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ハリウッドのストゥディオ・システムと“トーキー"の時代の始まり (後編)
  – 世界の映画史 (2)
  – マルクス兄弟/フレッド・アステア/ジンジャー・ロジャーズ/キャサリン・ヘップバーン/ケーリー・グラント/ジュディ・ガーランド | CINEMA & THEATRE #053
2023/12/18 #053

ハリウッドのストゥディオ・システムと“トーキー"の時代の始まり (後編)
– 世界の映画史 (2)
– マルクス兄弟/フレッド・アステア/ジンジャー・ロジャーズ/キャサリン・ヘップバーン/ケーリー・グラント/ジュディ・ガーランド

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


(前半より)


5.戦前のハリウッドの代表作

『ジャズ・シンガー』 (1927年) / 監督:アラン・クロスランド / 映画会社:ワーナー・ブラザーズ

長編映画として初めて歌付きの音楽と数分ほどの録音されたセリフが付けられた“パート・トーキー"です。主役を務めているユダヤ系移民のアル・ジョルソンは、1900年代から黒塗りの顔(ブラックフェイス)で黒人のフリをした歌のパフォーマンスで国民的スターとなっていました。この演出方法は現在においては人種差別を助長するものとして行われていません。(80年代に人気のあった日本のドゥー・ワップ・グループ“シャネルズ"(ラッツ&スターに改名)も同様の理由でこの演出をやめました。)しかし、ジョルソンはユダヤ系の移民としてこうしたパフォーマンスを行うことでアメリカにおける“エイリアン"の存在を風刺しようとしていたと指摘する意見もあります。彼は白人のオーディエンスに黒人音楽であったジャズを紹介し、受け入れられる土台を作る役割も果たしました。同時に早期から黒人公民権支持者として演劇界と映画界において黒人の役者や黒人による作品をサポートしたことでも知られています。『ジャズ・シンガー』のような作品の評価を問う時に、こういったコンテクストを念頭に置くことはとても大切なことのではないでしょうか。

『西部戦線異状なし』 (1930年) / 監督:ルイス・マイルストン / 映画会社:ユニバーサル映画

本作は、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツ出身の作家エーリヒ・マリア・レマルクの1929年の小説を原作に、戦争の過酷さをドイツ側から描いた反戦映画です。第3回アカデミー賞において「最優秀作品賞」「最優秀監督賞」を受賞しました。一方、当時のドイツでは、反戦、反ナチスの作品としてアドルフ・ヒトラーをはじめとするナチス党が反発し、1930年12月にドイツ政府は本作の上映を禁止しました。

『キング・コング』 (1933年) / 監督:メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック / 映画会社:RKO

モンスター映画の元祖と言われる本作は、その特殊効果が大きな話題を呼び、世界的なヒットとなりました。この作品の成功によって当時経営不振だったRKOは完全に立ち直ることとなりました。怒り狂ったキング・コングが白人の美女をさらってニュー・ヨーク・シティのエンパイア・ステート・ビルディングをよじ登るシーンは、映画史に残る名場面です。当時は黒人男性を“サル"や“ゴリラ"に例える差別的な描写が一般的であったことから、本作は白人の間における異人種間の結婚に対する恐怖を表した映画だと評する評論家も多くいます。当初ドイツでは『キング・コングと白人女性』というタイトルが付けられました。

『或る夜の出来事』 (1934年) / 監督:フランク・キャプラ / 映画会社:コロンビア映画

サイレント映画のコメディは、喋りがないことから体を使ったギャグを多用した“スラップスティック"系の作品がほとんどでした。“トーキー"の時代となり、コメディ映画もドタバタ喜劇から洒落たセリフに重点を置いた作品へと変わりました。本作は“ヘイズ・コード"が強制力を持つようになる前に製作されたロマンティック・コメディの歴史的作品です。大富豪である父親の反対を押し切ってプレイボーイと駆け落ちした主人公の女性は、父親に監禁されてしまいます。そこから脱出し、夫に会うために夜行バスに乗り込むと、そこに乗り合わせた失業中の新聞記者と出会い、様々なハプニングを体験する中で2人の絆は深まり、やがて惹かれあっていきます。「身分違いの恋」「テンポ良く交わされる洒落た会話」「次々とハプニングが起こるストーリー」などの要素はその後の“スクリューボール・コメディ"の定番のスタイルとなりました。また、本作はコメディ映画としてアカデミー賞の主要賞とされる「作品賞」「監督賞」「主演男優賞」「主演女優賞」「脚色賞」を制覇したという点でもハリウッド史に残る名作といえます。

マルクス兄弟

マルクス兄弟は、ニュー・ヨーク出身のコメディ・グループです。ユダヤ系ドイツ移民の両親に生まれた5人兄弟は、家族の貧しさのために学校を中退し、母親の下でパフォーマーとしての資質を育み、旅芸人の一座としてアメリカ全土を回るようになりました。5人の兄弟はそれぞれ独特のキャラクターを確立し、上流社会を風刺する演劇と、インプロヴィゼイション(アドリブ)を多用した自由なスタイルで、1920年代にはアメリカを代表する喜劇グループにまで成長しました。彼らは日本のクレージー・キャッツやドリフターズなどのコメディ・グループにも大きな影響を与えたました。

マルクス兄弟は4人体制で1929年にパラマウント映画社と契約を結び、コメディ映画に出演するようになりました。『我輩はカモである』(1933年)はパラマウントの下で製作された最後の作品で、政治色が強く、ファシズム(を痛烈に風刺した作品です。行き過ぎた愛国心やヘイズ・コードを揶揄した演出は、今となっては秀逸に感じられますが、公開当時は大恐慌時代の真っ只中でもあり、シニカルでアナーキーに富んだ笑いは観客と批評家の間で不評だったそうです。

その後、3人体制でMGMと契約を結んだマルクス兄弟は『オペラは踊る』(1935年)で最大のヒットを手にしました。前作の不評を受けて、本作はよく言えば丁寧な映画作りが目立った作品であり、悪く言えば兄弟が少し丸くなった作品だともいえます。物語の中心は3兄弟がある男女を引き合せようとするラヴ・ストーリーです。この2作の違いは当時のハリウッドとアメリカの大衆心理の変貌を分かりやすく反映しているのではないでしょうか。

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズ

この2作はフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの代表作とされるコメディ・ミュージカルです。アステアとロジャーズは主に30年代にパートナーとして組んだダンス・コンビで、合計10本のミュージカル映画に共演しました。アステアはそもそもブロードウェイのダンサーとしてキャリアをスタートさせ、世界有数のタップ・ダンサーとして評価されていましたが、映画俳優へうまく転身することができずにいました。1933年にRKOが『空中レヴュー時代 』で彼を脇役として出演させた際に、アステアはダンス・パートナーとして同じくブロードウェイ出身者であったジンジャー・ロジャーズを指名しました。2人のダンス・シーンは作品の最大の目玉となり、一気に人気を博しました。大恐慌時代の不況に翻弄されていたRKOはこの2人のコンビを次回作から主演に抜擢します。

前述のようにヘイズ・コード下では保守的な結婚観が重視され、たとえ夫婦であっても過剰なキスや性行為の描写は禁止されていました。そんな中、ミュージカルというジャンルではダンスを通して恋愛物語を表現することが可能でした。アステアとロジャーズの関係はあくまで仕事上での関係だとされていますが、2人の相性(英語で言うところの“ケミストリー")は画面越しでも伝わってくるほど見事なものです。特に『トップ・ハット』と『有頂天時代』のダンス・ナンバーはミュージカル史に残る名場面が多いことで知られています。

『白雪姫』 (1937年) / 映画会社:ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ(製作) / RKO(配給)

ドイツのグリム兄弟による童話『白雪姫』を原作とした本作は、世界初の長編アニメイション映画です。それまで主にミッキー・マウスなどを描いた短編アニメイション・シリーズで知られていたウォルト・ディズニーは長編映画製作に乗り出し、更なるストゥディオの評価と収益を得たいと考えていました。しかし、長編アニメ映画を製作するという試みは映画業界では「ディズニーの愚行」と揶揄されました。当時は身体的異常を抱えた人々に対する偏見がかなり強く、小人が登場するストーリーは観客に受け入れられないという考えもあったのかもしれません。ところが本作は大ヒットとなり、その収益でディズニーは南カリフォルニアのバーバンク市で巨大な本社を建てました。因みに、本作の公開に伴って、アメリカ映画史上初めてサウンドトラック・アルバムがリリースされました。

『赤ちゃん教育』 (1938年) / 監督:ハワード・ホークス / 映画会社:RKO

ハリウッドの黄金時代を代表する名優のキャサリン・ヘップバーンとケーリー・グラントが主役を演じる本作は、スクリューボール・コメディの傑作とされます。真面目な古生物学者「デイヴィッド」が、我が道を行くお嬢様キャラの「スーザン」と彼女が飼う豹「ベイビー」に振り回されるというストーリーです。(“bring up"とは「育てる」「躾ける」という意味なので、邦題の『赤ちゃん教育』は誤訳ではないですが、完全に映画の内容を勘違いした訳であると言えるでしょう。)本作の登場人物は全員が“突飛な行動をとる変わった人"であったせいで、当時のアメリカの観客は感情移入できず、興行的には不発となりました。一方、最初から最後までギャグ満載である点で、『8時だョ!全員集合』のようなドタバタの昔の日本のバラエティ番組やお笑いに通ずるものがあると言えるかもしれません。

『オズの魔法使』(1939年) / 監督:ヴィクター・フレミング / 映画会社:MGM

名作と呼ばれる映画作品が多く公開された1939年は、「ハリウッド史上最高の年」と称されます。アメリカの映画産業は大恐慌時代から復活を遂げはじめ、アメリカが第二次世界大戦に参戦する直前だったのて、大手映画ストゥディオは多額の予算をかけた様々なジャンルの映画を製作することができました。『オズの魔法使』は、ディズニーの『白雪姫』のヒットを受けてMGMが製作したミュージカル映画の古典的名作です。冒頭とラストで描かれるカンザス州(現実世界)のシーンでは白黒フィルムで撮影され、オズの国のパートは、当時はまだ珍しかったカラー・フィルムが用いられるという演出が大きな話題を呼びました。アカデミー賞では「作曲賞」「歌曲賞」(名曲「虹の彼方に」)「特別賞」の3賞を受賞しました。20世紀後半ではテレヴィでの放映やVHSヴィデオでの普及によってこの作品の人気は不動のものとなり、史上最も多く鑑賞された映画となりました。

『風と共に去りぬ』 (1939年) / 監督:ヴィクター・フレミング / 映画会社:MGM

1936年に出版されたマーガレット・ミッチェルの小説を原作とした『風と共に去りぬ』は、奴隷制が残る19世紀後半のアメリカ南部・ジョージア州を舞台に、農園主の娘スカーレット・オハラの半生を描いた大河物語です。本作は世界的なヒットとなり、アカデミー賞でも「作品賞」「監督賞」「主演女優賞」「脚色賞」など、9部門で受賞しました。中でも召使い「マミー」を演じたハティ・マクダニエルは「助演女優賞」を受賞し、黒人俳優としては初のアカデミー賞受賞者となったことは特筆すべき点でしょう。一方、「マミー」は“白人所有者に従属するお利口さんな奴隷"というステレオタイプを広げたという批判もあります。

『風と共に去りぬ』という題名にある「風」とは「南北戦争」のことで、その風によってアメリカ南部の白人たちの貴族文化社会が消え去ったということを表しています。2020年5月にミネソタ州で黒人のジョージ・フロイドが白人警察官によって首を押さえつけられて殺害され、抗議活動が全米に広がったことを受けて、本作はアメリカの動画ストリーミング・サーヴィス「HBO Max」から一時的にラインナップから消えました。2020年7月現在、 “注意書き"付きで再び配信されるようになりました。

『駅馬車』 (1939年) / 監督:ジョン・フォード / 映画会社:ユナイテッド・アーティスツ

本作は「男の中の男」「アメリカの英雄」などの異名を持つ俳優のジョン・ウェインの出世作であり、ウェスタン映画の傑作とされています。監督のジョン・フォードは当時B 級映画俳優であったウェインを指名し、ユタ州にあるモニュメント・ヴァレーで撮影を行いました。以後ウェインはフォードの看板俳優となり、モニュメント・ヴァレーはウェスタン映画の代名詞となりました。しかし、現在では白人開拓者を美化し、アメリカの先住民を残酷な野蛮人とする人種差別的な描写は、多くのウェスタン映画に共通する問題点だとされます。アパッチ族の襲撃を恐れながら荒野を走る駅馬車の男たちは、正に今のトランプ政権下の白人の心境を表しているといえるのではないでしょうか。トランプ大統領といえば、アメリカの独立記念日の週末に4人の大統領の顔が彫られていることで知られるサウス・ダコタ州のマウント・ラシュモアを訪問した際に、先住民グループが抗議を行ったことがニューズとなりました。実はその土地は白人たちが1800年代にラコタ・スー族から奪った神聖な土地とされます。マウント・ラシュモアという“モニュメント"を掘った人物は、「KKK」との関係を持った白人至上主義者だったとされます。

『スミス都へ行く』 (1939年) / 監督:フランク・キャプラ / 映画会社:コロンビア映画

前述の『或る夜の出来事』や、『素晴らしき哉、人生!』で知られるフランク・キャプラ(※20)は、ハリウッドの黄金時代を代表する名監督です。キャプラはイタリアのシチリアで生まれ、5歳の時に家族と共にアメリカに渡りました。ロス・アンジェレスのイタリア系移民が多く暮らすゲットーで育った彼は、様々な差別を経験しました。それでもキャプラはアメリカン・ドリームを信じ続け、成り上がって移民である自分の力量を示してやりたいという気持ちを持ち続けました。『スミス都へ行く』は、政治の腐敗を描いているため、公開当時は物議を醸し、「アンチ・アメリカ」「プロ・コミュニズム」の作品であるという批判を受けました。しかし「ある1人の男が大きな権力に立ち向かって勝利する」というストーリーは、正にアメリカン・ドリームそのものであり、キャプラの愛国心の結晶ともいえるでしょう。本作は当時の作品としては珍しく政治を真っ向から取り扱っているという点で、第二次世界大戦の暗い影を感じさせる作品でもあります。


6.エピローグ

今回のコラムで見てきたように、戦前のハリウッドからは古典映画とされる多くの作品が生み出されました。その作品の共通点は、ハリウッドのストゥディオ・システムから生まれた作品であることと、その結果ほとんどがある特定のジャンルに綺麗にハマる作品であることということです。それぞれがミュージカル、スクリューボール・コメディ、ウェスタンなどのジャンルのお決まりの展開や演出を多く生み出し、そのスタイルを確立させました。今改めて見直すとあまりにも“ベタ"な内容に思えるかもしれませんが、実際には今回紹介したような作品こそが“元祖"なのです。

また、今回取り上げた作品のもう1つの共通点は、どれもが紛れもなくハリウッドっぽい映画ということです。言い換えるとどれもがアメリカっぽい映画であるということです。これにはサイレント映画から“トーキー"への移行の中でハリウッドが一大産業化となっていったことに関係しています。

そもそもサイレント映画には音声が含まれていない分、無国籍的な作品が多くありました。英国人のチャーリー・チャップリンがアメリカの“浮浪者"を好演したように、例えばヨーロッパからの移民にもそこには活躍の場がありました。映画の場面の途中に挿入される英語のインタータイトルも、イタリア語やロシア語に翻訳されたものと入れ替えるだけの問題でした。海外では識字能力のある人が映画の内容を観客のために解説してあげるケースもありました。作品そのものが無声であった分、映画館は様々な人の声が飛び交う一種のコミュニティー空間となっていました。

ところが“トーキー"が誕生すると、映画には国柄が強く現れるようになりました。それは登場人物の訛り然り、映像的な表現しかり、プロットしかり。また、大手映画ストゥディオがハリウッドのトップに君臨すると、積極的に海外市場に作品を売り込み始めました。その結果、一部のヨーロッパの大国や日本などを除いて、世界の多くの国々では、国内の映画産業は成り立たなくなり、どんどんハリウッド作品の輸入にシフトしていきました。一方で、ハリウッドにおけるヘイズ・コードの導入によってアメリカの映画作品はさらにマンネリ化していきます。映画ストゥディオのユダヤ系移民のトップたちは、自らの“アメリカン・ドリーム"を追いかけ、とにかく興行成績を伸ばし、収益を上げることを追求しました。このように戦前のアメリカの映画史は、ハリウッドのグローバル化の歴史でもあります。

ところが30年代になると、ドイツではナチス党が権力を握るようになっていきました。その後、ナチス・ドイツは、勢力を拡大し、ヨーロッパ各地に襲撃を始めます。ハリウッドのトップたちは、ヨーロッパという大きな市場を失いたくないという思いに悩まされるようになっていきます。最終的にアメリカが1941年にヨーロッパ戦線に参戦すると、ハリウッドは全力を尽くしてアメリカをバックアップすることとなりました。次回は、戦時中のハリウッドについて取り上げます。


CINEMA & THEATRE #053

ハリウッドのストゥディオ・システムと“トーキー”の時代の始まり (後編) – 世界の映画史 (2)


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