1.プロローグ
私はオーストラリア・シドニーでオーストラリア人の両親のもとで生まれましたが、父の仕事の関係で小学生の頃に何年間か米国カリフォルニア州で過ごした経験があります。いろんなアメリカ文化の中でも特にハマったのが、いわゆる“サタデイ・モーニング・カートゥーン"やディズニーのアニメイション映画でした。当時はいわゆる“ディズニー・ルネサンス"と呼ばれるディズニーの第二期黄金時代であり、父親に最新ディズニー・アニメイション映画を観るために映画館に連れて行ってもらっていました。初めてディズニーランドに連れて行ってもらったりしたことを今でも覚えています。
また、早朝や放課後に帰宅するとテレヴィで『ドラゴンボール』や『セーラームーン』などのアニメが放送されており、それをきっかけに日本のアニメにもハマりました。90年代末には“ポケモン現象" がアメリカにも到来し、日本のアニメがアメリカの子供の間で一気に普及しました。そんな中で私が特に興味を持ったのは、近所の公共図書館から借りていた古いアニメのVHSでした。その中でもとりわけお気に入りだったのが“日本のウォルト・ディズニー"とも称される手塚治虫の作品でした。こういった経験から、私は高校時代に本格的に日本語を勉強するようになり、後に日本に定住することになりました。
1928年に生まれた手塚治虫は、子供の頃からウォルト・ディズニーの映画が大好きだったそうです。戦時中はディズニーなど米国のアニメイション映画の公開は禁止されていましたが、戦後の1951年に『バンビ』が公開されると、手塚氏は劇場に通い詰めて100回くらい観たと語っています。この作品の映像スタイルのみならず、「親子関係」「自然と人間の関係性」というテーマは、当時連載中であった『ジャングル大帝』を初め、手塚氏の初期の作品に大きな影響を与えたとされます。また、手塚氏は1964年にニューヨークで開かれた世界万博でウォルト・ディズニーと実際に対面しており、「いつか『鉄腕アトム』のような作品を作ってみたい」と言われたそうです。
この二人の偉大なアニメイション・クリエータがいなければ、現在のアニメ業界も私“SUNDAY"も存在しなかったかもしれません。それぐらい、子供の頃には、アニメイションをよく観ました。きっとそのことが、“物語"や“映像"への興味を強くなり、表現者になるきっかけだったのかもしれません。
今回から数回に分けて、アメリカを初め、海外で評価されているアニメイション制作者とその代表作を取り上げていきます。第1弾は、日本の戦後アニメイションを創生期から牽引した手塚治虫とタツノコプロを紹介します。
2.少年漫画の第一人者であった手塚治虫
“マンガの神様"とも称される「手塚治」は、1928年に大阪府で生まれ、4歳の時に家族は宝塚歌劇団の本拠地として知られる兵庫県宝塚市(当初は川辺郡小浜村)に移住します。宝塚関連の行楽施設が立ち並び、異空間のような雰囲気が漂っていた人工的な都市風景は、手塚氏の作品の世界観の形成に大きな影響を与えたと考えられています。また、邸宅の広い庭や近所の田園地帯には昆虫が豊富に生存していることから、手塚氏は昆虫採集に没頭するようになりました。友達から借りた昆虫図鑑で甲虫の「オサムシ」の存在を知り、それに因んで「手塚治虫」というペンネイムを使い始めたそうです。
手塚氏は幼少期から見様見真似で漫画を描くようになり、小学校では同級生たちから一目置かれるようになります。ところが40年代に入り、中学校に通い始めた頃には軍事色が強まり、漫画を描いていることが教官に見つかり、殴られるという体験をしました。1944年の夏には、体の弱い者が入れられる強制修練所に入らされ、その秋からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出されました。45年6月には勤労奉仕(※12)で防空監視哨(敵機を遠くから発見し、防衛司令官に報告するための大日本帝国陸軍の監視哨のこと)をしていた時に大阪大空襲に遭遇し、頭上で焼夷弾が投下されましたが、なんとか生き延びました。この体験の後、手塚氏は工場に行くのを止めて家にこもって漫画をひたすら描くようになりました。
戦時中の経験は手塚に大きな影響を与え、自伝的作品にも当時の様子が描かれているだけでなく、『鉄腕アトム』などのフィクション作品にも「反戦」というテーマが一貫して描かれました。原子力をエネルギー源として動く少年ロボットである「アトム」というキャラクターは、正義感が強く、人間とロボットの架け橋となることを決意して悪と戦っていきます。言ってみれば、政治家や軍人などの大人に代わって、純粋無垢な子供が平和をもたらす物語なのです。(アトムのデビュー作は、漫画『鉄腕アトム』の前身であった『アトム大使』という作品でした。)このキャラクターは、より良い未来を築き上げようと夢見る人々にとって、平和と希望のシンボル(※16)となりました。更に、日本のロボット工学学者たちの中には子供の頃に『鉄腕アトム』を観たことがロボット技術者を志すきっかけとなった者が多く、技術大国としての日本を作り上げる一翼を担ったさえと言っていいでしょう。
(作中には、アトムは2003年4月7日に高田馬場にある科学省で誕生したという設定になっていることと、手塚プロダクションの事務所が高田馬場にあったということから、2003年3月1日からJR山手線高田馬場駅で『鉄腕アトム』の主題歌が発車メロディーに使用されています。また、高田馬場駅早稲田口高架下にはアトムを初めとする手塚治虫のキャラクターが描かれた壁画があります。)
50年代、手塚氏は長編漫画の雑誌連載をする中で、4コマ漫画に対比する形で、作品に関係ないギャグを抜き、悲劇性やアンパッピー・エンドなどの要素を導入し、「ストーリー漫画」というジャンルを確立していきました。前述の『鉄腕アトム』の他、少年向けの『火の鳥』や『ジャングル大帝』、少女向けの『リボンの騎士』などの雑誌への連載は当時の少年少女に夢を与えました。
60年代に入って、手塚氏は手塚プロダクションに動画部を設立し、アニメ制作にも乗り出しました。(この部署は62年に「虫プロダクション」に改称されました。)日本初となる30分枠のテレヴィ・アニメイション・シリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かりました。しかし、ディズニーのような滑らかでリアルなアニメイションを作るために必要な絵の枚数を毎週テレヴィ放送用に制作することは、作業量の面から不可能であるということから、手塚氏は“止め絵" (映像が動かず、数秒間に渡って表示される絵のこと)という手法を使用したり、セル画(セルアニメの制作過程に用いられる「セル」と呼ばれる透明なシートに描かれる絵のこと)を使い回したりするなど、絵の枚数を大幅に削減するための工夫を編み出しました。ディズニーの“フル・アニメイション"に対して、この手法は“リミテッド・アニメイション"と呼ばれ、短時間かつ低コストで制作できることから、その後の日本のテレヴィ・アニメの基本的な制作プロセスとなりました。
70年代に入る頃には、手塚氏は低迷期に入っていました。漫画作品の発表は続けていたものの、絵柄のスタイルが「古い」と見なされるようになり、思うような人気を得られなくなりました。アニメの制作事業も不振が続き、73年には虫プロダクションは倒産し、手塚は巨額の借金を背負うこととなりました。そんな中、73年に雑誌に連載開始されていた『ブラック・ジャック』が徐々に人気を集めるようになり、今では手塚氏の晩年の名作とされています。また、この作品の成功により日本においては、“マンガ・アニメ=子供のモノ"ではなくなったのです。
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3.『ライオン・キング』の盗作疑惑
ちょうど手塚氏が亡くなった1989年頃、ディズニーでは『ライオン・キング』の制作が始まろうとしていました。それまでのディズニーの作品といえば、おとぎ話などの原作を基にした作品ばかりで下が、1994年にこの映画を公開する際には、「ディズニー初のオリジナル・アニメイション長編映画」と大々的に宣伝しました。『ライオン・キング』は一世を風靡し、1994年の映画作品の中では世界累計興行収入第1位、手書きスタイルのアニメイション映画としては世界歴代興行収入1位となり、ビデオの売り上げも全ての映画を含めても世界一の記録となりました。その後、舞台ミュージカルとしても制作され、興行収入がブロードウェイ史上最高記録となりました。また、日本でも劇団四季が現在も上演を続けており、2019年にはついに21周年を迎えるロングランを達成しています。2019年には最新のCG技術を用いた“超実写版"の『ライオン・キング』がリリースされ、アニメイション映画としては世界歴代興行収入1位となりました。(KAZOOがこの作品のジョン・ファヴロー監督にインターヴューしています。『ライオン・キング』は名実ともに、史上最も成功を収めたアメリカの娯楽作品と言えるのでしょう。
ところが、94年の『ライオン・キング』は、公開当初から、手塚治虫の『ジャングル大帝』に酷似していることが、日本でもアメリカでも映画評論家やアニメ・ファンの間で話題となっておりました。主人公のライオンの子や賢者のようなマンドリル、片目に大きな傷跡が残った悪役のライオンや子分のハイエナなどが2つの作品に登場しており、また、偶然とは言い難いほど似ている演出が多々使われています。1995年には、アメリカの長寿テレヴィ・カートゥーン『シンプソンズ』で、この騒動をパロディした有名なシーンがあります。ライオンのムファサの亡霊が雲の中に現れ、「私の仇を討つんだ“キンバ"、あ、いや、“シンバ"」と伝えます。(日本版『ジャングル大帝』の主人公は“レオ"ですが、アメリカ版では名前が“キンバ"に変更されていました。因みに“シンバ"はスワヒリ語で“ライオン"を意味する言葉です。)
こういった指摘に対して、『ライオン・キング』の制作者たちは頑なに“パクリ疑惑"を否定しました。共同監督の1人のロジャー・アラーズは、80年代にアニメの仕事で東京で2年間暮らしていたにも関わらず、『ライオン・キング』の完成の少し前まで『ジャングル大帝』という作品は知らなかったとさえ主張しました。もう1人の監督、ロブ・ミンコフに至っては、「キンバも手塚も聞いたことがなかった」 と発言しました。一方で、『ライオン・キング』で大きくなったライオン“シンバ"の声を担当した俳優のマシュー・ブロデリックは、子供の頃に『ジャングル大帝』を観ていたそうで、抜擢された時は“キンバ"関連の作品だと思い込んでいたことをインタヴューで明かしています。
小学生の時に『鉄腕アトム』を愛読し漫画家になった里中満智子は、多くのアーティストと手塚ファンの署名とともにディズニー側に質問状を送りつけました。しかし、日本の一般庶民の支持は伴わず、この運動は水の泡に終わってしまいます。2019年の『ライオン・キング』のリメイクが公開された際にも、盗作疑惑の件はほとんど話題になりませんでした。虫プロ側は、手塚氏がそもそもディズニーを敬愛していたことも念頭にあったので強くアピールすることもしませんでした。法廷において“巨大エンタメ帝国ディズニー"に立ち向かったとしても、全て潰されてしまうことを承知していたのかもしれません。
4.チーム・プレイでアニメ界を牽引したタツノコプロ
アメリカの代表的なサタデイ・モーニング・カートゥーンといえば、『マッハGoGoGo』でしょう。(英語版のタイトルは“Speed Racer"です。)若手のレイサー三船剛が「マッハ号」で世界のカー・レイスに参加し、成長していく姿を描いた本作は、日本版が放送された1967年の秋に、再編集されて吹き替えが加えられた形でアメリカのテレヴィで放送されました。(日本では放送できた車の事故などの“激しい"描写は、アメリカでは「子供向けでない」という理由で編集する必要がありました。) “Speed Racer"はアメリカでもヒットとなり、コミック本、グッズ、アメリカがオリジナルで制作したシリーズなど、様々な展開がされる中で、いつしか“日本のアニメ作品"ではなく“アメリカのアニメイション作品"として認識されるようになっていました。2008年にはウォシャウスキー姉妹が実写版を製作しました。興行収入的には不発となりますが、近年ではカルト的人気を誇っています。
『マッハGoGoGo』を作ったのが、タツノコプロです。タツノコプロは1962年に、京都出身の吉田竜夫、吉田健二、九里一平の三兄弟によって漫画制作会社として立ち上げられました。初代社長を務めた長男の竜夫は、子供の頃に絵を独学で学び、50年台半ばに上京して挿絵画家として働いた後、漫画家に転向しました。3兄弟は、以前手塚氏の専属アシスタントを務め、『鉄腕アトム』の絵コンテにも関わっていた笹川ひろしと出会い、笹川氏は漫画作りに明け暮れる3人を説得し、アニメ制作に乗り出すことになります。タツノコプロの第1作は、『鉄腕アトム』を意識した『宇宙エース』(1965年)でした。少年ロボットの代わりに宇宙からやってきた王子が主人公となっており、地球の平和のために戦うという、今でいう“スーパーヒーロー"を描いた作品です。
手塚治虫の作風は柔らかなタッチのデフォルメが特徴的であったのに対して、タツノコプロは比較的リアルに描かれたキャラクターや、物の硬さや重さなどの質感が伝わる作風を追求しました。これが現れているのが『マッハGoGoGo』や『科学忍者隊ガッチャマン』といったアクション・アニメの名作です。『マッハGoGoGo』のキャラクターたちはどこか西洋人っぽい容姿になっていますし、主人公が運転するマッハ号のデザインはル・マン24時間レース(※32)で優勝経験のある『フェラーリ250テスタロッサ』『フォード・GT40』『アストンマーティン・DB1』を基にしているのではないかとされています。一方で5人の少年・少女が世界征服を企む秘密結社と戦う『科学忍者隊ガッチャマン』は、東映(※36)の “スーパー戦隊シリーズ"の先駆者的存在とも言えるのではないでしょうか。
タツノコプロはこういったアクションもの以外にも、ギャグ・アニメの草分け的存在となった『ハクション大魔王』や、生き別れになった母親を探そうとするミツバチの子を描いたメルヘンチックな『昆虫物語 みなしごハッチ』など、幅広いジャンルの作品を作り出しました。他にもSFギャグ・アニメの『タイムボカン』シリーズでは“憎めない悪役"の代表格とも言える悪党3人組や独創的なメカが登場し人気を集めました。同シリーズの第2シーズン『ヤッターマン』からメカのデザインを担当するようになった大河原邦男は、後に『機動戦士ガンダム』のモビル・スーツのデザインを担当し、“メカニック・デザイナー"という職種を確立しました。
タツノコプロがこれだけのバラエティに富んだ作品を生み出せたのは、チーム・プレイが基本だったからなのではないでしょうか。虫プロダクションからは優れたアニメ制作者が数々輩出されていますが、やはり中心にいたのは手塚治虫という1人の天才・激務家でした。一方でタツノコプロは、吉田竜夫や九里一平が多彩なキャラクターたちを生み出し、笹川ひろしや布川ゆうじといったディレクターが演出を担当し、大河原邦男などが独創的なメカのデザインを作り出し、同時に企画会議ではみんながアイディアを出し合う体制を取っていました。こういったチーム・プレイでタツノコプロは虫プロダクションとともに、アニメ界を創成期から牽引しました。
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5.エピローグ
アニメ業界では昔から、アニメイターは出来高制で労働単価が安く、劣悪な労働環境が当たり前とされることが問題視されてきました。今でも若手アニメイターの平均年収は200万円以下だと言われています。
実は、手塚氏がまだ生きていた間からすでに「アニメイターの給料が安いのは手塚のせいである」と雑誌で非難されることがありました。アニメ業界の低予算、低賃金環境というものは手塚氏が当初、『鉄腕アトム』を1本につき55万円という制作費で売り込んでしまったためであると言われていました。(実際の制作には1本につき250万円かかったとされます。)これに対して、手塚氏は安く売ったからこそスポンサーが実例がほとんどなかった“子供向けのテレヴィ・アニメ"を買ってくれたと反論しています。当時のテレヴィの花形といえば“ドラマ"で、アニメは子供が見る低俗なものという風潮がありました。
当初は虫プロダクションも経営が苦しかったそうですが、『鉄腕アトム』の大ヒットによってマーチャンダイジングの収入で膨大な利益が上がり、それに加えて海外に向けて放映権を販売できたことによって黒字化したそうです。これがその後、日本のアニメ業界におけるビジネスモデルとして広まり、アニメイターたちはこき使われるが充分な賃金を得られないという事態が定着してしまいました。
この事態を手塚氏のせいだと批判する側の主張としては、“漫画の神様"である手塚が安い制作費で受けているなら、他のクリエイターが高い制作費を要求するわけにはいかないことや、また、私財をアニメ制作に惜しみなく投入し、1日4時間しか寝ないという手塚氏の働きぶりを前に、アニメイターたちは文句を言えず、どんなに薄給でもついていくという空気があったと言っています。
最近では、更に安い制作費を実現するために海外の下請けが増え、国産アニメは現在、とても苦しい立場に立たされています。しかし今となっては、アニメ業界の悪い労働環境の原因は手塚氏が安く売ったことではなく、アニメ制作の現場で受け継がれている「前例に従う」「空気に流される」といった日本人の気質なのではないでしょうか。日本では漫画家のことを“先生"と呼ぶ行為はこれを象徴しているように思います。
日本人は天才や偉人を持ち上げ、憧れるくせに、自分が天才になることには罪悪感を感じ、天才になろうとする人の足を引っ張ってしまい、なるべく現状を保とうとする国民性があります。同時に、職人やアーティストたるものは、お金や名声ではなく情熱が主たる原動力となっているので、「苦しい思いをしでなんぼ」というロマンをどこかで抱いている人が多いのではないでしょうか。日本のアニメ業界は、手塚氏のことを“神様"と慕うからこそ、いつまで経っても彼の影から飛び出すことができず、同時に手塚氏のせいにし続けるからこそ、彼の亡霊から逃れることができないのかもしれません。
次回は、スタジオジブリを作り上げた中心的な3人を取り上げます。