1.プロローグ
今回は前回に引き続き、英国発のビッグ・ビートというエレクトロニック・ダンス・ミュージックのジャンルについて紹介します。(MUSIC & PARTIES #029)
前回取り上げたファットボーイ・スリムとケミカル・ブラザーズは、それぞれDJとしてのキャリアがベイスにありました。ファットボーイはバンドマンとしてキャリアをスタートしながらも、若い頃からDJとしても活動し、世界的に有名なスーパースターDJの草分け的存在となりました。ケミカル・ブラザーズもバンド活動を経て、ロンドンのパブでのレジデントDJとして頭角を表すようになります。また、ファンクやソウルやヒップホップといったブラック・ミュージックに精通していることが、サンプリングを多用した彼らの音楽性の根底にあります。
今回のコラムでは、サンプリング以上にバンド・サウンドを強調したアンダーワールドとザ・プロディジーを取り上げます。
ファットボーイ・スリムとケミカル・ブラザーズと違い、アンダーワールドとザ・プロディジィーにはカリスマ性のある“フロントマン"(バンドの顔)が存在しました。アンダーワールドには“ダサかっこいい"ハイ・テンションな踊りと独特の詩の世界を繰り広げるカール・ハイドがおり、ザ・プロディジィーには2019年に亡くなるまでパンク・ロックのスピリッツを体現化したかのようなヴォーカル/ダンサーのキース・フリントがいました。こういった存在がいたことで、この2組はエレクトロニック・ダンス・ミュージックのファンの間に多くの信者を生み出しただけでなく、ダンス・ミュージックに懐疑的だったようなロック・ファンの一部を“改宗"させることすらできたのです。
2.独自のスタイルでエレクトロニック・ダンス・ミュージックをオーバーグラウンド化させたアンダーワールド
アンダーワールドはヴォーカリスト/ギタリストのカール・ハイドとキーボーディストのリック・スミスを中心としたエレクトロニック・ダンス・ミュージックのユニットです。ハイドは芸術大学に通うためにウェールズに移住し、電子工学の勉強をしていたスミスと出会います。2人は1979年にクラフトワークのテクノ・ポップやレゲエを意識したバンドを組み、シングル1枚をリリースします。80年代初頭にはシンセ・ポップ/ニュー・ウェーヴのバンドを組み、大手レイベルと契約してアルバムを2枚発表しますが、この時点ではブレイクすることはないまま解散します。
1988年に2人は「アンダーワールド」を結成し、ギター・サウンドを前に出したファンクとエレクトロ・ポップのアルバムを2枚発表しました。この2枚が英国とアメリカでそこそこ売れたことによって、89年にはユーリズミックスのオープニング・アクト(前座)としてアメリカ・ツアーに参加することになります。ツアー後にハイドはしばらくアメリカに残ることにし、アンダーワールドの活動は事実上中止となりました。この期間にハイドはプリンスのペイズリー・パーク・スタジオでセッション・ミュージシャンとして活動したり、L.A.での活動の道を探りますが、どれもあまりうまくいかず、結局あきらめて英国に戻ります。
1991年にハイドとスミスはロンドンを拠点とするデザイン集団「トマト」の設立メンバーとなります。デザイナー、芸術家、ミュージシャン、作家、映像作家など国際的なメンバーからなるトマトは、「商業」「芸術」「研究」を結びつけたマルチメディア・アートとデザインのプロジェクトを英国内外で展開してきました。トマトはアンダーワールドのアルバム・ジャケットのデザインやライヴで流れる映像の制作も手がけてきました。また、メンバーたちは親日家としても知られ、これまで日本のクライエントとも仕事をしたり、渋谷パルコなどで展示会を開いてきました。ハイド自身も絵画の個展を何回か開いています。
ハイドとスミスはトマトの活動をする一方で、同時期にまだティーネイジャーであった若手DJのダレン・エマーソンとコラボレイションするようになりました。若いエマーソンは2人の先輩にレコーディング・ストゥディオの機材の使い方を教えてもらい、2人はエマーソンにテクノやハウス・ミュージックやクラブ・カルチャーについて色々教えてもらいました。1993年に3人は正式にユニットを組み、“アンダーワールドMk2"として再出発することとなりました。
エマーソンの加入によってアンダーワールドは、シンセ・ポップのバンドからロックとテクノとアシッド・ハウスを融合させた新しいグループとなり、その後ダンス・ミュージック界に革命をもたらすビッグ・ネイムに成長して行きます。ハイドは都市生活やデジタル時代の光と陰を捉えた歌詞を意識の流れの中から紡ぎ出し、それを唱えるように歌います。ハイになったミック・ジャガーのように踊り狂うハイドの後ろで真剣な顔をするスミスは、キーボードやシンセの卓越したテクニックの持ち主で、ユニットの主たる作曲家です。そしてエマーソンのビートのトラックは2人のサウンドに人を踊らせるグルーヴ感をもたらしました。エマーソンが加入したことでアンダーワールドはレイヴァーやクラバーたちにアピールすることができるようになりました。一方でハイドがいたことでインディ・ロックのファンの多くをエレクトロニック・ダンス・ミュージックに覚醒させることができました。
一口にエレクトロニック・ダンス・ミュージックと言っても、アンダーワールドの音楽はそれまでのものとは一味違うサウンドでした。ハイドのエフェクトがかけられた語り口調の歌い方は、それまでのハウスやテクノのソウルフルなヴォーカルと大きく異なりましたし、DJセットではなくライヴ演奏を想定した曲はダンス・ミュージックの典型的な構造にはとらわれないスタイルを生み出しました。また、アンダーワールドはクラブ寄りのダンス・トラック以外にもアンビエント、ラウンジ系、トランス、ドラムンベイス、レゲエ調、アコースティック・ギターを用いた作品を作るなど、ジャンルにとらわれないスタイルの曲が多いことでも知られています。こういった特徴は全てアンダーワールドが90年代にリリースした名作アルバム『ダブノーベースウィズマイヘッドマン』(93年)『弐番目のタフガキ』(96年)『Beaucoup Fish』(99年)に現れています。中には、ブレイクビーツを使用した『パールズ・ガール』のようなビッグ・ビートの王道をいく作品もあります。
アンダーワールドを世界的にブレイクさせ、このユニットのサウンドの真骨頂とも言えるのが、スコットランドを舞台にヘロイン中毒の若者たちの日常を描いたダニー・ボイル監督の『トレインスポッティング』のラストのシーンで使用された『Born Slippy .NUXX』( 96年)です。この曲はもともと95年のシングル『Born Slippy』のB面に収録されたリミックスでしたが、映画をきっかけにあまりにも話題となり、改めてシングルとしてリリースされました。『トレインスポッティング』のタイトル・シーケンスは「トマト」がデザインしたもので、これをきっかけにトマトもグラフィック・デザイン業界の最前線に立つこととなりました。因みに、テレビ朝日のモーション・ロゴもトマトが手がけたものであり、2008年3月まで放送開始の映像には『Born Slippy .NUXX』をピアノ調にアレンジした『Born Slippy .NUXX 2003』、放送終了の映像には『Rez』が使用されていました。
アンダーワールドのライヴ・パフォーマンスは、オリジナル・アルバム以上に迫力と熱気が溢れるもので、特に1998年から1999年に行われたライヴ・ツアーの中から多数の公演の録音から再構成された『エヴリシング・エヴリシング』(2000年)は、ダンス・ミュージックのライヴ・アルバムの記念碑的作品と言えるでしょう。CDもありますがDVDが特にオススメで、今では入手困難となっていますが、アマゾンなどで中古盤が売られていますので、是非観て下さい。
このツアーの終了後にダレン・エマーソンはアンダーワールドを脱退し、ソロのキャリアに集中することとなります。その後もアンダーワールドは2人組として活動を続けていますが、その音楽からは“グルーヴ感"という大事な何かが抜けてしまいました。
2012年のロンドン・オリンピックでは、ダニー・ボイル監督が開会式の総合演出を担当し、アンダーワールドが音楽監督を務めたことが話題となりました。
●オススメのアンダーワールドの作品
3.レイヴ・シーンから生まれたザ・プロディジー
キイボーディストで作曲家のリアム・ハウレット¥は、1989年に英国でのレイヴでDJをした際に、ダンサーのキース・フリントと出会いました。フリントにミックス・テイプを作って欲しいと頼まれたハウレットは、数日後に片面にミックス、もう片面にオリジナル曲を収録したカセットテープを渡しました。フリントはダンサー仲間のリーロイ・ソーンヒルと一緒にハウレットの音楽に合わせたレイヴ・ダンスを作り、グループを始めないかという話を持ちかけます。そこにMCでヴォーカリストのマクシムが加わり、ザ・プロディジーは生まれました。
ザ・プロディジーは1991年に『Charly』でシングル・デビューを果たします。ブレイクビーツにBBCが制作した子供向けの公共広告のセリフのサンプルを乗せた斬新な内容は、レイヴと子供向けのテレヴィからのサンプルを組みあわた“キディ・レイヴ"という一時的なトレンドを引き起こします。そんな本作は音楽評論家の間では不評でしたが、レイヴ・シーンでヒットとなり、英国シングル・チャートで3位を獲得し、ザ・プロディジーが英国でブレイクするきっかけとなりました。1992年にリリースされたデビュー・アルバム『エクスペリエンス』はレイヴ・シーンの記念碑的アルバムとなりました。
その後、ザ・プロディジーは“キディ・レイヴ"のレッテルを払拭するために、ビッグ・ビートやエレクトロ、インダストリアル・ミュージックの要素を取りいれてエッジのあるサウンドを追求していきます。違法レイヴを取り締まることを目的とした1994年のクリミナル・ジャスティス法に反発して、ヘヴィメタルを彷彿させるギター・サウンドを強調した『Their Law』(奴らの法律)という曲が話題を集めました。
1994年にリリースされたセカンド・アルバム『Music for the Jilted Generation』は、音楽評論家からも絶賛され、マーキュリー賞にノミネイトされるというヒットとなりました。しかしザ・プロディジーは英国の音楽テレヴィ番組への出演は全て断っていましたが、ミュージック・ヴィデオはヨーロッパのMTVなどで頻繁に放送されるようになり、国際的にも注目されるようになります。シングルの『ヴードゥー・ピープル』はザ・プロディジーの代表曲となり、当初ミュージック・ヴィデオには実際の呪術医を登場させる予定でしたが、テレヴィの検閲の関係で最終的には問題のシーンはカットされました。また、前回のコラムで紹介したケミカル・ブラザーズが「ダスト・ブラザーズ」名義でこの曲のリミックスを手がけました。
ザ・プロディジーは1996年のシングル『ファイアスターター』でアメリカを始め世界各地でブレイクすることとなります。この曲ではキース・フリントが初めてヴォーカルを担当し、英国のシングル・チャートの1位を獲得しました。この曲はレイヴのアンセムとなりました。この頃からザ・プロディジィーは各地でのロック・フェスでヘッドライナーとして出演するようになります。
このアルバムの中で問題視されたのが、『Smack My Bitch Up』という曲でした。歌詞は主に“Change my pitch up, Smack my bitch up"の繰り返しからなっており、ハウレットはその意味を「ギアを入れ替えて,全力投球でやってやる」という意味だと解説しましたが、後半は直訳すると「ガールフレンドを散々に打つ」ともとれることから、女性を軽視した曲であるという強い批判を受けました。BBCはこの曲の放送を禁止し、レイディオ局でも歌詞抜きで放送されることが多くなりました。皮肉なことに、問題の歌詞はザ・プロディジィーによるものではなく、アメリカのヒップホップの曲からサンプリングされたものです。
ザ・プロディジーが制作した飲酒運転、ドラッグの使用やセックスのシーンを含めたミュージック・ヴィデオは、更に大きな論争を巻き起こしました。MTVでは当初深夜のみに放送したりしていましたが、最終的には全てのローテイションから外す決断をしました。このヴィデオは物議を醸したものの、1998年のMTVミュージック・ヴィデオ・アウォードで「最優秀ダンス・ヴィデオ」「ブレイクスルー・ヴィデオ」の2つの賞を受賞しました。
そんなザ・プロディジーは、この時期にバンドとして商業的なピークに達し、ビッグ・ビートがメインストリーム化していた1999年に活動を一時期中止しました。2002年に再始動し、その後もハイ・エナジーなレイヴ音楽のリリースや欧米の音楽フェスでのパフォーマンスを続けてきましたが、90年代の最盛期に比べると、少なくともアメリカではメインストリームからは退けた印象があります。残念なことに2019年の3月の上旬にキース・フリントは首をつって亡くなりました。
●オススメのプロディジィの作品
4.ビッグ・ビートに影響を受けた日本のアーティスト
英国のビッグ・ビート・シーンは日本のエレクトロニック・ダンス・ミュージックにも大きな影響を与えました。
その代表的な存在としてはダンス・ユニットのデュオである電気グルーヴを挙げなければなりません。電気グルーヴはアシッド・ハウスやヒップホップに多大な影響を受けた石野卓球と“楽器の弾けないミュージシャン"を自称するピエール瀧を中心に、初台駅近くのテニス・コートに隣接されているデニーズ西新宿店で1989年に結成されました。90年代初頭にはギャグ路線のラップを取り入れたヒップホップ調の音楽でデビューしますが、それはアメリカのヒップホップに直接影響されたものではなく、アメリカのヒップホップの影響を受けた英国の“ミクスチャー・バンド"をイメージしたものでした。その後、石野は旅行先の英国で体験したアシッド・ハウスのシーンに衝撃を受け、電気グルーヴはテクノ路線にシフトします。それ以降、J-POP界で異色を放つ存在としてダンス・ミュージックを作り続けてきました。電気グルーヴ最大のヒットは日産自動車の「テラノ」のCMソングとしても使用された「Shangri-La」です。石野卓球はソロ活動に加え、1999年から「WIRE」というレイヴ・イヴェントをスタートさせました。ピエール瀧は2019年3月にコカインを使用したとして麻薬取締法違反容疑で逮捕されました。
エレクトロ、ハウス、テクノのDJ/プロデューサーとして活動する大沢伸一も日本のEDMシーンの中心的存在です。大沢はそもそも、MONDO GROSSOというアシッド・ジャズやヒップホップ、ボサノヴァやブレイクビーツの要素を取り入れた京都のバンドのリーダーとしても注目を集めました。「MONDO GROSSO」とはイタリアで「大きな世界」、つまり“ビッグ・ワールド"のことです。大沢は90年代にUA、Chara、birdといった日本の女性シンガー・ソングライターのプロデゥーサーとしても活動しました。2006年にMONDO GROSSOの活動を休止して以来、ソロ名義のアルバムを英国ではファットボーイ・スリムのレイベル“Southern Fried"からリリースし、アメリカではスティーヴ・アオキの“Dim Mak"からリリースしました。ファットボーイとは「ビッグ・ビーチ・フェスティヴァル」でも共演し、2009年にはジョイントで北米ツアーを実施しました。
Fantastic Plastic Machineというソロ・プロジェクトで知られる田中知之はジャンルに縛られないDJスタイルから「日本のファットボーイ・スリム」という異名を持つサウンド・クリエイターです。90年代終盤にレコード・デビューし、セカンド・アルバムはヨーロッパとアメリカでもリリースされたことをきっかけに、海外でも注目を集めるようになります。98年にはファットボーイの日本ツアーのサポートDJも勤めました。2000年にはavexに移籍し、以降はJ-POPのアーティストたちをフィーチャーした音楽を発表したり、リミクサーとしてはファットボーイ・スリム、PUFFY、浜崎あゆみ、Dragon Ash、ケツメイシ、m-flo、ユニコーンなど様々なアーティストの曲を手掛けてきました。
ヨーロッパの音楽雑誌『メロディ・メイカー』に「ケミカル・ブラザーズとザ・プロディジィーを足して2で割ったかのようなバンド」と評されたBOOM BOOM SATELLITESは、日本のデジタル・ロックを代表する2人組のライヴ・アクトでした。95年に日本でレコード・デビューし、ヨーロッパのロック・フェスで演奏したり、アメリカではモービーのツアーのサポート・アクトとして参加しました。2000年以降のBOOM BOOM SATELLITESの音楽は国内外のアニメ(『アップルシード』『ベクシル 2077日本鎖国』)や映画(『ザ・ダーク・ナイト』やCM(アメリカの自動車ブランド『ダッジ』)でも使用されるようになります。2009年にはアメリカのラッパー「フロー・ライダー」とシンガー「タージュ・モーリー」とコラボレイションし、2010年には北米ツアーを開催しました。2012年にバンドはヴォーカル/ギター担当の川島道行が脳腫瘍を患っていることを公表し、手術と再発を繰り返した結果、2016年に亡くなりました。
5.エピローグ
ビッグ・ビートというジャンルは、ビートルズやストーンズなどの英国ロックンロールで育ち、英国のパンク・ロックやニュー・ウェーヴを通過して、アシッド・ハウスやヒップホップに魅了されていた英国人によって生み出された音楽スタイルです。既存の“ジャンル"や“人種"に囚われず、自由な発想で音楽を組み合わせたそのスタイルは、英国人ならではといえるでしょう。前回と今回紹介した“ビッグ・ビート"の成功者のファットボーイ・スリム、ケミカル・ブラザーズ、アンダーワールドとザ・プロディジィーに音楽的に共通している点は踊れる“太いビート"だけとさえいえます。
90年後半にビッグ・ビートのパイオニアたちが世界的にブレイクしたことによって、ビッグ・ビートはどんどんメインストリーム化されていきました。アンダーワールドの『Born Slippy .NUXX』は、映画『トレインスポッティング』でビッグ・ビートを世界的にブレイクさせました。ケミカル・ブラザーズやザ・プロディジィーの音楽もゲイムや映画のサントラに頻繁に使用されています。ロックやヒップホップのアーティストたちにリミックスを依頼されるようになっていった彼らは、その後は大手ブランドに代表曲をCMソングとして使用する許可を求められるようになりました。
それを象徴するのが、英国のダンス・ミュージック・ユニットのダーティー・ヴェイガスの『Days Go By』が、2003年製の「三菱・エクリプス」のCMソングとして使用されたことで、アメリカで人気を集め、グラミー賞「最優秀ダンス・レコーディング賞」まで受賞したことです。こういったビッグ・ビートの第2世代のミュージシャンやDJが現れると、“自由"や“流動性"や“楽しく踊る"ことを掲げていたはずのビッグ・ビートは、どんどん型にはまっていくようになりました。2000年前半に、ビッグ・ビートに分類されていたアーティストたちはハウスやテクノといったジャンルの音楽に方向性をシフトさせていきます。とはいえ、エレクトロニック・ダンス・ミュージック全ての基本となるのは"太いビート"であり、そういう意味ではビッグ・ビートは未だに死んでいないともいえます。
ハウス・ミュージックはシカゴの「ウェアハウス」から生まれ、ガラージ・ハウスはニューヨークの「パラダイス・ガラージ」から生まれ、テクノはデトロイトから生まれました。ビッグ・ビートもファットボーイ・スリムがレジテントDJを務めていた「ビッグ・ビート・ブティック」から生まれました。ハウスやテクノに比べてサウンドがあまりにも幅広かったために、ビッグ・ビートは、そもそも普遍性を持たないジャンルであったともいえるかもしれませんが、ビッグ・ビートがロックとエレクトロニック・ダンス・ミュージックを隔てる壁を壊したことで、レイヴ・カルチャーは世界的に普及し、現代のEDMの土台を作ったことは確かなことです。