1.プロローグ
映画鑑賞、特にハリウッド映画を鑑賞することは現実逃避である場合が多いです。ハリウッド映画は、私たちを非日常の世界、あるいはまったく違う“日常"の世界に誘い、職場や家庭の苦労や人間関係の悩みなど、日常の煩雑なことを忘れさせてくれます。
優れたホラー映画というものは、その反対に、非日常の世界に誘うふりをして、そこに待ち受けている世界は、私たちが向き合うのを避けてきている“日常"そのものなのです。表面的には恐怖の対象となっている幽霊や殺人鬼の実態は、人間が抱える恐怖であったり、共同体や社会全体が抱えている不安の現れなのです。
アリ・アスター監督の長編デビュー作であり、出世作ともなった『ヘレディタリー/継承』は、まさにそんな“イヤーな"気分にさせてくれる作品です。主人公のアニーは、長年疎遠であった母のエレンの死をきっかけに、グループ・カウンセリングのセッションに参加するようになります。そこで、母は解離性同一性障害を発症していたことや、兄は被害妄想が原因で自殺したこと、そして自身も夢遊病に悩まされていることなど、家族が抱える様々な精神疾患について語ります。そんなアニーは、こうした過去を葬り去ろうとしますが、徐々に自分の子供にも精神疾患の症状が発現し始め、不穏な出来事が次々と起こり出します。この作品の中心にあるテーマは、「機能不全家族」と「精神病の遺伝的継承」です。
アスター監督の最新作の『ミッドサマー』のテーマは、「不健全な恋愛関係」と「アメリカの男性社会の傲慢さ」です。本作の主人公であるアメリカに暮らす女子大生のダニーは、ボーイフレンドのクリスチャンとは、既に破局寸前の状態にあります。ある日ダニーは不慮の事故で両親と妹を失い、方針状態になりクリスチャンにしがみつきます。クリスチャンはますますダニーに別れを告げ出しにくくなります。彼は、友達たちとスウェーデンの奥地にある村で夏至の日に行われる祝祭に遊びに行く計画を立てていたのですが、この計画がダニーにバレると、しょうがなく彼女も誘い、一同はスウェーデンに出発します。1日のほとんどの間、太陽が沈まない“白夜"の地であるその村「ホルガ」は、美しい花々が咲き乱れ、同じ白地の衣服に身を包んだ住民たちが穏やかに暮らしている楽園のような場所です。村人はダニーたちを笑顔で歓迎し、宿と食事を世話しますが、次第に不穏な空気が漂い始め、白日の悪夢が始まるのです。
このレヴューでは、この映画『ミッドサマー』のテーマについて解説していきたいと思います。
2.天涯孤独になった主人公が自分を取り戻していく“おとぎ話"
ホラー映画である『ミッドサマー』は、ディズニーのアニメイション映画を彷彿とさせる、民族的な絵柄の壁画から始まります。一見、それは冬から夏への移り変わりを映し出した神秘的な絵柄なのですが、よく見ると、闇の中で惑う主人公が、身の周りの邪悪なものを振り払い、新しい自分に生まれ変わるという“おとぎ話"を描き出したものなのです。
前述したように、本作の冒頭で主人公のダニーは不慮の事故で両親と妹を失い、途方に暮れています。天涯孤独となった彼女を慰める彼氏のクリスチャンは、実は以前から彼女と別れたいと思っていたのですが、彼女を見捨てるような“最低なやつ"になりくないがために、関係を絶ちきれずにいます。一方で、生きる意味を見失ったダニーは、クリスチャンを唯一の心の支えとしてしがみつきます。
ある日、ダニーは、無理にクリスチャンとパーティに出かけ、そこで彼と男友達たちが数週間後にスウェーデン旅行を密かに計画していることを知ります。初耳の彼女は、自宅に帰ってからクリスチャンに説明を求めます。別に悪いことをしたとは思っていないクリスチャンは、ムキになり、2人は口論になりかけますが、見捨てられることが怖いダニーは、自分の意志を押し殺し、すぐさま自分が悪かったと謝り始めます。結局、“イイやつ"ぶりたいクリスチャンは、男たちだけでハメを外したい友人たちの異議を押し切って、彼女を旅行に誘います。
アメリカでは近年、このような関係を"toxic relationship"と表現するようになっています。“toxic"とは「有害な」を意味し、すなわち、片方あるは双方にとって有害な、心を蝕むような人間関係のことです。恋愛関係に限らず、お互い「決別した方がいい」と分かっていながらも、なんとなく、都合が良いからと、ぐずぐず長引きさせてしまう関係です。それは暴行や精神的虐待を伴うような分かりやすい虐待関係とは違い、精神的に攻撃性のある言動や、相手の人格を否定するような態度が特徴です。本来、相互尊重に基づくべき関係であるべきなのに、お互いが自己中心的であることが原因と考えられます。
こういった関係は、現代社会に特有の問題だと言っていいのかもしれません。SNSやスマフォというツールを通して、いつでもどこでも他者と繋がることができるようになったのに、一方で私たちは自己中心的になり、返って孤立化し、他人の身になって考えることができなくなってしまっています。その結果、私たちは知らず知らずに相手を傷つけ、人間間の絆は徐々に萎んできているのです。
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今にも空中分解しそうな不健康な恋愛関係にあるダニーなのですが、幸いなことに、旅行というものは、人にとって人生が変わるきっかけともなるものです。ダニーたちが訪れる「ホルガ」という村で待ち受けているのは、まさにおとぎ話や民話に描かれているような牧歌的な世界です。来村者は入り口の“天国の門"をくぐり抜け、白地の衣服に身を包んだ微笑ましい村人たちに迎えられます。そこは全員が血筋に関係なく一緒の部屋に寝て、同じ釜の飯を食う“家族"であり、個人の意志より村全体の意志を尊重した共同体なのです。ペイガン(キリスト教が普及する以前の、多神教的な土着の宗教)の伝統を守る彼らは、オラクル(シャーマンや、日本でいうところの古代の巫女のような存在)を生きる指針として敬い、呪いを信じ、幻覚を引き起こす植物を常用します。90年に一度の夏至祭では広場にメイポール(五月柱)が建てられ、村人は花を身にまとい、その周りで歌ったり踊ったりして過ごします。彼らは言ってみれば60年代のアメリカのヒッピーが喜びそうな“コミューン"暮らしを送っているのです。
このコミューンで、ダニーは徐々に“悲嘆のプロセス"を始め、生まれ変わっていくこととなります。村に到着するといきなり幻覚作用のあるキノコの服用をすすめられ、ダニーの内心を蝕んでいた孤独や恐怖が突然湧いてきます。夏至祭の最初の儀式である「アッテストゥパン(部族の崖)」では、年老いた村人が自ら崖から飛び降りるのを目の当たりにしたダニーは、“死"というものと向き合わざるを得ない事態に置かれます。太陽の光が燦々と降り注ぎ、すべてを照らし続ける中、彼女は自分のトラウマから隠れる場所も逃げる場所もないことに気がつくのです。
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その後、夏至祭の儀式を通して、ダニーは閉ざしていた心を開いていきます。ホルガの村人たちは、一丸となって喜びを共に分かち合い、一丸となって共に悲しみを噛みしめるのです。自己中心的なボーイフレンドのクリスチャンが心のよりどころになってくれない中、自分が失っていた“家族"がそこにあるように感じられ始めます。そしてその“家族"は、彼女が勇気がなくて振り払えなかった闇や邪悪なものを取り除く手助けをしてくれるのです。
3.アメリカの男性社会の傲慢さをテーマにした“フォーク・ホラー"
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ダニーのキャラクター・アーク(登場人物が物語を通して歩む変化の軌跡)が“おとぎ話"をなぞったものだとしたら、ボーイフレンドのクリスチャンとその男友達のジョシュとマークが象徴しているものは、アメリカの男性社会の傲慢さなのでしょう。
『ミッドサマー』の製作の始まりは、スウェーデンの製作会社がアスター監督に「スウェーデンを訪れたアメリカ人たちが殺さていくフォーク・ホラー映画を作って欲しい」というオファーを持ちかけたことだったそうです。
フォーク・ホラーとは、主に英国の民族(フォーク)文化を題材にしたホラー映画のことです。大抵は外界から隔離された土地を舞台に、アニミズムやペイガニズムなど、自然崇拝的な要素とオカルト(超自然的)の要素を組み合わせ、生々しい殺害シーンより、不穏で不気味な空気を作り出すことで恐怖感を生み出すことが特徴です。一言で言えば、未知なものや未開の地に対して西洋人が抱く恐怖を描いたものです。その代表例が、1973年に発表された、英国製作の『ウィッカーマン』です。
また、「異国にやってきたアメリカ人が殺されていく」という設定は、イーライ・ロス監督の『ホステル』など、アメリカのホラー映画でよく用いられる定番のプロットです。アメリカのホラー映画における恐怖感は、多くの場合、空気や雰囲気という抽象的なものからではなく、生々しい殺害シーンから生み出されます。一見グロいだけなのですが、その裏には、異文化について無知で無関心であるアメリカ人が罰を受けるという、自虐的な意図も表れています。『ミッドサマー』はこの2つのタイプのホラー映画の要素を組み合わせた作品なのです。
そもそも男たちがスウェーデン旅行を計画したのは、スウェーデン人の交換留学生ペレが自分の故郷である「ホルガ」で行われる夏至祭を見にこないか、という誘いを受けてのことです。クリスチャンとジョシュは、人類学を専攻している大学院生です。クリスチャンは卒論のテーマがまだ決まらずに困っている一方、民間伝承に興味を持っているジョシュは、「ヨーロッパの夏至祭」を卒論のテーマにしており、ホルガの伝統も盛り込みたいと思っています。ところが「アッテストゥパン」の儀式を目の当たりにしたクリスチャンは、自らもホルガの文化を卒論のテーマにしたいと突然言い出し、ジョシュと衝突することとなります。(“クリスチャン"という名前の人物がペイガンの伝統について卒論を書くとは、とても皮肉なことですが。)卒論のテーマで友情の絆が崩壊していく様子は、とても滑稽なことであると同時に、アメリカ人の自我のもろさをも物語っています。学術的な名誉を追い求める2人は、ホルガの民族文化を研究の対象としての“卒論の題材"としているため、彼らの文化を本当に理解したいという気持ちは本当なのでしょう。
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一方で、もう一人の友人のマークの旅の目的は、スウェーデンの綺麗な女性たちと遊ぶことです。無骨な彼は、ホルガの村の掟を心得ようともせず、文化の違いが原因で大きな無礼を犯してしまいます。「ポリティカル・コレクトネス」や「ダイバーシティ」が謳われている今の時代、他文化への配慮が欠けた言動は、不快に思う人も多いのではないでしょうか。卒論のことしか頭にないクリスチャンとジョシュでさえ、マークの無作法な行動に呆れます。
そして、男たちは村人にすすめられるドラッグを無反省に使用し、“トリップ"しますが、彼らは森羅万象との一体感を味わうどころが、むしろ内向的になり、ついには周りの現実を疑い始めるようになってしまいます。ダニーは徐々に心が解放されていくのに対して、男たちは徐々に自制を失い、最終的には無力な存在にさせられてしまいます。そしてホラー映画というジャンルの約束通り、男たちは村の掟に従って罰せられていくこととなります。アスター監督は、自我が強いアメリカ人の傲慢さを描くと同時に、“トリップ"(海外旅行や幻覚体験)を通して異文化や異空間に触れ、視野を広げ、認識を解放させていくことは、同時に個人としてのアイデンティティの喪失につながるというアメリカ人が抱く恐怖を描いています。
4.“寓意"と“ホラー"の要素を組み合わせた安部公房の『砂の女』
アスター監督は、日本のホラー映画を始め、日本の映画作品に多くの影響を受けているとインタビューで語ってくれました。本作も今村昌平監督の1968年の作品『神々の深き欲望』を参考にしたそうです。文明から隔離された孤島を舞台にしたこの作品は、土俗的な神話や因習を受け継いで生活する島人が、近代化の波と衝突する姿を描いたものです。この作品には、人減らしの為に妊婦を崖から飛ばせる因習が出てきますが、今村監督は『楢山節考』でも“姥捨山"を題材にするなど、近代化に取り残された土俗的な世界で生きる日本人の姿を描いた優れた作品を残しています。
『ミッドサマー』を観た後に、思い出した日本の映画作品は、安部公房が自身の著作を元に脚本を手がけ、勅使河原宏が監督した1964年の映画作品『砂の女』です。『ミッドサマー』と同様、『砂の女』は「寓意」と「ホラー」という二面性を持っている作品です。この作品は厳密には“ホラー映画"には分類されないかもしれませんが、太陽が燦々と輝く都会から遠く離れた砂丘の部落を舞台に、ある男が絶望と堕落に落ちていく悪夢が描かれています。勅使河原監督の映像美もあって、最初から最後まで不穏な空気が漂い、観る人は、現代人が抱える奢りや不安や恐怖と直面させられます。こういった共通点について『世界へ発信!SNS英語術』のインタヴューで、アスター監督に聞いてみたところ、勅使河原監督の映画も原作となる安部公房の小説もお気に入りの作品であり、強い影響を受けていると答えてくれました。
『砂の女』の主人公は、都会暮らしの傲慢な男性です。趣味の昆虫採集を目的に、休暇を利用して人里離れた砂丘に一人でやってきたところから物語は始まりますが、男はいきなり砂浜で見つけた虫を指で突き、もがく姿を笑っている残酷な一面が描かれています。また、都会出身で本業が教師であるこの男は、寡婦を始め、部落の人々を明らかに見下しています。寡婦が砂(すなわち自然)の恐ろしさについて男に説明しようとしても、彼は「冗談言っちゃいけない、常識で考えてごらんなさいよ」と論理的に反論を始めます。そして村人に囚われても、しばらく経てば必ず誰かが自分を探しに来てくれるはずだと思い上がっているのですが、結局誰も彼を探しには来ないのです。結局、砂の力を前に、男は自分が無力であることに気付き、絶望の暗闇へと突き落とされるのです。
同時に『砂の女』は、“失踪ファンタジー"でもあります。主人公の男は、誰かが自分を探しにきてくれるはずだと頑なに思いながらも、実は職場にも友達も妻にでさえも行き先を知らせずに旅に出てきたことが、後に明らかになります。他人と関わりを持たない都会の暮らしの虚しさ、やりがいのない仕事や面倒くさい義務、無数の書類や証明書によって自分のアイデンティティが築き上げられている現代社会から、男は逃げ出してきたという一面もあることに私たちは後から気付くことになるのです。
小説としての『砂の女』は1962年に発表された作品ですが、当時は、家庭や夫婦関係の不和、夫の経済力のなさや貧困、仕事上の問題など、それこそ“toxic relationship"に見られるようなことを理由に、「失踪」や「家出」が“流行り"、社会問題として注目され始めていました。中でも残された家族にとって失踪の原因が全く不明なケースは、「蒸発」と呼ばれていました。『砂の女』の主人公は、自分の妻にさえ行き先を伝えずに旅にでてきた、まさにこうした「蒸発」の一例なのです。そんな男は、皮肉にも砂丘の部落での生活に順応していくうちに、新しい“家族"を見つけ、「村のために尽くす」という新たな“レーゾンデートル"を手に入れるのです。
5.アメリカ社会と日本社会における“個人"と“社会"の関係性
これまで見てきたように、『ミッドサマー』も『砂の女』も、自我や存在理由を見失っていた主人公が、隔離された村での“非日常"の経験を通して自分の人生から欠けていたものを再発見するという物語であります。だが同時に、2つの作品における自我や存在理由の定義、“村"そのものの存在については、アメリカ社会と日本社会とでは大きな違いが表れています。
『ミッドサマー』の視点は、あくまで個人の存在を中心としており、その周りに家族や友達、コミュニティの存在があります。主人公のダニーはスウェーデンの奥地で自分を支えてくれる“家族"を見つけますが、そのコミューンの人々のために彼女は尽くすわけではなく、彼女が抱える悲しみや孤独を癒すための存在としてそのコミューンが魅力的に映っているのに過ぎません。
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一方、『砂の女』では、“村"の存在を中心に“個人"の存在が形成されていくプロセスが描かれています。主人公の男は、物語の冒頭では新しい虫の種類を発見して、名を残したいという自己中心的な願望を持っていますが、物語の終わりでは、砂から水を抽出する方法を開発し、それを村人と共有して喜ばせたいという思いに駆られるようになります。彼は都会的な暮らしによっては満たされていなかった感覚が、村での暮らしで満たされていることに気付きます。男は村全体や家族同然の寡婦のために存在するのであって、彼の自我はもはや重要ではないのです。その証に、物語の本文では男の名前はそもそも一度も出てきません。
安部の小説の主人公は、ほとんど全員、名前を持っていません。この“無名性"は、個人よりも家柄や集まりの方を重視する日本のアイデンティティの根本にある価値観でしょう。西洋人は歴史に名前を残したいという願望を抱くのに対して、日本には名もなき市井の人々の暮らしを称える美意識があります。これは柳田國男が提唱した民俗学の本質でもあります。現在でも、欧米ではカリスマ経営者が持ち上げられるのに対して、日本では(一部の例外を除いて)個人より企業そのものが人気を集める傾向があります。
同時に近年では、欧米でも日本でも、「多様性」が謳われている一方で、同じ考えや価値観を持った同じような人たちが寄り集まるという、ある種の部族主義が再び覚醒しています。違う考えや価値観を持った人は排除されるか、敵とみなされ、国同士にもそれぞれの国内でも様々な“派閥"の対立が深まってきています。
『ミッドサマー』でも『砂の女』でも“村"というものが持つ残酷性も描かれています。『砂の女』の部落の人々は、外側にいる「他人」のことはどうでもいいと思っています。部落の収入の大部分は、掘って集めた砂を建設業者に密売することで得られており、その業者はセメントに砂を混ぜ入れることで経費を削減しています。そのことを知ると主人公の男は驚いて法律違反になると言い張りますが、寡婦は「かまいやしないじゃないですか、そんな他人のことなんか、どうだって!」と答えます。そこには村社会の閉鎖性と排他性、“他人"に対する思いやりの欠如に対する警告があります。
『ミッドサマー』のコミューン「ホルガ」は、違う意味で閉鎖的な社会です。白い衣服を着た白人のみで形成されており、物語に登場する有色人種の人が次々と犠牲にされていくのは、偶然ではないのでしょう。一方で、白人であるダニーは、そのコミューンに受け入れられます。とはいえ、そんなダニーでさえ、アメリカ人が大切にしている個性というものは認められません。後半のあるシーンでダニーは顔以外の全身が色とりどりの花に覆われ、言ってみれば“花の女"として登場します。それは完全に個性が奪われコミューン(あるいは自然)と一体化した姿であるとも言えます。つまり、アメリカ人からすると、村社会の怖いところは、多様な個性が認められないということです。アメリカ人には、そのことこそが最大のホラーなのかもしれません。