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イビザ島のバレアリック・サウンドと英国発の“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"
  - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (3)
  - ダニー・ランプリング/ポール・オーケンフォールド/カール・コックス | MUSIC & PARTIES #028
2022/02/14 #028

イビザ島のバレアリック・サウンドと英国発の“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"
- エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (3)
- ダニー・ランプリング/ポール・オーケンフォールド/カール・コックス

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


1.プロローグ

80年代後半の英国・ロンドンのナイトクラブでは、一部のゲイ・ディスコを除いて、主にレア・グルーヴとヒップホップといったブラック・ミュージックがかけられていました。労働者階級の若者たちはお酒を飲んだりマリファナを吸ったりして楽しんでいたものの、クラブ・シーン全体としては音楽の側面では“保守的"になっておりました。その結果、シカゴやニューヨークから輸入されていたハウス・ミュージックはまだ人気を得ていませんでした。

1987年の夏、英国出身の3人のDJ、ダニー・ランプリング、ポール・オーケンフォールドとニッキー・ホロウェイは、スペインのイビザ島でバカンスを過ごすことにしました。「アムネシア」というクラブが熱いという噂を聞きつけた3人は、早速そのクラブに向かい、初めて“エクスタシー"の錠剤を飲み、レジデントDJのアルフレェドのプレイに酔いしれました。最新のシカゴ・ハウスはもちろんのこと、ランプリングらが“ダサい"と思っていたケイト・ブッシュやジョージ・マイケルなどの英国の白人ミュージシャンの曲までをかけていたアルフレェドの自由自在のDJスタイルに彼らは衝撃を覚えたのです。

3人は英国に戻ると、それぞれが自らパーティをオーガナイズし、英国の “アシッド・ハウス"のシーンを確立していきました。その後、88年と89年の夏には“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"と呼ばれる現象を起こし、それは90年代のレイヴ・シーンへと成長していきます。

今回のコラムでは80年代末の英国発の“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"と90年代のレイヴ・カルチャーについて取り上げます。


2.イビザ島とバレアリック・サウンド

イビザ島が本格的に観光地化し始めたのは、1950年代のことです。当初は楽園のようなビーチや手付かずの自然があるという噂を聞きつけて、ヨーロッパ各地から少しずつ観光客が訪れるようになりました。また、スペイン本土からは、フランコ体制から逃れるためにやってくる人も多かったようです。

60年代に入ると、ヒッピー・カルチャーはサン・フランシスコから世界中に拡散され、多くにヒッピーたちは、のどかな暮らしと安い家賃を求めてイビザ島に移住しました。60年代終盤にヴェトナム戦争が泥沼化し、アンチ・ヒッピー運動が広まる中、アメリカとヨーロッパの幻滅した大勢のヒッピーたちがイビザ島というユートピアを求めてやってくるようになりました。理想主義者や夢想家、画家や写真家などのアーティストが多く、彼らはビーチで夢を語り合ったり、音楽やドラッグを楽しんだり、フリー・マーケットで洋服やアクセや工芸品を販売するようになります。この頃のイビザ島のナイトライフといえばバーが主体で、現地の人々、地中海を船旅する人、観光客などの溜まり場となっていきました。やがてローリング・ストーンズやビー・ジーズなどの著名ミュージシャンも訪れるようになりました。英国のプログレッシヴ・ロック・バンドのピンク・フロイドは、『イビザ・バー』という曲さえ作りました。

70年代半にはアメリカのディスコ・ミュージックが世界中に拡散され、それはイビザ島にも根付きました。この頃からイビザ島に大型ディスコ(いわゆる“スーパークラブ")が次々と開設されていきます。チェリーのロゴで有名な「パシャ」(3,000人収容)、世界一大きいと言われる「プリヴィレッジ」(95年までは「クー」、1万人収容)、“泡パーティ"で知られる「アムネシア」(5,000人収容)、“ウォーター・パーティ"で知られる「エス・パラディス」(3,000人収容)は現在も営業を続けており、クラブ・カルチャーの聖地とされています。(2020年のコロナ・ショックにより、今後の動向が注目されます。)

80年代に入ると各ナイトクラブはサブウーファー(100Hz以下の超低音域のみを再生するスピーカーのこと)を伴う本格的なサウンドシステムを導入し、音を耳で“聴かせる"のではなく体で“感じさせる"ことに拘り始めました。イビザ島のDJたちはディスコ、ポップ、ソウル、ジャズ、ファンク、ラテン系、フラメンコ、映画音楽、初期のヒップホップや初期のハウス・ミュージックを自由にミックスし、その独自のプレイスタイルは「バレアリック」と呼ばれるようになりました。このスタイルの生みの親の1人とされるのが、前述の英国のDJが1987年の夏で観たアムネシアのDJアルフレェドです。アルフレェドは90年代以降もパシャやプリヴィレッジなど、イビザ島の主要クラブでレジデントを務め、バレアリック・スタイルのレジェンドとして活動を続けています。91年には来日し、芝浦の「ゴールド」でもプレイしました。

“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"(詳細は後述)で人気を得た英国のDJたちが、サマーシーズンにはイビザ島でプレイすることが多くなったこともあり、90年代以降は毎年の夏、大勢の若者たちがイビザ島に詰め寄るようになりました。朝まで続くアフターアワーズのパーティも盛んになり、イビザ島のスーパークラブは世界中のパーティ・ピープルの間で“聖地"になりました。イビザ島のクラブのステージに立ちレギュラー・パーティを持つことは、世界中のDJたちにとってステータスとなりました。

現在では観光業がイビザ島のGDPの大半を占めるようになりましたが、2010年代以降、オーヴァーツーリズムの問題が徐々に目立つようになっていきます。現地の人々は「無許可のパーティが多すぎる」「景色が損なわれている」「イビザ島の評判が悪くなっている」と声を上げ、イビザ島を“取り戻す"運動をはじめました。2010年代半ばごろから警察は無許可のフリー・ビーチ・パーティなどを取り締まるようになり、クラブの営業は朝の6時までと制限され、「観光税」や「環境税」も導入されるようになりました。2018年には一部の地域でクラブやバーの営業を夜中の3時まで、屋外のテラスは0時までという制限を課しました。

そんな中、近年イビザ島を訪れる客層は、ヨーロッパのパーティ好きのあまりお金のない若者から、徐々にお金持ちやセレブにシフトしてきました。それを象徴するのが、ヒルトンホテルの創設者コンラッド・ヒルトンの曽孫娘パリス・ヒルトンが2014年から5年間にわたって、アムネシアの泡パーティのレジデントDJを務めたことです。

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3.セカンド・サマー・オヴ・ラヴの発生

DJアルフレェドのバレアリック・サウンドとイビザ島のナイトクラブの自由なスタンスに魅了されたダニー・ランプリング、ポール・オーケンフォールド、ニッキー・ホロウェイは、夢うつつの状態で英国に戻り、イビザ島での体験を再現しようと試行錯誤するうちに、それぞれがクラブ・パーティを開催するようになっていきます。

ランプリングは、“エクスタシー"を飲んでしばらく立つと、いきなりハイがシューっときたことから「シューム」(という招待制のパーティを始めました。「シューム」のオープニング・ナイトと2日目のパーティにサウンドシステムを提供し、DJプレイもしたのが、後に英国のハウスとテクノのレジェンドとなったカール・コックスでした。

ポール・オーケンフォールドは月曜日の夜に「スペクトラム」というアシッド・ハウスのパーティを、金曜日の夜に「フューチャー」というインディ・ロックとダンスのパーティをロンドンでスタートしました。こういった流れから、オーケンフォールドは後に英国のロック・バンドのリミックスも手がけるようになります。

一方でホロウェイは「トリップ」というアシッド・ハウスのパーティをスタートし、90年には「ミルク・バー」というクラブを開業しました。92年には「ミルク・バー」名義でクラブをイビザ島でも開き、世界中のDJがイビザ島で独自のクラブ・ナイトを開催する先駆けとなりました。

この3人の中でもポール・オーケンフォールドは、ロック・スター並みの人気を誇るようになりました。その大きな転換期となったのが、1993年にロック・バンドのU2のワールド・ツアーに参加したことでした。オーケンフォールドはボノのカリスマ性を見ているうちにスポーツ・スタジアムのような大型会場でオーディエンスを熱狂させるDJのスキルと、スーパースターDJとしての“オーラ"を身につけました。また、舞台裏のスタッフの働きを観察し、大型音楽イヴェントのあるべき姿を勉強し、その経験は90年代のレイヴ・シーンの成功に大きく貢献することとなります。

上記の3人の活動とは別に、ロンドンの北に位置するマンチェスターでは「ハシエンダ」というナイトクラブを中心に一足先に86年ごろからハウス・ミュージックやデトロイト・テクノがかかるようになっていました。87年にはアシッド・ハウスもかかるようになり、アムステルダムから渡ってきた“エクスタシー"の錠剤も使用されるようになっていました。このシーンで活躍していたのが、マイク・ピッカーリング、グレアム・パーク、ジョン・ダシルヴァといったDJでした。

アシッド・ハウスの“アシッド"はそもそもLSDなどの幻覚剤のことではなく、ローランド社の「TB-303」というベイス・シンセのこの世のものでないような音がサイケデリック・ロックを彷彿させるからだと言われています。とはいえ、ロンドンやマンチェスターにおいてアシッド・ハウス・ミュージックが受け入れられ、その周りにコミュニティーが形成される起爆剤となった理由は、間違いなく“エクスタシー"でした。それまでアンチ・ハウスであった人たちも、フットボールのフーリガンたちも、“エクスタシー"によってハッピーになりました。ダンスフロアではゲイを嫌う不良でさえ抱擁し合うようにさえなっていました。

クラブでの盛り上がりは、野外にも広まり、サウンドシステムを公園やビーチに持ち出し、“フリー・パーティー"(レイヴ)が開かれるようになります。このアンダーグラウンド・ムーヴメントは88年と89年の夏に頂点に達しました。若者が主体となっていたこと、ドラッグの使用が人々に多幸感を与え、意識を解放させていったこと、音楽が中心的な役割を果たしていたことなど、60年代末のサン・フランシスコ発の“サマー・オヴ・ラヴ"を彷彿とさせるということから、“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"と呼ばれました。また、このシーンから発展したカウンターカルチャー/サブカルチャーは“レイヴ・カルチャー"と呼ばれるようになりました。

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4.“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"から生まれたアンダーグラウンドのレイヴ・シーン

“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"の頃の英国の法律下では、深夜のクラブの営業は難しいとされました。しかし社会の規制が「やってはいけない」とすればするほど、ナイトクラブを出入りしていた若者たちは余計飽き足らずに踊り場を探しまわっていました。その結果、シーンは徐々に都心のナイトクラブからロンドン周辺の公園や空き地、海岸などへと移り、“フリー・パーティー"(つまり、違法レイヴ)が開催されるようになっていきました。

当時の英国経済は不況に陥っていて、繊維工業などは停滞し、多くの工場やウェアハウスが閉鎖されていました。こういった会場や屋外の野原で無許可のパーティーが開催されていったのです。このシーンが大きくなるにつれ、英国のクラブやレイヴの会場には、体を揺さぶらすようなクラブ以上の出力のあるパワフルなサウンドシステム、照明やレイザー、霧マシンなどが持ち込まれるようになりました。国際的なDJも招聘されるようになりました。そこではエクスタシーやより安くて入手しやすかったLSDが多く使用され、汗だくになって踊り狂う若者たちの間で多幸感と不思議な一体感が共有されていました。このレイヴ・カルチャーは90年前後にヨーロッパ各地やアメリカそれに日本にも拡散されていきました。

当初ロンドンにおいて、夜明けになっても公の場で騒ぎ続ける若者たちを目にした警察は、どうしていいかわからなかったそうです。エクスタシーの存在がまだ一般的には認識されていなかったからです。しかし徐々に英国の政治家やマス・メディアがこういったレイヴを問題視するようになりました。タブロイド紙の「ザ・サン」は1988年秋に、黄色のスマイリー・フェイスのデザインが施されたTシャツのプロモーションを行い、アシッド・ハウスを“クールでグルーヴィー"だと評価し、彼らを支持していました。しかし、そのわずか数瞬間後には、『エクスタシーの害悪』という見出しのついた記事を掲載し、急速に態度を変えました。

社会のモラルの崩壊を憂う保守層の親たちの声を受けて、90年前後から英国のレイディオやテレヴィ局では、アシッド・ハウスの放送禁止し、警察は違法レイヴを取り締まるようになりました。1990年7月に開催された「ラヴ・デケイド」というレイヴでは、836人のレイヴァーが逮捕されました。1992年には、数年前から開催されていた「アヴォン・フリー・フェスティヴァル」の開催を警察が中止しようと動き出すと、現地に向かっていたレイヴァーたちは近くのキャスルモートンという町に詰め寄りました。彼らはそこで1週間にも及ぶ「キャスルモートン・コモン・フェスティヴァル」というフリー・レイヴを開催し、最終的には3~4万人を動員しました。

こういった取り締まりの背景には、“エクスタシー"による死者が徐々に出始めていたこともありました。1989年7月には、前述の「ハシエンダ」で16歳の女性がエクスタシーの錠剤を飲んだ後に倒れてしまい、英国で初めてのエクスター関連の死者が出ました。その後も死者が出る度に英国の政治家やマス・メディアはより一層強力にレイヴを取り締まるようになっていきました。

最終的に、1994年に「クリミナル・ジャスティス法」という法律が議会に提案され、その中で「反復するビートの連続が主体となった音楽」とレイヴを定義し、その規制を定めようとしました。この法案に対して、約10万人の大規模な反対デモも実施され、英国のミュージシャンたちはこの法律を強く批判しました。しかし、その後、結局この法律は成立します。

英国の“ビッグ・ビート"というジャンルの人気バンドであったザ・プロディジーは、『Their Law』(奴らの法律)という曲を発表し、抗議の意を示しました。ダンスフロア向けではない“インテリジェント・ダンス・ミュージック"で知られていたオウテカは「アンチ」というEPをリリースし、「警察に文句を言われる場合に備えて、この音楽をかける場合、弁護士と音楽学の研究家にそこにてもらうように。そしてこのEPの音楽は“反復的でない"ことを確認してもらうように。」という、DJに向けた“警告"を添付しました。

この法律を受けて、違法レイヴの数は減っていきました。しかし、それに代わって、94年以降は警察の認可を得てより巨大な野外の会場で有名なDJやエレクトロニック・ダンス・ミュージックのバンドを集めて行われる、合法的なレイヴが多く開催されるようになりました。皮肉なことに、この法律はダンス・ミュージックをアンダーグラウンドなサブカルチャーであったものをオーヴァーグラウンドなメイン・カルチャーへと成長させたのです。一方で、より音楽志向の強いDJやクラバーたちは英国のナイトクラブを中心に合法的なパーティで、よりディープなアンダーグラウンド・シーンを作っていくこととなりました。


5.エピローグ

階級社会が根強く存在し、保守的な考え方を持つ人々が多い英国社会において、なぜ“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ"が起きたのでしょうか。

その最大の理由は、アシッド・ハウスなどのエレクトロニック・ダンス・ミュージック以上に、レイヴという空間と、エクスタシーというドラッグが人々に与えた“開放感"だったのではないでしょうか。

英国では70年代~80年代から中東などからの移民が増え、英国社会において人種や宗教、生活スタイルが異なる人々の間で軋轢が生まれていました。そんな中、レイヴの会場というのは、誰もが一体となり、どんな強面な不良でもお互いに抱きつくような現実離れした異空間でした。「9時から5時まで」という定時に切り上げるような“堅気"の仕事につけなかったり、アウトサイダー扱いされていた人々にとって、レイヴという場は正に“楽園"だったのです。当時のサッチャー首相の保守的な政権に対するカウンターカルチャーとしての側面をレイヴ・カルチャーは持っていたのです。

また、英国人は一般的に感情を表に出さず、ストイックな国民として知られますが、エクスタシーの影響下ではどんなに強い自制心でも歯が立ちません。それを象徴するのが、アシッド・ハウスやレイヴ・シーンのシンボルであったスマイリー・フェイスではないでしょうか。(ファットボーイ・スリムのアイコンはその代表です。)レイヴは暗い雲がかかるグレイなイメージのあるロンドン近郊にタイダイのTシャツのようなカラフルな世界観をもたらしました。パーティーが終わっても道端で踊り続けるレイヴァーたちの姿は、多くの保守的な英国人にとっては異常な事態に見えたことでしょう。

エレクトロニック・ダンス・ミュージックのDJやプロデューサーになるためには、高学歴や大学の学位を取っている必要がないこともこのブームを支えた要因です。センスとやる気とレコード・バッグさえあれば、労働者階級の出身者でも人気DJになることができました。その中で選ばれし者は、多くの信者を生み出し、“神"のように拝められるスーパースターDJとなっていきました。もちろん、収入も“神"クラスのDJも現れます。60年代~70年代においてロック・ミュージックがそうであったように、80年代~90年代においてダンス・ミュージックは労働者階級の若者にとって、スポーツ以外で階級を超越する数少ない方法の1つだったのではないでしょうか。

次回は、94年以降の英国のレイヴ・シーンやクラブ・シーンで名を挙げたDJやバンドたちをより詳しく取り上げます。また、レイヴ・カルチャーがヨーロッパやアメリカや日本へと広まっていった様子も紹介したいと思います。


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イビザ島のバレアリック・サウンドと英国発の“セカンド・サマー・オヴ・ラヴ” - エレクトロニック・ダンス・ミュージック入門 (3)


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