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1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ" (前編)
  – 世界の映画史 (5)
  – 『卒業』『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『ワイルドバンチ』 | CINEMA & THEATRE #058
2024/07/29 #058

1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ" (前編)
– 世界の映画史 (5)
– 『卒業』『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『ワイルドバンチ』

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BigBrother
プランナー / エディター / イヴェント・オーガナイザー

目次


1.プロローグ

第二次世界大戦が終わると、ハリウッドの映画は再び西ヨーロッパの国々に輸入されるようになりました。フランス、イタリア、英国などの観客は、戦前のハリウッド映画特有の明るいトーンではなく、暗い印象になった作品に強いインパクトを受けます。ヨーロッパの映画製作者たちは、戦後になって輸入され始めた独立系の映画会社の作品にも感銘を受けます。そうした影響でヨーロッパの映画人はロウブラウ(低俗)な“娯楽"ではなくハイブラウ(高尚)な“芸術"としての映画という表現を模索するようになります。

特にジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーに代表されるフランスの作家性の高い監督たちは、それまでの映画製作の常識に反抗する形の映画作りに挑戦します。彼らはロケイション撮影を多く行ったり、即興演出を取り入れるなど、斬新な手法を用いました。また、時間が突然“跳躍"したように場面を飛ばす“ジャンプ・カット"といったテクニックや、カットせずに長い間カメラを回し続ける“ロング・テイク"というような技法を用います。こういった技法を用いることで、古典的なハリウッドが大事にしていた“映画は作り物でなくリアルである"というイリュージョンを敢えて崩そうとするのです。彼らが起こした新しいスタイルの映画表現のことを総称して「ヌーヴェル・ヴァーグ」(英語でいうところの“ニュー・ウェーヴ")といいます。

50年代~60年代にかけて西ヨーロッパの各地からは作家性の高い映画製作者たちが新しいスタイルの映画作りに乗り出します。イタリアからは「ネオリアリズム」、ドイツからは「ニュー・ジャーマン・シネマ」、英国からは「ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ」、チェコからは「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」などと呼ばれるムーヴメントが生まれました。日本でも「日本ヌーヴェル・ヴァーグ」というムーヴメントが起きました。(フランスのヌーヴェル・ヴァーグも含め、これらの運動についてはまた後日細かく取り上げます。)

60年代後半には、アメリカでもこういったヌーヴェル・ヴァーグのムーヴメントに強い影響を受けた新しい世代の映画製作者たちが頭角を表すようになります。彼らの作品群を総称して日本語では「アメリカン・ニュー・シネマ」、英語では“New Hollywood"と呼びます。

こうした名称の定義は曖昧で、どの映画監督が含まれるのか、どの作品が含まれるのか、あるいはいつまでの時期を指すのかなどの点については様々な意見があります。とはいえ、アメリカン・ニュー・シネマの作品に共通するのは、「作家性の高い監督が映画会社に束縛されずに自分のこだわり通りに製作できたこと」「作品のテーマがカウンターカルチャー運動や若者文化、あるいはヴェトナム戦争に代表される、当時のアメリカ社会にのしかかっていた“闇"を表現していること」であるといえるでしょう。

今回のコラムでは、アメリカン・ニュー・シネマの作品を取り上げながら、このムーヴメントの意味について考えていきます。


2.“ニュー・ハリウッド"の前兆

前回のコラムで取り上げたように、第二次世界大戦後の1948年に、アメリカ合州国最高裁判所は「パラマウント訴訟」で大手映画会社8社の慣行が独占禁止法に触れるとする判決を下しました。この判決を受けて、約30年間に渡ってハリウッドの黄金時代の礎となっていた“ストゥディオ・システム"は解体され、ハリウッドは模索の時代へと歩みだすこととなります。

ストゥディオ・システムの下では、ハリウッド映画はプロデューサーが主導権を握り、綿密に組まれたスケジュールと作業分担の下で作品が製作されていました。しかし、判決後は、映画会社は実績と人気のあるスター俳優、大物監督、有名脚本家を起用することで作品の収益性を出来る限り高め、映画製作の資金を投資家から集めるようになります。目まぐるしい程のペースで映画作品を大量生産していた1920~40年代の“ハリウッドの黄金時代"と異なり、より少ない本数のヒットを見込める作品に資金を集中的に使うようになります。

また、多くの職人を雇って撮影所の中に大掛かりなセットを建てるより、国内であろうと海外であろうと物語の舞台となる場所へ直接行って撮影した方が予算が抑えられるということに気づき、ロケイション撮影が好まれるようになりました。その背景には、撮影する現地で助成金を受け取ることができたこともありますが、資金凍結によって海外への移動が制限されていたハリウッド映画の興行収入を国外で活用する目的もありました。

こうした状況の中で、聖書を題材にした『十戒』(1956年)や『ベン・ハー』(1959年)や歴史を題材にした『アラビアのロレンス』(1962年)や『クレオパトラ』(1963年)といった、大量の資金をかけた壮大なスケールの“大作映画"が数多く製作されました。こうした意味で大作映画というものはハリウッドならではの資源とヴィジョンによって実現可能となったジャンルといえます。大作映画の中でも特に“聖書大作"というサブジャンルはプロテスタントの国であるアメリカならではといえます。

「世界の映画史」シリーズでも以前取り上げたように、アメリカの宗教団体や保守派はハリウッドという映画産業の街を不道徳な腐敗の温床として捉えています。彼らは映画というものが感化されやすいアメリカの若者の心にもたらす悪影響を懸念していました。アメリカの映画産業はこうした声を鎮めるために、ヘイズ・コードという自主規制を導入し、道徳的に問題のある描写を作品から取り除くことにしました。しかし、前回紹介したように、第二次世界大戦後のハリウッドにおいて、ヘイズ・コードは影響力を次第に失われ、60年代後半になると完全に崩壊することになります。

そういった状況の下で、聖書映画はある種の“抜け穴"だったのです。そもそも前述のアメリカの宗教団体や保守派は、道徳というものを掲げていたものの、実は聖書(特に旧約聖書)には意外と残虐で暴力的な話やスキャンダラスな事柄が書かれているのです。なので聖書映画の中では、不信心者(インフィデル)の頽廃や不倫や乱交が描写されても問題になりませんでした。(もちろん、現在のような露骨な描写ではないですが。)とはいえ、不信心者は最終的にはことごとく罰に当たり、神の存在が暗示されなくてはいけません。キリスト教の信者はこうした不信心者のキャラクターを通して“罪"の“スリル"を疑似体験しながらも、結局は神の力を目の当たりにすることで自己肯定感を得ることができたのです。

聖書大作や歴史大作は50~60年代前半にかけて興行成績の面で大成功し、テレヴィの普及によって遠ざかっていた観客を再び映画館に呼び戻す一定の効果をあげます。しかし、ハリウッドがテレヴィに打ち勝つことを意識し、“大作"にこだわり過ぎるあまり、“観客にアピールする良い映画作品"を作ることを忘れてしまいました。更に映画作品を単なる見世物へと変えてしまうような“ワイドスクリーン"や“3D"といった“ギミック"に頼り過ぎてしまうようになります。こうしたことで製作予算がどんどん膨れ上がってしまい、赤字になる作品が多くなってしまいます。

こうした行き過ぎたハリウッドを最も象徴する作品が、名女優エリザベス・テイラー主演の『クレオパトラ』でしょう。この作品は当初200万ドルの予算でスタートしたのに、最終的には4400万ドル(現在価格に換算すると3億3千ドル以上)まで経費が膨れ上がってしまいます。中でもテイラーはアメリカ映画史上初めて100万ドルというギャラが大きなコストとなります。結局『クレオパトラ』は同年の全米興行収入で第一位となるヒットとなったものの、製作費があまりにも巨額であったために映画会社の20世紀フォックス映画はこの作品で破産寸前まで追い込まれてしまいます。しかし、『クレオパトラ』は、その後テレヴィ放映権料で黒字に転換することとなりました。

大作映画のもう1つの問題点は、上映時間の長さです。『十戒』は約3時間40分、『ベン・ハー』は約3時間半、『アラビアのローレンス』は約3時間50分、『クレオパトラ』にいたってはなんと約4時間という長時間の作品です。60年代後半に入ってようやく、映画というものは2時間前後の方が観客の入りが多くなることに気付きます。

20世紀フォックス映画が破産を免れたのは、1965年の『サウンド・オヴ・ミュージック』が世界的な大ヒットとなったからでした。50~60年代前半の過渡期においてハリウッドが頼りにしていたもう1つの“見世物"がミュージカル映画でした。前回紹介した『ウェスト・サイド物語』(1961年)もその代表例です。豪華なセットと優雅なダンスは映画館のワイドスクリーンで、歌はステレオ・サウンドでこそ楽しむことができることを映画会社は大々的に宣伝しました。

1964年には『マイ・フェア・レディ』という作品が多くの観客を魅了し、商業的にも評論家の評価の面でも大成功します。この作品の予算は1700万ドルで、当初アメリカ国内で製作された作品としては最も高額なものでした。主役のオードリー・ヘップバーンの歌はほとんど全て吹き替えられていますが、そのスター性はかけがえのないものとして、彼女はミュージカル俳優として初めて100万ドルというギャラを得ました。

1965年の『サウンド・オヴ・ミュージック』の成功を受け、ハリウッドの各映画会社はミュージカル映画を数多く製作するようになります。しかし、ここでも映画会社は“良い作品"を作るという大前提を忘れてしまい、とにかく資金を注ぎ込めばヒットへとつながるという妄想に陥ってしまいます。膨れ上がった予算によって、映画会社は大きな経済的負担を抱えることとなります。それに加え、ボブ・ディランやビートルズが人気を博すようになっていた時代において、ブロードウェイ由来の音楽のアピール力は、映画会社の期待とは裏腹に、限定的なものになってしまったことも否めないでしょう。


3.アメリカン・ニュー・シネマの誕生

テレヴィとの差別化を図り、観客を映画館に呼び戻すために生み出された大作主義やギミックは、新しいハリウッドのあり方を示すものとしてメディアによって“ニュー・ハリウッド"というレイベルが貼られました。しかし、大局的に見ると、それはハリウッドの黄金時代の“有終の美"(あるいは“最後のあがき")でしかなく、本当の意味での“ニュー・ハリウッド"はもうしばらく時間を必要としていました。かつてのライン生産方式で動いていた大手映画会社は一時的な挑戦でなんとか生き延びていたものの、次第に経営危機を迎えていました。

ハリウッドの大作主義とアメリカ国民の趣味の間に乖離が生まれた背景には、観客層の変化ということもありあました。例えば前回のコラムでは、第二次世界大戦後の帰還兵を社会復帰させるために「復員軍人援護法」が成立され、大学での再教育が支援されたことを紹介しましたが、彼らは欧州戦線での体験を通してヨーロッパの風景や文化に触れ、再教育を通して芸術に対する感性を高めていました。単純な娯楽作品や現実逃避では満足しきれないほど、彼らの映画の趣味は成長していたのです。

何より大きかったのが、帰還兵たちの子供でもあった、いわゆるベビー・ブーム世代の成長です。特に大都市の郊外で育った白人の若者たちは、親たちの中流社会的な価値観や物質主義に反抗し、ヒッピー文化に代表されるカウンターカルチャー運動に影響を受けます。この世代にとってハリウッドの大作映画は、あまりに前時代的であったのです。大手映画会社はこうした若者のニーズを理解することに苦しみます。ハリウッドが暗中模索する中、彼らはフランス、イタリア、日本などから輸入された芸術性の高い作品を好んで鑑賞するようになっていました。

何も失うものがない状態に置かれたハリウッドは、実力のある新世代の映画監督に好きな作品を作らせるという戦略にシフトします。彼らは、フランスのヌーヴェル・ヴァーグに代表される作家性の高い海外映画に強く影響されていたため、当時の若者が抱えていたフラストレイションやシニシズムを、高い芸術性と文化性を持って映像化しました。また、1968年に描写できる内容を規制するヘイズ・コードが廃止され、代わりにレイティング・システムが導入されたことによって、「取り扱えないテーマ」「描写できない行動」はほとんどなくり、彼らは自由に映像表現できるようになったことも追い風になりました。こうした彼らが60年代末期~70年代前半に製作した作品のことを“アメリカン・ニュー・シネマ"と呼びます。

このムーヴメントの口火を切った作品の1つがマイク・ニコルズが監督・共同プロデュースした1967年の『卒業』です。映画界では当時ほとんど無名であったダスティン・ホフマンが演じる主人公は、大学の卒業を機に帰郷し、人生の進むべき方向を探そうとする中で、年上の人妻に誘導され不倫することになります。そしてその後にその娘に恋をしてしまうという物語です。主人公が愛する相手の結婚式へと押しかけ、2人が逃亡するというクライマックスは、あまりにも有名です。こういった物語の展開はヘイズ・コードの終焉を象徴すると同時に、監督のこだわりの結晶でもあり、また、当時の若者たちが不確かな未来に対して抱いていた不安を捉えています。

カウンターカルチャー運動やヒッピー文化を象徴するアメリカン・ニュー・シネマの名作といえば、デニス・ホッパーが1969年に製作した『イージー☆ライダー』(1969年) でしょう。ピーター・フォンダとホッパーが演じるヒッピー2人は、まるで馬に乗ったカウボーイのように改造されたオートバイにまたがり、いわゆる“エスタブリッシュメント"(社会の既存体制、支配階級)に対抗する悲劇的 ヒーローとして描かれています。唐突に終わるラスト・シーンは、自由を追い求めることの限界とカウンターカルチャー運動の終焉をまるで予見しているかのようです。

犯罪を魅惑的に描いたという点で忘れてはいけないのが、『卒業』と同じ1967年に製作された『俺たちに明日はない』です。この作品は世界恐慌時代に実在した銀行強盗「ボニーとクライド」の出会いから死に至るまでを描いた犯罪映画です。犯罪者を主役にしたこと、銃に打たれた人間が死ぬ姿をリアルに描いたこと、セックスをほのめかす描写があることなど、 当時の映画界の常識からすると衝撃的なシーンが多く含まれ、社会問題となりました。

『俺たちに明日はない』の作品の中に描かれる過激なヴァイオレンスは反戦のメッセージとしても捉えることができます。この作品の有名なラスト・シーンでは、主人公の2人は隠れ家に帰る途中、待ち伏せしていた警官隊に派手に射殺されてしまいます。たった2人の強盗犯のために大勢の警官が出動され、木陰から一方的に銃弾を浴びせて蜂の巣状態にしてしまう様子は、ヴェトナム戦争という泥沼を鎮静化させるために大量の人員と兵器を投入したアメリカのメタフォーなのではないでしょうか。
暴力的な描写といえば、1969年に製作された西部劇『ワイルドバンチ』も忘れてはいけない作品でしょう。その作風から「血まみれのサム」という異名を持つサム・ペキンパーが監督した本作は、西部開拓時代が終わりを迎えようとする中で取り残された無法者たちが滅びて行く様子を描き、高い評価を得ました。作中に描かれるヴァイオレンスは、それまでアメリカ映画の1つの定番となっていた古典的ウェスタン映画の死を象徴すると同時に、アメリカ社会に重くのしかかるヴェトナム戦争の失敗を感じるものです。


4.カウンターカルチャー運動や若者文化を題材にした作品

60年代末期に新しい世代の監督が世に送り出した作家性の高い映画作品群は、若い観客層の共感を呼びます。こうした作品と監督によってハリウッドは新境地を切り開きます。こうした作品の成功によってその後もしばらく、カウンターカルチャー運動や若者文化を題材にした映画作品が製作され続けます。

1960年代のアメリカの学生闘争をテーマにした『いちご白書』(1970年)も、その代表作の1つです。この作品はカリフォルニアの架空の大学を舞台に、政治問題に関心のない学生が徐々に学生闘争に巻き込まれていくという物語です。 題名は、原作のノンフィクション書籍の著者であるジェームズ・クネンが通っていたコロンビア大学の学部長が、大学の運営についての学生の意見は「学生たちが苺の味が好きだと言うのと同じくらいの重要さしか持たない」と発言したことに由来します。

1969年8月15日にニュー・ヨークで開催され、“ラヴ&ピース"を訴えたカウンターカルチャー運動のピークとなった大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティヴァル」を追った1970年製作のコンサート・ドキュメンタリー『ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間』も歴史的な作品です。このイヴェントの成功を境に大規模な野外ロック・コンサートは商業主義に走ります。一方でヴェトナム戦争が泥沼化する中で、カウンター・カルチャー運動は次第に終焉へと向かうこととなります。このドキュメンタリー映画は後に監督としてブレイクしたマーティン・スコセッシが編集に関わっていることも特筆すべきでしょう。





『卒業』のように若い男性のアメリカ社会に対する幻滅や揺れるアイデンティティを描いた作品も数多く製作されました。その代表例が、ハル・アシュビー監督の『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971年) です。この作品は、自分と分かり合おうとしない親や大人たちを振り向かせるために自殺ごっこを繰り返す青年が、ホロコーストの生存者である老女から生きる喜びを知るという青春物語です。

後に『スター・ウォーズ』シリーズで世界的に有名になったジョージ・ルーカス監督は、自身の青年時代を題材にした『アメリカン・グラフィティ』(1973年) という映画をヒットさせました。60年代前半のカリフォルニアの小さな町を舞台に、恋愛と車とロックンロールに夢中な若者たちのある一夜を描いた物語です。この作品からは、ヴェトナム戦争の以前の“明るいアメリカ"に対するノスタルジーが感じられます。

70年代に製作された、若い女性を描いた映画作品を見ると、ホラー映画が多いことに気づかされます。このトレンドには、1960年後半に女性解放を目的とした「ウーマンリブ運動」が欧米社会に起こったという時代背景の影響があるのでしょう。時代の風潮を反映するかのように、ロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1973年)、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』(1976年)などの映画作品は、女性が悪魔に犯されたり取り憑かれたり、あるいは邪悪な人間に翻弄される様子が描かれています。“悪魔"とはすなわち「男性が支配する社会」のことであり、それに“取り憑かれること"とは「女性には自分の体にまつわることを決める権利がない状態」を意味しています。『キャリー』の有名なクライマックスでは、主人公のティーネイジャーが超能力を使って自分をいじめてきた生徒や大人を惨殺してしまいます。この作品は女性のエンパワーメントを描いているという見方もできますが、それ以上に女性をある種の“化け物"として扱う男性の偏見を表している作品ともいえます。

他にも、変化する恋愛やセクシュアリティに対する考え方を表した映画作品も数多く製作されました。恋愛映画の中では、特にユダヤ系の男性の不安や奮闘を描いた作品が目立つようになります。その代表作が、エレイン・メイ監督をはじめ、ユダヤ系の人々が製作、脚本、そして主演俳優までを占めている『ふたり自身』(1972年)というロマンティック・コメディです。本作はユダヤ教徒同士で結婚したばかりの意気地なしの男が、新婚旅行先で非ユダヤ系の金髪の美人に一目惚れし、衝動的に離婚してその金髪美人を追いかけるという物語です。戒律や伝統を重んじるユダヤ系のコミュニティの中では、長い間男性が異教徒の女性と結婚することは好ましくないこととされてきました。つまり、ユダヤ系の男性が非ユダヤ系の女性に魅惑されてしまうというストーリーは、一種の宗教的な反抗のファンタジーとも言えるのです。

意気地なしのユダヤ系男性の究極の例といえば、ウッディ・アレンです。コメディ系のテレヴィ番組のライターとしてキャリアをスタートさせたアレンは、60年代後半に映画監督として頭角を現します。中でも1977年の『アニー・ホール』は、厳密にいうと時期的にアメリカン・ニュー・シネマに分類さないかもしれませんが、この時代に製作されていたユダヤ系のロマンティック・コメディの集大成ともいえる作品です。アレンが演じる神経質な主人公が、ダイアン・キートン演じる非ユダヤ系のアニー・ホールとの関係がなぜうまくいかなかったかに思いを巡らせるというストーリーです。

セクシュアリティをテーマにしたアメリカン・ニュー・シネマの代表作といえば、ジョン・シュレシンジャーが1969年に製作した『真夜中のカーボーイ』です。この作品は、テキサスからニュー・ヨークへやってきた青年の男娼と、片足の不自由な詐欺師の間で生まれる不思議な友情を描いた人間ドラマです。本作は1969年に制定された映画のレイティング・システムで「成人映画」に認定されながらも、アカデミー賞「作品賞」を受賞した異例の作品です。

ハリウッド史上初めて同性愛を真正面から取り上げたとされる作品が1970年の『真夜中のパーティー』です。この作品は仲間の誕生日パーティーに集まったゲイ達の一晩を描いたものですが、こちらにも“カウボーイ"という名の男娼が登場していることから「真夜中」という邦題がつけられたのでしょう。この2つの作品は、古典的な西部劇とはまるで違う“カウボーイ"の姿を描写していることに注目すべきです。


5.戦争と政治とアメリカ社会の闇を描いた作品

前述の『俺たちに明日はない』『ワイルドバンチ』のように、アメリカン・ニュー・シネマの作品には、当時のアメリカ社会に重くのしかかっていた冷戦やヴェトナム戦争の影が強く現れています。

60年代終盤には、冷戦時代の恐怖をモチーフにし、世界の終わりを描いた作品が目立ちます。ホラー映画の巨匠として知られるジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年) はその代表例です。いわゆる“ゾンビ映画"の先駆けとなったこの作品は、人間を食い殺すゾンビから逃れようとするグループの無謀な戦いが描かれています。主人公である黒人男性が最後まで生き延びるものの、結局ゾンビに間違えられて白人集団に撃ち殺されるという衝撃のラストには、現在もアメリカ社会を揺るがしている人種差別問題の根深さを思い知らされます。



フランクリン・J・シャフナー監督、チャールトン・ヘストン主演の『猿の惑星』(1968年)も忘れてはならないこの時代を代表する作品です。同名のSF小説を映画化したこの作品は、1972年にケネディ宇宙センターから発信した宇宙船が、謎の惑星に不時着し、乗り込んでいた3人の宇宙飛行士が銃で武装し馬に跨った猿の騎兵たちから逃げようとする物語です。その謎の惑星は実は未来の地球で、核戦争後に人類は滅亡していたということが判明するラスト・シーンは、まさに当時のアメリカ人が抱いていた最大の恐怖でした。

60~70年代にかけては、ヴェトナム戦争を題材にした映画作品も、数多く製作されました。ピーター・ボグダノヴィッチ監督が1968年に製作した『殺人者はライフルを持っている!』は、ヴェトナム戦争からの帰還兵が銃乱射事件を起こすというストーリーです。この作品は1966年にアメリカ社会を揺るがした「テキサスタワー乱射事件」をモチーフにしています。アメリカにおける銃乱射事件は何も近年だけの現象でないことが分かります。

帰還兵の闇といえば忘れてはいけないのがマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』(1976年)です。戦争によるPTSDに苦しんでいるロバート・デ・ニーロが演じるタクシーの運転手が、孤独な日々を過ごしながら、麻薬や性欲に溺れる若者たちに嫌悪を感じる姿が描かれています。本作は70年代後半の作品であることからアメリカン・ニュー・シネマに分類されるべきかどうかは意見が別れるところです。しかし、主人公がカウンターカルチャー運動のアンチテーゼともいえる人物設定であるということと、スコセッシ監督の初期の傑作であるという点でここでは、アメリカン・ニュー・シネマの最後の傑作の1つとして挙げることとします。

朝鮮戦争を舞台としていながら、あからさまにヴェトナム戦争をモチーフとしたのがロバート・アルトマン監督による『M★A★S★H マッシュ』(1970年) です。米陸軍移動外科病院に所属する3人の軍医の“非"日常を描いたブラック・コメディ映画である本作は、カンヌ国際映画祭で最高賞であるパルム・ドールを受賞しました。この作品のヒットにより、72年から83年まで同名のテレヴィ・ドラマ版が制作され、そちらも高い人気を博しました。

時期的にアメリカン・ニュー・シネマに分類できるかどうか意見が分かれるものの、フランシス・フォード・コッポラ監督が1974年に製作した『カンバセーション…盗聴…』と、アラン・J・パクラ監督が1976年に製作した『大統領の陰謀』も、漠然とした不安と政治に対する不信感が広まっていた当時のアメリカの縮図を見事に描いた作品です。『カンバセーション…盗聴…』は盗聴のエキスパートの心理的恐怖を描いたサスペンス映画の傑作です。『大統領の陰謀』は、1972年にワシントンD.C. の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったいわゆる“ウォーターゲート事件"を題材に、実際にこの事件の調査を行なった新聞「ワシントン・ポスト」の2人のジャーナリスト(ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが演じるウッドワードとバーンスタイン)の取材を描いたものです。

これらの作品も、“夢"や“ファンタジー"として映画作品を製作していたかつてのハリウッドから一転し、アメリカ社会の闇と真っ向から向き合っているという点で、アメリカ映画の新境地を切り開いた作品といえるでしょう。


CINEMA & THEATRE #058

1960年代後半のカウンターカルチャーが生み出した“アメリカン・ニュー・シネマ” (前編) – 世界の映画史 (5)


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