょうか。
この“二面性"は、プリンスの晩年にも見られます。プリンスは2001年に“エホバの証人"のメンバーになりました。“エホバの証人"では、婚外の性的関係、同性愛、違法ドラッグを禁止しているため、それまでのペルソナを全否定するような入信に対して、多くのファンはショックを受けました。入信後はプリンスは性的な内容が特に色濃かった曲をライヴでは演奏しなくなり、布教活動もするようになりました。ところが、その宗教的な“目覚め"があった一方で、長年のライヴ活動で腰を痛めていたことから、普段から鎮痛剤を常用する生活を送るようになりました。最終的には2016年に、ヘロインの50倍の効果があるとされる鎮痛剤の「フェンタニル」の過剰投与によって中毒死します。
4.ジミヘンに憧れた“ネオ・ヒッピー"のレニー・クラヴィッツ
90年代初期のメインストリームの音楽シーンでも、尚も“白人音楽"と“黒人音楽"という明確な隔たりが存在していました。主に白人が聴いていたロックにおいては、かつてのクラシック・ロックは古びたものとみなされ、疎外感や怒りを歌った“グランジ"が主流となっていました。一方で、黒人が聴いていたヒップホップはいわゆる“ゴールデン・エイジ"という黄金期を迎えている時期でした。そんな中、60年代~70年代のロックンロールやハード・ロックとR&Bを融合したサウンドに“ラヴ&ピース"というメッセージを掲げて登場したレニー・クラヴィッツは、多くのアメリカ人からすると時代にそぐわない異質な存在でした。
そもそもクラヴィッツは、ユダヤ人の父親と黒人の母親の間にニューヨークのブルックリン区で生まれた“ハーフ"です。父親はテレヴィのニューズ・プロデューサーとして働き、副業としてジャズ・ライヴのプロモーターとしても活動していました。母親は女優で、公民権運動に積極的に関わっていたヒッピーでした。当時は異人種間の結婚がまだタブーであった時代であり、いろんな形で差別に合いながらも困難を乗り越えていく両親の姿は、幼いクラヴィッツに強い影響を与えました。
クラヴィッツは11歳の時に母親の仕事の都合でL.A.に移住しました。テレヴィ・ドラマ『ビバリーヒルズ高校白書』の舞台となる架空の高校の元となったビバリー・ヒルズ高校に入学します。同級生にはスラッシュや俳優のニコラス・ケイジが在籍していました。幼い頃から音楽に興味があり、ピアノとギターとドラムズを学んでいたクラヴィッツは、高校を卒業後、セッション・ミュージシャンとして活動するようになりました。当時からクラヴィッツはジミヘンに憧れていました。
クラヴィッツは同じくユダヤ人と黒人のハーフであった女優のリサ・ボネイと結婚すると、再びニューヨークに移住しました。その時のアパートの住人の中には、ユダヤ人のビジネスマン、マイケル・ゴールドスティーンがいました。ゴールドスティーンは60年代には音楽プロモーターとしてグレートフル・デッドやジェッファーソン・エアプレーンを担当し、クラヴィッツが憧れていたジミヘンとも親交があったことから、2人は意気投合しました。デビュー・アルバムの制作に取り掛かっていたクラヴィッツにとって、ゴールドスティーンは良き助言者となりました。
ところが、アルバムの収録が終わり、様々なレコード会社に売り込もうとしても、アメリカのレーベルとは中々契約できずに苦しみます。ファンクとロックとサイケデリック・ミュージックを融合したサウンドと、主なテーマとして愛の力を歌った内容は、白人からしては“白人っぽさ"が足りず、黒人からしては“黒人っぽさ"が足りないと言われました。最終的には英国のヴァージン・レコードの幹部に「プリンスとジョン・レノンを足して二で割ったようだ」と認められ、契約することとなりました。デビュー・アルバムの『レット・ラヴ・ルール』と2枚目の『ママ・セッド』は、アメリカではあまり売れず、(憧れのジミヘンと同じように)先にヨーロッパでブレイクすることとなりました。日本では、キャッチーなサウンドとルックスにより、とても高い人気となります。
『レット・ラヴ・ルール』
1989年にリリースされたレニー・クラヴィッツの1枚目のアルバムです。
『ママ・セッド』
1991年にリリースされたレニー・クラヴィッツの2枚目のアルバムです。
クラヴィッツはこの時期に、ボネットと離婚し、フランス人の歌手兼女優の、ヴァネッサ・パラディと付き合い始めました。彼がプロデュースを担当したパラディの3枚目アルバム『ビー・マイ・ベイビー』は、フランスと英国でヒットした隠れた名盤です。
『ビー・マイ・ベイビー』
ヴァネッサ・パラディが1992年に発表した3枚目のアルバムです。英題は 『Vanessa Paradis』です。
クラヴィッツがようやくアメリカでブレイクするきっかけとなったのが、3枚目のオリジナル・アルバム『自由への疾走』でした。表題曲はジミヘンを意識したギター・サウンドが特徴で、 90年代のロックを代表するヒットとなりました。日本でもこれまで、度々CMに使用されています。原題は “Are You Gonna Go My Way"(俺の道を行くか?)ですが、歌詞の内容はイエス・キリストをロックスターに例えたもので、クラヴィッツが歌う“my way"とは「愛の道」のことです。当時流行っていたグランジやギャングスター・ラップとは相反するそのメッセージ性は、多くの若者の共感を呼びました。色とりどりトップスとベルボトムを身につけたクラヴィッツは、90年代に流行した“ネオ・ヒッピー"の象徴的な存在となり、ヒッピー・ファッションは若者の間で再流行しました。
『自由への疾走』
1993年に発表されたレニー・クラヴィッツの3枚目のスタジオ・アルバムです。
良く言うとクラヴィッツのサウンドは様々なスタイルを融合した“オマージュ"ですが、一方で彼の音楽を60年代70年代の音楽のパクリだと主張するアメリカ人は、当時も今も多くいます。彼らは、「ラヴ&ピース」という楽観的なメッセージは時代遅れで、様々な文化的・人種的な対立がある世の中の現状を理解していない幼稚なものだと批判します。しかし、クラヴィッツにとっては、その生まれと育ちもあって、既存の人種や音楽の枠組みに囚われないスタンスは必然的だったのでしょう。そして一見、彼のロック・サウンドは当時のヒップホップとは接点がないように思えますが、様々なジャンルの音楽性やファッションの要素を取り入れて独自のものを作り出そうとするスタンスは、21世紀の音楽シーンの特徴でもある「サンプリングの文化」そのものでもあると言えるのではないでしょうか。確かにクラヴィッツには独創性はありませんが、創造性はあるのです。
クラヴィッツは現在、パリとバハマ諸島に自宅を構え、そこを行ったり来たりする生活をしているそうです。現在のアメリカでは「ラヴ&ピース」のメッセージには耳を傾けてもらえないことを肌で感じているのでしょう。
5.バンドに所属することを選んだスラッシュ
スラッシュは、英国人の父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間で生まれました。父親はニール・ヤングやジョニ・ミッチェルなどのアルバム・ジャケットをデザインしていたアーティストで、母親はデヴィッド・ボウイやジョン・レノンなどの衣裳をデザインするコスチューム・デザイナーでした。10歳まで英国で暮らし、その後母親と共にL.A.に移住しました。スラッシュは自身の人種について、次のように語っています。「ミュージシャンとして、自分が英国人でもあり黒人でもあることは昔から不思議でした。なぜならアメリカのミュージシャンの多くは英国人に憧れ、一方で英国人、特に60年代の英国人のミュージシャンの多くは、とにかく黒人になろうと苦労していたから。」
若きスラッシュは、ヒッピーたちが作り出したボヘミアンな雰囲気のある南カリフォルニアで育ちました。両親はそれなりに裕福で、スラッシュは金銭的には自由な環境の中で育てられましたが、親の離婚をきっかけに反抗心が芽生えて問題児となり、ティーネイジャーの頃からお酒を飲んだりドラッグをするようになりました。中学生の頃、後にガンズ・アンド・ローゼズのドラマーとなった、友人のスティーヴ・アドラーとバンドを組みたいと思うようになり、スラッシュはギターを習い始め、ローリング・ストーンズ、クリーム、レッド・ツェッペリンなどの曲をコピーするようになります。
80年代前半、スラッシュはL.A.を拠点としていた、いわゆる“グラム・メタル"シーンの様々なバンドとプレイする中で、後にガンズ・アンド・ローゼズのメンバーとなる面々と知り合います。ヴォーカルのアクセル・ローズは「ハリウッド・ローズ」というバンドをやっており、84年のライヴ中にギタリストが誤ってローズにギターをぶつけてしまい、怒ったローズは彼をバンドから追い出すという事件が起こります。その代わりに参加するとなったのがスラッシュでした。このバンドはいくつかのライヴを行いましたがすぐに解散しました。その後85年に「ハリウッド・ローズ」はスラッシュを含まない何人かのメンバーで再結成され、ギタリストのトレイシー・ガンズがやっていた「L.A.ガンズ」というバンドと合体することとなり、「ガンズ・アンド・ローゼズ」として、スタートを切ります。ところが結成から2ヶ月、正に売り出そうとしていた時期に、ギタリストのガンズとヴォーカルのローズは喧嘩になり、ガンズをはじめとする「L.A.ガンズ」のメンバーはバンドを抜けることとなりました。そこでローズは急遽スラッシュに声をかけ、加わってもらうことになりました。
ガンズ・アンド・ローゼズ(以後“ガンズ")は、L.A.のナイトクラブでライヴを行う中で、徐々に人気を集めていきました。暴力的なパフォーマンスと反抗的な歌詞から、レコード会社と契約する以前から「世界一危険なバンド」という悪名高いレッテルを貼られました。87年にデビュー・アルバム『アペタイト・フォー・ディストラクション』(“破壊欲")を発表し、アメリカの歴史上最も売れたデビュー・アルバムとなりました。
『アペタイト・フォー・ディストラクション』
1987年に発表された、ガンズ・アンド・ローゼズのデビューアルバムです。
ガンズの最大の売りはアクセル・ローズの美しい顔立ちとファルセットのヴォーカル、それにカリスマ性でした。バンドは彼のセックス・シンボルとしての人気に引き上げられる形で成功を掴んだと言えるでしょう。とはいえ、ローズの甘い声にスラッシュのメロディアスでスウィートなギター・サウンドが見事にマッチングしていたことも特筆すべき点でしょう。スラッシュのギターは圧倒されるような技術的な才能やオリジナリティはありませんが、口ずさむことができるような美しいメロディは、多くの男性ファンを持つようになりました。同時にその“男臭い"容姿も男からして魅力的でした。
そんなガンズは爆発的に売れ、瞬く間に大型アリーナで演奏するようになりました。1991年にはオリジナル・アルバム『ユーズ・ユア・イリュージョンI』『ユーズ・ユア・イリュージョンII』が同時発売され、アメリカと英国の両方のアルバム・チャートで2位と1位を獲得しました。しかし、ガンズは大きくなればなるほど、ドラッグなどの誘惑も増え、バンド内の人間関係が悪化しました。スラッシュはヘロインのヘヴィー・ユーザーとなり、ローズに「シラフにならないと脱退するぞ」と言われて一時期は薬物を断つものの、その後再び使用するようになります。一方で、暴言や人種差別的な発言を平気にするローズに対して、スラッシュは複雑な思いを抱くようになっていました。2人の対立は悪化する一方で、最終的に曲を採用してもらえなくなったスラッシュは、90年代半ばにガンズから脱退しました。
『ユーズ・ユア・イリュージョンI』
ガンズ・アンド・ローゼズの3枚目のアルバムです。全米アルバム・チャートで2位を獲得しました。
『ユーズ・ユア・イリュージョンII』
ガンズ・アンド・ローゼズの4枚目のアルバムです。全米アルバム・チャートで1位を獲得しました。
スラッシュはその後、他のシンガーを迎え入れながら主にソロ活動を続けてきましたが、ガンズ時代に比べると、商業的なヒットには恵まれませんでした。
かつてアクセル・ローズは再結成の見込みについて “Not in this lifetime"(一生ない)と答えていましたが、2016年にスラッシュとローズは和解し、ガンズは再結成されました。その時に開催された『ノット・イン・ディス・ライフタイム・ツアー』では、スラッシュの高校時代の同級生のレニー・クラヴィッツが、いくつかのステージに前座として演奏しました。今ではスラッシュはドラッグも酒もタバコさえもやめており、ローズはスピリチュアルやホメオパシーにはまっています。ガンズの“破壊欲"は丸くなったようです。
6.黒人ギタリストとしてやっていくということ
これまで見てきたように、黒人ギタリストとしてロックというジャンルで活動していくのは一筋縄ではいかず、白人ギタリストの少なくても倍の努力をしないと生き残ることはできませんでした。
ジミヘンはR&Bのギタリストとしてキャリアをスタートしながらも、ロックのギタリストとして英国で最初にブレイクすることとなりました。その後、アメリカの音楽フェスでの伝説的な演奏で白人社会の間で広く知られるようになりました。やがて自分が見世物扱いされていることに気づき、黒人にも受け入れられようとその音楽性を広げようとした矢先に亡くなってしまいました。
一方でプリンスは、デビュー当時から“黒人音楽"というレッテルを貼られ、ロックやポップ・チャートで成功を手に入れようと葛藤しました。“黒人ギタリスト"というアイデンティティのみで生き残っていくことは困難だと感じていた彼は、自身の作品でほとんどの楽器を自ら演奏しました。加えて男でも女でもとも言えない派手なステージ衣裳とペルソナで、謎めいたアーティスト・イメージを育てていき、ジャンルやレッテルや人種の壁を超越しようとしました。
レニー・クラヴィッツは、ジミヘンに強く憧れると同時に、“黒人ギタリスト"としては自分にはジミヘンほどの技術がないとわかっていたからこそ、プリンスと同じように、自身の作品ではほとんどの楽器を自ら演奏し、プロデュースもするようになりました。また、独創的な音楽を生み出す才能もないとわかっていたクラヴィッツは、ヒッピホップの“サンプリング文化"に見習い、自分に影響を与えた60年代~70年代のロックやR&B、ソウルやファンクの要素を取り入れて、自分らしいサウンドを模索しようとしました。アイドルであったジミヘンと同じようにまずヨーロッパや日本でブレイクしたものの、アメリカにおける評価は依然としていまいちなのが残念です。
スラッシュは、前述の3人に比べて、ソロ・ミュージシャンとしてやっていけるだけの技巧性はないと感じていたためか、バンドの一員として活動していくことを選択しました。運良くアクセル・ローズに声をかけられ、売り出そうとしていたガンズ・アンド・ローゼズに加わることができました。ローズのカリスマ性は白人女性のファンを魅了し、一方でスラッシュのメロディアスなギターと男臭い容姿は白人男性を魅了しましたが、あくまでもスラッシュは白人ロック・バンドにたまたま入った黒人ギタリストであり、ガンズは世界的に有名になってもアメリカの黒人社会にアピールすることはありませんでした。
4人とも、「黒人ギタリスト」としてアメリカの音楽市場で活躍するためには何かを犠牲にするか、何か風変わりなことをしなければならなかったことに、黒人ギタリストの前に立ちはだかる壁があります。その一方で、その人種の壁が存在しなかったヨーロッパや日本においては、4人は人種を超えた人気を持ったこともとても興味深いことです。
7.エピローグ
この4人は、実は日本の現代音楽シーンにもとても大きな影響を与えています。
“ジミヘン"という日本独自の愛称が示すように、彼をギター・ヒーローとして慕うギター少年は過去も現在も数多くいます。日本のギター・マーケットでは、今尚ジミヘン・モデルの人気が高く、右利き用のジミヘン・モデルさえ存在しています。また、プリンスの中性的で妖艶な外観の影響を受けた日本のヴィジュアル系ミュージシャンも多くいますし、プリンスが使用していた“ラヴ・シンボル"の形をした変形ギターなどは、THE ALFEEのギタリストである高見沢俊彦などに影響を与えたことが伺えます。
また、ガンズ・アンド・ローゼズをはじめとするL.A.のグラム・メタルのバンドも、現代のJ-POPを代表するX JapanやGLAY、L’Arc~en~Cielなどのヴィジュアル系バンドに強い影響を与えました。X JapanのYoshikiやToshi、GLAYのTeru、L’Arc~en~CielのHydeが売りとする女性受けする容姿と歌声は、正にアクセル・ローズの“コピー"とさえ言えるでしょう。
その点で、ヴィジュアル系ではないものの、ガンズの成功を最も見習った日本のバンドはB’zでしょう。ヴォーカルの稲葉浩志のかっこいいルックスと、松本孝弘の男ウケするメロディアスなギター・サウンドは、正にアクセル・ローズとスラッシュのコンビを意識した組み合わせではないでしょうか。初期の頃のB’zのライヴでは稲葉は肉体を強調したアクセル・ローズの短パンを履いていましたし、松本もスラッシュを意識したシルクハットを被って登場したことが度々あります。X Japan、GLAY、L’Arc~en~Cielのファンの大半は女性であるのに対して、B’z のファンには男性が多くいるのも、この絶妙なバランスをとったコンビが理由なのでしょう。
更にB’zは、レニー・クラヴィッツにも習って、アメリカのロックの良いところを、時代を問わずに“パクって"成功しています。時にはガンズっぽい、時にはヴァン・ヘーレンっぽい、時にはエアロスミスっぽい、時にはレッド・ツェッペリンっぽい曲を発表してきました。アメリカのロックに詳しくない日本のJ-POPファンに向けて、その要素を融合して日本人ウケする“演歌っぽさ"を取り入れたことで90年代から現在に渡って爆発的なシングルとアルバムのセールズを誇っています。
最後にB’zのヴォーカルの稲葉氏は、数年前にスラッシュと組んで『SAHARA』という曲を作りました。何も知らずに聴くと、ついつい「B’zの新曲?」と思いそうなサウンドとなっていますが、むしろそれはB’zがいかにガンズのサウンドに影響を受けたかを物語っているからなのではないでしょうか。