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東京のナイト・ライフ (2) 
 BigBrotherに聞く東京のナイト・クラブ・シーンの栄光と没落
  - コパカバーナ/ムゲン/ツバキ・ハウス/マハラジャ/ゴールド/ジュリアナ東京/ヴェルファーレ/スペース・ラボ・イエロー | MUSIC & PARTIES #004
2021/06/28 #004

東京のナイト・ライフ (2)
BigBrotherに聞く東京のナイト・クラブ・シーンの栄光と没落
- コパカバーナ/ムゲン/ツバキ・ハウス/マハラジャ/ゴールド/ジュリアナ東京/ヴェルファーレ/スペース・ラボ・イエロー

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KAZOO
翻訳家 / 通訳 / TVコメンテイター

目次


1.プロローグ

今回は、BigBrotherに東京のナイトクラブ・シーンについてインタビュー形式で伺いました。まずは大まかにBigBrotherのクラブ歴について:

1970年代、BigBrotherは、黒人の生バンドがR&Bを生演奏していた赤坂の“ゴーゴー・クラブ"『ムゲン』や『ニュー・ラテンクオーダー』『コパカバーナ』というナイト・クラブに小学生の頃から連れて行かれ、

80年代には、新宿の『ゼノン』『ニューヨーク・ニューヨーク』『ツバキ・ハウス』、六本木のスクエアビルのディスコに夜な夜な通い、

90年代には、芝浦の『GOLD』『ジュリアナ東京』、六本木の『ヴェルファーレ』『YELLOW』に出没し、

00年代には、数々のレイヴに携わりました。


2.デヴィ夫人が在籍していた70年代の「コパカパーナ」

KAZOO: まずは、70年代のナイト・クラブと呼ばれるところは、どんな感じだったのか教えてください。

BigBrother: 当時、ナイト・クラブは、大きく2つに分けられていました。1つは、『ニュー・ラテン・クオーター』やデヴィ夫人が在籍していたことでも知られている『コパカパーナ』などのホステスさんが接客し、有名な歌手やミュージシャンのショーが行われる“グランド・キャバレー"という形式のものです。そして、もう1つが“ゴーゴー・クラブ"とよばれるディスコ/クラブの原型となるスタイルのものです。“ゴーゴー・クラブ"の中で人気だったのが、赤坂にあった『ムゲン』という店です。そこでは、黒人のミュージシャンがR&Bを生で演奏していました。前者の“グランド・キャバレー"には、お金持ち、政治家、野球選手らが出入りし、後者の“ゴーゴー・クラブ"には、ファッション業界、マスコミ業界の若い人々が集まっていました。

KAZOO: 80年代のディスコブームは、どんな感じだったのでしょうか。

BigBrother: 70年代のナイト・クラブは、東京のごく一部の流行の先端を行っている人たちの娯楽でありました。80年代に入り、ダンス・ミュージックというものが一気に大衆化しました。いわゆる“ディスコ"とよばれるスタイルになり、入場料¥3,000~¥5,000を支払うと、フリードリンク+フリーフードというシステムになります。

KAZOO: 食べ物もあったんですか?

BigBrother: 決して、美味しくはないんですけど、それが当時のスタイルだったんです。

KAZOO: ネットで調べると、新宿派と六本木派みたいなものがあったようなんですが。

BigBrother: 80年代には、新宿にも六本木にも大小合わせて各々20~30とかのディスコがありました。新宿には、主に“ナンパ系の大バコ"とデザイン・ファッション系の“アート系の中バコ"がありました。六本木には、“サーファー系の中バコ"が数多く存在していました。

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3.80年代の新宿のディスコティックと陸サーファー

KAZOO: それぞれどんな特徴があったんですか。

BigBrother: 新宿の『ゼノン』や『ニューヨーク・ニューヨーク』といった“ナンパ系の大バコ"は、アメリカのTOP40で流行していたディスコ・ナンバーが流れ、“フリ"つきで皆が同じ踊りをしていました。ある意味、ゼロ年代に流行する“パラパラ"のルーツなのかもしれません。

KAZOO: 日本人は、全員で同じ踊りをするのが好きなのですね。“盆踊り"や“ラジオ体操"みたいに。

BigBrother: きっと東アジアの特徴でしょうか、現在のK-POPや北朝鮮の“マスゲーム"を見ても、それは言えますからね。

KAZOO: その他のディスコの特徴も教えてください。

BigBrother: 新宿の『ツバキ・ハウス』など“アート系の中バコ"は、当時大流行していました。“デザイナーズ・ブランド"の“ハウス・マヌカン"とよばれる店員やそれを目指すファッション/デザインに興味のある、個性派の人々が集まっていました。“ニューウェイヴ"や“テクノ"、日によっては、“ロンドン・パンク"などのイギリス系のサウンドがかかっていました。

KAZOO: YMOが結成された原宿のピテカントロプス・エレクトスとかに繋がる感じですね。

BigBrother: 80年代は、『JUN』、『ROPÉ』『コムサ・デ・モード』などの大手アパレルや『コシノ・ジュンコ』、『三宅一生』、『山本耀司』『コム・デ・ギャルソン(川久保玲)』などのデザイナーがとても人気を集めました。彼らのファッションをまとった若者たちが、『ツバキ・ハウス』や『ピテカントロプス・エレクトス』に集まっていたわけです。

KAZOO: YMOのファッションやあの“テクノカット"の意味がわかったような気がします。六本木の“サーファー系"のディスコは、どんな感じだったのですか。

BigBrother: 六本木も “サーファー系"と“マハラジャ系"に分けられると思います。“サーファー系"は、東京に生まれ育った“江戸っ子"の遊び人が中心で、“マハラジャ系"は、それに憧れる、東京近郊の人が多く集まっていました。“サーファー系"ディスコには、本当のサーファーが来ていて、“マハラジャ"には、“陸サーファー"が集まるっていうか。

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KAZOO: “陸サーファー"って何ですか?

BigBrother: 本当は、サーフィンができないのに、サーフボードだけを車に積んでいて、不自然なまでに日焼けをしている人々たちが、当時は、沢山いたんだ。

KAZOO: 日本人は、表面だけマネをするのは、得意ですからね。

BigBrother: ここで、注目すべきことは、当時は、今以上に“東京者"と“田舎者"の区別が厳しかったということです。新宿のディスコは、“ナンパ系"であれ“アート系"であれ、東京に憧れる“田舎者"の集団であったし、六本木の“マハラジャ系"の人々も基本的に“田舎者"なわけですよ。YMOの成功の秘密もその構造があることを忘れてはいけないんです。坂本龍一も細野晴臣も高橋幸宏もみんな“東京のお坊ちゃん"なんですよ。彼らに憧れる岡山県出身の桑原茂一や三重県出身の藤原ヒロシらがYMOを持ち上げるといった構造がそこにあるんです。このスタイルが現在まで色々なシーンで続いているんです。


4.90年代のクラブとHIP HOP

KAZOO: それが90年代に入り、どのようにナイトクラブ・シーンは、変化していくのですか?

BigBrother: 経済的には、91~93年にバブルは崩れるのですが、“夜の街"は、むしろ90年代に入り、より大きなマーケットになっていった気がします。

KAZOO: よく資料映像で、バブルの象徴として使われる“ジュリアナ東京"は、実はバブル崩壊の年と言われる91年にオープンしているんですよね。

BigBrother: そうなんですよ、芝浦の『GOLD』(89−95)は、89年のオープンだし、『ジュリアナ東京』(91−94)は、91年のオープンなんです。

KAZOO: 『GOLD』と『ジュリアナ東京』はどんな感じだったんですか。

BigBrother: 新宿の“ナンパ系"ディスコと六本木の“マハラジャ系"のノリに、当時の人気の出始めたハウスやユーロビートが加わった感じです。『GOLD』は、ハウス系で、“ジュリアナ"は、avexの源流となるユーロビート寄りなサウンドでしたね。これまでフロア・スタッフの一員でしかなかったDJという職業が、脚光を浴び始めた時代です。

KAZOO: 今でもDJとして活動しているEMMAとかKIMURA KOとかも『GOLD』のDJだったんですよね。

BigBrother: そうそう彼らは、当時からとても人気のあるDJでした。この時代、NYでもナイト・クラブが大人気で、日本でも“ディスコ"の時代から、“クラブ"の時代へシフトしはじめたんです。91年には西麻布の『スペース・ラボ・イエロー』が、93年には青山の『マニアック・ラブ』がオープンしました。イエローはハウス系で、マニアック・ラブはテクノ系という感じで。

KAZOO: 楽しそうな時代ですね。

BigBrother: ダンス・ミュージックのジャンルが、世界的に細分化されていった時代だね。95年には、まだ無名だった伝説的ロックバンドが演奏したという恵比寿の『みるく』というロック・クラブもオープンしました。

KAZOO: “ナンパ系"の流れはどうなったんですか。

BigBrother: 94年に六本木にavexグループが『ヴェルファーレ』をオープンさせ、ゴールド、マハラジャの閉鎖後、行き場を失ってた人々の人気を集めました。

KAZOO: HIP HOP系のクラブシーンは、どうだったのですか。

BigBrother: 97年に通称“ランブリング・ストリート"にハーレムがオープンし、91年にオープンした『マンハッタン・レコード』と共に、渋谷イコールHIP HOPみたいな空気になっていたね。


5.00年代のレイヴとドラッグ

KAZOO: BigBrotherはよく、2000年前後のシーンが一番面白かったということをお話しになりますが、それはどうしてなのでしょうか。

BigBrother: ダンス・ミュージックのジャンルが細分化され、より趣味の偏ったクラブやDJが出現し、選択肢が広がり、海外からは、“レイヴ"カルチャーが入り始めてきたことで、シーンが大きく変化したからだね。

KAZOO: その周りのことは、以前調べたことがあるので、僕に説明させてください。80年代後半にイギリスで起こったダンス・ミュージック・ムーブメントを『セカンド・サマー・オブ・ラブ』といいますが、これは1967年にアメリカのサンフランシスコを中心に各地でヒッピーが集まった『サマー・オブ・ラブ』に由来します。

この流れの元となったのが、地中海のリゾート地の1つであるイビサ島で、ダンス・ミュージックという文化が発達し、その影響が、イギリスにも及び、90年代に更に大きくなります。

音響機材を屋外に持ち出し、フリーのダンス・パーティーいわゆる“レイヴ・パーティー"を開くようになります。その規模は次第に大きくなり、騒音やゴミや薬物乱用などが社会問題化します。その結果、イギリスにおいて、“クリミナル・ジャスティス・ビル"が成立して、“レイヴ・パーティー"が規制される事態となりました。

この流れの元となったのが、地中海のリゾート地の1つであるイビサ島で、ダンス・ミュージックという文化が発達し、その影響が、イギリスにも及び、90年代に更に大きくなります。

音響機材を屋外に持ち出し、フリーのダンス・パーティーいわゆる“レイヴ・パーティー"を開くようになります。その規模は次第に大きくなり、騒音やゴミや薬物乱用などが社会問題化します。その結果、イギリスにおいて、“クリミナル・ジャスティス・ビル"が成立して、“レイヴ・パーティー"が規制される事態となりました。

90年代後半には、「アンダー・ワールド」「ファットボーイ・スリム」「ケミカル・ブラザーズ」などロックとダンス・ミュージックが融合した“ビック・ビート"“デジタル・ロック"と呼ばれるジャンルのミュージシャンが世界的な成功を収めます。

日本にもこの流れは、押し寄せ、代々木公園や湘南海岸などでも、フリー・レイヴがゲリラ的に行われます。フジ・ロックフェスティバルもこうしたムーブメントの中で、97年に第1回が開催されます。“レッチリ"の雨の中での演奏がとても有名ですが、「エイフェックス・ツイン」「マッシヴアタック」「ザ・プロディジー」などのデジタル・ロック系のバンドがラインナップされることでもその影響力の大きさがわかります。

BigBrother: ここで忘れてはいけないのが、このムーブメントが“エクスタシー(MDMA)"という違法薬物の大流行との関連だよね。エクスタシーは、禁止薬物にも関わらず、カラフルな錠剤になっていたりして、サプリメントやビタミンを取る感覚で使用されていたんだ。世界的に未成年や女性にも乱用者が増えたんだよね。

KAZOO: 当時のアメリカでも社会問題化しました。MDMAは、ダンス・ミュージックにどのような影響を与えるんですか。

BigBrother: 90年代後半から、人気が出始めた“トランス"と呼ばれるジャンルは、まさにMDMAで気持ち良くなるための音楽とさえ、言えるのかもしれないね。

KAZOO: アメリカで“トランス"というと「ティエスト」とか「フェリー・コーステン」、「アーミン・ヴァン・ブーレン」などのメロディアスでスペイシーな感じのDJが有名なのですが、日本では、“サイケデリック・トランス"が主流だったようですね。

BigBrother: 確かに“トランス"には、西ヨーロッパを中心にした、KAZOOが指摘したようなDJによる“トランス"とイスラエル、トルコ、インドをルーツとする“サイケデリック・トランス"があるよね。前者を日本では、avexが“サイバー・トランス"と呼んで、“ナンパ系"のクラブ/ディスコで流行したんだ。この“サイバー・トランス"が、パラパラブームにつながるんだよね。一方、日本の山や海で行われるレイヴでは、主に“サイケデリック・トランス"が中心に演奏されていたんだ。

“サイケデリック・トランス"は、ヒッピーの聖地のインドのゴアのリゾートで“ゴア・トランス"として生まれたものが、発展したもので、「ハルシノゲン」「ジュノリアクター」「インフェクテッド・マッシュルーム」などが代表的なサウンド・クリエーターなんだよね。


6.10年代の世界的なEDMブーム

KAZOO: こうした流れが、ゼロ年代に入り、大きくブレイクするのですね。

BigBrother: 日本でも数万人規模の「メタモルフォーゼ」、「Solstice Music Festival」などの野外レイヴが行われるようになったんだ。一度、野外で踊る楽しさを知った“レイヴァー"は、“クラバー"を駆逐し、レイヴの出現によって老舗クラブの多くは、クローズされることになったんだよ。

KAZOO: その“レイヴ"ブームも日本では、ゼロ年代後半には、急速に失速しましたよね。僕が大学を卒業して東京で暮らしていた2008年には、クラブもレイヴもあまり盛り上がっていませんでした。クラブでいえば、WOMB、イヴェントでいえば、WIREぐらいしかありませんでした。

BigBrother: “レイヴ"や“クラブ"での薬物汚染が広がり、死者が出たり、反社会勢力の資金源になっていたりしたので、警察の取り締まりが強くなったこともあるよね。

KAZOO: 2010年代になると、アメリカでも急速に“EDM"がメジャーになってきました。友人なんかも毎年、「Ultra Music Festival」「Electric Daisy Carnival」などのダンス・ミュージックのフェスに行くのを楽しみにしている人が増えてきました。

Big Brother: 確かに日本では、この10年間、ダンス・ミュージックは、冬の時代に入っている感じだけれども、世界的には、“EDM"は、大きなムーブメントになっているよね。


7.エピローグ

KAZOO: アメリカには、ドラック・ミュージックだったものを商業化するようなタフな人達がいて、50年代には“JAZZ"を、70年代には“ROCK"を、80~90年代には“HIP HOP"を、そしてゼロ~10年代には、“EDM"をビジネスとして成功させてきました。

BigBrother: 日本人は、音楽ビジネスとしてのチャンスがあったのに、この20年間、“いけてないオタク"のための音楽しか提供してこなかったからね。

KAZOO: 2010年代になって、アメリカの音楽業界は、ヨーロッパからデヴィット・ゲッター、カルヴィン・ハリス、アヴィーチ (安らかにお眠りください)、ZEDD、アフロジャック、国内からスティーヴ・アオキ、スクリレックスなどを発掘して、ビジネスとして成功させてきました。

BigBrother: 彼らは、年間20~40億ぐらい、稼ぐんだよね。アメリカ人のいいところでもあり、悪いところでもあるんだけど、人間の評価を、稼いだお金で測るところがあるよね。

KAZOO: 才能のある人は、音楽であれ、スポーツであれ、ビジネスであれ、お金を稼ぐことが信仰の結果であるという“プロテスタンティズム"を持っていますからね。なので才能を持っている人や、努力している人を尊敬するし、助けようともします。

Big Brother: 日本人は、人のちょっとした欠点を見つけて、足を引っ張るのが大好物だからね。

KAZOO: アメリカ人は、欠点よりも長所に注目します。だから、あのような(*)大統領も選ばれてしまうのですが。

*このインタヴューは2018年に行われたものです


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