1.プロローグ
「世界の映画史」シリーズの第2回では、“ハリウッドの黄金期"を取り上げます。“ハリウッドの黄金時代"は、サイレント映画の時代が終わり、“トーキー"が主流となった1920年代末期に始まったとされています。中でも1930~1940年代の間がピークとされており、1950年代以降は衰退期に入り、1960年代後半には終焉を迎えます。もちろん、他にも様々な定義もありますが、このシリーズでは大手映画ストゥディオがアメリカの映画産業のトップに君臨した映画の大量生産・大量消費の時代として捉えます。
まず今回は第二次世界大戦以前のハリウッドに迫ります。“トーキー"が主流となっていく中で、映画ストゥディオには様々な葛藤がありました。映画というもののあるべき姿が問われる時代でもありました。その背景には、アメリカにおける女性の選挙権の獲得や大恐慌など、アメリカ社会を大きく変える出来事がありました。まさにアメリカ人が大好きな、波乱万丈の時代なのです。
2.サイレント映画から“トーキー"へ
“サイレント映画"という名称は当時からあったものではなく、同期された音声を伴った“トーキー"あるいは“サウンド映画"と区別するために後から付けられた名称です。その名前からすると、映画を完全に無音で聞いていた印象を受けますが、必ずしもそうではなかったようです。ニッケルオデオンのような比較的小規模な映画館でもピアノ演奏が伴うことがあったり、大きな会場ではパイプ・オルガンや、場合によってはオーケストラの演奏が伴うことがありました。
また、ヨーロッパからの移民が多く通うような映画館では、イタリア語やロシア語で解説をしたりインタータイトルの翻訳を行うナレイターがいたりすることもありました。サイレント映画にナレイターがその場で説明を行うというやり方は、フランスなどの海外の国々でも行われることがありました。メキシコでは、観客の中で識字能力のある者が声を出して解説をしたりインタータイトルを音読することも良くあったそうです。
一方、歌舞伎や浄瑠璃のように“ナレイション"を伴う伝統芸能があった日本では、「弁士」という特殊な職業が生まれました。彼らはサイレント映画の内容にあわせて台本を書き、進行にあわせて口演しました。中には、歌舞伎のように礼賛の掛け声がかかることがあるほど人気を博すような弁士もいたそうです。数は一握りになったものの、今でも現役の弁士は存在し、海外にも招聘されてパフォーマンスすることもあります。日本の弁士は世界の映画ファンにも知られる存在なのです。このように、サイレント映画の時代から“音楽"や“語り"は物語を伝える上で必要不可欠なものでした。
サイレント映画に同期された音声がなかったのは、嗜好の問題ではなく、技術の問題だったのです。そもそもアメリカのトーマス・エディソンは、蓄音機とセットとなるような映像投影機を創りたいと思い、1891年にのぞき眼鏡式映写機「キネトスコープ」を発明しました。ただ、当時は技術がまだ未熟で、俳優のセリフを拾えるだけのマイクロフォンの性能がなかったり、音楽と映像を完璧に同期させるのが難しかったりしていました。電子増幅機(アンプリファイアー)が設置される前の映画館では観客大勢が聞き取れるような音量で音声を再生することは不可能であったなど、いくつもの技術的な壁が存在しました。
1910年代におけるマイクロフォンやPAシステムの進化によって、こういった技術的な壁は、徐々に乗り越えられるようになっていきます。その結果、レコードに映画用の音声を録音し、それをフィルム映像と同期して再生する“サウンド・オン・ディスク"が何種類か開発されることとなりました。その中で唯一普及し商業的に成功したのが、当時はまだ中級クラスの映画ストゥディオであったワーナー・ブラザーズが1925年に開発した「ヴァイタフォン」というシステムでした。そこから数年の間、ハリウッドの映画ストゥディオたちはサイレントな部分と音声のある部分の両方がある“ハイブリッド映画"を製作し、“トーキー"のあり方を模索しました。1926年にワーナー・ブラザーズがリリースした『ドン・ファン』には、長編映画としては初めてヴァイタフォンによって同期された効果音とインストゥルメンタル音楽が付けられました。1927年の『ジャズ・シンガー』には、長編映画として初めて歌付きの音楽と約2分間ほどの録音されたセリフが付けられ、この作品は大きな興行的成功を収めました。
『ジャズ・シンガー』の成功を受け、ワーナー・ブラザーズは“ハイブリッド映画"の製作をどんどん進め、会社としても急成長していきます。一方、その他の主要映画ストゥディオは一足遅れて1928年~1929年にかけて一部音声を伴った作品をリリースし始めます。ディズニー初のサウンド映画で、一般的にミッキー・マウスのデビュー作とされる短編アニメイション作品『蒸気船ウィリー』も、1928年に発表されました。『ジャズ・シンガー』のように、この頃の作品のサウンドに関しては“セリフ"より“歌"や“効果音"が目玉であったという点で、ミュージカルの先駆けともいえます。しかし、まだ技術的な過渡期であったため、作品の物語性や芸術性より技術的な研究要素が強く、話題性は高かったものの、今となっては名作とされる作品が少ないのも事実です。
このように“トーキー"はある日を境に定着したのではなく、徐々に普及していき、その過程では様々な苦労もありました。例えば、サイレント映画の俳優たちは、大げさな身振り手振りや表情を通して演技をしましたが、“トーキー"では“声質"が問われるようになりました。俳優の外見と声質がマッチしていなかったり、外国出身の俳優の場合は訛りがひどく、それまでのイメージが崩れるケースもありました。“トーキー"にうまく移行できた俳優もいましたが、多くの俳優は取り残されることとなりました。その背景には、映画ストゥディオにとっては、高いギャラを得るようになっていたそれまでのスターに頼らずに、演劇界の俳優や新しいタレントを養成するという経済的な理由もありました。
当時の録音技術はまだ限られていたため、俳優はマイクロフォンに声が拾われるような立ち位置にいる必要がありました。ダイナミックな“動き"が特徴であったサイレント映画に比べて、途端に不自然なまでに“動き"の少ない演技が求められるようになったことも、俳優にも観客に違和感を抱かせませした。そして、それまでの監督は撮影中でも指示を大声で叫ぶことができたのに、サウンド映画の製作現場ではむしろ静粛にすることが求められました。新しい監督のスタイルが求められる中、置いてけぼりにされる監督もいれば、新しく頭角を表すこととなった監督もいました。もちろん、映画が“トーキー"になったことによって映画館でも観客に静粛にしてもらうことが必要となりました。
そして“トーキー"の普及を遅らせたもう1つの大きな理由が、各地の映画館で音声を再生するための設備を整えるために膨大な資金と労力が必要だったことです。1928年から1929年の間にアメリカで音声を再生できる映画館は、100軒から800軒ほどまでに増えていったものの、全国的にはサイレント映画用の映画館が2万2千軒以上も存在していました。こういったことから、30年代の半ばごろまで、ハリウッド映画のほとんどは“トーキー版"と“サイレント映画版"が製作され、それにも大量の資金と労力がかかり、主要の映画ストゥディオは多額の借金を抱えることとなりました。このような時代に大恐慌が訪れることとなります。
3.ハリウッドのストゥディオ・システム
1920~1940年代のハリウッドの黄金期の最大の特徴は、アメリカの映画産業の95パーセントくらいが8社の大手映画ストゥディオ(映画会社)に握られていたことでした。大手映画ストゥディオが映画製作・配給・上映を一貫してコントロールしたビジネス・モデルを展開していたこの体制のことを、一般的には“ストゥディオ・システム"と呼んでいます。
このストゥディオ・システムを作ったのが、主に東ヨーロッパからやってきたユダヤ系移民の実業家でした。彼らは1900年代初期の頃に東海岸北部で劇場を経営し、主に移民コミュニティーを客層としていました。その中でいち早く映画の商業的可能性に着目し、劇場で上映する作品が欲しくて映画製作に乗り出すようになりました。1910年代に入ると、彼らは映画製作の拠点を西海岸南部のハリウッドに移しました。日当たりの良い温厚な気候は映画製作に向いており、周辺に山や森、砂漠や海岸、牧場があることからロケイションの観点からもハリウッドは最適な場所だったのです。また、東海岸からできる限り離れることで、映画産業を牛耳ろうとしていたトーマス・エディソンの告訴から逃れるという大きな別の目的もありました。自由を得たユダヤ系移民の映画ストゥディオは、ヨーロッパで第一次世界大戦が繰り広げられる中、映画製作を進め、一方で映画館のチェーンを買収していき、急成長を遂げました。
1920年代において、8社の大手映画ストゥディオのうち、5社は製作・配給・上映を握っていた垂直統合型のコングロマリットでした(つまり各社は製作ストゥディオに加え、作品を配給する部署、上映する子会社も抱えていたということ)。パラマウント映画、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)、前述のワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス映画、そして1928年に立ち上げられ、最後に加わることとなったRKOは“ビッグ・ファイヴ"として知られます。残りの3社であるユニバーサル・スタジオ、コロンビア映画、ユナイテッド・アーティスツは、大手映画館チェーンを所有しておらず、ビッグ・ファイヴに頼っている側面もありました。注目すべきは、この8社は全てユダヤ系が立ち上げた会社、あるいはユダヤ系が立ち上げに関わっていた会社だということです。
これら大手映画ストゥディオ、特にビッグ・ファイヴは、それぞれが抱えていた映画館のチェーンを満席にするために新作映画をどんどん製作する、いわば“夢の工場"のような存在でした。それぞれの映画ストゥディオはプロデューサー、監督、俳優、脚本家、技術者と所属契約を結び、工場のような組み立てラインを整えました。作業の分担が部署やチームごとに明確にされていたため、同時に複数の映画作品の製作が効率的に進められるようになりました。ハリウッドの黄金時代の間は、毎年600もの映画作品が製作されていたとされます。
また、こういった体制の中で脚本や絵コンテの作成、演出やカメラ・ポジション、照明や音声、そして最終的に全てを一貫した映画作品として仕上げる編集作業がマニュアル化されていきました。更にそれぞれの映画ストゥディオのスタイルやイメージも確立されていきました。そして結果として製作された映画作品のほとんどは、ミュージカル、ウェスタン、スクリューボール・コメディ、ギャグスター映画など、決まったジャンルのいずれかに収まるような作品ばかりになりました。しかし、こういった作品がアメリカの大衆を虜にしていったのです。
4.“プリ・コード"のハリウッドとヘイズ・コードの誕生
1920~1930年代にハリウッドが商業を目的としたメインストリームな映画を大量生産していくことで、次第に製作者はマーケットの動向に束縛されるようになっていきました。
“トーキー"が誕生した当初、前述のように“ミュージカル"の要素を取り入れた作品が数多く製作されました。歌のパートとセリフのパートが混在したミュージカルは、サイレント映画の演劇のような“誇張された演技"と、“トーキー"で求められるようになった“リアルな演技"の橋渡しとして最適であったのでしょう。あまりにも多くのミュージカルが製作されたため、観客は飽きるようになり、一部の映画館では「この作品はミュージカルではありません」という謳い文句で映画を宣伝するようにさえなったそうです。
“トーキー"の誕生によってもう1つ定着したジャンルが、いわゆるギャングスター映画です。2010年1月のニュー・ヨーク・タイムズの記事(「When Hollywood Learned to Talk, Sing and Dance」)では、機関銃の音、キーキーときしむ逃走用の車のタイヤ、ギャングスターの独特な言葉遣いが、サウンド映画に向いていたのだとしています。当時のアメリカは禁酒法の時代であり、アメリカ国民は密造酒の製造や販売や、シカゴを拠点に犯罪組織を運営していたギャング・ボスのアル・カポネなど“暗黒街の顔"に高い関心を持っていたこも、こうした映画が作られた背景にあったのでしょう。こういったジャンルは特に若い男性の間で人気でした。
現在のハリウッド映画は、一般的に現実逃避のためのファンタジーが多いというイメージがありますが、1930~1940年代のギャングスター映画を始め、1940~1960年代の戦争映画、1960~70年代にはヒッピー映画など、常に時代の社会状況を反映した作品が多く製作されてきました。1930年代前半は大恐慌時代の真っ只中であり、経済的に切迫した生活、反権力、反資本主義を描写するなど、当時の社会問題をシニカルに捉えた作品が目立ちます。また、いわゆる“7つの大罪"を取り扱った映画作品は当たると知ったハリウッドは、わざと危なさそうなタイトルを作品につけたり、女性を性的対象として描いたり、不倫を描いた作品も製作しました。1920年には、アメリカ合州国憲法修正第19条が批准されたことによって女性は正式に参政権を得ることとなりました。アメリカ社会における女性の立場が大きく変わっていた時代であったこともあって、こういった“みだら"な映画は女性の間で特に人気になったとされます。
一方で、こういった風潮がハリウッドの道徳的腐敗を起こしていると問題視する声もどんどん高まっていきました。そもそも映画というものが誕生した早い段階から、カトリック教会や各種団体は、道徳に反するような作品の上映を禁止しようと活動をしていました。更に1920年代にはハリウッドの“sin city"(罪深き街)というイメージが広がるスキャンダルが連続的に起こりました。1921年には人気喜劇俳優ロスコー・アーバックルが強姦殺人容疑で起訴、1922年にはサイレント映画の有名監督であったウィリアム・デズモンド・テイラーの殺害、その他複数人の俳優がドラッグの過剰摂取で死亡し、こういった事件は新聞によって更にセンセイショナルに取り上げられ、悪評を呼びました。
こうした事件・事故のイメージ・ダウンを受けて、ハリウッドは1922年に長老教会派の長老であったウィリアム・H・ヘイズに協力を求め、新しく立ち上げられたアメリカ映画製作配給業者協会の会長に指名しました。宗教団体の多くは政府による検閲を求めていたのに対して、ヘイズ氏は自主規制の方向性を探りました。この作業はなかなかうまくいかず、ヘイズ氏は宗教団体を納得させることはできませんでした。1929年に、インディペンデント系の業界紙の編集者でカトリックの信者であったマーティン・クィッグリーと、イエズス会士であったダニエル・A・ロード神父らが映画向けの倫理規程を作成し、映画ストゥディオに送りました。“映画を製作する際に用いてはいけない要素"と“用いる際に細心の注意を払うべき要素"が書き出されたその規程を目にしたヘイズは、目から鱗だったそうです。この条項は後に“プロダクション・コード"あるいは“ヘイズ・コード"と呼ばれるようになりました。
以下、ウィキペディアからヘイズ・コードの禁止事項と注意事項を引用します。
以下の項目は、いかなる方法においてもアメリカ映画製作配給業者協会の会員が映画を制作する際に用いてはいけない要素である。
1. 冒涜的な言葉("hell," "damn," "Gawd,"など)をいかなるつづりであっても題名・もしくはセリフに使うこと2. 好色もしくは挑発的なヌード(シルエットのみも含む)または作品内のほかの登場人物による好色なアピール
3. 薬物の違法取引
4. 性的倒錯
5. 白人奴隷を扱った取引
6. 異人種間混交(特に白人と黒人が性的関係を結ぶこと)
7. 性衛生学および性病ネタ
8. 出産シーン(シルエットのみの場合も含む)
9. 子どもの性器露出シーン
10. 聖職者を笑いものにすること
11. 人種・国家・宗教に対する悪意を持った攻撃
また、いかなる方法においても、以下の要素を用いるときは、下品で挑発的な要素を減らし、その作品の良いところを伸ばすためにも、細心の注意を払うようにすること
1. 旗2. 国際関係(他国の宗教・歴史・習慣・著名人・一般人を悪く描かぬように気を付けること)
3. 放火行為
4. 火器の使用
5. 窃盗、強盗、金庫破り、鉱山・列車および建造物の爆破など(あまりにも描写が細かいと、障がい者に影響を与えるおそれがあるため)
6. 残酷なシーンなど、観客に恐怖を与える場面
7. 殺人の手口の描写(方法問わず)
8. 密輸の手口の描写
9. 警察による拷問の手法
10. 絞首刑・電気椅子による処刑シーン
11. 犯罪者への同情
12. 公人・公共物に対する姿勢
13. 教唆
14. 動物及び児童虐待
15. 動物や人間に対して焼き鏝を押し付ける
16. 女性を商品として扱うこと
17. 強姦(未遂も含む)
18. 初夜
19. 男女が同じベッドに入ること
20. 少女による意図的な誘惑
21. 結婚の習慣
22. 手術シーン
23. 薬物の使用
24. 法の執行もしくはそれに携わる者を扱うこと(タイトルのみも含む)
25. 過激もしくは好色なキス(特に一方が犯罪者である場合は要注意)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
映画ストゥディオはハリウッド作品の上映を保証するために、自主規制条項を自主的に導入することに賛成します。しかし1930年代前半においては、世界大恐慌による経済不況も重なり、映画ストゥディオはそれどころではない状況に置かれていました。その結果、ヘイズ・コードをまともに導入しようとはしませんでした。当時のアメリカ映画製作配給業者協会は映画ストゥディオに対して説得したり要請することはできても強制的に何かさせる力はなく、ある要素をカットするかしないかについては、最終的には映画ストゥディオが決めることとなっていました。ところが1934年ごろにカトリック系の団体がハリウッドの不道徳な作品のボイコットを呼びかけ、バンク・オヴ・アメリカなどカトリック系の資本家がスポンサー金額を減らすようになると、ハリウッドの映画ストゥディオは協会に最終的な決定権を譲ることを決めます。ヘイズ・コードはその後、60年代まで強制力を持つこととなり、その期間に製作された映画作品の内容に大きな影響を与えました。