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サイケデリック・ソウルとファンク(前編)  
 黒人ソウル・ミュージシャンの魂の叫び
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)
  - スライ&ザ・ファミリー・ストーン/カーティス・メイフィールド/テンプテーションズ | MUSIC & PARTIES #021
Photo: ©RendezVous
2021/12/13 #021

サイケデリック・ソウルとファンク(前編)
黒人ソウル・ミュージシャンの魂の叫び
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)
- スライ&ザ・ファミリー・ストーン/カーティス・メイフィールド/テンプテーションズ

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

1960年代初頭のアメリカは希望に満ちていました。1961年には、白人の若者や黒人層をはじめとするマイノリティーにとっての希望の星だったジョン・F・ケネディが大統領に就任したからです。その後、60年代中盤には人種差別の解消を目指してアフリカ系アメリカ人による公民権運動が最盛期を迎え、ベトナム反戦運動や環境保護運動などの学生デモ活動も盛んになっていきます。60年代後半にはヒッピー運動が勢力を増し、それまでの社会の常識に対抗して「ラヴ&ピース」の理念に基づいた社会作りが動き出していました。

こうした激動の時代の象徴は人種の壁でした。これまでこのシリーズで紹介してきたように、理想を追いかけたヒッピー運動は主に白人の若者によるものであったのに対して、人種差別を変えようとした公民権運動は黒人によるものでした。白人は“ロック"という“白人音楽"を聞いていたのに対して、黒人は“ソウル・ミュージック"という“黒人音楽"を聞いていました。白人向けのレイディオは黒人音楽を一切かけず、黒人向けのレイディオは白人音楽をかけることはほとんどありませんでした。

そんな中、ジミ・ヘンドリックスのギターに感銘を受け、本来は白人のための音楽であったロックやサイケデリック・ミュージックに強い影響を受けた黒人ミュージシャンもいました。また、人種の壁を超越し、全米ポップ・チャートでブレイクして白人の間でも人気を博すようになった黒人ミュージシャンもいました。彼らは白人音楽であったサイケデリック・ロックと黒人音楽であったソウル・ミュージックを融合させ、そこにヒッピー的なオプティミズムと公民権運動家の問題意識を同居させることで、“ファンク"というとても濃い音楽ジャンルを生み出しました。
今回のコラムではそんな偉業を成し遂げた黒人ミュージシャンたちを取り上げたいと思います。


2.サイケデリック・ソウルというジャンルを確立したスライ&ザ・ファミリー・ストーン

1960年代の黒人音楽といえば、タクシードを身につけた男性ヴォーカル・グループや同じヘア・スタイルをした女性ヴォーカル・グループがスウィートなラヴ・ソングを歌うモータウン・サウンドが主流でした。

そんな中、異色を放っていたのがスライ&ザ・ファミリー・ストーンです。ヒッピーの聖地であった北カリフォルニアのサン・フランシスコ・ベイ・エリアで1966年に結成され、人種・性別を混合したバンド編成と、ソウルとロックとサイケデリック・ミュージックをブレンドしたサウンドが特徴です。アメリカにおいて白人音楽と黒人音楽の間に深い溝があった時代において、ヒッピーたちが謳っていた「ラヴ&ピース」のユートピア的な社会理念を最も象徴した、画期的な存在といえます。

このバンドは1968年にデビュー・アルバムを発表しますがあまり売れず、レコード会社の社長はより商業的な作品を制作するように促しました。リーダーのスライも、バンドの政治的なメッセージを一般のリスナーに届けるためには、まず音楽チャートでブレイクする必要があると考えていました。そこで制作されたポップ寄りのシングルが、 “ダンス・トゥ・ザ・ミュージック"です。この曲は狙い通り、ビルボード・シングル・チャートのトップ10入りを果たし、「サイケデリック・ソウル」というジャンルが広まるきっかけとなりました。

ロック風のギターにソウル風のベース、ジャズに由来するスキャット、ゴスペルを意識した半分歌い口調と半分語り口調のヴォーカルなど、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの魅力がたっぷり詰まった1曲です。遊び心のある歌詞の内容はバンド・メンバーの紹介となっており、メンバーのうちの4人がヴォーカル・パートを分担しながら掛け合って歌っています。スライは自己紹介のパートで「ライド・サリー・ライド」と歌っていますが、これはソウル・シンガーのウィルソン・ピケットの『ムスタング・サリー』の歌詞の一節の引用です。(日本ではフォード社の車もフェンダーのギターも正式名称が「ムスタング」となっていますが、正確な発音は「マスタング」です。)

スライ&ザ・ファミリー・ストーンによるサイケデリック・ソウルの最高傑作とされる作品が、4枚目のアルバム『スタンド!』(1969年)です。このアルバムに収録されている『エヴリデイ・ピープル』は平和と多様性を高らかに歌った明るい曲であり、ヒッピー・ムーヴメントを代表する曲ともなりました。この曲の歌詞の一部を紹介します。

『スタンド!』
スライ&ザ・ファミリー・ストーンが1969年に発表した4枚目のスタジオ・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで121位にランクインしています。

There is a blue one who can't accept the green one
For living with a fat one, trying to be a skinny one
And different strokes for different folks
And so on and so on and scooby dooby doo-bee
緑色の人を受け入れることができない青色の人がいる
痩せ細った人になろうとしている太った人と一緒に住んでいるからといって
人はそれぞれ好みが知合う
などなど、スクビ・ドゥビー・ドゥービー (訳:KAZOO)

ヴァース(Aメロ)とコーラス(サビ)をつなげるブリッジ(Bメロ)に相当するこの部分では、校庭などで子供同士がからかい合う時に使う、掛け声のリズムが用いられています。“Scooby dooby doo"というフレイズは元々スキャットですが、翌年の1969年から制作されているアメリカの長寿テレヴィ・アニメ番組『スクービー・ドゥー』のキャッチ・フレイズとしても使用されました。スライたちは、あらゆる差別は幼稚なもので、誰もがみんなが「どこにでもいる平凡な人」であることを訴えたかったのではないでしょうか。

このアルバムの大ヒットによってスライ&ザ・ファミリー・ストーンはメインストリームで本格的にブレイクすることとなりました。ヒッピー・ムーヴメントの象徴的なイヴェントとなった1969年8月の「ウッドストック・フェスティヴァル」での演奏は大反響を呼び、一方で同時期に開催された「ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァル」(通称「ブラック・ウッドストック」)ではメイン・アクトを務めました。

しかし、この成功に伴って、バンド内の人間関係は、少しずつ悪化していきました。黒人主義を掲げるブラックパンサー党はスライにバンドから白人を追い出し、黒人ミュージシャンを起用するように要求しました。バンドは拠点をサン・フランシスコからロス・アンジェレスに移すと、メンバーはコカインなどのドラッグを常用するようになり、スライはツアーのライヴの3分の1をすっぽかしたりするなど、精神的に不安定な行動が目立つようになりました。この頃(1968年)にはキング牧師が暗殺され、公民権運動はより暴力的になり、ベトナム戦争は泥沼化するなど、怒涛の時代となっていました。

そんな中でリリースされた5枚目のアルバム『暴動』(1971年)は、明るいサイケデリック・ソウルを代表した前作から一変して、暗くて重いムードが漂い、粘っこいファンク・サウンドが特徴の作品になっています。本作は9割型スライが1人で制作し、演奏したとされます。シングルとしてリリースされた収録曲の『ファミリー・アフェア』は『エヴリデイ・ピープル』とは対照的な悲観的な曲となっています。歌詞は家族の良い面と悪い面を歌ったものとなっており、スライのドロドロした低いトーンのヴォーカルと後半の子供の泣き声のような叫びが印象的です。

『暴動』
スライ&ザ・ファミリー・ストーンが1971年に発表した5枚目のスタジオ・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで99位にランクインしています。

その後バンドは何度ものメンバー変更を経ながらなんとか存続しますが、メンバーのドラッグ使用は悪化する一方で、それに伴ってライヴ・バンドとしての評判も低下しました。最終的に、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは75年に解散することとなりました。このバンドは正にサイケデリック・ムーヴメントの光と陰を最も象徴したバンドだったと言えるでしょう。


3.社会の崩壊について歌ったカーティス・メイフィールド

カーティス・メイフフィールドは、1942年にイリノイ州シカゴで生まれました。5歳の時に父親が家族を去り、少年時代は母親と祖母に育てられながら、黒人の低所得者向けの公営住宅街を転々として過ごしました。母親からピアノを教わり、8歳の時からシカゴのゴスペル・グループの一員として活動するようになりました。10歳ごろにギターを独学で学び、ティーネイジャーの時に地元のいくつかのドゥーワップ・グループからのメンバーが集まり、1958年に「インプレッションズ」というグループを結成しました。当初のリーダーが間も無くグループから脱退すると、16歳のメイフィールドは事実上のリーダーとなり、ゴスペルの要素を色濃く取り入れたR&Bの曲を生み出し、それを次々とヒットさせます。

メイフィールドは当初から自身が経験していた黒人の貧困層の暮らしの現状を題材に歌っており、ラヴ・ソングを主に歌っていたモータウンのライヴァル・グループたちとの差別化を図っていました。そしてアメリカにおける人種差別を禁じた1964年の公民憲法の成立をきっかけに、より一層社会問題を意識した曲作りに取り組むようになりました。この頃にメイフィールドが作曲・作詞した曲は、公民権運動のアンセムとして用いられるようになりました。中でも最もインパクトがあったのが、65年に発表された『ピープル・ゲット・レディ』です。この曲は全米R&Bチャートで3位、全米ポップ・チャートで14位まで登りました。

ジェフ・ベックとロッド・スチュワートは『ピープル・ゲット・レディ』のカヴァーを1985年にリリースしました。このコラムのシリーズで以前紹介したように、スチュワートは60年代終盤にジェフ・ベック・グループのヴォーカルとして何枚かのアルバムを出しましたが、2人は不仲となり、バンドは解散しました。2人は仲直りしてこのカヴァー曲をレコーディングしましたが、その後再び不仲となりました。

山下達郎もカーティス・メイフィールドを敬愛しており、内省的な歌詞の『蒼氓』は『ピープル・ゲット・レディ』のメロディを基にしています。ライヴで演奏する際には、間にこの曲をカヴァーしたりもしています。

People get ready
There's a train a-coming
You don't need no baggage
You just get on board
準備を整えよう
列車がやって来る
荷物なんて要らない
ただ乗り込めばいい

All you need is faith
To hear the diesel’s humming
Don't need no ticket
You just thank the Lord
信じる心さえあれば
ディーゼルのうなりが聞こえてくる
切符なんて要らない
ただ主に感謝すればいい

この曲はゴスペルの要素と黒人奴隷の労働歌や霊歌の要素が合わせられた作品で、黒人社会に向けて「変化の波が訪れつつある」という励ましのメッセージが込められています。ここでいう“train”(列車)というのは、奴隷制の時代において奴隷をアメリカの南部から北部へ亡命する手助けをしていた“Underground Railroad”(地下鉄道)という秘密組織を指しています。自由な移動が認められていなかった奴隷にとって、「列車」という乗り物は自由を象徴しており、当時の労働歌にも度々用いられています。60年代の公民権運動の時代に生きていた黒人たちも、様々な社会問題や経済的不自由に悩まされており、とても「自由を勝ち取った」とは思えなかったのでしょう。キング牧師は『ピープル・ゲット・レディ』を自身の集会でも何度も起用し、集まった人たちに聞かせていたと言われています。

メイフィールドは70年にソロに転換し、商業的なグループでは表現し切れなかった音楽性とメッセージ性を追求しました。第一弾のシングル『(ドント・ウォリー)イフ・ゼアズ・ア・ヘル・ビロウ・ウィア・オール・ゴナ・ゴー』(心配しないで、私たちの下に地獄という場所が存在するならば、全員地獄行きだ)は、地元のシカゴをはじめ、アメリカ各地の都市部のスラム地区において人種間の軋轢が一触即発の状態となっていた事態を歌った“戒め”の曲です。金管楽器や弦楽器、ワウ・ペダルの効いたギター、エコーのエフェクターがかけられたヴォーカルなど、サイケデリック・ソウルとファンクの要素を積極的に取り入れた名曲です。

メイフィールドのソロの最高傑作として名高いのが、72年の映画『スーパーフライ』のサウンドトラックとして発表されたアルバムです。この映画は、麻薬ディーラーで売春婦のヒモである黒人の主人公が、闇社会から足を洗おうとする物語です。当時、黒人社会の中には黒人をヒモやドラッグ・ディーラーやギャングスターとして描こうとするメディアに対して反対的だった人は少なくありませんでした。しかし、公民権運動の時代の中で生まれた多くの黒人の若者たちにとって、スラム地区で成功するには映画の主人公のような道を歩む以外の選択肢はないと感じたことでしょう。

『スーパーフライ』
1972年に発表されたカーティス・メイフィールドのサウンドトラック・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで69位にランクインしています。

一方でメイフィールドのサウンドトラックの歌詞は、映画作品の曖昧なスタンスに比べて、明確に反ドラッグを主張しており、スラム地区に住む黒人社会の現状に異論を唱えています。黒人は自らの力で負の連鎖から抜け出し“自由"を手に入れるしかないという強いメッセージが込められています。この映画とアルバムは60年代の公民権運動とオプティミズムの結果として生まれた、白人の保守派の反発に揺れる黒人社会を生々しく描いています。


4.モータウン・サウンドを進化させたプロデューサー

60年代初頭に結成されたテンプテーションズは、当時のモータウンを代表するグループの1つです。60年代半ばまでは『マイ・ガール』など、ピアノやストリングズを中心としたバラードで黒人の間で人気を博すようになっていました。

1966年にプロデューサーのノーマン・ウィットフィールドが担当するようになると、ジェームズ・ブラウンを意識した金管楽器を取り込むようになり、よりハードでエッジの効いたソウル・サウンドが出来上がりました。白人のマーケットにも進出したいというモータウンの戦略に乗り、この頃からテンプテーションズは、人種の壁を超えた知名度を得るようになりました。更に1968年に、ウィットフィールドはスライ&ザ・ファミリー・ストーンがリリースした『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』に衝撃を受け、サイケデリック・ソウルの要素をモータウンにも取り入れようと試みます。その1作目が、テンプテーションズの『クラウド・ナイン』です。

スライ&ザ・ファミリー・ストーンに習って、それまでのラヴ・ソングから一変して、黒人が直面する貧困や家族崩壊といったテーマを取り扱っています。また、それまでのリード・シンガーとバックアップ・シンガーという編成だったのに対して、メンバーそれぞれがリード・ヴォーカルを担当するというより“民主主義的"な編成になりました。この曲は全米でヒットし、モータウン初のグラミー賞(最優秀R&Bデュオ/グループ・ボーカル)を受賞しました。

その後ウィットフィールドが手がけた曲は、実験的なヴォーカルのアレンジ、ディストーションの効いたギター、多重録音のドラムなどを取り組むようになりました。この頃、テンプテーションズ以外にも数多くのモータウンのアーティストのヒット曲を手掛け、モータウンを一大レイベルに成長させました。

彼の代表作の一つが、モータウンのスタンダード・ナンバーとなった、恋人の浮気を歌った『悲しいうわさ』です。中でも最もヒットしたのはマーヴィン・ゲイのためのアレンジしたものです。恋の別れが迫りつつあるような遅めのテンポ、ミステリアスな空気を醸し出す電子オルガン、敢えてゲイに普段より高いキイで歌わせたセクシーなヴォーカルが聴きどころです。

他にもエドウィン・スターの『黒い戦争』は、ヴェトナム戦争時代を代表するプロテスト・ソングとなりました。実は当初、ウィットフィールドはこの曲を元々テンプテーションズのために書き、アルバム用にもレコーディングしていたのです。反戦的な内容がテンプテーションズの保守的なファンの反感を買うかもしれないと言うレイベルの懸念から、シングルとしてはリリースされませんでした。スターの怒りに満ちたヴォーカルはジェームズ・ブラウンの影響を強く感じさせます。

ウィットフィールドとテンプテーションズ、そしてモータウンが発表したサイケデリック・ソウルの最高傑作が、テンプテーションズの『パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン』(1972年)です。オリジナル・ヴァージョンは12分にも及ぶ大作で、長いインストゥルメンタル、壮大なオーケストラの演奏が特徴的な曲です。7分に縮められたシングル・ヴァージョンは全米ポップ・チャートで1位、R&Bチャートで5位を獲得するヒットとなりました。また、本作でテンプテーションズは2つ目のグラミー賞(最優秀R&Bデュオ/グループ・ボーカル)を受賞することとなります。

「お父さんはザ・ローリング・ストーンのメンバーだった」とも捉えるタイトルですが、それは大きな間違いです。歌詞は、ある兄弟たちが亡き父親の人物像について母親を問い詰めるものです。近所から聞き付けた様々な噂話を次々と母親にぶつけますが、彼女はあるフレイズを繰り返すだけです。

Papa was a rollin’ stone
Wherever he laid his hat was his home
And when he died, all he left us was alone
パパは転がる石だったの
あの人にとって、帽子を置いた場所が“我が家”だったの
そしてあの人が死んだ時、私たちに残したのは孤独だけ

つまり、“rolling stone”とは1つのところに根付かず、家から家へ、町から町へ、仕事から仕事へ次々に移る人のことなのです。この曲は実は、当時あまり取り上げられることがなかった黒人社会における家族崩壊や貧困の問題を痛切に歌った曲なのです。

この曲はヒットしたものの、その背後には、ウィットフィールドとテンプテーションズのメンバーたちの間に軋轢が生じていました。メンバーたちは、自分たちのヴォーカルではなくインストゥルメンタルを中心とした曲作りが多くなってきたことが気に入らず、ロマンチックなバラッドをもっと歌いたいという気持ちが強くありました。結局70年代半ばにウィットフィールドはテンプテーションズのプロデューサーの座を離れることとなりました。

『ザ・ベスト・オヴ・ザ・テンプテーションズ』
2枚組のテンプテーションズのベスト盤です。


MUSIC & PARTIES #021

サイケデリック・ソウルとファンク(前編)  黒人ソウル・ミュージシャンの魂の叫び - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)


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