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英国の異質なものに対する憧れと差別意識 (前編)
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (4)
  - ヤードバーズ/ジミ・ヘンドリックス/クリーム | MUSIC & PARTIES #016
2021/11/08 #016

英国の異質なものに対する憧れと差別意識 (前編)
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (4)
- ヤードバーズ/ジミ・ヘンドリックス/クリーム

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

これまで『サイケデリック・ミュージックの真骨頂』シリーズでは、サン・フランシスコとロス・アンジェレスのヒッピー・ムーヴメントとサイケデリック・ロックを取り上げてきました。また、この運動がザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズといった英国のいわゆる“ブリティッシュ・インヴェイジョン"のミュージシャン達に与えた影響について触れてきました。

今回は、ヒッピー・ムーヴメントが生んだサイケデリック・ロックのアイコンであったジミ・ヘンドリックスと、彼に刺激されて英国独自のサイケデリック・ブルーズやハード・ロックを生み出した3人のギタリストを取り上げたいと思います。

そもそも英国の“労働者階級"出身のロック・ミュージシャンたちはなぜアメリカに憧れ、なぜアメリカの音楽市場に挑もうとしたのでしょうか。一方、黒人であるジミ・ヘンドリックスはなぜ“白人"という“支配階級"によるヒッピー・ムーヴメントに共感し、彼の音楽はなぜ英国で受け入れられたのでしょうか。

こういった点に注目しながら、英国独自のロックがどのような経緯で生まれたのかを見ていきたいと思います。また、それを通して、英国とアメリカの社会構造の違いについても考えたいと思います。


2.3人の“ギターの神"を生み出したヤードバーズ

日本でも「3大ロック・ギタリスト」として知られるエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジがキャリア初期に加入していたことで有名なバンドが、ヤードバーズというグループです。ザ・ローリング・ストーンズと同じロンドンのリズム&ブルーズのシーンで活動していた、労働者階級のミュージシャンたちによって結成されたこのグループは、人気の面ではビートルズやストーンズには及ばなかったものの、このバンドからは3人の“ギターの神"を生み出しました。独学でギターの弾き方を覚えた3人は、アメリカの黒人音楽であるブルーズをベースに、実験的な試みによってギターという楽器の可能性を広げ、サイケデリック・ロックがハード・ロックへと進化するきっかけとなりました。

クラプトンがいた初期のヤードバーズは、主にアメリカのブルーズやR&Bのカバー曲をリリースしていました。2代目のギタリストとしてジェフ・ベックが加入した頃は、よりサイケデリックなサウンドを模索していきました。インドの古典音楽の楽器であるシタールを初めてロックに取り込んだのも、実はビートルズではなく、ベック加入後の初のシングルとなった1965年の『ハートせつなく』だとされています。この曲を演奏するために当初はインドのシタール・プレイヤーを雇いますが、音が柔らかすぎると感じたベックは、シタールを真似したギター・エフェクトを用いて自ら弾くことにしました。

1966年2月に発表されたシングル『シェイプ・オブ・シングス』は、サイケデリック・ロックの初期の名作とされています。

その後、ジミー・ペイジが加わることによってヤードバーズはツイン・ギター・サウンドで知られるようになります。この頃に制作された『幻の10年』という曲には、ベックとペイジによる前進的なサイケデリック・サウンドを聴くことができるだけでなく、後にペイジがレッド・ゼッペリンで追究したハード・ロックの要素が見受けられます。

1966年のアメリカ・ツアーの途中でベックは脱退し、その後ヤードバーズは解散へと向かいます。ちょうどその頃に、ジミ・ヘンドリックスが英国の音楽シーンに彗星の如く現れました。


3.サイケデリック・ロックのアイコン、ジミ・ヘンドリックス

ヒッピー文化とサイケデリック・ロックの最も象徴的な人物といえば黒人のギタリストのジミ・ヘンドリックスでしょう。エレクトリック・ヘア(強くパーマをかけたちりちりのアフロ)や東洋のデザインが施されたカラフルな“キモノ"、膝から裾に向かって広がっていくベルボトム、バンダナを着たその格好は、典型的なヒッピーのユニフォームとも言えます。

“ジミヘン"は実は出身国の米国よりも先に英国で受け入れられました。1966年、ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズのガールフレンドは、ニューヨークのライヴで“ジミヘン"に目をつけました。当時の“ジミヘン"は、主に黒人の間で人気のあったリズム&ブルーズのバック・ミュージシャンとして活動を行っており、アメリカ各地に根付いていた“人種差別"を経験しながら、かろうじてミュージシャンとして食いつないでいる状態でした。リチャーズのガールフレンドはそんな“ジミヘン"を英国のプロデューサーに紹介したことをきっかけに、彼は英国で白人のベーシストとドラマーを迎え、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスというバンドを組むことになります。

半年も経たないうちに、このバンドは英国の音楽チャートのトップ10入りを果たす3枚のシングルをリリースしました。その1つが、サイケデリック・ロックの代表曲である『パープル・ヘイズ』です。この題名の「紫の煙」とはマリファナ(大麻の芽は紫色がかっていることがあるため)やLSD(トリップすると様々な色をした幻覚を見るため)のことだとする声が多いです。

また、ロンドンにやってきたばかりの“ジミヘン"はライヴ演奏でも、すぐさまロンドンのアンダーグラウンド(労働者階級の)シーンに強いインパクトを与えます。プロデューサーに連れられてクリームのライヴを訪れた際に、エリック・クラプトンにお願いして飛び入りで1曲を演奏させてもらいました。クラプトンは、ブルーズのスタンダードをよりハイテンポでよりパワフルにひく彼の演奏についていけず、呆れてステージを去ったとされています。クラプトンは「その瞬間、俺の人生は変わった」と後のインタヴューで語っています。

その後間も無く、結成されたばかりのジミー・ヘンドリックス・エクスペリエンスのライヴに、クラプトンとジェフ・ベック、そしてビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーやストーンズのブライアン・ジョーンズやミック・ジャガーも観に行ったとされます。ベックはこの日の印象について、後に英国BBCの音楽番組のインタヴューで「廃業を考えた」と語っています。

英国でブレイクしたジミヘンは、今度はアメリカ市場に“逆上陸"します。前回紹介した1967年のモンテレー・ポップ・フェスティヴァルで、ギターに火をつけて壊すというパフォーマンスでその名を轟かせます。1968年には、3枚目の最後のオリジナル・アルバムとなった『エレクトリック・レディランド』がアメリカで初のNo.1となります。そして1969年のウッドストックに出演した時点では、世界で最も高額の出演料をもらっていたとされ、音楽界のトップに君臨しました。

『エレクトリック・レディランド』
ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの3作目にして最後のスタジオ・アルバムである本作は、サイケデリック・ロックの傑作とされます。聴きどころは、“ジミヘン"の代表曲の1つである『ヴードゥー・チャイルド(スライト・リターン)』と、ボブ・ディランの曲のカヴァーである『ウォッチタワー(見張塔からずっと)』です。「ローリング・ストーン」誌が発表した『歴史上最も偉大なアルバム500』ランキングでは55位に選ばれました。

アメリカの国歌である『星条旗』のこの時の演奏は、黒人の兵士が数多く死んでいたヴェトナム戦争に対する抗議の意を込めたものであると同時に、黒人である自分にとっても「アメリカは俺の国でもある」といわんばかりの、受け入れてくれなかった母国に対する愛国心が込められていると考えられます。

ウッドストックの2週間後、“ジミヘン"はニューヨークのハーレムでアフリカ系アメリカ人コミュニティのためのフリー・コンサートを開きました。ところが、演奏を始めるやいなや、ボトルや卵を投げつけられ、オーディエンスは徐々に分散しました。公民権運動という闘いの時代にアメリカを去り、“白人"という“支配階級"の音楽であったサイケデリック・ロックを演奏する“ジミヘン"は、当時のアフリカ系アメリカ人には裏切り者にしか思えなかったのでしょう。実際に、アフリカ系アメリカ人のレディオ局は、彼の音楽をかけるのを拒否していました。

そもそも黒人である“ジミヘン"が主に“白人"という“支配階級"出身の若者たちが形成していたヒッピー・ムーヴメントに共感したのは不思議に思えるかもしれません。しかし、若い頃からアメリカの根深い“人種差別"を身にしみて感じていた彼は、「ラヴ&ピース」「全生類との一体感」などの概念に希望を見出したのではないでしょうか。彼にとっては、「白人音楽」と「黒人音楽」の間には隔たりはなく、音楽は普遍的なものだったのです。 そして英国でブレイクした“ジミヘン"は、英国では階級社会による差別意識はあっても、人種による差別意識がアメリカに比べて蔓延していないことに感動したのかもしれません。そんな理想主義者であったからこそ、彼はヒッピー・ムーヴメントを象徴するアイコンとなったのではないでしょうか。

一方、“ジミヘン"が英国で受け入れられた背景にあるもう1つのことは、英国人が抱く“エグゾチック(異質)なものに対する関心"があるのでしょう。このいわゆる“オリエンタリズム"(東洋趣味、異国趣味)は大英帝国の植民地体制から始まり、現在でも紅茶、カレー、クリケットなどが国民生活に欠かせないものとなっていることに現れています。ヤードバーズやビートルズがシタールを起用したのもこれが理由でしょう。東洋をイメージした格好をした黒人が“白人"の音楽であったサイケデリック・ロックを弾いている姿は、正にその趣味にハマったのでしょう。ましてや、ギターを歯で弦を弾いたり、男性器に見立てたような構え方をする“ジミヘン"の自己主張には、保守的な社会で育った若者たちは強く憧れたのではないでしょうか。


4.ロック初の“スーパーグループ"であったクリーム

エリック・クラプトンは、ヤードバーズを脱退した後、アメリカの伝説的なブルーズ・ギタリストであるバディ・ガイによるトリオをライヴで見て刺激され、新鋭のミュージシャンであったドラマーのジンジャー・ベイカーとベーシストのジャック・ブルースとともにロック・トリオの「クリーム」を結成することとなります。

クリームはいわゆる“スーパーグループ"の草分け的存在とされます。ディストーションなどのエフェクトをかけたエレクトリック・ギターによるヘヴィーなサウンドは、その後のハード・ロックの基礎を創り上げ、幅広いミュージシャンに影響を与えることとなりました。

よりブルーズ寄りのサウンドであった1枚目のアルバム『フレッシュ・クリーム』に比べ、2枚目のオリジナル・アルバム『カラフル・クリーム』では、アルバム名が示唆するように、よりサイケデリックなサウンドを追究しています。

『カラフル・クリーム』
1967年にリリースされたクリームの2枚目のスタジオ・アルバムです。ブルーズ・ロックのルーツから一転、本作のサイケデリックなサウンドが特徴で、本作によってクリームはアメリカ市場に置いてブレイクをしました。『ローリング・ストーン』誌は本作を『歴代アムバム500』のランキングで114位に選びました。

このアルバムに収められている『Sunshine of Your Love』は、サイケデリック・ロックをハード・ロックの方向へと進化させたバンドの代表曲です。この曲は実は、クリームのメンバーがロンドンで開催されたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのコンサートに行った後に作曲・作詞されたものです。ベーシストのジャック・ブルースは“ジミヘン"の“異質な"演奏に衝撃を覚え、コンサート後に家に帰って有名なリフを作ったそうです。ジミ・ヘンドリックス本人も、後にこの曲をライヴで演奏するようになります。


MUSIC & PARTIES #016

英国の異質なものに対する憧れと差別意識 (前編) - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (4)


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