5.ミュージシャンズ・ミュージシャンのジェフ・ベック
(前半より)
ヤードバーズから脱退後、ジェフ・ベックはヴォーカリストのロッド・スチュワートとマルチ・インストゥルメンタリストのロニー・ウッドを迎えてジェフ・ベック・グループを結成しました。ベックはサイケデリック・サウンドからよりハードでヘヴィなブルーズ・ロックを追究して1968年と69年にアルバムを発表しました。特に1968年の『トゥルース』は、ヘヴィ・メタルの先駆けとも評されています。収録曲のヤードバーズのヒット曲『シェイプ・オブ・シングズ』のハード・ロック・ヴァージョンはとても興味深い仕上がりになっています。
『トゥルース』
ジェフ・ベック・グループのデビュー作では、ブルーズやフォーク、英国の民族音楽のカヴァー曲がブルージーなハード・ロック調で演奏されています。本作はヴォーカリストのロッド・スチュワートと、後にストーンズに加わることとなるロニー・ウッドの出世作とされます。
その後、ベックとロッドの仲が悪くなり、バンドは解散し、ベックは70年代半ばにはソロ・アルバムやジャズ・フュージョンのアルバムを出すようになります。中でも1975年の『ブロウ・バイ・ブロウ』はベックの最も商業的に成功したアルバムとなりました。
『ブロウ・バイ・ブロウ』
ビルボード・チャートで4位を獲得した本作はジェフ・ベックによるインストゥルメンタル・アルバムです。ベックはジャズ・ギタリストのジョン・マクラフリン率いるマハヴィシュヌ・オーケストラのジャズ・ロック・サウンドに刺激され、フュージョンを意識した音となっています。ビートルズの『シーズ・ア・ウーマン』のカヴァーと、スティーヴィー・ワンダーが作曲した『悲しみの恋人達』が聞きどころです。発売当時の邦題は『ギター殺人者の凱旋』でした。
このアルバムはベックの作品の中では売れましたが、ベックはクラプトンやペイジに比べ、商業的には成功を手にすることはありませんでした。その分ミュージシャンズ・ミュージシャンとしてギタリストの間では絶大な人気を誇ってきました。その理由は、ヤードバーズに在籍していた時もそうでしたが、ベックはとことんこだわるタイプで、完璧主義者であることにあるようです。完璧主義であることは、ベックのバンドがなかなか長続きしない理由でもあったのかもしれません。
歌も歌うクラプトンやレッド・ツェッペリンで活躍していたペイジに比べ、ベックはソロのギタリストとしての活動が多かったからこそ、代わりにギターを“歌わせ"、常にその可能性を広げるようなプレイを見せ続けてきました。彼はこれまで、グラミー賞の最優秀ロック・インストゥルメンタル賞を6回も受賞し、最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を1回受賞しています。
6.ジミー・ペイジが率いた世界最大のハード・ロック・バンド、レッド・ツェッペリン
前述したように、ジェフ・ベックが抜けた後のヤードバーズは解散へと向かいました。しかし、バンドはスカンディナヴィアでいくつかのコンサートを開催する約束をしていたため、ジミー・ペイジは新しいメンバーを集めてニュー・ヤードバーズとして契約を履行しました。それがレッド・ツェッペリンの始まりです。
その時のライヴのセットリストに基づいて作られたのがデビュー・アルバム『レッド・ツェッペリン I』なのです。サイケデリック・ブルーズに英国のフォーク・ミュージック(民族音楽)の要素をちりばめたサウンドは、評論家に高く評価され、ハード・ロックの記念碑的アルバムとされています。
『レッド・ツェッペリン I』
レッド・ツェッペリンのデビュー・アルバムは、ハード・ロックの記念碑的アルバムです。発表当時、「ローリング・ストーン」誌はジェフ・ベック・グループの『トゥルース』に比べると劣ると評し、ジミー・ペイジのプロデューサーとしての才能は「限られている」としました。後に同誌の「史上最も偉大なアルバム」ランキングで29位に選ばれました。
バンドは初期からアメリカ・ツアーを開催し、アメリカ音楽市場を開拓していきました。人気が上昇すると共にライヴハウスからより大きなヴェニュー(会場)で演奏するようになりました。71年に名曲『天国への階段』が収録された『レッド・ツェッペリン IV』の発表によって、名実ともに世界一のロック・バンドとなっていました。『天国への階段』はシングルとしてはリリースされなかったものの、70年代のアメリカのロック・レイディオで最も多くかけられた曲となりました。いまでもこの曲がかからない日はないでしょう。
『レッド・ツェッペリン IV』
レッド・ツェッペリンの4枚目のアルバムは米国だけでも2,300万枚以上のセールズを記録し、アメリカレコード協会によるとアメリカで6番目に売れたアルバムと認定されています。本作には正式な題名がないため、様々な仮称で呼ばれます。「ローリング・ストーン」誌の『史上最も偉大なアルバム500』ランキングでは69位に選ばれています。
このアルバムにはレッド・ツェッペリンがヒッピー文化に捧げたアコースティック・ナンバーの『カリフォルニア』が収録されています。その歌詞は、サマー・オヴ・ラヴを代表する曲『花のサンフランシスコ』を彷彿とさせます。
Spent my days with a woman unkind
Smoked my stuff and drank all my wine
Made up my mind to make a new start
Going to California with an aching in my heart
Someone told me there’s a girl out there
With love in her eyes and flowers in her hair
不親切な女と日々を過ごした
俺のブツを吸い 俺のワインを全部飲んだ
新しいスタートを切ると心を決めた
心に痛みを抱えながらカリフォルニアへ行く
誰かに言われた そこにはある女がいると
瞳の中には愛があり 髪には花がある女
(訳詞:KAZOO)
また、ペイジは“エグゾチック(異質)"な東洋音楽にも興味を持ち、その影響が最も強く見受けられるのが1975年のアルバム『フィジカル・グラフィティ』に収録された『カシミール』でしょう。この曲は、レッド・ツェッペリンの曲の中でも最もプログレッシヴ・ロックの要素が含まれた曲だとされています。(英国のプログレッシヴ・ロックについては、次回取り上げます。)
『フィジカル・グラフィティ』
1975年にリリースされたレッド・ツェッペリンの6枚目のアルバムは、ハード・ロック、ブルーズ、フォーク、プログレッシヴ・ロックなど、様々なスタイルの曲が収録されています。「ローリング・ストーン」誌の『史上最も偉大なアルバム500』ランキングでは73位に選ばれています。
ペイジはセッション・ミュージシャンとしてキャリアをスタートしたことで、自身が興味のある音楽ジャンルの幅を広げ、録音技術にも精通するようになりました。エリック・クラプトンがブルーズマンであり、ジェフ・ベックが最も実験的なプレイヤーだとすれば、ジミー・ペイジは3人の中で最も総合で万能なギタリストだったと言えるのではないでしょうか。
ペイジはレッド・ツェッペリンの活動を通して70年代のロックを代表するようなリフの数々を生み出しました。ハード・ロックというジャンルの方向性を決定づけ、世界一のロック・バンドとなったレッド・ツェッペリンの成功は、ペイジのギター・プレイヤーとしての才能だけでなく、彼のプロデューサーとしての才能による部分もあったのではないでしょうか。
完璧主義だったが故にバンドに向かなかったジェフ・ベックとは対照的に、ペイジは結果主義者だったからこそ、プロデューサーとしてレッド・ツェッペリンを、60年代のビートルズと並ぶ伝説のバンドに育て上げられたのでしょう。
7.エリック・クラプトンとハード・ドラッグの闇
これまでこのシリーズで書いてきたように、69年のウッドストックとオルタモント・フリーコンサートを境にヒッピー・ムーヴメントと派生的に生まれたサイケデリック・ロックは次第に衰退していきました。
しかし、音楽へのドラッグ・カルチャーの影響はその後もなくなることはありませんでした。それどころが、その姿を変え、より深い闇の方へと進んでいくこととなります。60年代のヒッピーたちが愛用したマリファナやLSDから、70年代と80年代にはヘロイン(ダウンナー系)やコケイン(アッパー系)など、より刺激の強いドラッグが使われるようになります。ヒッピー達がサマー・オヴ・ラヴのように公の場で平然と使用するのではなく、人目に触れない場所で使用するようなアンダーグラウンドなものとなりました。
この2つの“ハード・ドラッグ"(中毒性の高いドラッグ)とゆかりが特に深いのが、エリック・クラプトンです。クラプトンはこの薬物の闇の中で70年代を迎えることとなりました。クリームの解散後に始めたグループ、デレク・アンド・ザ・ドミノスの現在ではクラプトンの代表作とされるアルバム『いとしのレイラ』は、セールズ的には当時は失敗しました。タイトル・トラックの『いとしのレイラ』もチャート・インもしませんでした。(しかもこの曲は、親友のジョージ・ハリソンの妻、パティ・ボイドへの恋心を歌った、禁断の愛の曲だったのです。ボイドは77年にハリソンと離婚し、79年にはクラプトンと結婚しました。クラプトンが77年に発表したバラードの『ワンダフル・トゥナイト』も、ボイドに捧げた曲だとされます。)その後、クラプトンは引きこもるようになり、3年あまり、ヘロインに溺れてしまいます。
『いとしのレイラ』
デレク・アンド・ザ・ドミノスの唯一のスタジオ・アルバムであった本作の評価は発売当初はイマイチでしたが、タイトル・トラックの『いとしのレイラ』は今ではクラプトンの代表曲の1つされます。「ローリング・ストーン」誌の『史上最も偉大なアルバム500』ランキングでは117位に選ばれています。
その後、ハリソンやザ・フーのギタリストのピート・タウンゼントの介入もあって、クラプトンは1974年にヘロインの常習を絶ちます。4年近くのブランクを経て作ったアルバムが『461 オーシャン・ブールヴァード』です。
『461 オーシャン・ブールヴァード』
ヘロインの常習を絶ったばかりだけあって、全体的にゆったりとしたブルーズ・サウンドが特徴です。ボブ・マーリーをカヴァーした『アイ・ショット・ザ・シェリフ』は全米1位のヒット・シングルとなりました。本作は「ローリング・ストーン」誌の『史上最も偉大なアルバム500』ランキングでは411位に選ばれています。
1977年にクラプトンはJ・J・ケイルが作詞作曲した『コケイン』のカヴァーをリリースします。当時のクラプトンはコケインを常用していたようです。そこで気になるのが、この曲がコケインを支持しているのか、反対しているかという点です。歌詞の一部を見てみましょう:
If you want to hang out,
You’ve got to take her out, cocaine
If you want to get down,
Get down on the ground, cocaine
She don’t lie,
She don’t lie,
She don’t lie, cocaine
まったり過ごしたいなら
彼女を連れ出さないと、コケイン
ダンスして遊びたいなら
地に這いたいなら、コケイン
彼女は嘘を言わない
彼女は嘘を言わない
彼女は嘘を言わない、コケイン (訳詞:KAZOO)
コケインを彼女と例えているところがポイントです。この歌詞にはいろんな捉え方ができるのです。そもそもコケインとは粉末状のドラッグで、ウォール街など、お金持ちの白人(いわゆる“ヤッピー”)が主に使用していたことで知られるものです。英国の労働者階級出身のクラプトンにとっては、音楽で大成功し、アメリカの白人の“彼女”をデートに連れて行くことは、ある種の“アメリカン・ドリーム”と言えるのかもしれません。
コケインを彼女と捉えれば、“take her out”は「デートに連れ出す」という意味になりますが、“take <誰々> out” には「<誰々>を殺す」「<誰々>をやっつける」という風にも捉えることができます。“get down”も「パーティーする」「ダンスする」「セックスする」と捉えることができますが、「落ち込む」「気がめいる」という意味にもなるのです。“she don’t lie”(「彼女は嘘を言わない」)ということも、「自分の弱さがさらけ出さられる」という警告にも聞こえます。
8.3大ロック・ギタリストが目指したもの、“ジミヘン"が目指したもの
これまでこのシリーズで取り上げてきたカリフォルニアのサイケデリック・ロックは、ヒッピー運動そのものがそうであったように、“白人"というアメリカの“支配階級"出身の若者たちを中心としたシーンでした。カリフォルニアのミュージシャンたちは、フォーク、カントリー、ラテン、ジャズなどのジャンルの要素をロックに取り入れ、ビートルズやストーンズというブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激されて更にクリエイティビティを開花させて行きました。
それに対して英国ではどうだったのでしょうか。上流階級にはヨーロッパのクラシック音楽という長い伝統がある一方で、労働者階級にはそれぞれの民族音楽しかありませんでした。戦後まもない50年代には、“英国風ロック・サウンド"というものも存在せず、当時の英国の音楽シーンでは、エルヴィス・プレスリーやバディ・ホリーなど、アメリカのロカビリー系シンガーをコピーしたようなアーティストたちが存在している程度でした。
60年代に入ると、労働者階級の中には、アメリカのロックンロールの反抗的なイメージに強く憧れる若者たちが増え始めました。個人の努力では超えることのできない階級社会があり、保守的な考え方が広く根付いていた英国社会の中で育った彼らは、個人主義のアメリカのベイビー・ブウマー世代のように、親の価値観を振り払いたいと感じるようになります。
また英国は、ヨーロッパの辺境にある島国であることも忘れてはなりません。労働者階級の若者たちはレコード・プレイヤーを通してヨーロッパ大陸だけでなく、同じ英語を使うアメリカの音楽にのめり込んだのではないでしょうか。彼らが手にしたのは、駐留していた米兵や商船隊員の手によって持ち込まれるようになったブルーズのレコードなのです。(英国に当時駐留していた米兵の多くは黒人でした。)こういった音楽に強く魅了されたのがエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジでした。
そこにジミ・ヘンドリックスという起爆剤が加わることによって、3人はさらなる衝撃を覚えました。それは、エグゾチック(異質)なものに対する興味であると同時に、ブルーズやR&B、ロックが生まれたアメリカの実力を見せつけられたことに対するある種の劣等感だったのでしょう。彼らが“ジミヘン"と対等のレヴェルで戦うためには、アメリカ市場のビジネス面でもブレイクする必要があり、負けまいと自分たちのプレイに磨きをかけていきます。その結果、エリクトリック・ギターを自由自在に操った“ジミヘン"のサイケデリック・ロックからは、英国独自のハード・ロックが生まれるきっかけとなりました。
“ジミヘン"は、黒人のヒッピーとして、音楽の力で人々は“人種の壁"や世界の様々な問題を乗り越えられると訴えようとしました。そのメッセージは、彼の音楽に込められ、英国で結成したジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスというバンド名にも込められていたのではないでしょうか。彼はオーディエンスに、自分が“パープル・ヘイズ"の中で見た「ラヴ&ピース」の夢を、体験(エクスペリエンス)させたかったのです。しかし、残念なことに、ジミ・ヘンドリックスはお酒とドラッグをミックスする癖があり、1970年9月にワインとバルビツール酸系睡眠薬を併用したことによって睡眠中に嘔吐し窒息死したとされています。
一方で、英国のロック・ミュージシャンたちは、英国では音楽の力ではとても超えられない"階級の壁"があることを身にしみて理解していたからこそ、アメリカ市場を目指したという面もあったのではないでしょうか。英国では“労働者階級"に属していた彼らは、ロック音楽を通して本国の階級社会に反抗し、アメリカでは“白人"という“支配階級"に属することである種の優越感すら覚えることができたのです。
9.エピローグ
最後に、エリック・クラプトンにまつわるエピソードをもう1つ紹介します。
クラプトンは1974年、ヘロインの常習を絶ちますが、一方でお酒を大量に飲むようになりました。レコーディング時にもライヴ時にも常に酒気を帯びた状態で挑む時期が続き、ある時はステージ場でうつ伏せ状態で演奏をしたくらい酷かったと言われます。
1976年にバーミンガムで開催されたライヴ会場で、酔っ払ったクラプトンはMCで露骨な人種差別発言をします。その一部を掲載します:
Do we have any foreigners in the audience tonight?
If so, please put up your hands. ...
So, where are you? Well wherever you are, I think you should all just leave.
Not just leave the hall—leave our country. ...
I think we should vote for Enoch Powell. Enoch’s our man.
I think Enoch’s right, I think we should send them all back.
Stop Britain from becoming a black colony.
Get the foreigners out.
今夜オーディエンスの中には外国人はいるかい?
もしいるなら、手を上げてくれ。…
どこだい?どこにるかわからないが、お前らは出て行くべきだと思う。
このホールからだけじゃなく、この国から。…
国民はエノック・パウエルに投票するべきだと思う。エノックは俺たちのために闘ってくれる。
俺はエノックの見解に賛成だ。彼らを全員国に返すべきだ。
英国を、黒人植民地になるのを防がないと。
外国人を追い出せ。 (訳:KAZOO)
エノック・パウエルとは、当時英国で有名であった極右の政治家のことです。当時はインドや中東を始め、外国からの移民が英国で増えていた時代でした。彼は移民を停止し、本国に送還するための法律を成立させようとしていました。ここで注目したいのは、このことが英国人が抱えるある二面性を象徴していることです。このコラムで見てきたように、英国人は“エグゾチック”(異質)なものに対する趣味があります。ところがその一方で、“エイリアン”(異質)なものを嫌う傾向があのです。“エイリアン”とは、エリザベス女王陛下をトップとしたイングランド国教会とは異なる宗教及び宗派に属するもののことであり、正教会(オーソドックス・チャーチ)やイスラム教などに属する移民のことであるのです。
このことを踏まえると、クラプトンの『コケイン』の歌詞に出てくる“She don’t lie”(彼女は嘘をつかない)はまた違う意味を帯びてきます。クラプトンは根っこからの黒人音楽のファンで、継承者であるのですが、酒気を帯びた状態で、心のどこかで感じていた人種についての不安や不満がついつい口に出てしまったのでしょう。
最近のブレグジット騒動や、ハリー王子とメーガン妃が王室離脱を発表したいわゆる“メグジット”騒動も、そんな英国の国民感情によって起きていることなのではないでしょうか。英国のEU離脱を支持している人々は、ヨーロッパや中東からの“エイリアン”の入国によってどんどん肩身の狭い思いをしている労働者階級なのです。これはアメリカの“支配階級”に属する“白人”が、ヒスパニック系やアジア系の“エイリアン”によって自分たちの仕事が奪い取られていると訴えるのと同じ構造です。
黒人の血を引くアメリカ人のメーガン妃に関しては、国民の多くは当初、その“エグゾチック”(異質)さに魅了され、彼女をちやほやしていました。英国王室にも新しい時代が訪れたとする声が多く聞かれました。ところが“階級の壁”を乗り越えようとしたメーガン妃は、やがてこうした歓迎の裏には強烈な差別意識があることに気づいたのではないでしょうか。
ハリー王子とメーガン妃の結婚によって起こった英国民の“ハイ”が覚める一方で、ブレグジット騒動によって起こった“ヘイズ”(靄)は、まだまだ続くのでしょう。