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宮﨑駿 × 高畑勲と鈴木敏夫/子供向けの“アニメ"を世界的な“芸術"の領域に高めたスタジオ・ジブリ
  – 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (2) | CINEMA & THEATRE #040
2023/03/20 #040

宮﨑駿 × 高畑勲と鈴木敏夫/子供向けの“アニメ"を世界的な“芸術"の領域に高めたスタジオ・ジブリ
– 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (2)

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SUNDAY
英語教師 / 写真家 / DJ

目次


1.プロローグ

近年日本を訪れる外国人が、必ずといっていいほど訪れる東京の“聖地"があります。それは明治神宮や原宿竹下通り、渋谷スクランブル交差点や浅草雷門と並んで人気を集める三鷹の森ジブリ美術館です。毎月10日の午前10時から、翌月の1ヶ月分のチケットが販売され、すぐに予約がいっぱいになってしまうことから、日本に滞在している外国人は、よく外国から旅行で訪れる友達のためにチケットを購入する羽目になります。私もかつてはよくオーストラリアやアメリカから訪れる友達のために購入していました。(近年はネット上に英語の窓口があったり、旅行会社を通して入手しやすくなっているようですが。)

90年代から2000年代にわたって日本の子供向けの“アニメ"を世界的な“芸術"の領域に高めたのは宮﨑駿監督とスタジオジブリと言っても過言ではないでしょう。私も小学生の頃にアメリカで何年か過ごした時に『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫』と出会い、その魅惑的でどこか懐かしさを感じさせる作風がとても印象に残っています。そして日本のアニメに特別興味のないアメリカ人の間でも宮﨑氏の名が知られるきっかけとなったのが2001年の『千と千尋の神かくし』でした。(アメリカで公開されたのは2002年です。)

後に日本語の勉強をするようになって、この作品の日本版を初めて観た時、私がびっくりしたのが、作品の構成が英語版と同じであったことでした。日本をはじめ海外の作品がアメリカで上映されたりテレヴィで放送される場合は、アメリカの観客向けに大幅に編集されることが当たり前です。また、アメリカ版の制作者たちが、英語の脚本を制作する際に、英語セリフの長さを口の動きになるべく合わせるようにしたことを知った時には、感激さえを覚えました。それほど彼らは宮﨑氏の作品を敬愛していたのでしょう。

『千と千尋の神かくし』が2003年のアカデミー長編アニメ映画賞を受賞した際、L.A.の会場に宮﨑氏は出席しませんでした。後にインタヴューでその理由に関して、宮﨑氏は「イラクを爆撃していた国を訪れたい気がしなかったから」と語っています。

それでもその後も、宮﨑氏の作品は海外における認知度をどんどん高めていきました。そして2020年2月より、動画配信サーヴィスのネットフリックスでスタジオジブリの作品が順次配信開始されることが発表されると、世界中の多くのアニメ・ファンは一斉に歓声を上げました。(アメリカ、カナダ、日本など一部の地域ではネットルフリックスでは配信されていません。その後アメリカではケーブル・テレヴィ「HBO」の配信サーヴィス「HBO Max」で5月から配信される予定であることが発表されました。)現在、新型コロナウイルスで世界中の人々が外出自粛している中、スタジオジブリの作品は再び注目を集めています。

今回はスタジオジブリの二大巨匠の高畑勲と宮﨑駿と、彼らを支えた名プロデューサーの鈴木敏夫の3人に注目します。


2.ファンタジーを嫌い、徹底的にリアリズムを追求した高畑勲

高畑勲は1935年に三重県で生まれ、1942年に家族と共に岡山県へ移住しました。その翌年、岡山市がアメリカの空襲に遭い、火の雨が降り注ぎ、焼死した人の遺体があちらこちらに散在する中で逃げ回 るという体験をします。この体験は、後の最高傑作、野坂昭如原作の『火垂るの墓』に大きな影響を与えることとなりました。

その後、高畑氏は東京大学文学部に進学し、フランス文学を学びました。大学での経験が彼の価値観を大きく形成することとなりました。また、その頃にフランスの長編アニメイション映画の字幕翻訳を手がけた際、作品に感銘を受け、アニメイション映画に(アニメイターとしてではなく)演出や監督として関わりたいと思うようになりました。

高畑氏は大学卒業後に東映動画(現在の東映アニメーション)に入社しました。演出助手としての仕事ぶりが認められ、長編漫画映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の演出に抜擢されます。しかし、大幅な予算オーヴァーやスケジュールの遅れ、興行的な失敗により、演出助手に降格させられます。同作は、同じ東映に所属していた新人アニメイターであった宮﨑駿が本格的に制作に携わった初めてのアニメ作品となりました。高畑氏と宮﨑氏の二人はその後、中を深めていきました。

高畑氏と宮﨑氏は1971年に東映動画を退社し、その数年後にズイヨー映像(のちの日本アニメーション)に移籍します。ここで高畑は『アルプスの少女ハイジ』を初めとするテレヴィ・アニメの演出を担当するようになり、この時にリアリズム溢れる作風を確立していきました。当時のアニメでは手塚治虫に代表されるような「デフォルメ」(誇張や変形)や「省略」の手法が主流でした。それに対して高畑氏は、人間の日常生活の描写を中心としたアニメを目指すようになりました。『アルプスの少女ハイジ』を制作する際には、スイスを実際に訪れてロケハンをしたり、現地の暮らしを自ら体験し、徹底的に調べ上げた資料を基に舞台設定を行い、地に足のついた作品作りをしました。

こういった“作家性"は宮﨑氏に多大な影響を与えることとなります。同時に高畑氏は演出や脚本、場面設計や監督をするようになった宮﨑氏のサポートをし続け、彼の長編アニメーション映画第2作となった『風の谷のナウシカ』(1984年)にはプロデューサーとして参加しました。この作品で高畑氏は当時無名の作曲家であった久石譲を音楽担当に抜擢し、以後宮﨑氏の作品には久石氏の音楽が欠かせないものとなりました。また、宮﨑氏と、徳間書店の鈴木敏夫が『天空の城ラピュタ』を制作してくれるアニメイション・ストゥディオを探そうとしていたところ、なかなか見つからず、「いっそのことスタジオを作ってしまいませんか」と提案をしたのも高畑氏でした。3人は徳間書店の社長であった徳間康快と共にスタジオジブリを設立しますが、高畑氏は「作り手は経営の責任を負うべきではない」という思いから役員への就任を辞退したそうです。

その後、高畑氏と宮﨑氏は、個別に作品制作をするようになります。高畑氏はリアリズムの世界の中にファンタジー的な要素を取り入れる作風を追求していたのに対して、宮﨑氏はファンタジーの世界の中にリアリズムの要素を取り入れる作風を追求していたからです。この違いを最も象徴するのが、長編2本体制として1988年に同時に上映された高畑氏の『火垂るの墓』と宮﨑氏の『となりのトトロ』でしょう。前者は終戦前後の混乱の中を生き抜こうとし、子供らしく振舞うことが許されない2人の兄妹を描いた“ヘヴィー"な作品であるのに対して、後者は田舎へ引っ越してきた姉妹が子供にしか見えない不思議な生き物と出会うファンタジーです。

『火垂るの墓』では彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明し、鈴木と相談の上で2箇所のシーンが彩色が抜けている状態で公開されました。(公開後にも制作が続けられ、未完成の部分は後に差し替えられました。)この不祥事に対して、高畑氏はいったんアニメ演出家をやめることを決意しますが、その後宮﨑氏の後押しを受けて1991年に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰しました。

宮﨑氏の作品に比べると高畑氏の作品は、興行収入の面では決して良いとは言えませんが、日本のアニメイションを支えてきた重要人物であり、「子供が見るもの」とされていたアニメを芸術の領域まで高めた巨匠の1人でした。また、何より宮﨑氏が常に意識した“良きライヴァル"であったそうです。鈴木敏夫はかつて「宮さんはじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮﨑駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と断言したことがあります。


3.世界で最も有名な日本人、宮﨑駿

宮﨑駿は、1941年に東京府東京市(現在の東京都墨田区)で生まれました。幼い頃に宇都宮に疎開し、小学校4年生になった1950年に東京都杉並区永福町に転居しました。疎開先での思い出が後に『となりのトトロ』などの作品の中も反映されていると思われます。

子供の頃の宮﨑氏は身体が弱かった一方で、絵を描くことが得意でした。手塚治虫などの漫画を読み漁った漫画少年として育ち、漫画家を志すことにします。学習院大学在学中にアニメイションの世界へ進むことを決め、卒業後は東映動画に入社し、アニメイターとして働くようになりました。この頃から宮﨑氏はアニメイターとして才能を発揮する一方で、東映動画労働組合の書記長に就任してアニメイターの待遇の改善に尽力していました。

1971年には高畑勲と共に東映動画を退社し、1974年の『アルプスの少女ハイジ』では全カットの場面設定(登場人物が活躍する舞台や場所、時間や時期などの設定のこと)とレイアウトを担当し、番組の大ヒットにより初めての大きな成功を味わいました。70年代後半には『ルパン三世 カリオストロの城』の演出の仕事を引き受け、最終的には長編映画監督デビューを果たしました。この作品は発表当時、SFアニメの全盛期ということもあって興行的には不振に終わりますが、後にアニメイション映画の金字塔的作品と評価されるようになります。また、この映画の制作中に宮﨑氏は当時徳間書店の月間アニメ雑誌『アニメージュ』の副編集長を務めていた鈴木敏夫の取材を受けたことが、2人の付き合いの始まりとなります。

その後、その才能に注目した鈴木氏は宮﨑氏が構想していた『風の谷のナウシカ』の企画を徳間書店の企画会議に持ち込み、宮﨑氏は『アニメージュ』に1982年2月号より連載を始めることとなります。作品が多くの読者の支持を集めるようになったことを受けて、徳間書店の徳間康快社長が劇場アニメイション化を決断し、宮﨑氏に声をかけられた高畑勲はプロデューサーとして参加することとなりました。この作品の成功を受けて、宮﨑氏、高畑氏、鈴木氏、徳間氏はスタジオ・ジブリを設立することとなりました。

宮﨑氏がスタジオジブリで制作した作品は、『となりのトトロ』をはじめ、基本的に子供向けのファンタジーが多いですが、ファンタジーの中でもリアルな人間関係を描くことにこだわっており、ディズニー系のファンタジーとはタイプが違うといえるでしょう。

また、宮﨑氏は『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』などの作品から自然環境問題を取り扱っているというイメージがある一方で、軍事マニアとしても知られ、作品に登場する飛行機や飛行シーンなどにはとことんこだわり、『風立ちぬ』に至っては「零式艦上戦闘機」の設計者の堀越二郎を取り扱っているところはとても興味深い点です。

同時に、冒頭で述べた、イラク戦争に反対していたことからアカデミー賞の授賞式に参加しなかったということからも分かるように、“反戦"や“平和主義"というテーマが作品の中で描かれ、憲法改正に関しても反対を表明しています。また、宮﨑氏が通った大学は皇族が通う学習院大学でありながら、在学中に社会主義や共産主義などの左翼運動のことを知り、傾倒していったそうです。こういったアンビヴァレントな思想は、その後の宮﨑氏の作風のみならず、スタジオジブリのあり方にも少なからずとも影響していると言えるのではないでしょうか。フリーランス契約が中心のアニメ業界とは対照的に、スタジオジブリはフルタイムの従業員を雇い、ある種の理想郷的な職場とされてきました。

ところが、その理想郷はここ20年間、揺らいでいます。宮﨑氏は1997年の『もののけ姫』公開後に行った引退宣言をはじめ、これまでも度々引退宣言をしては撤回してきました。そしてその度に宮﨑駿がいなくなったスタジオジブリの“その先"が危ぶまれてきました。2014年に実に5度目となった引退宣言をした際には、スタジオジブリの制作部が解体され、日本中にショックが走りました。

そして2016年11月、鈴木敏夫は書面を通じて宮﨑氏が新作の制作に取り掛かっていることを発表し、2017年5月にはスタッフ募集を開始しました。しかし2018年には高畑勲が亡くなりました、次回の新作が完成すれば、宮﨑氏の本当の最後の作品となることでしょう。それがスタジオジブリの終わりとなるのか、新たな始まりとなるのかは、今後も注目したいところです。


4.2人の巨匠を支えた名プロデューサー、鈴木敏夫

これまで見てきたように、高畑勲と宮﨑駿という2人のアニメ界の巨匠は、プロデューサーの鈴木敏夫の存在なしでは世界的に知られる監督にはならなかったと言えるのではないでしょうか。

1948年に愛知県名古屋市に生まれた鈴木氏は、慶應義塾大学文学部を経て、1972年に徳間書店に入社しました。編集者としての下済み時代を経て、1978年に大手出版社初のアニメ総合誌とされる『アニメージュ』が創刊され、その副編集長として精力的な活動をします。その雑誌の取材で宮﨑駿と出会い、2人は意気投合したことからその後も関わりを持つこととなりました。『風の谷のナウシカ』の制作に取り掛かる際にも、宮﨑氏の意を受け、プロデューサーとして加わるように高畑勲を説得したのも鈴木氏だったと言われています。

25慶應義塾大学とは、1920年に設立された、東京都港区三田に本部を置く日本の私立大学です。

鈴木氏は宮﨑らと共にスタジオジブリを設立してからは、同スタジオの全作品のプロデューサーを務めてきました。立ち上げて間もない頃に発表された『となりのトトロ』や『火垂るの墓』は今でこそロングセラーとなっていますが、上映当時の興行成績は不振であり、『魔女の宅急便』では資金を回収するために絶対にヒットさせなくてはいけない事態に追い込まれていました。そこで鈴木氏は制作の途中で日本テレビに提携を申し出ました。同作はクロネコヤマトというスポンサーと、日本テレビでの大きな宣伝効果によって、劇場版アニメ映画の興行記録を打ち立てる大ヒットとなりました。この成功によってその後のスタジオジブリの新作には企業協賛が定着するようになり、スタジオジブリのブランドが確立されていくこととなりました。鈴木氏はその後もスタジオジブリの“仕掛け人"として作品を成功に導いていきました。(『紅の豚』では日本航空、『もののけ姫』では日本生命、『千と千尋の神隠し』では三菱商事、『ハウルの動く城』ではハウス食品、『崖の上のポニョ』ではアサヒ飲料が協賛しています。)

近年では、新作の制作に挑む宮﨑氏をサポートしながら、2022年秋に愛知県の愛・地球博記念公園に開業を予定している「ジブリパーク」の準備を進めています。スタジオジブリのようなブランドがテーマ・マークを開くということは、いかにもディズニーのようなビジネス展開にも聞こえますが、鈴木氏はインタヴューでこのように述べています:「ディズニーランドに代表されるテーマパークでありながら、あくまでも公園。テーマパークの要素を若干入れながら公園の整備をする。」既存の施設や地形をできるだけ生かしながら、新しい公園の形を模索しているようです。


5.エピローグ

近年、宮﨑監督が引退と復帰を繰り返す中、スタジオジブリの存続が注目されています。もう何年も「宮﨑駿の後継者は誰だ」「スタジオジブリを継ぐのは誰だ」といった質問がずっと挙げられていますが、スタジオジブリ内からはなかなかそれに生まれてこないのが現状です。

ヒントとなるのが、ディズニーの例かもしれません。ウォルト・ディズニーの死後、ディズニーは何十年にも渡るスランプ期に陥りました。その期間、ディズニーは後継者の育成を試みたものの、結局スタジオ内からは有能な後継者は現れませんでした。しかし、80年代末にはディズニー映画を観て育った世代の中から新しい制作者たちが頭角を表し、90年代にはディズニーを“ルネッサンス期"に導いていきました。ディズニーの成功のポイントは、ある1人の天才的な制作者の存在だけでなく、優秀な監督やプロデューサーや、アラン・メンケンのような作曲家などの人材がいたからなのでしょう。 『ルパン三世 カリオストロの城』などの宮﨑駿の作品も、彼らにとって大きな刺激になったと言われています。

スタジオジブリにとっても、宮﨑駿であれ、高畑勲であれ、「後継者は誰だ」という問いはあまり意味がないのでしょう。天才とは突出した才能や資質を持つ“特別な人物"のことであり、通常、後継者はいないものです。彼らの後継者を探し求め、少しでも可能性を感じさせる若手にそのレッテルを貼ってしまっている時点で、ある意味次の世代のアニメイターたちに足かせをかけているようなものなのではないでしょうか。

1997年、今では強姦や性的暴行の罪で禁錮23年の有罪評決を受け、現在獄中の元大物映画プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティーンの会社が『もののけ姫』のアメリカ公開を手がけることとなっていました。ワインスティーンといえば、外国の映画をアメリカ向けに公開する際には制作者のヴィジョンや伝えたいことを度外視にして、自分の趣味に合わせて大胆にカットを加えることで知られていました。『もののけ姫』を準備する際、宮﨑氏はニューヨークまで飛び、ワインスティーン氏から様々なカットの要求をされたそうです。

その数日後、ワインスティーン氏宛てにスタジオジブリからのパッケージが届けられたそうです。その中には、1本の刀と、“No cuts"(「カットはなし」)というメッセージだけが添えられていたと言われています。この結果、ワインスティーン氏はカットを見送りました。これも、鈴木敏夫が仕込んだ“プレゼント"だったそうです。

日本のアニメ業界がこの先生き延びるのであれば、むしろ問わなければいけないのは、「鈴木敏夫の後継者は誰か」なのではないでしょうか。

第3回は、高畑勲と宮﨑駿に強い影響を受けた富野由悠季(※31)と、「宮﨑駿の後継者」の1人として名指しされた庵野秀明を取り上げます。


CINEMA & THEATRE #040

宮﨑駿 × 高畑勲と鈴木敏夫/子供向けの“アニメ”を世界的な“芸術”の領域に高めたスタジオ・ジブリ – 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (2)


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