1.プロローグ
80年代、90年代初期においてDJという存在は世間一般の間ではアンダーグラウンドなものでしかありませんでした。
ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズ、ベルヴュー・スリー(ホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソン)など、アメリカのハウス・シーンやテクノ・シーンを牽引するDJたちは、一部のゲイ・コミュニティやパーティ・ピープルの間では“神"のような存在ではあったものの、それはあくまでアンダーグラウンド・シーンにおいてでした。“ハウス・ミュージックの創始者"と呼ばれる人物でさえ、道端ですれ違ってもまず顔が認識されるようなことはありませんでした。
また、ハウスやテクノのトラックが収録されたレコードがそのアンダーグラウンド・シーン内のDJの間で普及することはあっても、そういったレコードがメインストリーム・レイディオでかかったり、ポップ・ミュージックの“シングル"や“アルバム"として大掛かりにプロモーションされたり、一般のリスナーの手に渡ることはほとんどありませんでした。DJにとって自分のレコード・ボックスに入っているレコードは“武器"でありましたが、一般の人々にとって“財産"とはいえませんでした。DJ同士の間でも、自分がかけているトラックの正体が知られないように、レコードのレイベルを隠すことさえありました。そして既存の人気曲を勝手にリミックスして作ったレコードはあくまでも違法な“ブートレッグ"であり、言うまでもなくそれを無許可に販売することはもちろん許されませんでした。
そもそもダンス・ミュージックやDJの魅力というものは、トラック単体にあるのではなく、トラックとトラックをブレンドしたり繋げることを繰り返す中で織り出す“トリップ"なのです。DJの“ミックス"が収録された“ブートレッグ"のカセット・テープがコアなファンの間で広がるようになった、90年代後半ごろから、DJの“ミックスCD"というものが正式にリリースされるようになります。しかし、それでもDJのオリジナル・アルバムというものは珍しい存在でした。2000年ごろにかけていわゆる“スーパースターDJ"の先駆けの1人となった英国のポール・オーケンフォールドでさえ、初めてのオリジナル・アルバムをリリースしたのは2002年でした。
世界においてDJの“顔"が知られるようになり、ポップやロック・ミュージシャンと匹敵するくらいの存在に初めてなったのが、ノーマン・クウェンティン・クックという英国の“オジサン"です。クックが「ファットボーイ・スリム」という名義でデビューした90年代半ばの時点では、既に英国の音楽シーンにおいてはヴェテラン的な存在でした。
エレクトロニック・ダンス・ミュージックのオリジナル・アルバムを世界的に大ヒットさせたのが、ファットボーイに加え、ケミカル・ブラザーズ、ザ・プロディジー、アンダーワールドといったユニットです。英国出身の彼らは、アメリカのヒップホップのサンプリング文化に刺激され、英国のポップやロック、アメリカのハウスやテクノ、英国のアシッド・ハウスなど幅広い音楽の要素をブレンドし、 ヒップホップに由来した“太い"ブレイクビートと組み合わせることで、“ビッグ・ビート"というジャンルを確立させました。ビッグ・ビートはディスコ以来、初めて欧米のメインストリーム(いわゆる“売れ線")でブレイクしたダンス・ミュージックとなりました。
今回から2回に分けて、英国発のこの4組を中心に“ビッグ・ビート"というジャンルを取り上げます。
2.ファットボーイ・スリムとビッグ・ビートの誕生
ノーマン・クウェンティン・クックは1963年にロンドン南東部にあるブロムリー・ロンドン特別区で生まれました。幼い頃から音楽になれ親しみ、ティーネイジャーの頃からパンクやニュー・ウェーヴのバンドでドラム、ベイス、ヴォーカルなどを担当しました。一方で、DJも趣味としてやるようになりました。海浜リゾート地であるブライトンの大学に通うかたわら、近所の様々なクラブでDJの腕を磨くと同時に、幅広い音楽スタイルに触れるようになりました。この間に後にテクノの大物DJとなったカール・コックスと出会い、DJテクニックを教えてもらうと同時に、ダンスフロアにいるクラバーたち以上にノリノリなコックスのペルソナを見て“エンターテイナー"としてのDJのあるべき姿について考えるようになりました。
1985年にはインディ・ポップのバンド「ハウスマーティンズ」のベイス担当として加わり、2枚のオリジナル・アルバムが英国音楽チャートのトップ10入りを果たしたものの、このバンドは88年には解散しました。その後はソロの音楽活動を続けるかたわら、ストゥディオ・ミュージシャンを集めて「ビーツ・インターナショナル」というグループを結成し、『ダブ・ビィ・グッド・トゥ・ミー』というシングルで英国シングル・チャート1位を記録しました。この曲はアメリカのジャム&ルイスがプロデューサーを務めたS.O.S.バンドの『ジャスト・ビィ・グッド・トゥ・ミー』の歌詞をほとんどそのまま引用し、英国のパンク・ロック・バンド、ザ・クラッシュの『ブリクストンの銃』のベイスラインもそのまま“サンプリング"していたため、法的な争いへと繋がり、最終的に負けたクックは印税の2倍を返済することとなりました。
クックはその後も、あまりのも多作ぶりのため、複数の名義を利用しながら音楽のリリースを続けていきます。転換期となったのは、1995年にはブライトンでオープンした「ビッグ・ビート・ブティック」というクラブのレジデントになったことでした。レギュラーDJを務めることで、実験的なプレイを続けながら自分のスタイルを確立することができたからです。そして96年にファットボーイ・スリムという名義を使用するようになりました。同年にクックはそれまで溜め込んでいたトラックを中心にオリジナル・アルバム『ベター・リヴィング・スルー・ケミストリー』を発表しました。ジャンルに囚われない折衷的なサウンドはこのクラブの名前に因んで“ビッグ・ビート"と呼ばれるようになりました。ファットボーイ・スリム曰くビッグ・ビートとは、「ヒップホップのブレイクビーツ、アシッド・ハウスのエネルギー、ビートルズのポップっぽさ、そしてパンク・ロックのアティテュードを少し、融合させたもの」だそうです。
ファットボーイ・スリムは98年にセカンド・アルバム『ロングウェイ・ベイビー!!』で国際的にブレイクしました。シングル曲『ロッカフェラー・スカンク』『ギャングスター・トリッピング』『プレイズ・ユー』『Right Here Right Now』は全て英国でトップ10入りを果たし、アメリカでも90年代を代表するパーティー・チューンとして広く知られるようになりました。
こういったアルバムはビッグ・ビートというジャンルを世界的なサウンドへと成長させますが。一方で、ファットボーイ・スリムといえば、何よりDJとしての功績も大きい人物です。当時、DJの活躍の場といえば、クラブ・パーティーやレイヴがメインでしたが、ファットボーイ・スリムは90年代後半に急速に人気を集める中で、ポップやロックの音楽フェスのメインステージでDJプレイをするようになりました。当初はまだDJの演奏にVJなどのヴィジュアルが伴うことは珍しく、ロック・バンド用の広いステージの真ん中に、ターンテイブル2台とミクサーのみが置かれた小さなテーブルがポツンと置かれただけという、なんといっても心細いセッティングだったそうです。レコードを“回す"だけではロック・バンドの迫力にかなわないと察知したファットボーイは、手をノリノリに振りながら踊るようになり、少しずつ“ライヴ・ショーとしてのDJプレイ"の形を探っていきました。かつてのバンドマンとしての経験や、カール・コックスから受けた影響が大きく役立ったそうです。
2001年7月、英国のテレヴィ局「チャンネル4」がクリケットの試合の放送権を得ると、英国中の屋外の巨大スクリーンで放送することを決めました。その会場の1つが、ファットボーイの DJとしての拠点であった ブライトンのビーチにありました。ある金曜日にクリケットの試合の放送がなかったことを機に、ファットボーイが会場のスクリーンとサウンドシステムを借りてフリー・ビーチ・パーティーを開催することとなりました。最終的に65,000人ほどが集まり、このイヴェントは大成功に終わりました。後にこの時のプレイを収録したライヴ・アルバム『ライヴ・オン・ブライトン・ビーチ』もリリースされました。
翌年の7月にも『ビッグ・ビーチ・ブティックII』が開催されますが、想定していた人数を大幅に上回る観客が詰めかけました。中止を検討するものの、その時点で開催しないとなるとそれこそ暴動が起きるかもしれないということから、やむなく実行することにしました。最終的にブライトンの人口の2倍である250,000人がこのパーティーに訪れました。このイヴェントでは死者が1人出て、大きなメディア騒ぎとなりました。(後にパーティー中ではなく、パーティー数時間後に遊歩道から落下して頭をぶつけたことが死因だと判明しますが、この事件はその後のファットボーイの活動に大きな影響を与えました。)
この『ビッグ・ビーチ・ブティックII』のコンサートDVDは、ブラジルで爆発的に売れ、ブラジル人がパーティーに出かける前に必ず観る“ウォーム・アップ"の定番となります。これを機にリオでビーチ・パーティーを開いて欲しいという依頼を受け、最終的に360,000人が訪れ、テレヴィでも全国放送されるという一大イヴェントとなりました。以後ファットボーイは母国の英国以上に、むしろブラジルで国民的存在として高い人気を誇るようになりました。
2009年から2013年まで、日本でもファットボーイ・スリム公認のオフィシャル・パーティーとして「ビッグ・ビーチ・フェスティバル」が横浜・八景島シーパラダイス(2009年)と千葉市幕張海浜公園の特設会場(2010年以降)で開催されました。2009年、2011年、2013年にはファットボーイ自身がヘッドライナーを務め、最後となった2013年には2万5千人の来場者を集めました。同フェスに2010年と2012年にヘッドライナーを務めたのが、ケミカル・ブラザーズです。ケミカル・ブラザーズとファットボーイ・スリムは90年代前半に「ヘヴェンリー・ソーシャル」という伝説的なクラブ・パーティーでもプレイし、ビッグ・ビート・サウンドの土台を共に築き上げました。
●オススメのファットボーイ・スリムの作品
3.“ケミカル・ビーツ"という独自のサウンドを追求するケミカル・ブラザーズ
エド・サイモンズとトム・ローランズはロンドン近郊で生まれ、同級生として知り合いました。お互い若い頃から英国のニュー・ウェーヴのバンドの音楽を聴く一方で、レア・グルーヴやヒップホップに衝撃を受け、意気投合しました。サイモンズはマンチェスター大学への進学を決めると、ローランズもマンチェスターの音楽シーンに浸るために、マンチェスターに移住しました。当時のマンチェスターのミュージック・シーンの中心にあったのが、MUSIC & PARTIES #027でも取り上げたように、80年代後半のセカンド・サマー・オヴ・ラヴの1つの震源地ともなったナイトクラブ/ライヴ・ハウス「ハシエンダ」でした。2人はそこでアシッド・ハウスの“洗礼"を受けることとなります。
2人は1992年に近所のパブでDJとしての活動を始めました。アメリカのヒップ・ホップ・グループのビースティ・ボーイズの曲を手がけたことで人気を得ていたアメリカのプロダクション・デュオの名前をそのまま借りて「ダスト・ブラザーズ」と名乗り、主にヒップホップ、ハウス、テクノをかけていました。その後、自分たちのテイストにあったヒップホップのインストゥルメンタルが足りなくなり、独自でトラックを制作するようになりました。それがロンドンを拠点としていたアシッド・ハウスの草分け的DJアンドリュー・ウェザオールの目に止まり、ウェザーオールのレイベルと契約を結びました。
93年には2人のビッグ・ビート・サウンドを決定づけた『ケミカル・ビーツ』というトラックを発表し、そのかたわらでリミックスを手がけるようになりました。94年にはロンドンのパブのレジデントDJとなり、オアシスのギタリストのノエル・ギャラガーなど、当時の英国のロック・シーンで活動するミュージシャンと知り合います。95年には初めて国境を越えてアメリカのイヴェントやヨーロッパの音楽フェスでプレイすることとなりますが、アメリカの「ダスト・ブラザーズ」がそのアーティスト名に関して異議を唱え、2人は『ケミカル・ビーツ』に因んで「ケミカル・ブラザーズ」と改名しました。
心機一転、95年の7月にデビュー・アルバム『Exit Planet Dust』をリリースし、英国アルバム・チャートで9位を獲得するヒットとなりました。この直後に英国のヴァージン・レコードと契約を結び、英国の「ターンミルズ」というナイトクラブでレジデントDJを務めるようになり、様々なロック/ポップ・フェスでプレイするようになりました。また、日本でも東京の新宿歌舞伎町の「リキッドルーム」でも定期的にパーティーを開催しています。この頃に、ノエル・ギャラガーから声がかかり、ケミカル・ブラザーズ初のナンバー・ワン・ヒットとなった『Setting Sun』を発表しました。
ケミカル・ブラザーズは97年にセカンド・アルバム『Dig Your Own Hole』をリリースし、世界的にブレイクします。シングルの『Block Rockin’ Beats』は英国の音楽チャートで1位を記録し、アメリカでも後にグラミー賞「最優秀ロック・インストゥルメンタル賞」を受賞するヒットとなりました。このアルバムのヒットをうけて、97年の夏にはアメリカと英国を中心にワールド・ツアーを行い、売り切れのショーが続出するほどの人気を集めるようになりました。ケミカル・ブラザーズもファットボーイ・スリムと並んで、ロック/ポップ・ミュージック・フェスのメインステージでプレイをするような存在となったのです。
90年代終盤になると、ビッグ・ビートはメインストリームに浸透し、映画やCMに起用されるような音楽となっていました。一方で、形骸化するビッグ・ビートにパイオニアたちは飽き始め、“分かりやすいパーティー・サウンド"から“ダンス・ミュージック"へ少しずつ軌道修正を図るようになりました。ケミカル・ブラザーズの99年のサード・アルバム『サレンダー』では、ヒップホップっぽいブレイクビーツではなくハウスっぽい四つ打ちを用いている収録曲が多くなっています。このトランジションを最も象徴するのが収録曲『Hey Boy Hey Girl』でしょう。ヒップホップの曲をサンプリングした歌詞 “Hey girls. B-boys. Superstar DJs, here we go!"はエレクトロニック・ダンス・ミュージックのルーツに敬意を払うと同時に、2010年代以降の“EDM"を予言しているともいえる作品です。
ケミカル・ブラザーズはその後、多くのコラボレイションやリミックスを通してヒップホップやワールド・ミュージックなど幅広い影響を取り入れた音楽性を追求していきますが、同時にリスナーをダンスさせることを再意識するようになります。4枚目のアルバムの『カム・ウィズ・アス』に収録されている『イット・ビガン・イン・アフリカ』ではトライバル・ビーツやトランスの要素を取り入れ、『スター・ギター』はバレアリック・ビーツを使用しています。5枚目のアルバム『プッシュ・ザ・バトン』の1曲目『ギャルヴァナイズ』では、ヒップホップと中東風のストリングズを組み合わせています。
●オススメのケミカル・ブラザーズの作品
4.画期的なミュージック・ヴィデオを創り出したスパイク・ジョーンズとミッシェル・ゴンドリー
ファットボーイ・スリムやケミカル・ブラザーズの人気を大きく後押ししたのが、シングルに伴うミュージック・ヴィデオが繰り返しMTVなどで放送されたことでしょう。
ファットボーイの『ギャングスター・トリッピング』のヴィデオは、映画監督のフランシス・フォード・コッポラの息子のロマン・コッポラが制作したものです。
一方、『プレイズ・ユー』のヴィデオでは、スパイク・ジョーンズ率いる架空のダンス・グループが敢えてイケていない“ダンス"をゲリラで演奏した様子を映しています。このヴィデオは99年のMTVヴィデォ・ミュージック・アウォードで「画期的ビデオ賞」「最優秀振付賞」「最優秀ビデオディレクション賞」を受賞しました。
ジョーンズは、他にもファットボーイのサード・アルバム『Halfway Between the Gutter and the Stars』(2000年)の収録曲『Weapon of Choice』のヴィデオの監督も務め、複数のMTVアウォードのみならず、2002年のグラミー賞で「最優秀ミュージック・ヴィデオ賞」を受賞しました。このトラックはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『イントゥ・マイ・オウン・シング』という曲をサンプリングしています。ヴォーカルはファンクのベイシストのブーツィー・コリンズが担当しています。
ジョーンズはケミカル・ブラザーズの『エレクトロバンク』という曲のミュージック・ヴィデオも制作しています。本作の中では後にジョーンズと一時期結婚をすることとなったソフィア・コッポラが体操競技の選手を演じています。
ケミカル・ブラザーズの名作ミュージック・ヴィデオを手がけてきたのが、ミシェル・ゴンドリーです。ゴンドリーは90年代前半にはビョーク、90年半ばにはダフト・パンクの画期的なミュージック・ヴィデオを多く手掛けて注目を浴びるようになっていました。1999年にはケミカル・ブラザーズの『Let Forever Be』のミュージック・ヴィデオを制作しました。
2002年にはバレアリック・ビーツの『Star Guitar』のミュージック・ヴィデオを制作しました。音楽と風景が完全にシンクロしたことが話題を呼びました。
2015年にゴンドリーが手掛けた『Go』のミュージック・ヴィデオの中の汽車の車輪を彷彿させるシンクロした動きを無表情でするダンサーたちはとてもユーモラスに見えます。トラック自体は、名曲『Galvanize』の二番煎じのような作品です。
2019年にはディスコを意識したグルーヴ感満載の『Got To Keep On』のミュージック・ヴィデオは、タレントのベッキーの妹のジェシカ・レイボーンがダンサーとして登場していることで、日本でも注目を浴びました。このトラックは2020年にグラミー賞「最優秀ダンス・レコーディング賞」を受賞しました。
5.エピローグ
ノーマン・クックという、ロンドン郊外で生まれたパンク少年だった“オジサン"が“スーパースターDJ"の草分け的な存在となったことは、とても大きな意味を持ちます。
ポップやロック・ミュージシャンというものは、“才能"はもちろんのこと、ルックスやスタイルが求められます。一方で当時DJというものは、クラブの片隅の陰に潜むような存在であり、見た目はどうでもいいような存在でした。そもそもDJとルックスを結びつける人は少なかったでしょう。ルックスは普通であったクックがファットボーイ・スリムとして脚光を浴び、ポップスターあるいはロックスターのような注目を集めるようになったのです。凄いことに、ポップやロックのミュージシャンはバンドの多くの人数や楽器の生演奏で観客を熱狂させていたのに対して、ファットボーイはたった1人で、ターンテイブル2台(あるいは3台)とミクサーでレコードをかけるだけで何万人にものぼる、クラバーやレイヴァーでない人でさえを気の狂ったように踊らせることができることを示しました。
これはロンドン生まれのアングロサクソン2人からなるケミカル・ブラザーズにも言えることです。英国の白人がヒップホップに夢中になって独自の音楽スタイルを生み出し、それをアメリカに“逆輸出"して大規模フェスでヘッドライナーを務めるような存在とまでなったのです。まさに60年代のローリング・ストーンズら“ブリティッシュ・インヴェイジョン"のミュージシャンたちに匹敵する偉業といえるのではないでしょうか。ケミカル・ブラザーズはそれだけでなく、ダンス・ミュージックが嫌いなはずのロック・ミュージシャンにさえリミックスを依頼されるようになりました。一方でヒップホップ・アーティストたちともコラボレイションするという、“ブラック・ミュージック"と“ホワイト・ミュージック"の境界線を自由に行き来したのです。
残念なことに、こういったビッグ・ビートのパイオニアたちがビッグ・ビートというエレクトロニック・ダンス・ミュージックをメインストリームにブレイクさせたことは、一時的なものでしかありませんでした。しかし、彼らの活躍は、2010年以降のEDMの世界的な流行のための“地ならし"だったと言えるのではないでしょうか。皮肉なことに、EDMの普及によって、“オジサン"DJたちは少し時代遅れの“恐竜"となりました。EDMのスーパースターDJは、ベッドルームに引きこもってノートパソコンで音楽制作をしてきたようなオタクの青年ばかりとなりました。