1.プロローグ
前回MUSIC & PARTIES #032では、90年代の英国から生まれた“プログレッシヴ・ハウス"というジャンルのエレクトロニック・ダンス・ミュージックを取り上げました。今回は、同じ時代のドイツから生まれた“ジャーマン・テクノ"というジャンルのエレクトロニック・ダンス・ミュージックにスポットライトを当てます。
ドイツのエレクトロニック・ミュージックといえば、まずは挙げなければならないのが、70年に結成され、70年代後半に全盛期を迎えた元祖テクノ・ポップのバンド「クラフトワーク」です。当時は、イタリアからやってきたプロデューサーのジョルジオ・モロダーもミュンヘンを拠点にユーロ・ディスコというダンス・ミュージックを作り出していました。この西ドイツ発の2つの音楽スタイルに強く影響されたのが、“デトロイト・テクノ"というジャンルを生み出したホアン・アトキンズ、デリック・メイ、ケヴィン・ソーンダーソンの3人です。
80年代が進むにつれ、アメリカのテクノとハウス・ミュージックが世界的に人気になり、80年代終盤にはアシッド・ハウスがヨーロッパに輸入されるようになります。英国では、レイヴ・シーンとプログレッシヴ・ハウスが生まれました。西ドイツでは、フランクフルトを中心にドイツ独自のテクノ・サウンドが発達します。その中心的な人物となったのが、 “パーティー・アニマル"であるスヴェン・ヴァスというドイツ人のDJでした。89年にベルリンの壁が崩壊すると、ドイツのテクノ・シーンは西ドイツと東ドイツの統一の象徴として花開き、ベルリンが“ジャーマン・テクノ"の中心地となりました。
こういった“ジャーマン・テクノ"の人気の流れは日本にまで及び、日本のテクノとハウスのシーンにも強い影響を与えました。
2.ドイツ最大の“パーティー・アニマル"、スヴェン・ヴァスとジャーマン・テクノの誕生
ジャーマン・テクノの重鎮であるスヴェン・ヴァスは、1964年に西ドイツのフランクフルトで生まれました。父と母は、若い頃に東ドイツから亡命し、フランクフルト近辺で出会い、結婚しました。2人は踊ることが好きだったことから、1979年に小さなダンスフロアが備えられた英国風のパブをフランクフルトにオープンさせます。この店ではロックンロールやポップ、ディスコなどの様々な音楽がかかっていたそうです。
スヴェンは1980年、イビザ島の噂を聞きつけて、16歳の夏休みに、ヒッチハイクしてバルセロナまで行き、更にイビザ島までたどり着きます。そこでスヴェンは人生で初めて“ヒッピー"という存在を目にし、道端で人がタバコを吸ったり踊ったりしている光景にカルチャー・ショックを受けます。ビーチ・チェアを勝手に使って野宿しながら、クラブに入れさせてもらうために日中はフライヤーを配布したりしました。こうして入場した人気クラブのアムネシアのDJアルフレェドの自由なプレイに感極まって涙を流したそうです。結局イビザ島で3ヶ月間過ごし、DJになることを決意して帰国します。フランクフルトに戻ると、母親はスヴェンの目が輝いていたことに気付き、パブでDJをすることを依頼し、スヴェンは初めてのレジデントDJの仕事を受けることとなりました。
1981~82年ごろに、スヴェンは「ドイツのストゥディオ54」と呼ばれていた「ドリアン・グレイ」というナイトクラブでレジデントとなります。ドリアン・グレイはフランクフルト空港の地下にあり、その関係から24時間営業しているという珍しい形態のクラブでした。この頃からスヴェンは音楽制作も始め、85年には「Off」というダンス・ポップのトリオを組み、ヴォーカルとして活動をはじめました。Offは86年に『エレクトリック・サルサ』という曲でヨーロッパで100万枚も売り上げるヒットを出し、ヨーロッパをツアーするほどの人気者となっていました。しかし、このグループは90年に解散しました。
ポップ・スターとして活躍するかたわら、スヴェンは88年にフランクフルトにナイトクラブ「オーメン」をオープンします。当時のドイツでは珍しいテクノとハウス専門のナイトクラブでした。フランクフルトにはアメリカ軍の基地があったことから、近所にはアメリカのレコード店もあり、海外からのレコードを手に入れることが可能だったそうです。スヴェンはミュンヘンを拠点にハウスのDJとして活躍していたDJ Hellなどドイツ中のDJを招聘するようになります。更にジェフ・ミルズやリッチー・ホーティンなど北米の大物テクノDJを呼ぶほどの存在となっていました。地主や市当局との関係によって1998年に閉店するまで、オーメンは“ジャーマン・テクノ"の中心地でした。
スヴェンはクラブの運営をするかたわら、91年には「Eye Q」、92年には「Harthouse Records」という“テクノ"のレイベルを設立し、ドイツ独自のダンス・ミュージック・サウンドを模索していきます。Eye Qのハードでミニマルなサウンドは、トランス状態にさせてくれるということから“トランス・ミュージック"の先駆けとされています。Harthouse Recordsは、その後“ジャーマン・テクノ"と呼ばれる硬質なビートを持つサウンドを追求していきました。スヴェン自身は、この頃にアンビエント・ミュージック(※19)やトランスよりの音楽も制作し、オリジナル・アルバムをリリースしていました。この2つのレイベルの特徴は、生のミュージシャンを用いたレコーディングを行っていたことです。90年代半ば以降、トランスのサウンドはミニマルなものからどんどんメロディックな方向に進み、商業化されていく中で、スヴェンはそのサウンドに飽きてしまいます。そして結局スヴェンは97年に両方のレイベルから離れることとなります。
その後、1996年にスヴェンは、スペインの前衛的な演劇集団のパフォーマンスに刺激され、“メタモルフォーゼ"(「変化」「変身」を意味するドイツ語の言葉)をコンセプトとした「コクーン」というパーティーを開くようになります。初期のイヴェントには、前述のDJ Hellや英国のアンダーワールドを招聘し、各地での開催を試みました。しかし、アンダーグラウンドのプライドにこだわりすぎたスヴェンは、企業スポンサーにアプローチせず、自分のお金を注ぎ込んで開催していたため、結局金銭的に行き詰まります。
しかし、99年に「コクーン」プロジェクトを再び復活させます。今度はスヴェンの周りにいた若いDJたちを迎えてブッキング・エージェンシーとしてのビジネスを再スタートさせます。その後、徐々に「コクーン」名義で再びイヴェントも開催するようになり、「コクーン・レコーディングズ」というレイベルも立ち上げます。コクーンからはその後にテクノ界の牽引していくこととなったリカルド・ヴィラロボス、ダブファイア、ローマン・フリューゲル、ガイ・ガーバーなどの優れたDJが輩出されています。
また、80年に初めてイビザ島を訪れて以来、イビザ島の常連となっていたスヴェンは、99年から念願のアムネシアで自身のレイベル・パーティー「コクーン・イビザ」を開催するようになります。当時イビザ島ではトランスや商業的なダンス・ミュージックが主流になっていたのに対して、スヴェンはアンダーグラウンドなサウンドを追求していくことにこだわりました。今では「コクーン・イビザ」は夏のイビザを代表するパーティーとして知られ、毎年の11月か12月ごろにスヴェンはその年のイビザ・シーズンを振り返ったミックス・コンピレイションをリリースしています。
他にもスヴェンは、2004年にフランクフルトに「コクーン」というナイトクラブをオープンさせ、テクノからトランスまで、幅広いダンス・ミュージックのアーティストたちを招きました。「洗練された大人向けのクラブ」というコンセプトの下、90年代のクラブ・シーンを体験した世代向けのクラブの理想形を探ります。建築やインテリア・デザインにもとことん凝り、著名シェフが手がけるレストランやラウンジも併設させました。しかしそのコンセプトはフランクフルトという工業地域とマッチングせず、残念ながら2012年に閉店することとなりました。
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3.ベルリンの壁の崩壊とジャーマン・テクノの進化
80年代後半のドイツでは、スヴェン・ヴァスが早くからフランクフルトでテクノとハウス・ミュージックのシーンをリードしていたのに対して、首都ベルリンではパンク・ロックやインダストリアル・ミュージックが人気を集めていました。ベルリンがテクノ・ミュージックの都市へと変わるきっかけとなったのが、89年に初めて開催されたエレクトロニック・ダンス・ミュージックのフェス「ラヴ・パレード」の開催と、91年のベルリンの壁の崩壊という歴史的イヴェントでした。
ラヴ・パレードは「平和・歓喜・パンケーキ」というモットーの下、ベルリン市内の150人程度の小規模な政治的デモ活動としてスタートしました。その後、毎年参加者が増え続け、ドイツ各地のみならず世界中から参加者が集まるようになります。スヴェン・ヴァスも90年に初めて参加し、DJプレイをしました。全盛期を迎えた97年から2000年の間には毎年100万人以上が世界中から参加しました。パレードのフィナーレは、DJ Hellや英国のカール・コックスなどのテクノの重鎮から、ポール・ヴァン・ダイク、DJティエスト、アーミン・ヴァン・ビューレンなど大物トランスDJまで、DJにとって最大級の舞台となっていました。ラヴ・パレードの成功を受けて、90年代後半から2000年代にかけてドイツ各地を始め、パリ、メルボルヌ、ブエノス・アイレス、サンフランシスコなどでスピンオフの大型フェスが開催されるようになりました。
1991年にベルリンの壁が崩壊すると、都市の至る所にあった廃虚ビルや空間がパーティーやレイヴの会場として利用されるようになりました。中でも特に伝説的なクラブとされる「トレゾア」は、かつて銀行の金庫として使われていた空間を利用したものでした。トレゾアは、2005年に近隣の再開発を理由に一度閉鎖されましたが、2007年には閉鎖された火力発電所で再オープンしました。また、同じく名物クラブとされていた「オストグート」は、1998年にベルリンの鉄道駅の倉庫でオープンしました。2003年に閉鎖されるものの、2004年に廃墟の発電所に「ベルガイン」としてリニューアル・オープンしました。
こういった会場のダンスフロアで、西ドイツと東ドイツの若者たちの真の“統一"が始まったと言われています。また、90年代が進むにつれ、アメリカや英国では警察などによるクラブ・シーンの取り締まりが強化されました。一方、ベルリンは世界中のテクノ・プロデューサーやDJ、クラバーやレイヴァー、観光客たちが集まるエレクトロニック・ダンス・ミュージックの聖地となりました。それを促したのが、安い家賃と簡単に入手できるアーティストのヴィザでした。
ベルリンのアンダーグラウンド・クラブは「トレゾア」や「オストグート・トン」などのレコード・レイベルも展開し、デトロイト・テクノのアーティストたちの作品をリリースする一方、よりハードで工業的な“ジャーマン・テクノ"のサウンドを形成していきます。また、90年代にデトロイトを中心にジェフ・ミルズやリッチー・ホーティンが“ミニマル・テクノ"というジャンルを生み出したことを受けて、2000年代以降、ベルリンを中心にドイツでも“ミニマル・テクノ"シーンも成長していきます。
他にも1992年からトレゾアをはじめとしたベルリンのナイトクラブでレジデントDJを務め、ラヴ・パレードにもレギュラーとして参加していたエレン・エイリアンは、1999年に「ビーピッチコントロール」というレイベルを発足させます。このレイベルからはポール・カルクブレンナー、アパラット、モードセレクターなど、2000年代のジャーマン・テクノを代表するアーティストたちを数多く輩出しました。
また、エイリアンは男性DJが多いエレクトロニック・ダンス・ミュージックのシーンにおいて、女性DJの草分け的存在としても知られています。90年代前半にはミュンヘンを拠点に活動していたモニカ・クルーズというテクノとハウスのDJが注目を集めるようになります。彼女は90年代半ばにはスヴェン・ヴァスのナイトクラブ「オーメン」のレギュラーとなり、英国ではカール・コックスなどと共にイヴェントに出演するようになりました。こういった女性DJは、ドイツのアーニャ・シュナイダー、レバノンのニコール・マウデイバ、ロシアのニーナ・クラヴィッ、ポーランドのマグダ、ベルギーのアメリー・レンズなどの多くの“テクノの女王"が活躍するための土台を作り上げました。
ベルリンの流れはドイツ各地へと広がり、ケルンではマイケル・マイヤーというプロデューサーが「コンパクト」というレイベルを立ち上げました。工業的な冷たさが特徴だったベルリンのテクノに対して、コンパクトはトランスやアンビエントの要素を取り入れたより暖かいサウンドを目指し、ザ・フィールドやギイ・ボラットとったテクノ・アーティストを輩出しました。
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4.90年代の日本のテクノ・シーン
80年代以降のデトロイトのテクノ・シーンと、90年代以降のジャーマン・テクノのシーンは日本のテクノ・アーティストたちにも強い影響を与えました。
その代表例が、MUSIC & PARTIES #030でも紹介した、電気グルーヴの音楽面で主導権を握る石野卓球でしょう。静岡県で生まれ育った石野は、子供の頃からYMOやクラフトワークなどのテクノ・ポップに魅了されていました。当初は電気グルーヴはギャグ路線のラップを取り入れたヒップホップ調の音楽でデビューしましたが、その後英国のアシッド・ハウスやドイツのテクノ・シーンに衝撃を受け、テクノ路線にシフトします。石野はDJとしてのソロ活動も積極的に行い、1998年のラヴ・パレードのフィナーレでは150万人の前でDJプレイをしています。こういった経験を受けて、石野は1999年から2013年まで日本最大の大型屋内レイヴ「WIRE」を主宰し、精力的に海外のテクノDJを日本に紹介しました。
日本を代表するテクノのDJとして忘れてはいけないのが、「東洋のテクノ・ゴッド」という異名を持つの、ケン・イシイです。ケン・イシイは北海道札幌市で生まれ、東京で育ちました。筑波大学附属駒場中高という超一流の進学校を経て、一橋大学の社会学部を卒業した後、大手広告代理店の電通に勤務していました。しかし、結局同社を退社してDJになることにします。
ケン・イシイはデトロイト・テクノのサウンドをベイスに、YMOを彷彿とさせるような実験的な精神や日本的な美的感覚を持ち込んだ独自のサウンドを作り上げていきました。1993年にリリースされたデビュー・ミニアルバム『Garden On the Palm』は、英国の音楽史『NME』のテクノ・チャードで1位を獲得しました。その後『電気グルーヴのオールナイトニッポン』などのレイディオ番組で紹介され、日本でも注目されるようになります。1998年の長野オリンピックでは開会式の音楽を担当し、2000年には日本のカルチャーのアンバサダーとして「ニューズウィーク」の表紙も飾りました。2004年には「イビザDJアウォード」で「ベスト・テクノDJ」を受賞しました。
京都出身、2011年以降ベルリンに在住している田中フミヤは、「ミニマル番長」という異名を持つDJ/プロデューサーです。パンク少年としてバンドを始め、高校を中退した後、クラブ・カルチャーに目覚めました。90年代前半に大阪を拠点にDJ活動をはじめ、93年にはレイベル「とれまレコード」を設立し、94年には電気グルーヴのツアーにDJとして参加しました。95年にはメジャーでは日本初とされるDJミックス・アルバム『I am not a DJ』をリリースしました。2001年にはドイツの名門テクノ・レイベル「トレゾア」からシングルとアルバムをリリースしています。ジャーマン・テクノの影響が強い石野やデトロイト・テクノの影響が強いケン・イシイに対して、田中のスタイルは余計なものを削ぎ落としたミニマル・テクノのサウンドで知られます。
他にもスヴェン・ヴァスの「Harthouse Records」からデビュー・アルバムをリリースし、日本人として初めてラヴ・パレードに出演したススム・ヨコタや、1991年から1999年まで電気グルーヴのメンバーとして活動していた砂原良徳も、90年代以降の日本のテクノ・シーンを牽引してきた主要な人物です。
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5.エピローグ
ダンス・ミュージック最大の祭典の1つであったラヴ・パレードは、97年から2000年のピークを経て、低迷期に入ります。政治的デモ活動として始まったイヴェントが単なる商業的なイヴェントになったことに対して批判が集まるようになります。トイレ不足やゴミ問題なども発生します。2004年と2005年には資金難を理由に開催が中止され、2006年に復活するものの2007年にはベルリン市が開催を認めず、2007年以降の5年間はルール地方で開催されることとなりました。2010年のフェスでは、入場口となっていたトンネルの前にあった斜面に人が溢れ、21人が死亡、500人以上の負傷者が出るという惨劇が発生しました。これを受けてラヴ・パレードの開催者はフェスを永続的に中止することを発表しました。
「ラヴ・パレード」という名のフェスが理想を掲げて勢いに乗り、次第に商業的なイヴェントとなり、ついには人命を失うという悲劇をもとらしたことは、アンダーグラウンド・カルチャーがメインストリーム化されることの限界をしめしているのでしょう。
60年代後半のヒッピー・ムーヴメントや当時のロックンロールやサイケデリック・ミュージックは、「音楽には世界を変える力がある」という考えが根底にありました。ヒッピー・ムーヴメントのピークとされるウッドストック・フェスティヴァルが正にその象徴でした。ところが、ヴェトナム戦争が泥沼化していく中で、そういった希望は水の泡となりました。その後、ロックやポップ・ミュージックがどんどんサイケデリックな要素を取り入れ、商業化されることによって本来のピースフルなヒッピー精神はどんどん薄められました。
1985年に「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下で開催された「ライヴ・エイド」も、アフリカの難民の救済を目的としていましたが、その援助や支援物資は結局末端まで行き届かないという事態に終わります。クイーンの「ライヴ・エイド」でのパフォーマンスが目玉となった映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2019年)は大ヒットなり、興行的には大成功となりましたが、チャリティー・コンサートとしてのレガシーについて語れることはあまりありません。ゲイ・アイコンとしてのフレディー・マーキュリーや、彼の死がエイズへの関心を高めたことも映画ではほとんど触れられていません。
同じように英国発のプログレッシヴ・ハウスとビッグ・ビート、ドイツ発のジャーマン・テクノ・カルチャーは、90年代後半から2000年代にかけて大手レコード会社やプロモーターたちの手によってどんどん商業化され、結果として形骸化されていきました。2010年代のEDMブームも正に同じ現象を繰り返しています。
サブカルチャーとして育まれた音楽は、皮肉にもポピュラー・ミュージックになった瞬間に、社会に変化をもたらす力を急速に失うようです。個人を感動させ、人々を一時的に繋げる力はあっても、社会そのものを変えることは、音楽にはできないのかもしれません。こうした意味で、アンダーグラウンド・ミュージックは、あくまでもアンダーグラウンドな音楽であり続けることの価値もあるのではないでしょうか。