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サイケデリック・ソウルとファンク (後編)
  黒人ファンク・ミュージシャンの熱い遊び心
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)
  - ジェイムズ・ブラウン/ジョージ・クリントン/ブーツィ・コリンズ | MUSIC & PARTIES #022
2021/12/27 #022

サイケデリック・ソウルとファンク (後編)
黒人ファンク・ミュージシャンの熱い遊び心
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)
- ジェイムズ・ブラウン/ジョージ・クリントン/ブーツィ・コリンズ

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


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5.ソウル・ミュージックとファンク・ミュージックのゴッドファーザー、ジェイムズ・ブラウン

ソウル界のゴッドファーザーと呼ばれていたジェイムズ・ブラウンは、1956年にデビューするといきなり『プリーズ、プリーズ、プリーズ』で大ヒットを記録します。ゴスペル・ミュージックとR&Bを融合したこの曲は、去ろうとする恋人を呼び止めようとする男のことを歌ったものですが、同時に神の御恵みを求める曲とも捉えることができます。このスタイルはソウル・ミュージックの先駆けとなりました。

しかし、ブラウンはその後しばらくヒットに恵まれず、モータウンなどから生まれた数々のソウル・ミュージシャンがデビューする中で、埋もれそうになっていました。50年代後半から60年代前半にかけて、ひたすらライヴをやり続けることでバンドの技術を磨き上げ、自分のスタイルを確立しようとしました。そのため、彼の音楽の魅力を知るためには、スタジオ・アルバムではなくライヴ・アルバムがオススメです。

ソウル時代のブラウンのライヴの迫力が最も凝縮されているのが、63年にリリースされた『ライヴ・アット・ジ・アポロ』です。

『ライヴ・アット・ジ・アポロ』
ジェイムズ・ブラウンが1963年に発表したライヴ・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで25位にランクインしています。

ブラウンの激しいライヴは伝説となり、「ミスター・ダイナマイト」「ショービジネス界一番の働き者」と称されるようになりました。特に有名なのが、初期の代表作『プリーズ、プリーズ、プリーズ』を演奏する際のパフォーマンスでした。演奏の途中にブラウンは膝をつき、唸り声を上げ始めると、MCがやってきてマントを力尽きたブラウンの肩にかけ、バンドが演奏を続ける中、ステージの端まで案内しようとします。するとブラウンはマントを払い飛ばし、マイクの方までよろめき、再び全力で歌い出します。これが何度も繰り返され、ブラウンはマントをかけられる度に振り払って歌い出すのがお決まりでした。音楽の力によって蘇るというこの演奏スタイルは、ブラウンが幼い頃に黒人教会で見た牧師の熱狂的な説教を基にしていたそうです。(黒人教会とは会衆の大部分がアフリカ系アメリカ人信者であるプロテスタント系キリスト教教会の俗称です。)

60年代後半になると、ブラウンのソウル・サウンドは徐々にファンク・サウンドへとシフトしていきました。そのきっかけとなったのが65年に発表された『パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ』でした。当時のソウルは、ダメな男が去ろうとする恋人を呼び止めようとするラヴ・ソングが主流であったのに対して、この曲は自信満々の黒人男性が最新のダンス・ステップを見せびらかすという内容です。題名にある“brand new bag"は直訳すると「新しいバッグ」ですが、実際には「新しいスタイル」「新しい技術」を意味するスラングで、ブラウンが新しい音楽的な試みに挑戦しようとしていたことも表しています。ブラウンはこの曲で初めてのグラミー賞(最優秀R&Bソング賞)を受賞しました。

また、69年に収録され、70年に発表された『ファンキー・ドラマー』はジャム・セッションから生まれた曲です。独特なドラムとベースの上にシンプルなリズム・ギター、サックス、電子オルガンが乗り、ブラウンのヴォーカルは即興で、主にバンド・メンバーに向けた掛け声となっています。目玉となるドラム・ソロのパートが来ると、ブラウンは「ブラザー、ソロはやらなくていい。今のリズムを保っててくれ。あまりにもカッコ良いから」と指示を出します。この伝説的な“ソロ"は80年代に多くの“黒人"のヒップホップ・アーティストにサンプリングされ、以後数え切れないほど多くの“白人"のポップ・ソングでもサンプリングされていると言われています。

そんなブラウンはリーダーとしてバンド「JB’s」に厳しい規律を課し、ライヴでは必ずタクシードを着させたり、靴は必ずピカピカにしておくことなどを求めました。また、ライヴ演奏中にミスをしたメンバーに対して、すぐに振り返り、“Gotcha!"(今の、気づいぞ)と言ったり、指で罰金の金額を示すことで知られていました。ブラウンにとって完璧なリズムとグルーヴを保ち続けることが、プロフェッショナルとして何より大事だったのではないでしょうか。

70年3月に、当時のバック・バンドのメンバーの大半が金銭的なトラブルを巡って脱退すると、ブラウンはファンク・ミュージシャンのブーツィー・コリンズ(ベース)とキャットフィッシュ・コリンズ(リズム・ギター)を中心とした新たなバック・バンドを結成しました。これによってブラウンのサウンドはより一層、コテコテなファンク・サウンドへと進化してくこととなりました。このラインアップの代表曲とされるのが、70年に発表された『セックス・マシーン』です。この曲の冒頭にあるブラウンとバンドのコール・アンド・レスポンス(掛け合い)は、後にヒップホップにも広く見受けられる基本的なテクニックとなっていきます。

『ラヴ・パワー・ピース:ライヴ・アット・ザ・オリンピア、パリ1971』はファンク時代のブラウンとそのバンドの絶好調を捉えたライヴ盤です。初期の頃の作品から『セックス・マシーン』まで、セットリストは名曲ばかりで、バック・バンドも最高のプレイをしています。本作はもともと1971年に3枚組のライヴ・アルバムとしてリリースされる予定でしたが、ツアー直後にブーツィー・コリンズを始めとするバンド・メンバー数人が脱退したことを受けてブラウンはレイベルを乗り換えたため、本作は1992年までお蔵入りとなっていました。ブーツィーにとって、毎晩タクシードを着て、決められた枠内で演奏することは耐えられなかったのかもしれません。

『ラヴ・パワー・ピース:ライヴ・アット・ザ・オリンピア、パリ1971』
ブーツィー・コリンズ所属時のラインアップによる唯一のライヴ・アルバムです。

70年代半ばになると、キラキラしていたディスコ・サウンドの頭角によって、ブラウンのコテコテなファンク・サウンドの人気に陰りが出始めました。皮肉にもブラウンの昔の曲はディスコDJに重宝されていたものの、新作は時代遅れと批評されるようになりました。ブラウン本人はなかなかディスコには乗り気ではなかったのです。一方で、ブラウンのバンドを脱退していたブーツィ・コリンズらは、ジョージ・クリントンが率いたパーラメント/ファンカデリックに加わり、大成功を手にしていました。


6.ファンクをパロディの領域に高めたパーラメントとファンカデリック

ニュージャージ州生まれのジュージ・クリントンは、1956年、15歳の時にタバコの「パーラメント」に因んで「ザ・パーラメンツ」というドゥーワップ・グループを地元のバーバーショップ(理髪店)で結成しました。60年代に入るとクリントンはグループ活動を続ける一方で、モータウンに作曲家/プロデューサーとして所属するようになりました。67年にザ・パーラメンツがようやくヒット曲に恵まれると、クリントンはツアーを開催したいと思い、バック・バンドを雇うことにします。その後ザ・パーラメンツはヴォーカル・グループから黒人音楽であるR&Bを基盤としたファンク・バンド「パーラメント」として生まれ変わり、バック・バンドは白人音楽であったロックを基盤としたファンク・バンド「ファンカデリック」となりました。クリントンは両方のバンドのリーダーとプロデューサーを務めます。この2つのメンバーのかなりの部分が重複してました。この2つのバンドのサウンドは、やがて「Pファンク」と呼ばれるようになりました。

ファンカデリックはジミ・ヘンドリックスやスライ&ザ・ファミリー・ストーンの要素を多分に取り入れ、初期の作品はサイケデリック・ロックの要素が色濃く表れています。このころの最高傑作が71年の『マゴット・ブレイン』です。メンバーたちがLSDでトリップしまくっていた中で収録された本作は、ヴェトナム戦争の泥沼化、公民権運動のリーダーの暗殺、都市部のスラム地区のありさまなどをテーマに扱い、アメリカの闇を表現しています。表題曲は10分にも及ぶ大作で、この世のものとは思えないクリントンのナレーションから始まります。

Mother Earth is pregnant for the third time
For y’all have knocked her up
I have tasted the maggots in the mind of the universe
I was not offended
For I knew I had to rise above it all
Or drown in my own shit
母なる大地は三度目の妊娠中
お前らが孕ませたからだ
俺は宇宙の意識に巣食ううじ虫を味わった
そして決して腹を立てたりはしなかった
この事態から抜け出さなければ
自分の愚かさに溺れてしまうからだ (訳詞:KAZOO)

そこから事実上、ギターのエディ・ヘイゼルのソロが10分間も続きます。クリントンはヘイゼルに「お前のお母ちゃんが死んでしまったかのように弾いてくれ」と指示したそうです。元々はバンド曲にするつもりでしたが、あまりにもぶっ飛んだギター・サウンドに感動したクリントンは、他の全ての楽器の音量レヴェルをかすかに聞こえる程度に落としたそうです。

『マゴット・ブレイン』
ファンカデリックが1971年にリリースした3枚目のスタジオ・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで486位にランクインしています。

クリントンによると、“Maggot Brain" (うじ虫が巣食った脳みそ)とは、ファンク・ミュージックという“自由"な音楽を通して解放された意識を指す表現だそうです。そしてその手助けをするのが幻覚剤なのです。ファンカデリックのその後の作品もファンクをある種の宗教として位置付け、ファンクこそが人類を救うというメッセージが表現されています。

一方で、黒人音楽であるR&Bの要素を多分に取り組んだパーラメントは、ピアノとキイボードを大きくフィーチャーし、ファンクのリズムと宇宙空間への旅立ちを歌った歌詞を組み合わせることで“自由"と“解放"を表現しました。この宇宙というコンセプトは、パーラメントの一連の作品を通して物語形式で展開されています。クリントンは、宇宙を舞台にしたSFの作品には黒人がほとんど登場しないことに目をつけ、敢えてそこに黒人を登場させることでいわゆるエスタブリッシュメントに対しての反抗を表現しました。

クリントン自身と並んで大きな存在感を放ったのが、ジェイムズ・ブラウンのバック・バンドを経て72年に加わった、ベイスのブーツィー・コリンズでした。ブーツィーは独特なグルーヴ感のあるプレイ、トレイドマークの星型サングラスをなどの派手なステージ衣装と「スペース・ベース」と呼ばれた星型のベイスでPファンクの中心的なメンバーとなりました。

パーラメントの最高傑作とされるのが、75年にリリースされた『マザーシップ・コネクション』でした。ジャケットにはUFOに乗った、ディスコ・ファッションをまとった黒人宇宙飛行士が描かれています。アルバムの内容は“ファンク不足"に陥っている宇宙人たちがファンクを求めて地球にやってくるという荒唐無稽なストーリーとなっています。「ローリング・ストーン」誌は本作を「モダン・ファンクのパロディ」と評しました。

『マザーシップ・コネクション』
パーラメントが1976年にリリースした4枚目のスタジオ・アルバムです。「ローリング・ストーン」誌の『歴代アルバム500』のリストで276位にランクインしています。

中でもアルバムのクライマックスとなる『ギブ・アップ・ザ・ファンク』は、地球上のファンクを買い取ることに失敗した宇宙人が「ファンクをよこせ、さもなければ、人間が踊っている会場の屋根を引き剥がしてやる」と地球人を脅かすという曲です。“tear the roof off"(屋根を引き剥がす)とは、二重の意味を持った表現で、「会場の屋根が吹き飛ぶくらい踊り狂う」というふうに捉えることもできます。


7.エピローグ

先日、日本のコメディアンの志村けん氏が新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなりました。

志村氏といえば、自身の冠番組で「バカ殿様」などの個性的なキャラクターを生み出し、「アイーン」などのギャグで幅広い世代に人気でした。そもそも彼が芸能の道に進むきっかけとなったのが、高校時代に、いかりや長介さんをリーダーとした人気コミック・バンド「ザ・ドリフターズ」の付き人となったことでした。1974年には正式なメンバーに昇格し、ドリフターズの看板番組に毎週出演するうちに人気を集めるようになりました。

志村は実はR&Bとソウル・ミュージックをこよなく愛していたことでも知られ、音楽雑誌にブラック・ミュージックの新譜のレビューを掲載するくらいでした。

そんな志村氏の音楽の趣味は、ドリフターズのネタにも表れていました。例えば『ドリフの早口ことば』の元曲となったのが、前述のソウル・シンガーのウィルソン・ピケットが作詞作曲した、ファンク・テンポが特徴の『ドント・ノック・マイ・ラヴ』でした。

志村氏と加藤茶氏がリズムに乗って大道芸を披露する『ヒゲダンス』も、ソウル・シンガーのテディ・ペンダーグラスの『ドゥ・ミー』という曲を基にしたファンク調の曲です。

また、シングル『ドリフのバイのバイのバイ』は、ディスコの名曲『ドゥ・ザ・ハッスル』(1975年)を引用したもので、ワウ・ペダルの効いたギター、金管楽器、グルーヴ感のあるリズムを刻んだベースとドラムとパーカッションが印象的な和製ファンクの曲です。メインのヴォーカルは加藤氏ですが、志村氏はジェイムズ・ブラウンを思いっきり意識した「わおおおお!」「ゲラッパ!」「ダイナマイ!」を連発しています。

ファンク色は、ザ・ドリフターズのみならず、日本のコミック・バンドというジャンルにも大きな影響を与えてきたとも言えるでしょう。ジャズとお笑いを融合させ、ザ・ドリフターズの先輩格であったクレージー・キャッツや、アース・ウィンド・アンド・ファイアーなど洋楽のモノマネで知られるビジーフォーも、ブラック・ミュージックの影響を受けると同時に、ファンクと通じる独特なふざけた要素を持ち合わせています。

これ以外にもファンク及びファンク精神の影響は、日本の音楽シーン全般にも見受けられます。そもそもいつの時代も日本の音楽シーンの中心地は東京ですが、70年代後半~80年代の東京の音楽シーンといえば、オシャレで洗練されたシティ・ポップ・サウンドが主流でした。“東"京都心以外を拠点にした同時代のバンドは、シティ・ポップに対抗するために、よりエッジの効いたサウンドやリズム、方言を活かした歌詞、キャラ作りやお笑いの演出など、様々な要素をブレンドしてとても濃い個性を持った“ファンク"音楽を目指すしかなかったのです。

大阪出身のウルフルズはファンク色(日本語で言うところのコテコテ感)が強い関“西"ならではのロック・バンドですし、より西よりの広島出身の奥田民生が率いたユニコーンはコミック・バンド的な要素を前面に出していました。“西"東京地域出身の忌野清志郎でさえ、ジェイムズ・ブラウンを真似して独自の「マント・ショー」などお笑い的なパフォーマンスをライヴに取り入れたりもしていました。その中でも“西"東京地域のキングこそ、東村山音頭の志村氏であったのでしょう。メインストリームな音楽に対して斜に構えたコテコテなスタイルは、正に“ファンク"と言えるのではないでしょうか。

アメリカにおける70年代のファンク・ミュージックは、抑圧されていた黒人が自己表現し、解放された意識を手に入れるための音楽でした。一方で、日本におけるこういったファンク色の強い音楽は、“東"京の洗練されたポップ・ミュージックに対抗し、勝負するために生まれたものだったのではないでしょうか。

「ファンク・ミュージック」を敢えて日本語に訳するとしたら、関西弁の表現を借りて、 “コテコテな音楽"と言えるのかもしれません。


MUSIC & PARTIES #022

サイケデリック・ソウルとファンク (後編) 黒人ファンク・ミュージシャンの熱い遊び心 - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (7)


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