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1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ" (後編)
  – 世界の映画史 (5)
  – 『ダーティー・ハリー』『チャイナタウン』『狼たちの午後』『地獄の黙示録』 | CINEMA & THEATRE #059
2024/09/16 #059

1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ" (後編)
– 世界の映画史 (5)
– 『ダーティー・ハリー』『チャイナタウン』『狼たちの午後』『地獄の黙示録』

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BigBrother
プランナー / エディター / イヴェント・オーガナイザー

目次


6.ニュー・ハリウッドの映画小僧たち

新しいハリウッドが形成される中で、全く新しいタイプの映画人が70年代に頭角を現すこととなります。“Movie brats" (映画小僧)と称されたこの世代の表現者たちは、ストゥディオ・システムの中で映画作りを身につけたそれまでの映画人とは違って、子供の頃から古典的ハリウッドの作品を観て育ちました。60年代後半くらいからカリキュラムが整え始められてきた大学の映画学科に通ったり、独学で映画作りに没頭したりする中で、一通りの映画作りについて学びました。“映画小僧"たちの中には、アメリカ合州国の西海岸出身の監督と東海岸出身の監督が多いことに注目すべきでしょう。

“映画小僧"を代表するフランシス・フォード・コッポラは西海岸と東海岸の要素を両方併せ持っている点でとても興味深い存在です。コッポラはイタリア系移民で、父親はクラシカル音楽の作曲家という家族に生まれ、東海岸のニュー・ヨークの郊外で育ちます。ティーネイジャーの頃に映画にハマってしまい、カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)の映画学科を卒業します。その後、短編やテレヴィ用の映画を撮る内に実力が認められ、監督・脚本家としてハリウッド・デビューを果たします。1970年に『パットン大戦車軍団』でアカデミー賞を受賞します。コッポラの最高傑作とされる1972年の『ゴッドファーザー』は、第二次世界大戦直後のニュー・ヨークを舞台にイタリア系マフィアの“ファミリー"の壮絶な生き様を描いた“大河物語"で、東海岸の移民社会の問題点を鋭く描いた作品です。また、ヴェトナム戦争を題材にした1979年の問題作『地獄の黙示録』は、ドラッグやロックンロール、サーフィンを描いているという点で西海岸の要素が含まれる作品です。

西海岸出身の映画人として、忘れてはいけないのがジョージ・ルーカスです。カリフォルニア州の内陸にあるモデストという都市で生まれたルーカスは、UCLAの最大のライヴァル校とされる南カリフォルニア大学(USC)の映画学科を卒業しています。卒業後にルーカスはコッポラと共に「アメリカン・ゾエトロープ」という映画製作会社を立ち上げ、『THX 1138』というSF映画で監督デビューを果たします。2作目の『アメリカン・グラフィティ』では自らの高校生時代の体験を元に、西海岸的な青春の一夜を映像化しました。コッポラはこの2作にプロテューサーとして参加しています。

スティーヴン・スピルバーグも70年代以降の西海岸を代表する映画人です。子供の頃に家族と共に西海岸に移住したスピルバーグは、若くして映画製作を独学で始めます。高校の成績が中途半端であったため南カリフォルニア大学(USC)の映画学科への入学に失敗すると、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で映画を勉強しながら、独学で映画作りにも活発に取り組みました。初めはテレヴィの監督としてデビューを果たし、1974年の『続・激突!/カージャック』で長編映画監督としてデビューします。この作品の映像テクニックがハリウッドで注目を集めるようになります。

東海岸を象徴する映画人といえば、マーティン・スコセッシでしょう。ニュー・ヨークのクイーンズ区でイタリア系アメリカ人の家族に生まれたスコセッシは、子供の頃は喘息のために他の子供たちと外で遊ぶことができず、その代わりに映画館に通うようになります。ティーネイジャーの頃にはイタリアのネオレアリズモやフランスのヌーヴェル・ヴァーグの映画作品に魅了され、その後ニューヨーク大学の映画学科で勉強し、卒業します。70年代に入って他の“映画小僧"たちと知り合うこととなります。中でもブライアン・デ・パルマの紹介でロバート・デ・ニーロとの出会いが彼の人生に大きな影響を与えます。その後、スコセッシはデ・ニーロと共に『ミーン・ストリート』『タクシー・ドライバー』『レイジング・ブル』などの作品で高い評価を受けます。ニュー・ヨークを舞台としたこれらの作品は、この大都市の恐ろしい闇の側面を見事に捉えています。

スコセッシとは対照的に安全で明るい(だけどどこかシニカルな雰囲気が漂う)ニュー・ヨークを描いたことで知られるのがウッディ・アレンです。ニュー・ヨーク出身のアレンは、50年代にテレヴィのヴァラエティ番組のライターとしてデビューし、60年代にはスタンド・アップ・コメディアンとクラリネットのジャズ・ミュージシャンとしての活動も始めます。60年代後半には映画監督としてデビューし、70年代に入って『アニー・ホール』をはじめとするニュー・ヨークを舞台にしたユダヤ系アメリカ人の生活を題材にした作品で高い評価を得ます。当初からアレンはニュー・ヨークを舞台とした映画を作り続けることでハリウッドとの距離を保ってきました。近年は#MeToo運動の最中に養女への性的虐待疑惑が改めて問題視され、こうした問題にナーバスなハリウッドとは更に疎遠の関係になっているようです。

東海岸出身の映画人の中にはヨーロッパの映画作りに影響され、ヨーロッパ的なタッチを特徴とする作品を製作した監督もいます。その代表例がセルビア系移民の両親の間に生まれたピーター・ボグダノヴィッチです。ボグダノヴィッチは子供の頃から映画鑑賞に夢中になり、ステラ・アドラー演劇学校で勉強したのちにニューヨーク近代美術館の映画部の主事として働きます。批評家としても活動していたフランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちの活動に強い影響を受け、自らレヴューも執筆し男性ライフスタイル誌の『エスクァイア』に寄稿しました。その後、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手のスタイルを見習って映画製作に踏み出します。

また、ニュー・ジャージー出身のブライアン・デ・パルマは、大学時代にオーソン・ウェルズの『市民ケーン』とアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』に衝撃を受け、映画製作に方向転換します。「ヒッチコックが取り扱ったテーマを統合しながら"アメリカのゴダール"を目指したい」といった内容の発言をしたことのあるデ・パルマは、現代のサスペンス映画の巨匠として高く評価されています。


7.ロス・アンジェレスとニュー・ヨーク・シティとサン・フランシスコ

第二次世界大戦後のハリウッドでは、予算を抑えるために、撮影所ではなくロケイション撮影を好むようになりました。アメリカン・ニュー・シネマでは物語の舞台となる土地の感覚や空気感をリアルに描くことが重視されたこともロケイション撮影が増えた一因です。アメリカン・ニュー・シネマの作品の中には、西海岸と東海岸を舞台にした作品が多く、“L.A.っぽさ" “サン・フランシスコっぽさ"や“ニュー・ヨークっぽさ"がスクリーンからにじみ出ている作品が数多くあります。

ロス・アンジェレスを舞台とした作品の中には、いわゆる「ネオ・ノワール」というジャンルに分類されるものが多く存在しています。ネオ・ノワールとは、40~50年代のフィルム・ノワールのスタイルを用いて、70年代の社会的テーマをモチーフとした作品を指します。ロバート・アルトマン監督の『ロング・グッドバイ』(1973年)やロマン・ポランスキー監督の『チャイナタウン』(1974年) がその代表例です。前者は太陽が降り注ぐ、グラマラスなイメージのL.A.の裏にある社会の闇を描き、後者はロス・アンジェレス上水路に絡む水利権や水不足問題を描いています。また、ラス・メイヤー監督、ロジャー・イーバート脚本の『ワイルド・パーティー』 (1970年) やハル・アシュビー監督の『シャンプー』(1975年) など、ハリウッドの芸能界の裏を風刺した作品も話題を呼びました。

ニュー・ヨーク・シティを舞台とした作品の中は、第5章でも取り上げたように、ヨーロッパ系の移民やその子孫たちの奮闘をテーマにしたストーリーが多いことが特徴です。コッポラの『ゴッドファーザー』(1972年)スコセッシの『ミーン・ストリート』(1973年)などはイタリア系移民の生活を描写し、アレンの『アニー・ホール』(1976年)は、ユダヤ系アメリカ人の日常を描いています。また、元ナチス党員の犯罪を追求するマラソン・ランナーを描いた『マラソンマン』(1976年) や、ゲイである恋人の性別適合手術の費用を得るために銀行強盗を計画する男を描いた『狼たちの午後』(1975年) などの犯罪映画も高い人気と評価を得ました。そしてウィリアム・フリードキン監督の『フレンチ・コネクション』(1971年) は、ニュー・ヨークを舞台としたカー・チェース・シーンがその後の映画に大きな影響を与えました。

カー・チェース・シーンの傑作といえば、起伏の激しい地形で知られるサン・フランシスコを舞台とした、ピーター・イェーツ監督の『ブリット』(1968年) があまりにも有名です。スティーヴ・マックイーンが演じる、言葉数が少ない警部補は、その後のアンチ・ヒーロー的な気障な男性キャラクターの1つの典型となりました。その影響が表れている作品が、同じくサン・フランシスコを舞台にした『ダーティ・ハリー』(1971年) です。この作品は、クリント・イーストウッドが演じる暴力的な手段も辞さない刑事が、ヴェトナム帰還兵の連続殺人犯を追うアクション映画の名作です。また、サン・フランシスコを舞台にしたコメディ・タッチの映画でいうと、『ブリット』のカー・チェースをコミカルに再現したともいえるシーンが目玉の『おかしなおかしな大追跡』(1972年)もオススメの作品です。

他にもこのコラムの前半で取り上げた『卒業』(1967年)や『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971年) もサン・フランシスコ周辺を舞台としています。因みに、『卒業』ではダスティン・ホフマンが車で二重構造のサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの“上側"を渡ってバークレーに向かうシーンがあるのですが、実際には“上側"はサンフランシスコ方面行きなのです。

ニュー・ヨークを舞台にした映画作品で有名なウッディ・アレンも、1971年にサンフランシスコを舞台とした『ボギー!俺も男だ』というロマンティック・コメディの脚本を手がけ、主演しています。この作品は元々はブロードウェイの演劇として製作され、ヒットしたのですが、映画化をする際にニュー・ヨークの映画界で労働者ストライキが行われていたため、やむなく舞台をサン・フランシスコに変更したのだそうです。


8.アメリカン・ニュー・シネマ/ニュー・ハリウッドはいつ終わったのか

ここまでこのコラムで見てきたように、アメリカン・ニュー・シネマという映画のジャンルにはいくつもの捉え方があります。60年代末~70年代前半のカウンターカルチャー運動や若者の生活を描いた作品は、それまで映画の対象として見られていなかった若い世代に訴えかけようとした意味で新しいハリウッドの形の一例であったといえるでしょう。また、ヴェトナム戦争や政治に対する不安や不信感を題材にした作品が数多く製作されたという点では、第二次世界大戦中に製作された戦意高揚を目的としたハリウッド作品とはまるで違う新境地を切り開いていきました。そして作家性の高い新しい世代の映画人が台頭し、映画会社に束縛されずに映画作りに徹することができたという意味で、新しいハリウッドの誕生を示したといえます。

ところで、アメリカン・ニュー・シネマというムーヴメントがいつ終わったかについては、様々な意見や見方があります。例えば、カウンターカルチャー運動という視点からすれば、69年の時点でその運動には陰りが生じ、ヴェトナム戦争が泥沼化する中で若者が掲げていた理想やオプティミズムは水の泡となってしまいます。ハリウッド映画の中で描かれていた若者の漠然とした不安感は、現実のものとなってしまいます。この観点からはアメリカン・ニュー・シネマは70年代初頭には、既に終わっていたといえるでしょう。

映画監督が主導権を握るハリウッドの新しい形も、70年代に突入して少しずつ揺らぎ始めます。作家性の高い監督は何より自分のこだわりを優先するため、中には暴走、あるいは迷走してしまう監督も現れました。それを象徴するのが、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』です。この作品は、ヴェトナム戦争下、命令を無視して暴走するカーツ大佐を暗殺する命令を受けたマーティン・シーン演じるウィラード大尉が、ジャングルの奥地に進むにつれ、戦争の狂気と悲惨さを体験するという戦争映画です。マーロン・ブランド演じるカーツ大佐は正気を失い、自分は神だという錯覚に陥っている人物として描かれていますが、これは裏を返せば映画監督たちが握っていた権力のメタフォーなのかもしれません。実際に、撮影スケジュールがどんどん延長され、製作費用が膨れ上がります。コッポラ自身もこうした状況が何かなんだかわからなくなっていったと後のインタヴューで語っています。この作品を境に、映画会社は少しずつ映画製作の主導権を取り返していくこととなります。

“映画小僧"たちの中では、コッポラのようにジャングルに迷走する監督もいれば、スティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスのように究極の娯楽映画の形を追究していく監督もいました。その結晶となったのがスピルバーグの『ジョーズ』、ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズでしょう。これらの作品は単純にスペクタクルとして楽しむことができると同時に、映画館を去った後もどうしても人に話したくなるような話題性を持っていました。また、観客自身も何度も映画館に通ってその作品を見入るようになりました。このような大きな成功を収めたスタイルの作品を「ブロックバスター」と呼ぶようになり、その後現在までの30年以上にも渡ってハリウッドの映画産業を支えていくこととなります。

ブロックバスターの台頭の裏には、社会的テーマやリアリズムを徹底的に追求した70年代前半の映画作品にアメリカの大衆が疲れていたことも1つの背景として挙げられるでしょう。そうした観点からすると、彗星の如く現れたブロックバスターがアメリカン・ニュー・シネマの時代に終止符を打ったともいえます。


9.エピローグ

アメリカン・ニュー・シネマの時代の終焉と共に、大手映画会社が作家性の高い若い監督に主導権を譲る時代は、終わっていきました。その後は再びプロデューサー主導の映画製作が行われるようになりますが、作業や役割が明確に分担されていた以前のハリウッドの黄金時代とは違って、実力のある映画人たちは複数の役割を果たすようになっていきます。かつては現場で汗をかいていた映画小僧たちがエアコンの効いたミーティング・ルームでプロデューサーとして活躍するようになったこともその一例です。また、近年では製作会社を立ち上げてプロデュースに踏み出す映画俳優も増えてきています。こうした流れは映画会社がマーケティング調査やビッグデータに頼るようになった現在、こうすることでしか、自分が望む作品が作れなくなったからともいえます。

ハリウッドは21世紀に入りブロックバスターの進化型としてスーパーヒーロー映画に代表されるフランチャイズ映画を多く製作するようになりました。その中で映画会社は、注目の若い映画人を監督として起用することで作品に話題性を持たせようとするようになりました。これは新しい世代の映画作家の台頭にも見えますが、映画会社がフランチャイズ映画の主導権を“小僧"に譲っているのではなく、起用された若い監督たちは映画会社の多く要求を聞き入れなくてはいけないのが実態のようです。こうした製作現場でバーン・アウトしてしまう若い監督も多く見受けられます。

アメリカン・ニュー・シネマは10歳代後半から20歳代前半の若者の心を掴もうとしたと述べましたが、スーパーヒーロー映画の台頭は、21世紀に入ってハリウッドがターゲットとしている年齢層が変化していることを意味しています。21世紀のハリウッドは、10歳前後の子供の心を掴もうとしていることが分かります。キャラクターのグッズなどのいわゆるマーチャンダイジングも、70年代の『スター・ウォーズ』の辺りからハリウッドの大きな収入源となってきましたが、これもいわば子供やオタクを対象としたビジネスなのです。

また、21世紀に入って、ロケイション撮影の代わりにCGに頼る作品が圧倒的に多くなったことも注目すべき点です。アメリカン・ニュー・シネマの時代には、アメリカの都市部の土地感覚や空気感を捉えた作品、西海岸らしい作品、あるいは東海岸らしい作品が数多く製作されていました。しかし、グリーンバックを用いてクロマキー合成やその他CGを使用した映画作品を観ると、映像的にはどれだけ派手だとしても、実在する場所にしかない生き生きした感じや人間味が伝わってこないケースが多くなりました。ロス・アンジェレス、ニュー・ヨーク・シティ、サン・フランシスコの破壊を描写した21世紀の超大作災害映画作品より、アメリカン・ニュー・シネマの作品の方がよっぽどリアルで、迫力があり、感情に訴えかける内容となっていると思われます。


CINEMA & THEATRE #059

1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ” (後編) – 世界の映画史 (5) – 『ダーティー・ハリー』『チャイナタウン』『狼たちの午後』『地獄の黙示録』


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