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映画レヴュー: 『ポルトガル、夏の終わり』に考えさせられる「人生の生き方」と「家族のあり方」
  – 監督: アイラ・サックス/主演: イザベル・ユペール、ブレンダン・グリーソン、マリサ・トメイ | CINEMA & THEATRE #065
『ポルトガル、夏の終わり』 (C)2018 SBS PRODUCTIONS / O SOM E A FÚRIA (C)2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions
2025/03/31 #065

映画レヴュー: 『ポルトガル、夏の終わり』に考えさせられる「人生の生き方」と「家族のあり方」
– 監督: アイラ・サックス/主演: イザベル・ユペール、ブレンダン・グリーソン、マリサ・トメイ

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KAZOO
翻訳家 / 通訳 / TVコメンテイター

目次


1.2020年の夏だからこそ心に響く『ポルトガル、夏の終わり』

「これは家族旅行のはずだったのに」

これはアイラ・サックス監督の最新作『ポルトガル、夏の終わり』の中で、複数の登場人物が呆れて発する言葉です。

家族旅行というものには、理想と現実のギャップは付きものです。家族のメンバーはそれぞれ違う生活リズムや旅の目的を持っているため、それを完全に一致させることは至難の技です。また、旅先の異空間では様々な誘惑があったり、感情の高まりがあったりするので、亀裂が余計に目立つようになります。大抵の場合は親のどちらかが何が何でも“家族のために"という口実で自分の“理想"を実現させようと事態をコントロールしようとしますが、その他のメンバーは結局は忍耐袋の緒が切れてしまうのがお決まりです。そもそも“非日常的な環境"に“家族という日常"を持ち込もうとすること自体が無理なことなのです。新型コロナウイルスのパンデミックによって、世界中の人々の夏の旅行計画がお預けとなっている中、問題だらけの家族旅行でさえも恋しく感じる方も多いのではないでしょうか。

『ポルトガル、夏の終わり』は、自分の死期を悟ったヨーロッパ映画界の大女優“フランキー"(フランスの名女優イザベル・ユペール)が、ポルトガルの世界遺産の町シントラで最期のファミリー・バケイションを楽しもうとするというストーリーです。彼女が呼び寄せたのは夫のジミー(ブレンダン・グリーソン)、元夫のミシェル(パスカル・グレゴリー)、息子のポール(ジェレミー・レニエ)、義理の娘のシルヴィア(ヴィネット・ロビンソン)とその夫と娘、そして最も信頼する友人のアイリーン(マリサ・トメイ)です。

フランキーには自分が亡くなったあとも愛する者たちが問題なく暮らしていけるよう、身辺を整理するという目的もあり、ある“家族劇"を仕組みます。しかし、事態が自分が思い描いていた筋書きからどんどん外れていってしまいます。サックス監督は、英国の詩人バイロン卿が「この世のエデン」と称した神秘的な地を舞台に、この家族の心境が、ある夏の終わりの1日を通して揺れ動く様子を見事に捉えています。夏の終わりに人生の儚さというテーマを取り上げている本作はこの時期にぴったりな作品です。

ハリウッドやヨーロッパの映画作品の多くは、通常、世界の他の各国で順次公開された後に、最後に日本で公開されることが通例です。この背景には、作品の魅力を最大限に西洋文化とは異なった文化背景を持つ日本の観客に伝えるために、様々な宣伝を行う必要があるからです。これは何も日本に限ったことではなく、ハリウッドの“娯楽作品"をヨーロッパ市場向けにリリース、あるいはヨーロッパの“アート作品"をアメリカ市場向けにリリースする際にも、文化の違いに適応するために公開時期のズレが生じるものです。とはいえ、日本の公開時期が一番遅くなることが多いことをもどかしいと思っている洋画好きは多いのではないでしょうか。

『ポルトガル、夏の終わり』も、2019年5月にカンヌ国際映画祭で初公開され、8月下旬にフランス、10月下旬にアメリカで既に公開されました。その幻想的な舞台設定や映像美、そして主役を務めるイザベル・ユペールの繊細で観る人を惹きつけるような演技が高く評価されました。2019年の夏といえば、たった1年前のことなのですが、今ではそれが遠い昔に感じてしまいます。その理由は、2020年に入って私たちの“日常"が大きく変わったからだということは、今更いうまでもないことでしょう。日本を始め、世界各国で新型コロナウイルスの感染症の拡大と再拡大によって、今年の夏は世界中の人々が“ステイケイション"を強いられているのが現状です。そんな時期に日本での公開を迎えるこの作品には、今だからこそ私たちが求めている、感慨深いメッセージが込められている気がします。


2.ヨーロッパを代表する大女優の“フランキー"/イザベル・ユペール

『ポルトガル、夏の終わり』はシントラにあるホテルのパティオ(中庭)のシーンから始まります。ヨーロッパを代表する女優である、60代のフランキーは辺りを見渡し、上着と水着のトップスを脱ぐと、透き通ったプールに飛び込みます。そこにやってきた義理の孫マヤが「人に見られるわよ!」と呆れていると、「大丈夫、私はフォトジェニックだから」とフランキーは気にもとめず、優雅に泳ぎ続けます。

ヨーロッパの映画界で活躍するフランス人の大女優である、“フランキー"ことフランソワーズ・クレモンを演じるのは、同じくフランスの大女優であるイザベル・ユペールです。ユペールはクロード・シャブロル監督の『ヴィオレット・ノジエール』(1978年)とミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』(2001年)でカンヌ国際映画祭女優賞、シャブロル監督の『主婦マリーがしたこと』(1988年)と『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』(1995年)でヴェネツィア国際映画祭女優賞、フランソワ・オゾン監督の『8人の女たち』(2002年)のキャストの一人としてベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞)などを受賞し、名実ともにヨーロッパを代表する女優として知られています。2016年にはポール・ヴァーホーヴェン監督の『エル ELLE』でアカデミー賞「主演女優賞」にもノミネイトされ、改めて国際的にも広く認識され、高く評価されています。ユペールは伝統的な女性らしさや女性のセクシュアリティに対するイメージを覆す複雑な女性像を演じることを得意としており、特にいわゆる “ファム・ファタール"のステレオタイプに人間味をもたらした役柄の演技で知られています。

『ポルトガル、夏の終わり』が製作されることとなったのは、ユペールがサックス監督の2014年の作品『人生は小説よりも奇なり』をとても気に入り、すぐにユペールの方から監督にメールをしたことがきっかけだったそうです。2人はメールでのやりとりや対面を経て、サックス監督は彼女を念頭に『ポルトガル、夏の終わり』の脚本を執筆しました。「俳優をキャスティングするのではなく、人間をキャスティングする」という監督にとって、フランキーのキャラクター設定を女優とすることはごく自然なことだったそうです。

フランキーは、自分の余命があと僅かだと知っており、海風に持って行かれそうなくらい華奢な体でありながら、女優としてのオーラは健全という役柄です。最初のプールのシーンでも、神秘的な森の中をヒールを履きながら散策する姿でも、彼女は誰が見ても並ならぬ存在感を感じさせます。フランキーが登場しないシーンでも、彼女の存在が常に感じられるほど、物語は彼女を中心に展開されていきます。彼女はまた、家族の中心的存在でもあり、家族はフランキーのためになるべく悲しさを抑えながら、彼女が企てる“家族劇"に付き合おうとします。しかし、徐々にそれぞれが抱えている問題が浮き彫りになっていきます。

「君はいつも頭の中でとんでもないシナリオを思い描いているよね。あらゆることを自分の思い通りに操れると思っているだろ」と、フランキーは夫のジミー(ブレンダン・グリーソン)に言われます。彼女が企画していた“演出"の1つは、恋愛に縁がない息子のポール(ジェレミー・レニエ)に、友人のアイリーン(マリサ・トメイ)を引き合わせることです。アイリーンは、ニュー・ヨークを拠点にする映画のヘア・メイクアップ・アーティストで、フランキーとは仕事をして仲良くなります。アイリーンは、彼女を仕事関係の中で唯一の友人と呼んでいるような存在なのです。どころがそのアイリーンは、映画の撮影監督を務める、どこかパッとしない恋人のゲイリー(グレッグ・キニア)を連れて現れるのです。

別の場面で、フランキーは息子のポールと口喧嘩になり、森の中で置いてけぼりにされます。何もかもが自分が描いていたシナリオ通りにいかいことに苛立ちを募らせていると、そこに恋人から逸れて迷子になったアイリーンがたまたま差し掛かります。一息ついた後にアイリーンが「帰り道はわかるの?」と聞くと、フランキーは「方向音痴なの、私!」と返します。「方向音痴」は英語では“no sense of direction"と表現しますが、“direction"という言葉には「方向」という意味と、映画監督などの「指導」「演出」という意味合いも含まれています。つまり、「私には、監督としての才能がないのよ」という意味にも取れるのです。女優としての才能は揺るぎないものでも、必ずしも“演出家"や“監督"の才能は伴わないことに、フランキーはこの時、気がつくのです。


3.監督のアイラ・サックスと脚本家のマウリシオ・ザカリーアス

本作の監督を務めるアイラ・サックスは、家族間の緊張や微妙な関係を描写する才能が高く評価されている映画人です。アメリカ合州国南部のテネシー州出身の彼は、自身が同性愛者であることも公表しており、アメリカ南部に暮らす白人とヴェトナム系移民の少年の同性愛を描いた『ミシシッピの夜』(1998年)で長編映画監督デビューを果たし、注目を集めるようになりました。この作品は日本でも98年の第7回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭において上映されました。

2010年代に入ってからは、ブラジル出身の脚本家のマウリシオ・ザカリーアスとタッグを組み、ニュー・ヨークの社会問題を題材にした作品を発表してきました。2012年の『Keep the Lights On』ではドキュメンタリー映画監督と弁護士の恋愛関係と、2人がドラッグの常習を断ち切ろうとする姿を描きます。2014年の『人生は小説よりも奇なり』では同性婚が合法化されたことを受けて結婚したゲイの熟年カップルが直面する困難を描きます。2016年の『Little Men』では、ある住宅地が高級化され、家賃が上昇する中で2人のティーネイジャーの友情の絆が試される様子を描きました。

2人は「休暇中の家族」という企画を映画化する際、ポルトガル人の母を持つザカリーアスは、ロケイションにシントラを提案すると、サックスは自身がティーネイジャーの頃に家族とヴァケイションにシントラを訪れていたことを思い出したそうです。2人は実際にシントラを訪れ、1週間強をかけてその町をロケイション・ハンティングした上で脚本の執筆に取り掛かったそうです。

その結果、シントラの地形や歴史が物語に大きく関わっています。映画はホテルのプールでスタートし、その後パン屋や「結婚の泉」があるホテル付近の街へと移り、楽園のような宮殿や公園、病いを治すと言われる水が流れる教会を観光します。物語のクライマックスで家族は海を見晴らせる山頂を目指します。こういった場所は、それぞれの登場人物の心境を反映するシーンになっており、関係に亀裂を生じらせたり、感情を動かたりする場面もあります。

『ポルトガル、夏の終わり』はサックスにとって初めて海外で撮影した作品ですが、彼の作風には以前から一般的なアメリカ映画とは違う、ヨーロッパやアジアの芸術的な映画に共通する美意識とスタイルがあるとされています。ニュー・ヨークを題材とした作品が多いことや作家性を重視している点ではウッディ・アレンの作風とも通ずるところがありますが、言葉数の多い、神経質なキャラクターが多く登場するアレンの作品とは違って、サックスの作品では登場人物の何気ない仕草や沈黙により多くを語らせ、よりナチュラルな演技スタイルを用いています。


4.本作を通して疑似体験する“大人の家族旅行"

冒頭で述べたように、家族旅行というものは大抵とてもストレスフルなものです。家族旅行を題材にした映画は、通常様々なハプニングが起こる喜劇として描かれることが多いものです。そのハプニングによって登場人物の中でプレッシャーがどんどん積もり、最終的に爆発してしまうというストーリーが多くあります。しかし『ポルトガル、夏の終わり』はハプニングによって劇的に物語が展開されるのではなく、会話やちょっとした心の揺れによって物語が展開されていきます。フランキー本人も自分に残されている時間が限られていることを知っていながらも、急ぐ様子はなく、むしろ頑なにマイペースで生きようとする様子が描かれています。

そもそも本作は家族劇でありながら、その家族はラスト・シーンまで一度も揃うことなく、本編のほとんどは2人もしくは3人一組で行動をしながら、自分たちが抱えている問題と葛藤する姿が描かれています。フランキーの夫のジミーは、彼女がいない生活を想像することができず、やるせない気持ちを耐え抜こうとします。30代の息子のポールは、母の敷いたレールの上を進むような人生に抵抗を感じながらも、大人になりきれずにもがいています。友人のアイリーンは、恋人のゲイリーとの関係の将来性について悩みを抱えています。

この作品がもし陳腐な家族劇だったとしたら、フランキーが自分が抱えている病いを全員に打ち明けるためにファミリーを呼び集めるのでしょう。そして、一人一人が涙ぐむ“お別れ"の様子が描かれていたかもしれません。しかし、本作では家族全員はフランキーの死期が迫っていることを既に知っており、むしろそれを言い訳にファミリーを集めた彼女の動機にわずかながら疑いを持っています。義理の孫のマヤ(セニア・ナニュア)に至っては、この日を「私の独立記念日」と名付け、一人でビーチに出かけてしまいます。

家族それぞれが人生の岐路に立っているものの、サックス監督はそれを不自然にドラマチックに描こうとはせずに、人生を歩む上での当たり前のこととして描いています。あるキャラクターに“気づき"や“心変わり"が起きたと思った次の瞬間、サックス監督は既に視点を違う登場人物に変えているのです。このような映画を正に“大人の映画"というのではないでしょうか。

本作のラスト・シーンでは、ファミリーが海を見晴らせる山頂に集まり、夕暮れを眺める様子が描かれています。その様子はロング・テイクで“引きの絵"で撮られていますが、ここでも“フランキー"というキャラクターも、監督のサックスも、意外な“演出"を見せてくれます。夕暮れは、いわば“人生の最期"のメタファー(隠喩、または暗喩のこと)であるわけなのですが、フランキーは自分の運命を受け入れつつも、最後の最後まで、自分が生きたいように生きるという意地をみせるのです。「悲劇だけに染まることを避けることも大切なんだ。病気は彼女が直面したものの一部にしか過ぎない。人は死ぬまで生きていて、僕にとってフランキーというキャラクターは、正にその証人なんです」と、サックス監督は言います。


5.エピローグ

『ポルトガル、夏の終わり』のストーリーを理解する上で、“ヴァケイション"というものの捉え方が国や文化によって違うことは、とても大事なポイントです。

例えば、ヨーロッパ人、特にフランス人は毎年の夏の“ヴァカンス"を取ることをとても大事にしています。法律にも、大人も子供も数週間の長期休暇を取り、海外旅行に行ったりしてハイキングやキャンプをすることが定められており、思い思いに夏の休暇を意識的に楽しもうとします。彼らにとってヴァカンスとは「人間が元気に生きていくために必要なもの」なのです。また、家族で旅行をする場合でも、主役はあくまでも“大人"であり、“子供"を中心に何か予定を組んだり行動を取ることはまずありません。

一方で、アメリカ人には「休む時にはしっかり休む」という気持ちはあっても、ヨーロッパ人のように夏には必ずヴァカンスに行く習慣はありません。もっというと、西海岸や東海岸、あるいはヨーロッパやアジアにルーツを持つ移民の一世や二世は別として、アメリカ人の多くは国外に出たことがないのが実態です。また、日本人からするとアメリカ人は決して勤勉な国民だとは思っていないかもしれませんが、一般的なヨーロッパ人に比べると働いている日数がかなり多く、ホリデイ(祝日)も比較的少ないことも注目すべき点です。アイリーンの恋人であり、ハリウッドの撮影監督として働くゲイリーは、登場するシーンのほとんどで美しい街並みを楽しむことなく仕事の話ばかりを続けています。そして恋愛関係について話すシーンでも、話題に仕事を持ち込もうとする、とてもプラグマティック(実利的)なアメリカ人として描かれています。

日本人の旅行の場合は、パッケージで旅行計画があらかじめ決められているものを予定通りに消化したり、団体で行動することが多いものです。そして、訪れる場所も圧倒的に子供を中心に考えていることが特徴でしょう。親たちは子供たちのために予定を立てることで幸せを感じ、一方で子供たちは親に気にかけられることに幸せを感じるのです。そしてある年齢を超えた“老人"が家族にいる場合は、彼らの行動を極端に制限することで安心しようとする傾向があります。もし『ポルトガル、夏の終わり』が日本人の家族の話だったとしたら、“フランキーおばちゃん"は、家族を引っ張る力強い存在ではなく、家族にひたすら“無理しないで"と言われて気を使われる存在になっていたのではないでしょうか。

帰省や旅行の自粛が呼びかけられているコロナ禍の夏だからこそ、『ポルトガル、夏の終わり』が扱う人生や家族にまつわるテーマには、より一層感慨深いものがあります。本作を鑑賞してヨーロッパ人の“大人の旅行"を疑似体験し、「旅行とは何か」「家族と時間を過ごすこととはどういうことなのか」そして「生きるとはどういうことなのか」についてしっかり考えてみてはいかがでしょうか。


CINEMA & THEATRE #065

映画レヴュー:『ポルトガル、夏の終わり』に考えさせられる「人生の生き方」と「家族のあり方」


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