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シカゴ・ハウス、デトロイト・テクノ、ニューヨークのガラージ・ハウス
  - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (2)
  - ホアン・アトキンス/デリック・メイ/ケヴィン・サンダーソン | MUSIC & PARTIES #027
2022/02/07 #027

シカゴ・ハウス、デトロイト・テクノ、ニューヨークのガラージ・ハウス
- エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (2)
- ホアン・アトキンス/デリック・メイ/ケヴィン・サンダーソン

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

ディスコというダンス・ミュージックのカテゴリーは、70年代の初頭に生まれ、事実上70年代末に終息しました。(もちろん、その後もいくつかのミュージシャンは活動してはいますが。)

その象徴的イヴェントだったのが、1979年7月12日にシカゴで開催されたイヴェント“ディスコ・デモリッション・ナイト"でした。メジャー・リーグ・ベイスボールの“ダブルヘッダー"(同じ2つのチームが、同じ日に、同球場で連続で二試合を行なうこと)の第一試合と第二試合の間に、「ディスコ・ミュージックをぶっとばせ」をテーマとして開催されたこのイヴェントは、シカゴのロック・レイディオ局が発案した事実上のアンチ・ディスコのデモでした。イヴェントのクライマックスでは大量のディスコ・レコードがセンターフィールド付近に置かれ、爆弾によって爆破されるというものでした。その直後、スタンドから何千人もの観客がフィールドに乱入し、暴動となってしまいます。最終的には39人の逮捕者が出て、第二試合は順延となってしまいます。これを機にディスコ・ブームはシカゴをはじめ、アメリカの各都市部で急速に終息に迎えることとなりました。

そもそもアメリカでディスコ・シーンが生まれたのは、70年代の初期のニューヨークだとされます。ヒッピーでディスク・ジョッキーであったデヴィッド・マンキューソが、自宅でアンダーグラウンドの招待制のパーティを開催するようになり、それがやがて「ロフト」という伝説的なパーティとして知られるようになります。マンキューソはレイディオ局でレコードをかける“ディスク・ジョッキー"という仕事を音楽を通して場の空気を操る“DJ"というアーティストへと進化させた重要人物の1人として知られています。

ロフトに出入りしていたのは主にゲイの人々や黒人、ラテン系など多種なマイノリティのアウトサイダーたちでした。その中にはラリー・レヴァン、フランキー・ナックルズ、フランスワーK、デヴィッド・モラレスなどその後のハウス・シーンを牽引するDJたちもいました。

特にレヴァンとナックルズは仲良くなり、2人は70年代前半の頃からニューヨークのゲイ・ディスコでDJとして腕を磨くようになります。70年代後半にはナックルズは友達に誘われ、シカゴに引っ越して「ウェアハウス」というナイトクラブでプレイするようになり、“シカゴ・ハウス"というダンス・ミュージックのジャンルを確立していきます。一方でレヴァンは、ニューヨークの伝説的なナイトクラブ「パラダイス・ガラージ」のレジデントとなり、“ガラージ・ハウス"と呼ばれるダンス・ミュージックのジャンルを確立していきました。そしてナックルズのプレイを観るためにシカゴを訪れたデトロイト出身のホアン・アトキンス、デリック・メイとケヴィン・サンダーソンはそのDJスタイルに衝撃を覚え、その後“デトロイト・テクノ"と呼ばれるダンス・ミュージックのスタイルを確立していきます。

この過渡期のニューヨークのクラブ・シーンを捉えたのが、『54 フィフティ☆フォー』(1998年)という青春映画です。本作が題材にしている「ストゥディオ54」は、マンハッタン区に1977年から1986年まで存在し、当時の多くのミュージシャンや著名人が出入りしていた伝説のディスコ/ナイトクラブでした。他にもポルノ業界の光と影にスポットライトを当てた『ブギー・ナイツ』(1997年)は、この時代のL.A.を描いています。

今回のコラムではディスコ・ブームの終息後にシカゴ、ニューヨーク、デトロイトの3都市においてアンダーグラウンドのムーヴメントとしてジワジワと発展を遂げていったダンス・ミュージックの系譜を取り上げます。


2.シカゴの“ウェアハウス"から生まれた“ハウス・ミュージック"

全米的なディスコ・ブームは、イリノイ州のシカゴにおいて“爆破"されてしいましたが、80年代に入っても一部のレイディオ局やアンダーグラウンドでは根強い人気を持ち続けました。いわばシカゴにおいてはディスコは死なずに、シカゴ・ハウスという形に進化していったのです。

アメリカのディスコがシカゴ・ハウスへと進化する大きな1つのきっかけとなったのが、ドイツのミュンヘンでイタリア人のプロデューサー、ジョルジオ・モロダーが生み出した“ユーロ・ディスコ"でしょう。モロダーはドラム・マシーンを使ってファンクの複雑なビートをいわゆるシンプルな“四つ打ち"の形にアレンジし、弦楽器や金管楽器を多用したアメリカのディスコ・サウンドとは違って、シンセサイザーを中心としたエレクトロニック・ミュージックを制作しました。アメリカの黒人シンガーのドナ・サマーをヴォーカルに迎え、70年代にアメリカをはじめ世界的にヒットした数々の曲を世に送り出しました。特にハウス・ミュージックの先駆けとなったのが、 “I Feel Love"という曲です。

80年代初頭、ディスコ・ブームの終焉によって新しいディスコのレコードのリリースが枯渇していたため、フランキー・ナックルズらのシカゴのDJたちは、70年代のディスコ曲やイタロ・ディスコ、シンセ・ポップやエレクトロの曲をレコーディング・ストゥディオ用のオープン・リール式のレコーダー兼プレイヤーを使ってダンス・フロア向けにアレンジしたり、ドラム・マシーンなどの電子楽器の音を加えたりして、今でいう“リミックス"の作業をするようになりました。ナックルズがレジデントを務めていた「ウェアハウス」をシーンの中心として、DJたちが様々なレギュラー・パーティーを開くようになります。彼らは様々な新しいテクニックを編み出しながら、お互いを刺激し合って切磋琢磨していきます。

シカゴ・ハウスは、ロック好きの白人が嫌っていたディスコ・サウンドの要素(シンセや電子楽器の多用、モチーフの機械的な繰り返し、過剰なまでのセクシュアリティ)をより一層強調することで、居場所を失っていたシカゴのゲイの黒人などの有色人種のための“安全地帯"を開拓していきました。ゲイであるが故に従来のコミュニティの教会からは拒まれていた彼らにとって、ウェアハウスやナックルズのDJプレイは、宗教的な役割さえを帯びるようになっていきました。ドラッグの使用も伴って、ダンス・フロアで彼らはある種の“悟り"を開いていきました。

やがて、最新のトラックを欲しがる世界中のDJたちのために、新しいハウス・ミュージックを制作してレコードという形でリリースするという産業が生まれました。この中で頭角を現したのが、シカゴ生まれのジェッシー・サンダーズです。彼はティーネイジャーとしてフランキー・ナックルズのDJプレイに魅了され、DJとなりました。サンダーズは「プレイグラウンド」というナイトクラブを82年にオープンします。オリジナル曲を交えた彼のプレイを観るために多くのクラバーが、このクラブに集まるようになりました。80年代半ばになると、レコードを販売することによってそれまでローカルだったシカゴ・ハウスの音楽は全米の主要都市に広がるだけでなく、ヨーロッパにも輸出されるようになっていきました。

87年ごろにはシカゴ・ハウスのプロデューサーたちは“アシッド"的(アシッドとは、英語で「酸」を意味し、LSDの俗称としても知られます)な音をトラックに使用するようになりました。それを可能にしたのが、(日本のメイカーである)ローランドの『TB 303』というベイス・シンセでした。元々『TB-303』はドラム・マシーンのローランド『TR-606』の兄弟機として開発され、ジャムの練習用にギタリスト向けに発売された商品なのですが、その目的としてはあまり売れず、85年には生産中止になっていました。シカゴ・ハウスのプロデューサーたちはその機器の可能性を掘り起こし、実験を繰り返す中で独特の歪んだベイス音を出せるようにしていきました。そのぶっ飛んだ音がサイケデリック・ロックを彷彿させるということで“アシッド"という言葉が使われるようになったとさえ言われています。その記念すべき第1曲が、Phutureが87年にリリースした“Acid Tracks"というトラックだとされでいます。この頃のシカゴ・ハウスのレコードは、ヨーロッパにも輸出され、80年代終盤に英国で発達した“アシッド・ハウス"が生まれる1つの源流となります。

80年代終盤には、シカゴのハウス・ミュージック・シーンのパーティーは、警察に取り締まられるようになり、人気に陰りが出始めます。レコードもピーク時に比べて売れなくなっていました。この頃にフランキー・ナックルズは拠点をニューヨークに戻すことにします。一方で、ちょうどこの時期に、大西洋の向こう側のロンドンのナイトクラブ・シーンではハウス・ミュージックの人気が湧きはじめていたため、ヨーロッパに移住したシカゴのDJもいました。

オススメのシカゴ・ハウスの作品


3.より機械的で人工的なサウンドを目指したデトロイト・テクノ

シカゴから車で4時間半~5時間(アメリカ的にはとても近い感じ)の距離にあるミシガン州のデトロイトでは、ホアン・アトキンズ、デリック・メイ、ケヴィン・ソンダーソンの3人の黒人によって“デトロイト・テクノ"と呼ばれるダンス・ミュージックのスタイルが80年代半ばに発達しました。この3人はデトロイトの“ゲットー"ではなく、郊外のベルヴィル出身で、高校時代からの親友でした。かつて栄えていたデトロイトの自動車メイカーの工場の恩恵で、彼らの祖父の世代は安定した収入を得ることができ、中流階級の白人労働者と同じレヴェル生活を送ることができていました。

こういった育ちから、「ゲットー育ちではない」というある種のプライドが3人にはあり、彼らはドイツのクラフトワークや日本のYMOなどのテクノ・ポップを好んで聴き入っていました。一方で、ブーツィー・コリンズやジョージ・クリントンなど、ブラック・ミュージックの中でもポップ・ミュージックとは一線を画した、SF的な神話性のある世界観にも強く憧れていました。

テクノ・ポップとファンクという2つの音楽ジャンルの影響によって、3人の作り出したダンス・ミュージックは、中身のない音楽としてロック好きの白人がバカにしていたディスコ・ミュージックをベイスにしてはいるものの、哲学的な知性や未来に対するヴィジョンが備わった“ディープ"な音楽を生み出すこととなりました。ディスコ・ミュージックの中でも彼らが特に惹かれたのは弦楽器やゴスペル調のヴォーカルを取り入れたアメリカのディスコではなく、シンセやドラム・マシーンを中心としたユーロ・ディスコでした。“デトロイト・テクノ"という1つのジャンルを生み出した3人は、ヨーロッパ的な美しさに対する強い憧れを抱いていたのです。

アトキンズ、メイとソンダーソンが生まれ育った当時のデトロイトは、アメリカの自動車産業の中心地として栄えた最盛期の面影はなく、没落した都市となっていました。工業化のブームは終焉し、白人労働者たちは郊外に引っ越したことによって、デトロイトの中心部は丸ごとゲットー化、あるいはゴースト・タウン化していました。デトロイト・テクノのミニマルなサウンドには、こういった環境の厳しい現実も反映されています。また、人口が減った、工業的な環境で育ったからこそ、彼らはクラフトワークやYMOの洗練された“美しい"電子音楽に惹かれていったのかもしれません。彼らが80年代に作り出した音楽は、ドラム・マシーンなどの電子機器を使用しながらも、その裏には、工業化や機械化が人間にもたらす変化に対するアンビヴァレントな気持ちが込められていました。

結局、彼らは「デトロイトから生まれたテクノ・ミュージックは、そのテクノロジーを受け入れ、武器にすることこそがデトロイトのディストピア的な街並みを超越する手法である」という結論に至ります。この証しに、デトロイト・テクノの第2世代DJとして頭角を現したカール・クレイグやジェフ・ミルズは、より機械的なサウンドと、宇宙をテーマにした音楽を追求していきました。クレイグは「Planet E」というレイベルを立ち上げ、ミルズはフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』やジョルジュ・メリエス監督の『月世界旅行』などのSF映画を題材にした“宇宙音楽"で知られています。

また、カナダ出身のリッチー・ホゥティンはテクノ・ミュージックから余計な要素をそぎ落とし、オーディエンスを踊らせることに集中させることを目的とした原始的な音楽へと“進化"させていきました。ゼネラルモーターズのテクニシャンとして働いていたホゥティンの父親はエレクトロニック・ミュージックが大好きで、幼い息子にクラフトワークを聴かせていました。ホゥティンは、17歳の頃からデトロイトのナイトクラブでDJをするようになり、90年代を通じて“ミニマル・テクノ"と呼ばれるサブジャンルを確立させていきました。

ここで“シカゴ・ハウス"と“デトロイト・テクノ"という音楽ジャンルの違いを一度整理しておきましょう。シカゴ・ハウスはディスコやゴスペルを意識した黒人シンガーのソウルフルなヴォーカルを使用していたのに対して、デトロイト・テクノはインストゥルメンタルのトラックが中心でした。また、シカゴ・ハウスでは、フランキー・ナックルズなどのDJがディスコのリミックスの上に四つ打ちのビートを載せていたのに対して、デトロイト・テクノのビーツはファンクを意識したグルーヴ感が重視されていました。更に、快楽主義者たちのシカゴ・ハウスのシーンでは麻薬、覚せい剤、幻覚剤の使用が蔓延していたのに対して、スノッブなデトロイトのクラブ・シーンではドラッグの使用はあまり普及していませんでした。そして最大の違いは、シカゴ・ハウスはゲイのDJがゲイのコミュニティために作ったものであったのに対して、デトロイト・テクノは主に“ストレート"(異性愛者)なシーンのための音楽でした。

デトロイト・テクノのオススメの作品


4.ニューヨークで発達した“ディープ"なガラージ・ハウス

シカゴ・ハウスとデトロイト・テクノの誕生と並行して、ニューヨークではR&Bやソウル・ミュージック、ゴスペルの影響を強く取り入れたより“ディープ"なハウス・サウンドが発達を遂げていきます。70年代のディスコ・ブームが終息に向かう中、ニューヨークのハウス・ミュージック・シーンは、主にゲイの黒人やヒスパニック系の人たちに支持されたアンダーグラウンド・シーンとして生まれます。LSDや興奮作用を引き起こす覚せい剤などのドラッグが常用され、フリー・セックスが楽しまれているゲイ・クラブの中で、フランキー・ナックルズやラリー・レヴァンといったDJがその技術を磨いていきました。

その頃にニューヨークにあったクラブは、ゲイやアウトサイダーの人たちにとって“教会"のような役割を果たしていました。冒頭でも述べたように、その中心的人物だったのが、ディスコ・シーンの父とも呼ばれるディスク・ジョッキーのデヴィット・マンキューソです。彼は「ロフト」という伝説的なパーティーを自宅で開催し、音楽のセレクションによって場の空気を操る今でいう“DJ"の草分け的存在でした。マンキューソ自身は、曲を区切りがないように“ミックス"するのではなく、一曲一曲がはっきりわかるようなプレイ・スタイルでDJをしていました。

曲と曲をブランクなくミックスするテクニックでクラバーを魅了したのがラリー・レヴァンでした。彼はナイトクラブ「パラダイス・ガラージ」のレジデントとしてカルト的な人気を集めるようになります。信者たちはレヴァンのプレイを“土曜日のミサ"と呼んだり、パラダイス・ガラージのことを“俺たちの教会"と称していました。レヴァンは音楽を通して、ダンスフロアにいる人たちにスピリチュアルな体験をさせる、いわば“シャーマン"のような存在でした。サウンドシステム(ラリー・レヴァンは「レヴァン・ホーン」と呼ばれる特別なサブウーファーを開発したことでも知られます)に非常にこだわっていたことでも知られるレヴァンは、自らデザインしたベイス・スピーカーなどを導入したりパラダイス・ガラージの音響機材をどんどんレヴェル・アップさせ、ハウス・ミュージックを耳で“聴く音楽"から“体で感じる音楽"へと進化させました。これがいわゆる“ガラージ・ハウス"です。

デトロイト・テクノがエレクトロニック・ミュージックの中でもっとも機械的であったのに対して、R&Bやソウルなどのブラック・ミュージックのルーツを強調したガラージ・ハウスはもっとも“ディープ"で“暖かい"サウンドで知られるようになりました。ニューヨークのクラブ・シーンのDJにとってサンプラーやドラム・マシーンは、それ自体で実験したりすることが目的ではなく、あくまでディスコやそれ以前のオーケストラ的なサウンドを低価格で再現するためのツールとして用いられていました。デトロイト・テクノとガラージ・ハウスの中間くらいにあったのがシカゴ・ハウスです。

80年代のニューヨークのガラージ・ハウス・シーンを支えていたDJの中で、特筆すべきなのが、ヒスパニック系のジュニア・ヴァスケズとデヴィッド・モラレス、イタリア系のダニー・テナグリアです。3人とも80年代前半からパラダイス・ガラージのラリー・レヴァンのプレイに魅了され、それを原型にしたパーティを理想形としてDJプレイを追求していきました。

ジュニア・ヴァスケズは他の誰も使用しないような曲を掘り出してサンプリングしたり、画期的なリミックスの技術で瞬く間にニューヨークのDJシーンのトップに立つようになりました。89年にはマンハッタン区で「サウンド・ファクトリー」というクラブの立ち上げに参加し、そこに出入りしていたレギュラーVIPの中にはマドンナがいました。マドンナは後にヴァスケズに自分の楽曲のリミックスをいくつもお願いし、ヴァスケズはリミクサーとしても名を上げるようになりました。

デヴィッド・モラレスも卓越したリミックスの技術で知られ、80年代後半から90年代にかけてシール、マライア・キャリー、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、エリック・クラプトン、U2、ウィットニー・ヒューストン、ビョークなど名だたるポップ・アーティストたちの曲をリミックスしたりプロデュースして、注目を集めました。98年にモラレスはグラミー賞「最優秀リミクサー賞」を受賞しました。モラレスは一時期、フランキー・ナックルズと組んで「Def Mix Productions」というプロダクション・チームを組んでいました。

ダニー・テナグリアは多くのDJが混み合っていたニューヨークのクラブ・シーンで埋もれてしまうことを恐れ、85年ごろにフロリダ州に引っ越してマイアミのクラブのレジデントとなりました。そこでガレージ・ハウスやシカゴ・ハウスに加え、クラフトワークなどのシンセ・ポップやサンバなどのラテン音楽など幅広い要素を融合させ、ガラージ・ハウスに比べてよりハードなサウンドが特徴の“トライバル・ハウス"というサブジャンルを確立していきました。その後、ニューヨークに戻り、サウンド・ファクトリーの跡地にオープンされた「トワイロ」というクラブでレジデントDJを務め、ヴァスケズと並んでニューヨークのトップDJとして知られるようになりました。

ニューヨークのクラブ・シーンでもう1人特筆すべきDJが、富家哲です。80年代にアメリカのハウス・ミュージックが日本に輸入されるようになると富家はDJをしながらオリジナルのトラックを作るようになりました。早稲田大学在学中に作成したデモテープがフランキー・ナックルズに認められ、「Def Mix Productions」の一員としてシングル・デビューを果たします。その後もデヴィッド・モラレスと共にマライア・キャリーやU2などのリミックスを手がけ、世界的なDJとしての活躍するようになりました。


5.エピローグ

今回取り上げた3都市のシーンに共通しているのは、それぞれのシーンを牽引するようなスーパースターDJが複数人存在していたことでしょう。

ハウス・ミュージックが発達する以前の“DJ"は、文字通り選曲をメインとする“ディスク・ジョッキー"であり、つまりレイディオ局やパーティにおいてオーディエンスのリクエストに応じて、レコードかけるということが仕事でした。ロック・コンサートにおいてはステージ上のミュージシャンたちにスポットライトが当てられ、人気の高かったシンガーやギタリストは、“ロックスター"としてオーディエンスに拝まれる存在でした。一方でディスコ・ミュージックがかけられていたナイトクラブでは、ダンスフロアの方にいるお客がイヴェントの中心で、そこで踊る1人1人が“主人公"となっていました。クラブ・パーティにおいてのDJは匿名的な存在で、要求に応じてレコードをかけるだけが役割でした。

ところが、ハウス・ミュージックというアンダーグラウンドのシーンが成長する中ではナイトクラブやパーティは“教会"へと変化し、曲をつなげたりリミックスしたりする技術によってオーディエンスを踊らせるDJはある種の“神"として拝められるようになりました。彼らは人気のあるレコードをかけるだけでなく、自らの感覚によって状況に合わせてレコードをセレクションし、曲の中の必要な部分を自由に組み合わせ、ダンスフロアの空気を実際に創り出していきました。こうした意味で、彼らは正真正銘の“クリエイター"(神)だったのかもしれません。(近年はコンテンツ制作やデザインなどの仕事をやる人を「クリエイター」と呼ぶようになりましたが、もともと「クリエイター」とは「神」のことです。)今回のコラムで取り上げたDJたちは全員、ダンス・ミュージックの“神"の領域へ達したスーパースターDJ達です。英語では教会のことを“ハウス・オヴ・ゴッド"とも呼びますが、ハウス・ミュージックの“ハウス"の語源は、実はシカゴの“ウェアハウス"ではなく、“教会"だったのかもしれません。

次回はシカゴ・ハウス、デトロイト・テクノ、ニューヨークのガラージ・ハウスの影響により、80年代末から90年代にかけて英国で発達した“レイヴ・シーン"について取り上げます。


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