1.プロローグ
これまでこのシリーズでは、エレクトロニック・ダンス・ミュージックが80年代のアメリカでアンダーグラウンド・シーンとして始まり、“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"を経て90年代に英国やドイツを中心にヨーロッパで、様々なジャンルが発達し、商業的に成功した流れを取り上げてきました。その中で、ナイトクラブやレイヴというパーティーの形式は“集合地"であると同時に“発信地"としてとても重要な役割を果たしてきました。そこから発信されたクラブ/レイヴ・カルチャーは、アメリカよりむしろ日本に大きな影響を与えました。
そもそも東京には70年代からディスコ・カルチャーが根付いていました。80年代に入り、1982年に大阪に「マハラジャ1号店」というディスコがオープンし、1984年に7店舗目として「MAHARAJA TOKYO」が麻布十番にオープンすると、社会現象となるほどの人気を集めました。1989年には、ニューヨークのハウス・ミュージックの震源地であった「パラダイス・ガラージ」をモデルにしたマニアックなクラブとして「芝浦ゴールド」という大バコがオープンします。1991年には「ジュリアナ東京」というディスコも芝浦にオープンし、バブル時代を象徴する大人の遊び場として、その伝説は今でも語り継がれています。こういった90年代のディスコでかかっていた音楽は、主にヨーロッパから輸入されたユーロ・ディスコでした。
こうしたディスコ・シーンで活躍していたのは、今では日本の音楽シーンを代表する一大エンタメ帝国となった「avex」 の創業者である松浦勝人です。彼の音楽業界でのスタートは、輸入レコードの卸販売業者として会社を設立したことでした。その後、ディスコ・ブームの中、自社レイベル「avex trax」を設立し、ユーロ・ディスコを“ユーロビート"と名付け、「マハラジャ」や「ジュリアナ東京」のコンピレイション・アルバム・シリーズをリリースし、都会の若者を中心に人気を博し、ダンス・ミュージックを日本に普及させました。
更に、avexは1994年に小室哲哉と「アジア最大のディスコ」と称された「ヴェルファーレ」を六本木でオープンさせ、ユーロビートやトランスなどのダンス・ミュージックの流行の発信地としました。ジュリアナ東京には、地方からの若者も多数集まるようになっていきます。トランスはテンポが早く横揺れの動きにはあまり向いていないことから、上半身の動きを中心とした“パラパラ・ダンス"が生まれました。ブームとなっていたギャル/コ・ギャルたちは、こぞってパラパラを踊るようになりました。avexは2000年代以降も、エピック・トランスを“サイバートランス"と名付け、数多くのコンプレイション・アルバムをリリースしています。
avexのこういった活動は、トランス、ひいてはダンス・ミュージックというものの商業的な可能性を示し、また、日本においてヒップホップ/ブレイクダンスを含めたダンス・ミュージックが一般的に受け入れられるための“地ならし"をしたといえるでしょう。
今回は90年代から2000年代までの日本のクラブ・シーンとレイヴ・シーンについて取り上げます。
2.ディスコ・ブーム終焉後の日本のクラブ・シーン
90年代中頃には、東京の人気のディスコ/クラブは次々に閉店することとなります。ディスコ系のジュリアナ東京は1994年、クラブ系の芝浦ゴールドは1995年、ナンパ系のMAHARAJA TOKYOは1997年に閉店し、ディスコ・ブームが終焉しました。当時、ゴールドのレギュラーDJには、ニューヨークやシカゴのゲイ・ディスコとハウス・ミュージック・シーンの影響を強く受けていた「EMMA」や「木村コウ」といった人気DJがいました。彼らはゴールド閉店後、様々なナイトクラブで自身のパーティーを主宰するようになり、日本のハウス・ミュージック・シーンを盛り上げていくようになります。日本のクラブ・シーンは“ディスコ"という“ハコ"が中心の時代から、オーガナイザーが際立つ“クラブ"の時代へとシフトしました。
彼らの1つの拠点となったのが、新宿歌舞伎町の新宿東宝会館に位置した「club complex CODE」でした。CODEは「ゼノン」というディスコが1997年にナイトクラブとしてリニューアル・オープンした大ハコで、週末は1,500人近くが集まっていました。EMMAや木村コウなど日本のDJ以外にも、フェリー・コーステン、ティエストなど、海外の大物DJもプレイする人気クラブとなりました。また、新宿二丁目からも近いこともあり、ゲイ・カルチャーの中心地として知られるようになりました。そのCODEも残念ながら、2008年に閉店し、ビル全体が建て替えられました。現在は屋上にある「ゴジラ・ヘッド」で知られる歌舞伎町のランドマークとなっています。
また、渋谷の円山町も90年代後半に東京のクラブ・シーンの1つの中心地となりました。1996年にはカルチャー・オブ・エイジアが「Club Asia」というライヴハウスをオープンさせ、1998年には「VUENOS」というヒップホップ/レゲエのためのクラブをオープンさせました。また、1997年にはその同じ通りに「HARLEM」がオープンし、渋谷のブラック・ミュージックの聖地となりました。2000年にはアジア最大級のミラーボールを誇る「WOMB」がホテル街の中心にオープンしました。オープニング・パーティーにはニューヨークのハウス・ミュージックのレジェンドであるジュニア・ヴァスケズが招聘されました。その後も、スヴェン・ヴァスやサシャ&ディグウィードなど、テクノとプログレッシヴ・ハウスのクラブとして現在まで高い人気を誇ってきました。
90年代東京のクラブ・シーンの歴史を語る上で忘れてはならないのが、1991年に西麻布でオープンした「Space Lab Yellow」 です。木村コウなどのハウス・ミュージックのDJからKEN ISHIIなどのテクノDJ、サイケデリック・トランスのDJ TSUYOSHIまで、幅広いジャンルのクラブ・ナイトが開催され、多くの海外DJも招聘されました。広い敷地には、いくつもの“スペイス"が設けられ、様々な異空間を楽しむことができました。東京のクラブ・シーンの可能性を追求していった“実験所"として高い人気を誇りました。国内外の数多くのクラバーに惜しまれながらも2008年に閉店し、2010年に跡地に 「eleven」というクラブ がオープンしましたが、こちらも残念ながら2013年に閉店しました。
2002年末には新木場に「STUDIO COAST」という、最大キャパシティ2,400人の多目的エンターテイメント・スペースがオープンしました。週末の夜には、“MOTHER"というオーガナイザー・チームが「ageHa」というクラブ・イヴェントを開催し、トランス、ハウス、テクノ、EDM、ヒップホップなど幅広いジャンルのバレアリック・スタイルのパーティーが開催されています。メイン・フロアのほか、バーとラウンジエリア、屋外のプール・エリアやビーチ・エリア、フード・トラックのエリアがあり、大人の遊び場として現在も人気です。都心からはちょっと不便な場所ですが、渋谷からもシャトル・バスが出ています。
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3.日本のロック・フェスの成功
日本の音楽シーンの歴史を語る上でもっとも重要な人物の1人がフジロック・フェスティバルを主宰している「株式会社SMASH」の代表取締役社長である日高正博です。サイケデリック・ロック好きな、いわば“ヒッピー"であった日高氏は、80年代半ば、アートで反核を訴えるためのイヴェント「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル」の中心的な存在となっていました。日高氏は87年に英国の「グラストンバリー・フェスティヴァル」という大型野外フェスを訪れ、衝撃を覚えます。日本ではまだ同様のフェスを開くには早すぎると感じた日高氏は、その後毎年のようにグラストンバリーを訪れます。一方、日本で開催できる野外フェスの企画を練り、会場を探していました。
こうしてフジロック・フェスティバルの第1回が、97年に山梨県の富士天神山スキー場で開催されました。当初は2日間の開催が予定されていました。ヘッドライナーはレッド・ホッド・チリー・ペッパーズであったことが有名ですが、当時からロック以外にもエイフェックス・ツイン、マッシヴ・アタック、ザ・プロディジーなどのエレクトロニック・ダンス・ミュージックのアーティストたちもラインアップにいたことが注目すべき点です。日高氏のイメージとしては、ロック・コンサートというよりも、ダンス系のレイヴを心に抱いていたのかもしれません。この伝説の第一回のフジロックは、結局台風の直撃によって1日目から豪雨に見舞われ、死者は出なかったものの倒れる者が続出し、2日目は中止となりました。
翌年は会場を東京の豊洲地区に変更し、前回の失敗も踏まえて開催され、なんとか成功にこぎつけます。しかし、都心という場所から、会場は2ステージのみに限定されたことに物足りなさを感じます。日高氏をはじめとしたオーガナイザーたちは「自然の中でのロック・フェス」というコンセプトに回帰することにします。1999年以降は3日間に渡って新潟県苗場スキー場で開催されることとなります。現在も5つのメイン・ステージとその他多数の小ステージで形成されています。屋台エリア、テント設営区画も設けられ、フリー・マーケットも開かれ、夜にはイルミネイション、カジノやバーなどを楽しむことができます。
フジロック・フェスティバルの成功を受けて、2000年から「サマーソニック」と「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」という大型ロック・フェスも開催されるようになりました。「クリエイティブマンプロダクション」というプロモーターが主催する“サマソニ"は、千葉と大阪の2箇所で2日間に渡って同時開催され、出演アーティストを入れ替えるという手法が取られている“都市型"ロック・フェスです。(東日本の会場は千葉県千葉市美浜区にありますが、“東京会場"と称されています。1年目は山梨と大阪で開催されました。)ヘッドライナーは基本的に洋楽のミュージシャンが中心ですが、2000年代後半以降は、J-POPやアイドル・ユニットも出演するようになっています。ジャンルはロック、ポップ、ヒップホップが中心となっていますが、ダフト・パンク、ザ・プロディジー、ファットボーイ・スリム、ジャスティスなどのエレクトロニック・ダンス・ミュージックのアーティストも招聘されています。2011年からはフェス前日にEDM系のアーティストを中心とした「Sonicmania」という前夜祭も開催しています。
「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」は音楽系の出版社「ロッキング・オン」が主宰しているロック・フェスです。同社の代表である渋谷陽一は、1972年に洋楽のロックを日本に紹介するために同人誌「rockin’on」を創刊しましたが、この雑誌はビジネス的には成功と言える状態でないものの、洋楽の批評誌として、一部のマニアから高く評価されます。その後、1986年からは邦楽専門の「ROCKIN’ON JAPAN」を創刊しました。90年代前半はバンド・ブーム、90年代後半は“渋谷系"のブームもあり、こちらの雑誌は部数を伸ばしていきます。90年代以降はアメリカの「ローリング・ストーン」にならっていろんなサブカルチャーを取り扱う雑誌を次々とリリースしていきます。こういった背景もあり、「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」のラインアップは基本的に日本のロック、J-POPアーティストからなっています。毎年8月に茨城・国営ひたち海浜公園を会場に、2000年は2日間、その後は徐々に規模を大きくし、2019年は5日間に渡って開催されました。
日本のこういった夏フェスが人気を持ち、スポンサー企業をつけ、商業的な成功となったことは、海外の音楽業界にもインパクトを与えました。それまでエレクトロニック・ダンス・ミュージックというアンダーグラウンドのシーンに興味のなかったアメリカのイヴェント会社やレコード会社も、日本の成功例を参考にすることとなります。こうしたアメリカの音楽業界の人々は、2000年前後に立ち上げたいくつものエレクトロニック・ミュージック・フェスティヴァルを成功に導き、2010年代には“EDM"というジャンルがビッグ・ビジネスになるほどの規模へと成長させました。(この流れについては次週、詳しく取り上げます。)
4.日本のレイヴ・シーンの全盛期
日高氏が運営するプロモーターの「SMASH」は、フジロック・フェスティバルを立ち上げるかたわら、1998年から代々木公園で「春風」というフリー・レイヴもスタートさせました。元々はフェスのエンジニアやステージの裏方さんたちのプライベートの花見が、1997年の「温暖化防止京都会議」をきっかけに、大規模なイヴェントへと発展することとなりました。当初はワールド・ミュージックや民族音楽が中心となっておりましたが、四つ打ちがどんどん人気になる中、DJ TSUYOSHIなど国内外のDJがこのステイジでDJプレイするようになり、日本のフリー・レイヴの原点と言えるイヴェントになりました。2002年からは諸事情によって数年間のブランクが空き、2009年からは反戦と平和をテーマとした「SpringLove春風」として再開しました。以降、毎年の花見シーズンにレイヴ(音楽)、フリー・マーケット(アート)、屋台(食べ物)を組み合わせた形で開かれています。2020年は中止となりましたが、その代わりに定期的にYouTubeでライヴ配信を行っています。
日本のレイヴ・カルチャーとトランス・パーティーを大きく加速させたのが「ソルスティス・ミュージック」というオーガナイザー・ティームです。90年代中頃、同じ時期に大学生としてカナダに留学していたトランスDJのChika(男性)とヒップホップDJのAkiraが出会い、やることが無くて退屈になっていたことをきっかけに交互にホーム・パーティーを開くようになりました。その後、活動拠点を東京に移し、ゴア・パーティーに強く影響されたトランス・パーティーを主催ようになります。2人は、得意の英語を生かし、イズラエルのトランス・シーンとパイプを持つようになり、東京でトランス・パーティーを開くようになります。1999年には、「SOLSTICE MUSIC FESTIVAL」という1万人以上を動員するサイケデリック・トランスの野外レイヴを開催するまでに成長します。“ソルス"の2000年のレイヴにはそれまではスタジオ・ミュージシャンとして活動していたラジャ・ラムがDJデビューを果たし、2001年にはサイケデリック・トランス・バンドのシュポングルが“ソルス"のパーティーで世界初のライヴを行い、話題を呼びました。2008年のイヴェントをもって世界的なサイケデリック・トランス・シーンの衰退を理由にブランクが空きますが、2015年以降はフェスを数回、関連のクラブ・パーティーを数回開催しています。また、ソルスティスは2009年から2013年まで千葉市の海浜幕張公園で開催されていたファットボーイ・スリム公認のビッグ・ビーチ・フェスティバルの企画・制作プロデュースも手掛けました。
「VISION QUEST」というオーガナイザー・ティーむも、90年代後半から2000年代の日本のレイヴ・シーンを代表する存在でした。カナダ人の女性とイスラエル人のプロデューサーによって東京で立ち上げられたVISION QUESTは、2001年から2008年まで、3日間に渡って開催されていた大型野外レイヴ「THE GATHERING」などを開催し、ハルシノジェンやインフェクテッド・マッシュルーム、DJ TSUYOSHIなどのアーティストを招待してシーンを盛り上げていきました。
また、当時の日本のレイヴ・シーンでカリスマ的人気を誇ったのが、YOJI BIOMEHANIKAというDJです。神戸出身のYOJIは、90年代初期から大阪を拠点にDJとして活動し、 94年にドイツのトランス・レイベルからリリースしたシングル『Rendezvous De Telepathy』がポール・オーケンフォールドやポール・ヴァン・ダイクに注目されました。その後自身のクラブ・パーティーを主宰するようになり、特に人気だったのがavexと小室哲哉が運営していたヴェルファーレでのパーティーでした。98年には自身のレイベルを立ち上げ、2001年にオランダの「ダンス・ヴァレー」というトランスの屋外フェスでプレイしたことをきっかけに国内外から広く注目されるようになります。オランダ、ベルギー、スイス、英国の野外フェスにも招聘されるようになりました。YOJIのサウンドは普通のトランスより激しくてハードな「ハード・トランス」「NRG」「ハード・ダンス」など称されるカテゴリーに分類されています。2001年から現在に至るまでavex traxから数多くのアルバムやミックスCDをリリースしています。
サイケデリック・トランス好きのヒッピーやネオ・ヒッピーたちはエスニック・ファッションを好んだのに対して、YOJI BIOBEHANIKAは宇宙人のようなコテコテなファッション・スタイルで注目されるようになりました。色付きのサングラスやダボダボのズボン、ケミカル・ライトの使用は日本のレイヴァーのスタイルの1つとなりました。こういったスタイルは、2010年代には中田ヤスタカがプロデュースしたパフューム、きゃりーぱみゅぱみゅなどのJ-POPアーティストにも強い影響を与えたことが伺えます。
サイケデリック・トランスのレイヴ以外にも、石野卓球が主宰していた日本最大のテクノ・レイヴ「WIRE」や、テクノDJのMAYURIが主宰していた野外フェス「METAMORPHOSE」も特筆すべき大型イヴェントといえるでしょう。MAYURIは80年代後半を英国で過ごし、セカンド・サマー・オヴ・ラヴを直で体験しました。日本に帰国後、91年からDJ活動とパーティーのオーガナイズをスタートし、92年からサイケデリック・トランスを中心とした「ODYSSEY」というイヴェントを数年間開催し、日本の野外レイヴ・オーガナイザーの先駆けとなりました。2000年にはテクノ/ダンス・ミュージック・フェスのMETAMORPHOSEをスタートさせ、2万人を動員するまでに成長しますが、2013年以降は休止となっています。
5.エピローグ
今回のコラムでは日本の大型野外ロック・フェスとレイヴ・シーンを取り上げました。こういったイヴェントが合法的に行われ、かつ商業化に成功したことは、世界の音楽業界にとっても画期的でした。海外ではそれまでロック・フェスやレイヴが商業目的で行われ、成功した前例が少なかったからです。
1969年のウッドストックは、当初予定していた観客人数を大幅に上回り、大半をタダで入れさせたことから大赤字となりました。(その後、コンサート映画のリリースや、マーチャンダイジングやライセンシングによって、80年代にようやく黒字化に転換します。)英国最大級のフェスであり、フジロック・フェスのモデルともなった「グラストンバリー・フェスティヴァル」も、80年代には黒字化に成功しましたが、利益の大半は慈善団体に寄付されるとされています。
一方で90年代初頭に英国で行われていたレイヴは、使われていない倉庫や野原で勝手に開催され、入場料無料で行われたものが多かったため、商業的には成功したとは言い難い側面があります。ゴアのビーチ・パーティーももちろんフリーでした。そしてドイツのラヴ・パレードのようなテクノ・パレードは、政治デモとしてスタートしたものでした。フジロック、サマーソニック、Rock in Japan Festivalの商業的な成功は世界の音楽業界にとって大きなターニング・ポイントとなったのです。
日本では、ロック・フェスという形式だけでなく、野外レイヴという形式も商業化させたことも注目すべき点です。ロック・フェスでは演奏を行うバンドやアーティストたちが主役であるのに対して、レイヴではむしろ来場客が主役となります。派手なファッションや仮装、ボディー・ペイントを施し、彼らの目的は“バンド演奏を観る"あるいは“騒ぐ"ことではなく“踊る"ことなのです。レイヴでは夜中になってもビートは途切れることなく、VJや照明、デコレイションも含め、全てに視覚的な体験が伴うことも特徴でしょう。そして音楽以外にも屋台やフリー・マーケット、アートのインスタレイションや展示会も会場内で行われ、いってみれば数日間に渡って1つの生活共同体(コミュニティー)が形成されます。音楽だけでなく、オーガナイザーの“思想"も大切になってくるのです。こういった点を踏まえると、前述のロック・フェスの中で、フジロック・フェスティバルはロック・フェスというよりかは野外レイヴ/アート・フェスと呼べるのではないでしょうか。人里離れた場所で行われているという意味でも、フジロック・フェスティバルは英国のグラストンバリー・フェスティバルよりアメリカのバーニング・マンに近いともいえるのかもしれません。
日本の大型野外ロック・フェスは、今でも続き、今や外国人観光客にとっても1つの人気アトラクションとさえなっています。一方、日本のレイヴ・シーンは、2000年代後半に急速に衰退します。 その大きな理由は、サイケデリック・トランスがビッグ・ビジネスになるにつれ、半グレ集団が絡むようになったことでしょう。同時に、レイヴ・カルチャーの輸入と共にドラッグ・カルチャーも輸入されたことも忘れてはなりません。そもそも海外のレイヴ・シーンにおいては幻覚剤の使用は積極的に行われ、トランスなどのレイヴ・ミュージックとは切っても切れないものであります。日本のレイヴでもドラッグの使用が蔓延し始めると、オーバードース(過剰摂取)をして亡くなってしまう人も数多く出てしまい、日本政府は一部のオーガナイザーを国外追放したり、山のレイヴを取り締まるようになります。前述の「春風」「SOLSTICE MUSIC FESTIVAL」「THE GATHERING」もこの時期に何かしらの理由で開催が休止となっていきます。
一方、アメリカのプロモーターやレコード会社は、日本がエレクトロニック・ダンス・ミュージックやレイヴ・カルチャーを商業化させたことに注目します。日本のレイヴ・シーンの衰退と同時期に、アメリカではEDMというメインストリーム化されたダンス・ミュージック/レイヴ・カルチャーの形が頭角を表します。次週はアメリカ発のEDMブームを取り上げます。