1.風刺漫画家・ジョン・キャラハン
ガス・バン・サント監督の最新作『ドント・ウォーリー』の原題は、 “Don’t Worry, He Won’t Get Far On Foot" (“大丈夫、徒歩ではそう遠くは行けないだろう")です。これはこの伝記映画の主題である、風刺漫画家のジョン・キャラハンによる有名な1コマのキャプションなのです。
西部劇を彷彿とさせるその1コマには、砂漠で置き捨てられた車椅子と、それを発見した馬に跨った保安官と部下たちが描かれています。どうやら彼らは、追跡中の人物は、もうすぐに見つかるだろうと確信しているようです。一見すると車椅子の利用者を物笑いの種にした1コマにも思えますが、キャラハンは自分が四肢麻痺で車椅子を利用していることを踏まえて描いた、ブラック・ジョークなのです。
ジョン・キャラハンとは、アメリカ合州国のオレゴン州ポートランド市を拠点に活動をした漫画家です。21歳のある日、バーをハシゴしているうちに、車を運転していた飲み仲間が事故を起こし、キャラハンは四肢麻痺になります。(皮肉にも、そのドライヴァーは擦り傷程度で済んだそうです。)その後、リハビリを行う中で上半身の一部を使用できるようになり、不自由な両手をなんとか重ねることでペンを持てるようになると、1コマ漫画 (いわゆる“カートゥーン")を描き始めます。
その作風は、ユニークなものでした。絵自体は、身体上の理由から、ラフでミニマルなものでありましたが、だからこそ伝わってくる何かがあります。何より物議を醸したのは、テーマとして身体障害や病気など、社会のタブーを中心に取り扱っていたことです。その作品が掲載された新聞社には「障害者をバカにするとはどういうことだ」といった、身体的障害のない読者からの苦情が殺到したそうです。しかし、当のキャラハン本人は、こうした反感をある種の楽しみにしていたようです。彼からすると、障害者を“かわいそう"と思い、社会のタブーとして取り扱わない、触れない、向き合わないことの方が、むしろ差別なのだと感じていたのからなのでしょう。
『ドント・ウォーリー』(2018年)
自動車事故によって四肢麻痺となったオレゴン州ポートランドに暮らす怠け者のジョン・キャラハンが、アルコール依存症を克服しようとする中で風刺漫画を描くことに生きる意味を見出す人間ドラマです。本作は実話に基づいた伝記映画です。
2.西欧の1コマの風刺漫画は社会に対する評論
そもそもアメリカをはじめ、西欧において1コマの風刺漫画は、政治的権力を批判したり、社会のタブーにスポットを当てるための表現手段として発展を遂げてきました。通常は新聞に社説とともに掲載されることが多いことからわかるように、その意図はのんきな笑いを取ることではありません。1コマ漫画は、作者のオピニオンを表現した、社会に対する評論なのです。
特徴としては、1コマ自体には結論が提示されず、読み手が想像を掻き立て、自由に意味を読み取ることです。作家からすると、万人受けするような1コマを描きたいわけではなく、作品が会話や議論のきっかけになることを狙っています。正にキャラハンのように、物議を醸す作品こそ、優れた作品なのです。
ただ、様々な捉え方が可能だからこそ、政治のトピックや時事問題、世の中の情勢やポップ・カルチャーに対するリテラシーが作者にも読者にも求められます。行間を読むと、ある政治問題や出来事を痛烈に批判している風刺漫画であっても、読み手にリテラシーがないと、その反対の意味に読み取られてしまうことさえあります。ジョン・キャラハンが四肢麻痺であることを知らない人からすると、冒頭で説明したような彼が描いた1コマは、無神経であり侮辱的であるように見えます。こうした誤解を持つ人が存在していることこそ、キャラハンが本当にスポットを当てたい社会問題の本質なのです。
政治の話題を真っ向から取り上げ、敢えて物議を醸そうとする姿勢は、漫画のみならず、欧米流のコメディ全般に幅広く見受けられる傾向です。例えば、英国を代表するコメディ集団のモンティ・パイソンは、不条理な設定や風刺的なコメディを通して、英国の階級社会を笑いのネタにしました。一方、アメリカで盛んなスタンド・アップ・コメディでは、政治問題を取り上げないことの方がむしろ不自然に感じますし、観客を敢えて敵に回すというスタイルも確立されています。これらに共通するのは、笑いを取ることそのものが目的なのではなく、笑いを通して言いたいことを訴えているということなのです。
3.日本の4コマ漫画は起承転結
日本の新聞などに掲載されるのは、1コマではなく4コマの漫画が基本です。その代表例が、国民的人気を誇った、朝日新聞に掲載されていた長谷川町子の『サザエさん』や、読売新聞に掲載されていた植田まさしの『コボちゃん』です。
『サザエさん』 (1巻 / 2巻 / サザエさんと長谷川町子 2020 秋)
『コボちゃん』 (#1 / #2 / #3)
4コマ漫画の基本となるのが、“起承転結"という物語の構成です。“起"は導入部分として状況説明をし、読者にテーマを提示します。 “承"は、主題を膨らまし、物語を展開します。“転"では視点を変えるなど変化を設けます。そして、“結"では物語をまとめて完結させます。この4部構成を通して、そこには完成した1つの世界観や“イイタイコト"を提示することができ、読み手に注意を向けさせ、考えさせ、最終的に納得させることができます。
そこでキーとなるのが“結"の部分です。別の言い方をすれば、話の“オチ"のことです。駄洒落や言葉遊びを用いて話をしめくくることで、そこまでの緊張感を一気にほぐし、読み手に後味の良い思いをさせます。物語に“オチ"をつけること、つまり“落とす"ことは、物事を“落ち着かせる"ことでもあります。日本では、政治やビジネスの場などにおいても、交渉を通して双方が納得できる“落とし所"を探ります。
小説もドラマも映画も、基本的に日本の物語というものは、常に起承転結のフォーマットに沿って展開されます。この手法は、日本のお笑いの世界にも見られるものです。漫才の基本形はボケとツッコミですが、ツッコミの役割は、ボケに対してツッコむことで、オチをつけることです。お笑いが大好きな関西人は、子供の頃から、日常会話にも常にオチを求められるようです、関東人がオチのない話をすると、“オチがないんかい"とツッコンできます。
4.アメリカ式の物語はハッピー・エンド、日本式の物語はオチがすべて
『ドント・ウォーリー』を観終えて、アメリカと日本の漫画のあり方の根本的な違いだけでなく、物語の展開の方法の違いについても考えさせられました。アメリカ式の物語の最大の特徴としては、ハッピー・エンドを迎えることです。“ハッピー・エンド"と聞くと、全てが丸くおさまり、主人公が笑顔で最愛の人と共に夕焼けに向かって歩くイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそのような“わざとらしい"結末を迎えるだけではありません。アメリカ人にとって“ハッピー・エンド"とは、これからのことに無限の可能性を感じさせることなのです。例えば1967年の『卒業』の主人公は、愛する相手の結婚式へと押しかけます。2人はドラマチックに逃亡しますが、2人の前に不確かな未来が立ちはだかるところで映画に幕が閉じます。
日本の観客からすると、映画『ドント・ウォーリー』で描かれるジョン・キャラハンは、風刺漫画を通して自身の弱点と向き合い、生きる意味を再発見する・・・という物語として受け取りたがるかもしれません。しかし、その終わり方はドラマチックな場面でもなく、“なるほど!"となるわけでもありません。なんとなく、結末を迎えます。キャラハンはアルコール依存症で怠け者ですが、彼は自身の弱点を最終的に乗り越えたのではなく、あくまでそれと共に生きる術を見出すだけなのです。
『卒業』の2人は、もしかしたら、翌日に現実に目を向けて、すぐに別れたのかもしれません。『ドント・ウォーリー』のキャラハンも、いつ禁酒を破ってしまってもおかしくない、という重荷を背負って生きていかなくてはならないのです。物語の設定、言い換えると“神"によって課せられた“運命"や“結末"を背負いながら、その先への道を切り開こうとする“生き様"を示すことが、アメリカ式のハッピー・エンドなのです。フロンティア・スピリットを大事にするアメリカ人ならではの姿勢なのではないでしょうか。
物語の終末に無限の可能性を見出そうとするアメリカ人と違って、“オチ"が必要不可欠な日本人は、全てが丸く収まる“結末"を求めます。そこにも深い文化と国民性の違いがあるのでしょう。日本の歴史を勉強する中で、特に印象に残っている言葉の1つは、山本常朝が武士の心得を述べた『葉隠』の中の、次の一文です。 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」。アメリカ人は『生き様』を大事にするのに対して、日本の武士にとっては、『死に様』こそが人生の全てなのでしょう。