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第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (後編)
  – 世界の映画史 (4)
  – 『理由なき反抗』『捜索者』『十二人の怒れる男』『影なき目撃者』『博士の異常な愛情』 | CINEMA & THEATRE #057
2024/06/24 #057

第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (後編)
– 世界の映画史 (4)
– 『理由なき反抗』『捜索者』『十二人の怒れる男』『影なき目撃者』『博士の異常な愛情』

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


5.戦後のハリウッドの代表作

『素晴らしき哉、人生!』 (1946年) / 監督:フランク・キャプラ

第二次世界大戦後の1945年、キャプラは戦時中にアメリカ軍の映画班に所属していたウィリアム・ワイラーとジョージ・スティーヴンズと共に独立系の映画製作会社「リバティ・フィルムズ」を立ち上げ、映画製作を再開します。その第1作が、それまでのキャプラの集大成となるはずだった『素晴らしき哉、人生!』でした。しかし、本作は戦争を経験したばかりの世の中にとっては、感傷的過ぎたせいか、興行的には大失敗します。その結果、リバティ・フィルムズは、47年にパラマウント映画に吸収されることとなります。後にこの作品は事務的な手違いによってパブリック・ドメインに解放されます。そのためクリスマスの時期になると必ずテレヴィで放送される定番となり、今では幅広い世代に愛されるキャプラの最高傑作とされています。

『黄金』 (1948年) / 監督:ジョン・ヒューストン

同じく戦時中にアメリカ軍の映画班に所属していたヒューストンは、戦後の復帰作である『黄金』でアカデミー賞「監督賞」を受賞し、ハリウッドの最先端にいる監督として評価されます。メキシコのシエラ・マドレ山脈で一攫千金を夢見て金鉱を探し求める3人のアメリカ人山師たちの葛藤を追った本作は、恋愛の要素やハッピー・エンドもありません。当時ワーナー・ブラザーズの最大のスター俳優となっていたハンフリー・ボガートが惨めで疑い深い役柄を演じていることが話題となりました。また、この作品は当時としては珍しく撮影所ではなくロケイション撮影されたことでも知られています。冒険好きなヒューストンにとって撮影所の人工的なセット撮影では物足りなくなっていたのでしょう。

『サンセット大通り』 (1950年) / 監督:ビリー・ワイルダー

オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィアでユダヤ系の両親の間に生まれたワイルダーは、ベルリンで脚本家として映画界にデビューします。しかし、評価され始めた矢先にアドルフ・ヒトラー率いるナチスが台頭し、ワイルダーは1933年にフランスに亡命し、翌年にはアメリカに渡りました。37年にパラマウント映画に脚本を売り込むことに成功し、ハリウッドでシナリオ・ライターとして活躍するようになります。第二次世界大戦中に監督としてもデビューし、フィルム・ノワールの傑作とされる『深夜の告白』(1944年)、アルコール依存症の恐怖を描いた『失われた週末』(1945年)など、ヘイズ・コードのギリギリを行くような話題作を発表しました。サイレント映画時代の大女優であった主人公が過去の栄光に固執し、時代が変わったことを受け入れられずに葛藤する『サンセット大通り』もフィルム・ノワールの傑作とされています。

『イヴの総て』 (1950年) / 監督/脚本:ジョセフ・L・マンキーウィッツ

田舎から出てきた大物女優になることを夢見るイヴは、ブロードウェイの大女優でキャリアの岐路に立っているマーゴの付き人となります。次第にイヴは冷酷なまでに野心的な本性を表して行き、マーゴを踏み台にしてまでも駆け上がろうとします。本作はアメリカのエンタメ業界における、女優に対する年齢差別が大きなテーマとなっています。また、戦時中は戦争に出兵した男性労働者たちに代わって、女性たちが弾薬や軍事物資の生産を行なっていたのに、戦後になるとまた家庭的な役割を果たすように求められました。こうした当時の女性の葛藤を描いた作品でもあります。ハリウッドの影の部分を描いた『サンセット通り』とブロードウェイの影の部分を描いた『イヴの総て』が同じ年にリリースされたことはとても興味深いことです。

『欲望という名の電車』 (1951年) / 監督:エリア・カザン

テネシー・ウィリアムズによる同名の戯曲を原作とした本作は、ワーナー・ブラザーズ製作でありながら、主人公の4人のうちの3人は演劇版の俳優をそのまま起用しました。舞台設定には劇場版のセットを転用しており、映画会社の影響力が次第に揺らぎ始めていたことを示しています。本作は演劇版にも出演していたマーロン・ブランドの出世作として知られています。また、題名が示唆するように、物語は“欲望"(性欲)に溺れる主人公たちの関係を描いた作品で、ヘイズ・コードの影響力も落ちつつあったことを物語っています。

『真昼の決闘』 (1952年) / 監督:フレッド・ジンネマン

本作は保安官が1人で殺し屋4人と立ち向かう西部劇です。主人公はそれまでの西部劇の無敵のヒーローとは違って、普通の人間として描かれています。彼は共に戦ってくれる協力者を探すものの、町の住民は関わり合いを恐れて手助けをすることを拒みます。結婚式を挙げたばかりなのに新妻に見放されてしまい、この保安官は、たった1人で4人組の悪党と戦うこととなります。こういった内容のため、本作はハリウッドのブラックリストを批判したストーリーだと指摘する声が多くあります。実際、脚本を担当したカール・フォアマンは、撮影中に赤狩りの対象となり、英国に亡命しました。

『雨に唄えば』 (1952年) / 監督:ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン

サイレント映画から“トーキー"に移る時代のハリウッドの舞台裏を描いた本作は、ミュージカル映画の最高傑作の1つとされます。主役も務めているジーン・ケリーが土砂降りの雨の中で主題歌を歌うシーンは、映画史に残る名場面として知られます。また、“声質"が命となるサウンド映画に適用しようとする俳優の苦労や、当時のマイクロフォンの性能の限界などが描かれている点でもとても興味深い作品です。現在は、あらかじめ録音された歌に合わせて口を動かす“リップ・シンク"(口パク)は、TikTokなどのSNSで流行したり、アメリカのテレヴィの深夜のトーク・ショーでも、“パフォーマンス"として定着しています。

『シェーン』 (1953年) / 監督/製作:ジョージ・スティーヴンス

本作も『真昼の決闘』と同じように、西部劇の新たなスタイルを示した傑作とされています。スティーヴンズは戦前、コメディ・タッチの商業映画の監督として知られていました。しかし第二次世界大戦中には、西部戦線で連合軍の進撃に随行し、ダッハウ強制収容所では戦争の凄惨な現実の記録撮影に従事しました。こういった体験を得て、戦後のスティーヴンズは、シリアスなドラマを製作するようになります。本作の暴力的で激しい格闘の描写は話題となります。シェーンが町を去る有名なラスト・シーンは、西部劇における“無敵なヒーロー像"は神話でしかないことを表しています。

『波止場 』 (1954年) / 監督:エリア・カザン

オスマン帝国(現在のトルコ)で暮らすギリシャ人の家庭に生まれたエリア・カザンは、4歳の時にアメリカに移住しました。イェール大学などで演劇を学んだ後、舞台俳優としてデビューし、その頃に一時期アメリカ共産党に入党していました。第二次世界大戦後の赤狩りの際には、カザンは自らに対する疑惑を晴らすために下院非米活動委員会と司法取引し、共産主義思想の疑いのある友人の映画監督、俳優、劇作家、演出家ら11人の
名前を委員会に提示しました。この行為は、後のカザンのキャリアに暗い影を落とすこととなります。1人の労働者が良心に目覚め、マフィアに立ち向かって法廷で証言台に立つ様子を描いた『波止場』には、自分がやったことは正しかったというカザンの主張も込められています。

『理由なき反抗』 (1955) / 監督:ニコラス・レイ

このコラムの前半でも、第二次世界大戦後に多くの中産階級の家族が都会から郊外へと移住したことについて触れましたが、本作はカリフォルニアの郊外を舞台に、両親との確執から不良となったり、意味のない度胸試しに明け暮れる若者たちの日常を描いています。親たちは、努力してアメリカン・ドリームを成し遂げ、快適な生活を手に入れたはずなのに、その子供たちの世代は、反抗を繰り返しています。こうした当時のジェネレイション・ギャップをテーマにしたこの作品は高い評価と人気を得ます。主役のジェームズ・ディーンは、本作の公開の約1ヶ月前に交通事故で亡くなり、伝説の俳優となりました。

『捜索者』 (1956年) / 監督:ジョン・フォード

戦時中に『The Battle of Midway』などのドキュメンタリー映画を監督したジョン・フォードは、戦後、ジョン・ウェインを主役とした西部劇を多く監督したことで知られています。中でも南北戦争の後のテキサス州を舞台にした『捜索者』はその最高傑作とされています。アメリカの先住民に対して強い偏見を持つ主人公は、弟の一家がコマンチ族に虐殺されると、連れ去られた姪を探す旅に出かけます。しかし男の目的は彼女を救い出すこと以上に復讐をすることでした、ようやく会えた姪が今ではコマンチ族の一員となったと知ると、男は彼女を裏切り者として殺そうと思います。西部劇という古典的ハリウッドのジャンルの作品でありながら、単純な勧善懲悪の物語でないところにハリウッドの成熟が見受けられます。

『十二人の怒れる男』 (1957年) / 監督:シドニー・ルメット

50年代のハリウッドでは、ジョン・ヒューストンやジョン・フォードがロケイション撮影の可能性を切り開いたその一方で、ほとんどの出来事が1つの部屋で繰り広げられる本作は「脚本の面白さが全て」であることを主張しているような“法廷モノ"です。父親を殺した罪に問われた少年の裁判で、12人の審査員が判決に達すまで一室で議論する様子が描かれています。超低予算で済んだ制作費、わずか2週間ちょっとで独立系の映画会社によって製作されたことは、古典的ハリウッドのストゥディオ・システムの衰退を物語っているともいえます。日本でも筒井康隆が『12人の浮かれる男』三谷幸喜が『12人の優しい日本人』というオマージュ作品を製作しています。

『戦場にかける橋』(1957年) / 監督:デヴィッド・リーン

アメリカと英国の合作映画である本作は、第二次世界大戦中、タイとビルマの国境付近にあった捕虜収容所を舞台に、日本軍と英国軍の対立と交流を描いた戦争映画です。アカデミー賞「作品賞」「監督賞」「脚色賞」「主演男優賞」など7部門を受賞しました。脚本を担当したカール・フォアマン(前述の『真昼の決闘』の脚本も担当した人物です)とマイケル・ウィルソンはハリウッドのブラックリストに載せられており、当時英国に亡命していました。そのため2人は匿名で執筆した作品です。2人が死去した後にようやくアカデミー賞の受賞が認められました。

『お熱いのがお好き』 (1959年) / 監督:ビリー・ワイルダー

禁酒法時代のアメリカを舞台にした本作は、マフィアに追われるジャズ・ミュージシャン2人(トニー・カーティスとジャック・レモン)が、シカゴから逃げ出すために女装して女性楽団に潜り込み、マリリン・モンローが演じる女性歌手に恋をしてしまうというコメディ映画です。女装やギャンブルを描いたり、同性愛をモチーフとするなど、思いっきりヘイズ・コードに触れる内容となっています。そのため本作はMPAA(アメリカ映画協会)の承認なしで上映されました。しかし、この作品が大ヒットしたことで、ヘイズ・コードの威力は決定的に弱まりました。

『サイコ』 (1960年) / 監督/製作:アルフレッド・ヒッチコック

戦前・戦時中・戦後のそれぞれの時代に傑作を残したヒッチコックという監督については別のコラムで詳しく取り上げますが、彼の作品の中でも『サイコ』は最高傑作とされます。不動産会社のOLとして働く主人公が、恋人と結婚するために大金を持ち逃げするものの、たまたま立ち寄ったモーテルで病的なマザー・コンプレックスの殺人者に殺されるというストーリーのサイコ・スリラー映画です。当時パラマウント映画は、本作の制作に消極的であったため、ヒッチコックは当時プロデュースしていたテレヴィのミステリー・ドラマ・シリーズ『ヒッチコック劇場』のスタッフとテレヴィ用のセットを転用し、自らの制作会社を通して低予算で制作することにしました。主人公のマリオンが殺人されるシャワー・シーンは映画史に残る印象的な場面として知られています。

『ウエスト・サイド物語』 (1961年) / 監督:ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ

本作はアメリカの作曲家レナード・バーンスタインの音楽によるブロードウェイ・ミュージカルの映画化作品です。ポーランド系アメリカ人の少年で構成されているギャングと、プエルトリコ系アメリカ人のギャングが、地元の広場の占有権を巡って敵対する物語です。バーンスタインは第二次世界大戦中に進歩的な政治活動に精力的に参加したことから、政府の情報機関の監視を受け、50年代には一時ブラックリストに載っていました。しかし宣誓陳述書で共産主義者との繋がりを全面否定し、ブラックリストから名前が削除されることとなりました。

『影なき狙撃者』 (1962年) / 監督:ジョン・フランケンハイマー

1959年の同名の小説を原作としたサイコ・スリラー映画です。朝鮮戦争で戦ったアメリカ軍の英雄が、実は捕虜にされている間にソビエト連邦軍に洗脳され、無意識下でアメリカの政治家を暗殺するというストーリーです。ソ連とアメリカの間の緊張が最高潮まで高まり、核戦争寸前まで達した「キューバ危機」の時期に公開されたため、冷戦時代のアメリカ人が抱いていたパラノイアや恐怖心を見事に捉えています。

『アラバマ物語』(1962年) / 監督:ロバート・マリガン

ハーパー・リーによる1960年の小説を原作とした本作は、人種差別が根強く残る1930年代のアメリカ南部を舞台に、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人の青年の事件を担当する白人弁護士の葛藤を描いた“法廷モノ"です。『アラバマ物語』は黒人が直面する人種差別の現実を描いている作品として長い間アメリカの学校で教材として使われています。しかし、同時にこの物語では白人弁護士の子供のナイーヴな視点から描かれていることや、白人の登場人物は“人間"として描写されているのに対して、黒人の登場人物は“人種差別の被害者"という薄っぺらい描写がされている点が長年、問題視されています。

『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』 (1964年) / 監督/製作/脚本:スタンリー・キューブリック

英国とアメリカの合作映画として製作された本作は、キューバ危機によってピークに達していた冷戦の緊張状態を舞台としたブラック・コメディです。精神に異常をきたした米国空軍基地の司令官がB-52戦略爆撃機にソビエト連邦への核攻撃を命令すると、アメリカ大統領やその側近はそれを阻止しようとするものの、結局人類の滅亡を招いてしまうというストーリーが白黒で描かれています。50年代に映画監督として台頭したキューブリックは、ハリウッドの映画産業に嫌気がさし、1961年に英国に移住しました。そこで最初に監督した作品が、アメリカとヨーロッパの文化的な違いを描いた 『ロリータ』で、2作目が本作でした。

『サウンド・オブ・ミュージック』 (1965年) / 監督:ロバート・ワイズ

本作はナチスが台頭した1930年代のヨーロッパを舞台にしたミュージカル作品です。7人の子供たちを軍隊のように厳しく躾けるトラップ大佐と、トラップ家の家庭教師となったお転婆の修道女見習いのマリアの関係を描いた実話に基づいた作品です。もちろん実話に基づいているものの、大幅に内容はアレンジされており、発表当初は映画評論家は「ファシズムの脅威を薄めた、甘すぎるハリウッドのファンタジー」と批判しました。しかし本作が世界的に大ヒットし、今でも世代を超えて愛されていることを見ると、人は時にしてハリウッドに“騙されたい"ことが分かります。どこまでも明るいマリアとは対照的に、60年代の後半になるとハリウッドの映画作品はだんだん暗い方向に進むこととなります。


6.エピローグ

今回のコラムで見てきたように、第二次世界大戦後の10年間でヘイズ・コードの影響力は急速に低下していきました。

アメリカ政府は西ヨーロッパをソビエト連邦の共産主義から防御し、資本主義と民主主義を定着させるためにハリウッド映画などのアメリカ文化を積極的に西ヨーロッパに輸出しようとしました。これに対して英国、フランス、イタリアなどは自国の映画産業の成長を守るために輸入されるハリウッド映画に制限をかけます。同時期にハリウッドのストゥディオ・システムが解体されると、独立系の映画会社が台頭するようになり、時にはヘイズ・コードのギリギリを行くような映画づくりに挑みました。

また、海外からアメリカに輸入される映画作品はヘイズ・コードに縛られていなかったため、それまでタブーとされていたようなテーマや描写を取り入れることができました。一方でテレヴィが一般家庭に普及する中、ハリウッドはよりエッジの効いた作品を作らざるを得ない状況に追い込まれます。1952年に最高裁の判決で映画作品はアメリカ合州国憲法修正第1条によって表現の自由が守られると言う判決が下されると、ヘイズ・コードの束縛は徐々に解かれていくこととなりました。

こういった業界内の事情に加え、60年代には社会的道徳観が大きく変わり、60年代後半にはヘイズ・コードは完全に破棄されることとなります。その代わりにMPAA(アメリカ映画協会)は、1968に新しいレイティング・システムを導入しました。その区分としては以下の指定があります:G(一般指定)、PG(成人保護者の助言や指導が適当)、PG-13 (13歳未満の子供の鑑賞については保護者の厳重な注意が必要)、R(17歳未満の鑑賞には保護者の同伴が必要)、X(のちにNC-17、17歳以下の鑑賞は全面的に禁止)。このシステムは現在も使われており、性的描写や暴力のシーン、そして卑語が特に厳しく制限されています。

近年は、アメリカ国内でこのシステムに対する批判の声が増しています。このトピックに関しては2006年に発表されたドキュメンタリー映画『This Film is Not Yet Rated』がオススメです。レイティング・システムがアメリカ社会にもたらしている影響に迫ったこの作品の中では、システムの様々な矛盾やダブル・スタンダードが浮き彫りにされています。審査会は大手映画会社と独立系の映画会社の作品に対する基準が異なったり、異性愛者を描いた作品と同性愛者を描いた作品の取り扱いが違ったり、暴力シーンに対しては比較的緩いのに性的描写は厳しく取り締まっている点などが取り上げられています。驚くことに、指定に対する控訴を聞き入れる匿名の審査会には、映画製作会社や配給会社の経営者らに加え、プロテスタント系とカトリック系の聖職者もアドバイザーとして参加していることも判明します。

日本は第二次世界大戦後に高度経済成長を遂げたものの、それでもいつまで経ってもアメリカとは対等になれず、“戦後"の時代を抜け出せない“遅れている国"であるとよく指摘されます。しかし映画のレイティング・システムだけを見ると、アメリカこそが“戦後"の時代を抜け出せずにいるということが言えるのではないでしょうか。ユダヤ系の移民を中心に一大産業に育てられたハリウッドが、未だにプロテスタンティズム的価値観に縛られていることが分かります。

また、現在アメリカ各地に見られる人種間の軋轢を見ると、戦前の時代からあったヨーロッパからの“エイリアン"(移民)に対する差別意識、西部開拓時代に見られるアメリカの先住民に対する差別意識、そしてアフリカから強制的に奴隷として連れてこられたという歴史を持つ黒人に対する差別意識が、今もなお根強く残っていることが分かります。ハリウッドは戦後の時代にもA級の名作を数多く世に送り出しましたが、アメリカ社会そのものはB級映画の陳腐な演出かのように、同じ舞台を堂々巡りしているのです。


CINEMA & THEATRE #057

第二次世界大戦後の赤狩りとハリウッドの黄金期の終焉 (後編) – 世界の映画史 (4)


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