1.『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』について
80年代~90年代のアメリカの学園生活を題材にしたハリウッドの青春映画には、必ずといっていいほど冴えない“nerd"や“geek"というステレオタイプのキャラクターが登場します。こういうキャラは、学力は高いが社交性に欠けており、パーティーに行くことより自宅でくつろいで読書に没頭したい、根暗な性格の持ち主です。大概メガネをしていたり身の丈に合わない服装を身にまとっています。女の子からは恋愛の対象として見られることはほとんどない、典型的ないじめられっ子なのです。
こういう役柄を説明する時によく使用される表現に、“bookworm"や“bookish"、“booksmart"などがあります。“bookworm"とは日本語と同じ「本の虫」のことを意味する言葉で、昔はネガティヴな表現でした。しかし、現在ではポジティヴな意味で使われることも多くなりました。本来は“bookish"には「読書愛好家」や「勉強好きな」という意味があるものの、「本から得た学識に頼りがちな」というネガティヴなニュアンスが伴う言葉です。そして“booksmart"に至っては「学識はあるが常識がない」「知識に富んでいるが智慧がない」という意味を持つ、遠回しな侮辱的な言葉なのです。
女優オリヴィア・ワイルドの初長編監督作品『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、そんな“ブックスマート"な2人の親友の話です。L.A.に暮らす女子高校生のエイミー(ケイトリン・ディーヴァー)とモリー(ビーニー・フェルドスティーン)は、勉強のためにこれまで学園生活を犠牲にして、勉強に徹してきた自分たちと、遊んでばかりいたように見えた同級生たちの関係をイソップ寓話の「アリとキリギリス」のように捉えています。高校卒業後に控えている一流大学での学生生活こそが、自分たちの輝く時の始まりだと思い込んでいます。しかし、卒業を目前にして、自分たちが見下ろしていた同級生たちもハイ・レヴェルな進路を歩むこととなっていることを知った2人は、学問もスポーツもプライヴェートもバランス良く充実させていた同級生たちが、これからの人生の蓄えをしていた「アリ」で、学問だけに身を投じていた自分たちこそが実は「キリギリス」であることに気付きます。そして卒業前夜にその時間を一気に取り戻すべく、同級生たちが開催している卒業パーティーに出席しようと街に繰り出します。

それだけを聞くと、数多くある「アメリカのティーネイジャーが羽目を外す」というストーリーに一捻り加えた、軽いノリの作品のように聞こえるかもしれません。確かにエイミーとモリーは行く先行く先でびっくりするようなハプニングに巻き込まれ、スマフォ世代ならではの多くの障害にぶつかりながらも、目的地を目指して走り回るというドタバタ劇として本作を楽しむことができます。しかし本作の核心は、エイミーとモリーの友情です。例えば、2人は決してオシャレとはいえないお互いの服装をひたすら褒め立てる“儀式"を行うなど、笑ってしまうような内輪ネタがいっぱい詰め込まれています。また、2人の間にはわざとらしい嫉妬心や意地悪な態度のかけらもなく、映画の最初から最後までお互いのことを全力でサポートし合う“親友"として描かれています。この一点だけを挙げても本作は一般的な青春映画とは一線を画した作品なのです。
青春映画の大まかなストーリー・パターンというのは、かなり限られており、それ自体はさほど重要ではありません。「高校生活の最後に現実を突然突きつけられるティーネイジャーの葛藤」を題材にした作品は数多くあります。しかし、 ジョン・ヒューズ監督による80年代のティーン・ムーヴィーに代表されるような、世代を超えて愛される青春映画というものには、魅力的な登場人物が現れます。人物設定の成功のポイントはキャラクターがいかに青春というものを忠実に表しているか、そして監督や脚本家がいかに「ティーネイジャーであること」の葛藤と誠実に向き合うかにかかっています。魅力的な登場人物に溢れ、その点で彼らの成長を愛情たっぷりに見守った『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、世代を超えて愛されるに違いない作品といえます。
2.主人公の部屋から見えてくる現在のアメリカの高校生像

ティーネイジャーにとって、学校は同級生の目に晒される社交の場であり、自宅は親の目に晒される場であるので、自分の部屋だけが唯一の“隠れ家"なのです。(スマフォの普及によってそこでさえも侵入されつつありますが。)自分の部屋というのは自分の個性を具現化できる空間でもあります。アメリカのティーネイジャーの場合はその傾向が特に強く、ベッドには自分の趣味に合ったシーツ、机の上には趣味のための小物が置かれ、部屋の四方面の壁や天井にはお好みの映画や音楽のポスターで埋め尽くします。
なので、優れた青春映画の判断基準の1つとなるのが、主人公の部屋のインテリアなのです。部屋を見渡しただけで主人公の人物像が見えてくるような、いかにもありそうな内装は、等身大の主人公が描かれていることの証しでもあります。ニュー・ウェーヴ系のミュージシャンのポスターにしろ、ユニオン・ジャックに星条旗が飾られた『フェリスはある朝突然に』のフェリスの部屋にしろ、L.A.の高級住宅地ビヴァリー・ヒルズに住み、夢のようなウォーク・イン・クロゼットを持った『クルーレス』のシェールにしろ、それは単なるヴィジュアルの演出ではなく、そのキャラクターのアイデンティティの縮図なのです。主人公の部屋に何らかの主張がない場合は、そのキャラクターの信ぴょう性を疑うべきです。(『ブレックファスト・クラブ』など、物語の設定上の理由で主人公の部屋が登場しない映画は例外です。)
その点、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』の主人公の2人は、紛れもなくジェネレイションZの代表なのです。オープニング・シーンでは、部屋の床にあぐらをかいているモリーが、カーテン越しに漏れる淡い朝日を浴びながら、瞑想で自己肯定を上げる様子が描かれています。モリーのタンスには、学校の表彰の数々に加え、元大統領夫人のミシェル・オバマやアメリカ最高裁判所のルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の写真が飾られており、鏡にはヴァレディクトリアン(卒業生総代)の卒業式用のガウンがかけられています。モリーは学級委員長であり、高校の校長が呆れるくらい、学期の最後の日まで自分の任務を全うしようするいわゆる“いい子"なのです。
“BFF"(ベスト・フレンズ・フォーエヴァー、永遠の大親友)のエイミーの部屋は、フローラル柄の可愛らしいウォールペイパーと対比するかのように、“My Body My Choice"(「私の体、私の選択」、人工妊娠中絶制限の法制度に異議を唱えたスローガン)や “Black Lives Matter"といった社会活動家のスローガンや、ジェーン・オーステンやビリー・ホリデイのポスターが飾られています。エイミーは一人っ子なのに、モリーがいつでもスリープオーヴァー(お泊まり会)できるように2段ベッドを置いています。エイミーは、同性愛者でもあります。本作の舞台設定としては彼女は数年前にそのことを既にカミングアウト(エイミーの両親は信心深いキリスト教ですが、娘のことを無条件に愛しています)しており、自分のアイデンティティに迷いがないという点で正に21世紀的な作品といえるでしょう。
こういう細かい描写からも分かるように、モリーとエイミーは“ブックスマート"な優等生でありながら、かつての青春映画に登場していた“nerd"や“geek"といった薄っぺらいステレオタイプとは完全に似て非なるキャラクターなのです。ポスト#MeToo時代の等身大の女の子として描かれているのです。彼女らを取り囲む同級生たちも、スポーツだけを得意とする「ジョック」、チアリーダーのトップを務める人気者の「クイーン・ビー」という時代遅れなステレオタイプに当てはまらない、個性豊かな面々であることも本作の魅力の1つです。
例えば、人気者で美人のアナベル(モリー・ゴードン)は「性に奔放」という学園内の評判に大きな悩みを抱えています。ロン毛の“ストーナー"(マリファナ愛好)口調の留年生テオ(エドゥアルド・フランコ)は、どうしようもない脱落者ではなく、実はプログラマーとしての才能に長けており、卒業後には大手ITC企業への就職を控えています。スケートボーダーのタナー(ニコ・ヒラガ)は、いかにも“ブロ・カルチャー"を象徴する男臭い格好でありながら、モリーを相手にしないのは彼女のルックスではなく、性格の問題であると発言します。一方、エイミーに嫌味なことを言うクール・ガールのホープ(ダイアナ・シルヴァーズ)は、青春映画によく登場する意地悪なチアリーダーではなく、むしろ『ブレックファスト・クラブ』の不良キャラのジョン・ベンダーを彷彿とさせるキャラクターです。
エイミーの車のバンパーには“Still a Nasty Woman"(「相変わらず嫌な女」、トランプ大統領がヒラリー・クリントンなどの女性を“nasty woman"と呼んだことから)などのステッカーが貼られています。モリーとエイミーは「女性のエンパワーメント」という進歩的な態度を掲げながらも、実は誰よりも周りの同級生たちをステレオタイプとして捉えているということは、現代のアメリカ社会におけるリベラル派が陥りやすい矛盾を表しているともいえるでしょう。
3.監督オリヴィア・ワイルドの挑戦

女性に対するステレオタイプという点では、本作の監督であるオリヴィア・ワイルドは、そういうステレオタイプと闘ってきた人物なのです。
ニュー・ヨーク出身のワイルドは、ジャーナリストの両親の間に生まれ、エリートが通うワシントンDCの進歩的なプライヴェート・スクールと、多くの著名な卒業生を生み出しているボーディング・スクールのフィリップス・アカデミーに通いました。2000年代に女優としてデビューすると、青春ドラマの『The O.C.』や医療ドラマ『Dr.HOUSE』などで、性的魅力や性的指向が特徴のテレヴィの脇役キャラクターで注目を集めるようになります。
2010年の『トロン: レガシー』や2011年の『カウボーイ&エイリアン』ではこの世の物とは思えない魅惑的な女性という役柄を演じ、映画女優としても注目されるようになるものの、大ヒット作には中々恵まれずにいました。その後は『ドリンキング・バディーズ 飲み友以上、恋人未満の甘い方程式』(2013年)や『ミッシング・サン』(2015年)など、映画批評家から高い評価を受けたインディペンデント系の作品に出演しながら、徐々に映画プロデューサーとしても作品に携わるようになります。
2016にはミック・ジャガーやマーティン・スコセッシらが携わった、70年代のニュー・ヨークのロックンロール・シーンを題材にしたHBOのテレヴィ・ドラマ・シリーズ『Vinyl』に主演しました。このシリーズは時代性を詳細に再現したことが高く評価されたものの、視聴率的には軌道に乗らず、1シーズンで打ち切りとなりました。一方、ワイルドは同年に L.A.のオルタナティヴ・ロック・バンドのレッド・ホット・チリー・ペッパーズの『Dark Necessities』などのミュージック・ヴィデオの監督を務め、話題となりました。4人の女性ロングボーダー(ロングボードとは、通常よりも長いスケイトボードのこと)が人気(ひとけ)のないL.A.の街をスケートする姿を描いたこのヴィデオでは、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』で結実したワイルドの監督としての才能やスタイルの前触れを見ることができます。
『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、これまでのワイルドのキャリアの集大成であると同時に、彼女自身がこれまで体験してきたハリウッド映画における女性像の偏見に対する挑戦でもあります。本作は監督、主演に加え、脚本を手がけたのも女性陣であり、「男性が妄想した女性の理想像」ではなく「女性から見た現代の女性ティーネイジャーの葛藤」が描かれています。その点でもこの作品は男性目線だけを意識した多くの80年代~90年代の青春映画とは一線を画しています。
特に本作に出演する俳優たちのナチュラルな演技や会話のやりとりがとても輝いています。長編初監督作でありながら、ワイルドがそのような演技を引き出せた背景には、自らの俳優としての体験と、これまでマーティン・スコセッシなどの大物映画人と仕事をする中で学んだ「俳優の実力を引き出す」ディレクションのテクニックがありました。例えば、撮影現場に俳優が台本を持ち込むことを禁止することで、自然な緊張感を生み出したそうです。また、スコセッシが『ミーン・ストリート』などの作品で暗くて邪悪なニュー・ヨークを描いたのに対して、『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』においてワイルドは明るい、奇抜なキャラクターに溢れているL.A.の個性を見事に捉えられています。唯一違和感を覚えたのは、渋滞や妙に人気(ひとけ)のないL.A.の街の風景なのですが、自分たちの世界に入り込んだティーネイジャーにとっては、周りが見えていないことのメタファーなのかもしれません。
4.アメリカの青春映画の進化
『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』が一般的な青春映画とは違う点をここまでいくつか挙げてきましたが、本作はオリヴィア・ワイルド監督のキャリアのこれまでの集大成であると同時に、これまでの青春映画の集大成、あるいは進化版ともいうべき優れた作品となっています。
80年代以前は、ティーネイジャーの日常や葛藤は取るに足らないものとして、映画で真剣に描かれることは稀でした。しかし80年代には、キャメロン・クロウが脚本を手がけた『初体験/リッジモント・ハイ』(1982年)や監督を務めた『セイ・エニシング』(1989年)、ジョン・ヒューズの『ブレックファスト・クラブ』(1985年)や『プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角』(1986年)など、ティーネイジャーが直面する問題をティーネイジャーの視点から描いた作品が「青春映画の黄金期」を形成しました。こういう作品の中はティーネイジャーの恋愛関係、不安や孤独感といった問題と真剣に向かい合いました。とはいえ、その登場人物のほとんどが中流階級の白人であったり、映画を通して男性監督が自分の青春をやり直そうとしているとも捉えることのできる偏った視点のストーリーが描かれていることが、問題点でありました。
90年代には、『アメリカン・パイ』(1999年)、『シーズ・オール・ザット』(1999年)など、より「男性目線」を意識したティーン・コメディが人気を博しました。同時に『クルーレス』(1995年)や『恋のからさわぎ』(1999年)など、女性を主人公にした作品も製作されるようになりましたが、それはあくまで「強がっているが実は孤独で、男性の恋人ができて初めて心が満たされる女性」という、今では時代遅れとされるような女性像が描かれています。また、こういう作品では学園内の派閥やペルソナのステレオタイプがより大げさに描かれていることも特筆すべき点です。一方、1976年のテキサス州の高校を舞台にしたリチャード・リンクレイターの『バッド・チューニング』(1993年)のように、インディペンデント系の映画人による青春映画も注目を集めるようになりました。
2000年代に入って、女性を主人公にしたティーン・コメディが更に多くリリースされました。その代表例には『チアーズ!』(2000年)、『プリティ・プリンセス』(2001年)、『ミーン・ガールズ』(2004年)などの作品があります。こういった作品は、女性が脚本を手がけるケースが多くなり、主に男性ティーンエイジャーをターゲット層として想定していたそれまでの青春映画とは違って、女性ティーンエイジャーを想定した“ガールズ・ムーヴィー"となっています。ところが、2000年代後半に入るとジャド・アパトーによる『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(2007年)を始め、男友達の“ブロマンス"を軸にしたティーン・セックス・コメディが人気を集めるようになり、その後のスーパーヒーロー映画のブームの到来によって女性ティーネイジャーたちは青春映画の対象として脇にどけられてしまいます。
2010年代の後半になってようやく、女性も男性も楽しめる、多面的な女性像を愛情を持って描いた青春映画の時代に本格的に突入した印象を受けます。そのムーヴメントを代表するのが、ケリー・フレモン・クレイグの『スウィート17モンスター』(2016年)、俳優のグレタ・ガーウィグの長編初監督作品となった『レディ・バード』(2017年)やミドル・スクール卒業を目前にした8年生(中学2年生)の女の子の様々な不安を描いたボー・バーナムの『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』(2018年)、そしてオリヴィア・ワイルドの『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』です。ワイルドの作品はドラマの要素もあるコメディ映画となっており、80年代~90年代の古典的な青春映画に対するオマージュともいえます。これまでのティーン・ムーヴィーに敬意を払いつつも、今後のあり方の方向性を示している作品だといえます。
5.エピローグ
今回、このコラムで紹介してきたように、アメリカの青春映画は時代の風潮や価値観を反映しながら変化を遂げてきました。とはいえ、アメリカの青春映画というジャンルを俯瞰した場合、ほとんどの作品に共通しているある矛盾に気付きます。それは“just be yourself"「自分らしくあればいい」というメッセージを抱えながらも、作品の中では明確な学園ヒエアルキー(学園ヒエアルキーが最も顕著に現れているのが、学校の食堂です)が描かれていることです。意図的ではないにしてもそのヒエアルキーを間接的に肯定し、普及させているのです。
80年代の作品であろうと2000年代以降の作品であろうと、男性視点の作品であろうと女性視点の作品であろうと、アメリカの青春映画の中心にあるのは、「自分の個性を伸ばすこと、あるいは包み隠さずに表に出すことで、全ては解決する」というメッセージなのです。主人公は誰にいじめられようと否定されようと、周りのプレッシャーにめげずに個性を押し通すことでしか周りに認めてもらうことはできないことということが描かれています。それは言い換えれば、社会というものに自分の個性を殺されないよう、頑なに守りぬくべきであるというメッセージでもあります。もし社会に自分の居場所がないように感じたり、親や同級生が理解してくれないようであれば、それは「周りが悪い」「社会が悪い」という風に割り切り、とにかく“自分らしくあれ"ということなのです。全員が特別な才能を持っていたり、大きな成功を手にいれるはずはないわけだけれども、自分は特別であるという確信を持ち続けることでしかアメリカ社会では生きていけないという、アメリカ社会に内在しているある“生きづらさ"が表現されているのです。
ところが、アメリカの青春映画の多くは学園内の様々なステレオタイプを多用し、キャラクターを表面的あるいは一面的な存在として描くことで、そこに内在している確固たるヒエアルキーの存在を認めているのです。本来であれば、そのヒエアルキーを邪悪なものと見定め、主人公は個性を貫くことでそのヒエアルキーを超越することができるというストーリーこそが、アメリカ的な青春映画のあり方だったのかもしれません。しかし一般的な青春映画を実際に見ると、そのヒエアルキーを超越することができなかった男性監督によるファンタジーが描かれていることが多いことに気付きます。女性の主人公を描いた作品に至っては、外見を一新する“メイクオーヴァー"を遂げてようやく異性に認められるという、“be yourself"を真っ向から否定しているメッセージすらあるのです。
『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、そのヒエアルキーこそ、ティーネイジャーたちが内在してしまった思い込みなのではないか、ということを主張しています。主人公のエイミーとモリーは、夜が進むにつれ、悪いのは自分たちのことをわかってくれない周囲ではなく、周りの人のことを知ろうとしない自分たちであること気づいていきます。映画を見ている観客も、2人は単なる“ブックスマート"な優等生キャラではなく、面白い一面、怖がりな一面、勇敢な一面、大人な一面、子供な一面を内在しているこを知ります。
また、本作は「自分らしくあれ」という格言も、現在のアメリカ社会においては、もはや通用しないことを示唆しています。エイミーとモリーの目的は、後悔のないように卒業前の一夜を楽しむことではなく、同級生たちに「ブックスマートだけでない、本当の自分たち」を知ってもらい、個性を認めてもらうことなのです。個性の国であったはずのアメリカでは現在、「他人にどう見られているか」が何より重要であり、SNSの普及によってその傾向は更に助長されています。これは、アメリカ史上“最大"の個性を持ち、誰よりも主張が強いトランプ大統領が、何より人にどう見られているかを気にしていることからも分かることです。
このように『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は、「青春映画」というレイベル(レッテル)を貼って型にはめてしまうことができない、現在のアメリカ社会の実態を捉えた、魅力的な作品です。