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松本零士が手掛けた大規模な“スペース・オペラ" 『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』
  – 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (4) | CINEMA & THEATRE #042
Photo: ©RendezVous
2023/05/01 #042

松本零士が手掛けた大規模な“スペース・オペラ" 『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』
– 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (4)

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SUNDAY
英語教師 / 写真家 / DJ

目次


1.プロローグ

前回は、『機動戦士ガンダム』の生みの親である富野由悠季と『新世紀エヴァンゲリオン』の生みの親である庵野秀明を取り上げ、70年代に確立されたSF漫画(SFは“science fiction"の略で、科学あるいは空想科学をテーマとしている漫画のことです)のサブジャンルの“ロボット/メカ・アニメ"について紹介しました。

同時期にアメリカではSFの超大作として、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』シリーズが公開されました。シリーズの第1作目である『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が1977年にリリースされました。このシリーズは、日本の文化や日本映画の影響が強いとされています。

『スター・ウォーズ』は宇宙を舞台とした壮大なスケール感の物語ですが、映画の冒頭で一番最初に登場するは、2体の平凡なドロイド「R2-D2 」「C-3PO」です。この2体は反乱軍に加わり、男勝りの姫を救い出して帝国軍を倒すという冒険に巻き込まれるという設定です。これは黒澤明の『隠し砦の三悪人』(1954年)からアイディアを得たストーリーだとされています。また、物語の中心テーマである、「ジェダイ」の信念は、武士道(あるいは西欧の騎士道)とも通ずるところがあります。帝国軍を率いる「ダース・ヴェイダー」のヘルメットのデザインは、伊達政宗の兜を参考にしたとされています。

それだけではありません。欧米人一般の間ではあまり知られていませんが、宇宙を舞台にした大規模な戦争物語やドラマチックな冒険映画、いわゆる“スペース・オペラ"の草分け的存在だったのが松本零士による『宇宙戦艦ヤマト』です。本作は当時まだマイナーなジャンルであったSFアニメが日本で普及するきっかけとなりました。アメリカでも『スター・ウォーズ』だけでなく、その後の宇宙を舞台にしたアクション映画/テレヴィに多大な影響を与えました。(因みに60年代後半のアメリカでは『スター・トレック』のテレヴィ番組が放送されていましたが、この番組は冒険物語というよりかは倫理や人道的なテーマを扱った物語と言えます。)

今回はアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の監督を務め、『銀河鉄道999』などの作品で知られる松本零士について紹介します。


2.松本零士を形成したもの

松本零士は1938年に福岡県で生まれました。父は下士官から陸軍少佐(少佐とは、軍人の階級の1つで、佐官に区分され、大尉の上、中佐の下の位の軍人のこと)にまで登りつめた帝国陸軍の軍人で、陸軍航空部隊のテスト・パイロットでもありました。そのため、第二次世界大戦中の1942年ごろ、幼い松本氏は家族と共に兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に移り、2年間ほど住んでいました。その後、母親の実家がある愛媛県に疎開し、そこでアメリカ軍の戦闘機やB-29などの軍用機を多数目撃しました。こういった体験は成長期の真っ只中であった松本氏にとって深く記憶に残りました。

また、父親は大戦後半では教育飛行隊の隊長となり、後に特別攻撃隊の隊員となったパイロットなどの教育を行っていました。松本氏はそんな父に対して「本当のサムライ」というイメージを抱いていたようで、その人物像は後の大作SF作品に登場する艦長や海賊のキャプテンの基となったとされています。

松本氏がアニメに興味を持ったのは、5歳の頃に映画好きであった父親の映写機を使ってミッキー・マウスのフィルムを観たからと言われています。この時から松本氏は、映写機を自ら回していたそうで、その後ディズニー作品にのめり込んでいくきっかけとなったそうです。また、小学生の頃から漫画少年でもありました。終戦後、松本氏は家族と共に福岡に移り、小学校の学級文庫にあった手塚治虫の漫画『新宝島』『火星博士』『月世界紳士』にハマり、漫画家を志したいと思うきっかけとなったとされます。高校一年生の時に漫画雑誌『漫画少年』に投稿した作品が掲載され、漫画家としてデビューを果たしました。その後、高校卒業後には月刊少女雑誌『少女』の連載が決まり、上京しました。

松本氏はまた、少年時代からSF小説を愛読しており、特に日本SFの始祖の一人と呼ばれる海野十三や“SFの父"と呼ばれるH・G・ウエルズの作品がお気に入りだったそうです。その影響で、SF漫画を描いていましたが、当時SFというジャンルはまだ確立されていなかったせいか、不人気で打ち切りになるものが多かったようです。松本氏の出世作となったのが、71年から『週刊少年マガジン』で掲載された『男おいどん』でした。自らが上京した時の下宿生活を元にしている青春物語です。

その後、74年にテレヴィ・アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の企画に途中からメカニック・デザイナーとして関わることとなりました。松本はアニメ作りに積極的に関わりたいという気持ちが強かったことから、全面的に携わることとなりました。当初、本放送は低視聴率に終わったそうですが、再放送によって人気を得て、77年に劇場版アニメが公開される頃には社会現象となっていました。この作品のヒットによって、自らが企画していた漫画作品のアニメ化が決定し、特に78年~81年まで放送された『銀河鉄道999』は大ヒットとなり、“松本零士ブーム"を巻き起こしました。

80年代後半以降、松本零士ブームは終焉しますが、漫画を描く傍、宇宙開発事業団の役職に就任するなど、多方面で活動を続けてきました。90年代終盤から『銀河鉄道999』の様々なスピンオフ(ある娯楽作品の“派生作品"や“外伝作"のこと)を制作したり、そのモチーフが施された電車の車体のデザインの提供をしたりしました。東京都観光汽船の水上バス『ヒミコ』『ホタルナ』などのデザインも手がけています。

因みに松本氏の妻である牧美也子も漫画家であり、また、タカラが展開している着せ替え人形「リカちゃん」が初めて販売される際のイラストも担当したそうです。

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3.松本零士の中の“戦争"と“サムライ"たるもの

松本はSF漫画というジャンルを確立する活躍をする一方で、戦争を題材とした“戦場漫画"も半世紀にわたって描き続けてきています。その代表作が短編漫画集『戦場まんがシリーズ』と、それを原作として作られたオムニバス形式のアニメ作品(OVA)『ザ・コクピット』です。これらの作品の中では戦争に未来を奪われた若者たちが描かれています。

その基となっているのが、松本氏自身の戦時中/戦後の経験や、パイロットの父から戦場の実態について聞いた話です。印象的なのが、作中では仲間を失った日本兵だけでなく、仲間を失ったアメリカ兵も描いており、それぞれが涙を流しているという描写です。松本氏の戦場漫画で一貫して描かれているテーマは「戦争の愚かさ」や「命の大切さ」です。

その点、『宇宙戦艦ヤマト』は、日本の海軍の技術を讃えるという内容であると同時に、第二次世界大戦で戦艦大和を失い、敗北してしまった経験を、今度は宇宙という舞台で“やり直す"という作品であると捉えることもできるでしょう。しかしながら、松本氏がそのこと以上に描きたかったのは、若い男たちが勇敢な艦長の下で、普通に考えれば勝ち目のないミッションに旅立つという虚しさだったのではないでしょうか。また、地球を侵略しようとしているガミラス帝国軍は、肌が青いこと以外、容姿は基本的に地球人と同じです。松本氏が言いたいことは、敵は“アメリカ人"や“白人"や日本人自身でもではなく、“戦争そのもの"なのではないでしょうか。

松本氏はある種の“闘争"にも積極的に取り組んできました。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』の原作者は松本氏ではなくアニメイターの西崎義展であり、前述の通り、松本氏は企画の段階で途中から参加したとされています。当初は西崎氏が原案・プロデューサーでありましたが、松本氏はストーリーやアイディアのほとんどを出していたことから、『宇宙戦艦ヤマト』は2人の共同作品であるとしていました。しかし、西崎氏が97年ごろに破産し、99年にかけて覚醒剤取締法などの容疑で複数回逮捕され、最終的に懲役5年6ヶ月の実刑判決を受けました。この頃から松本氏は、実は自分が『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であることを主張するようになり、『ヤマト』の本当の原作は自分が書いたと述べるようになっていました。最終的には『ヤマト』は作ったのは誰かということを巡って松本氏と西崎氏の間で裁判が行われました。その結果、東京地方裁判所は、西崎氏を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となりました。

一方で、『銀河鉄道999』を巡っても、裁判騒動がありました。歌手の槇原敬之がCHEMISTRYに提供した『約束の場所』という曲の歌詞の一部が96年から再開されていた『銀河鉄道999』の新展開編の作中のセリフの盗用であると、松本氏は週刊誌の『女性セブン』の誌面や日本テレビ系の番組『スッキリ!!』の中で槇原氏を非難しました。これを受けて槇原側は証拠を示してほしいと、著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こしました。松本氏は「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある」と発言し、裁判に出向きました。最終的に東京地裁は「2人の表現が酷似しているとは言えない」と松本氏の訴えを認めず、槇原氏に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償の支払いを命じました。その後、双方ともが控訴し、翌年東京地裁で松本氏が陳謝することを条件として和解が成立しました。


4.エピローグ

松本氏は『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』という作品を通じて、70年代半ばから80年代にかけて、アニメ・ブームを起こしたと同時に、日本のポップ・カルチャーにおけるSFというジャンルを定着させた功績があるでしょう。これらの作品がなければ富野由悠季の『機動戦士ガンダム』も生まれなかったでしょう。前回のコラムでも紹介したように、富野氏は『機動戦士ガンダム』がスタートしたばかりの頃に『宇宙戦艦ヤマト』の絵コンテの仕事を一度引き受けています。その時は、ストーリーが気に入らず、勝手に手を加えて絵コンテを提出したことで、前述の西崎プロデューサーを怒らせ、2度と声がかからなかったというエピソードが知られています。

『宇宙戦艦ヤマト』では、日本の第二次世界大戦中の戦艦大和を宇宙船に改造したり、『銀河鉄道999』では蒸気機関車を銀河超特急999号のデザインの基にしたりしています。過去のものと未来的な要素をこのようで自由自在に融合させるという発想は、日本ならではのことではないでしょうか。こうした潮流は、同じく宇宙を舞台にし、ウェスタンの要素を多分に取り入れた『カウボーイ・ビバップ』などにも引き継がれていきます。

アメリカでも松本氏が作ったような“スペース・オペラ"は、その後、ハリウッド映画でもテレヴィでも制作されてきました。前述の映画『スター・ウォーズ』シリーズもそうですし、例えばSFテレヴィ・ドラマ『バトルスター・ギャラクティカ』は『宇宙戦艦ヤマト』の冒険と『銀河鉄道999』の哲学観を足して二で割ったような作品です。また、『スター・トレック』にでさえ、作中のある種のシミュレイションに登場する架空の戦艦「コバヤシマル」という名称などは、「ヤマト」を連想させます。

そしてなんといっても、アニメ好きなフランス人の間では、松本氏は大人気です。松本氏は2001年にはフランスの音楽デュオのダフト・パンクから依頼を受け、名作アルバム『ディスカバリー』のミュージック・ヴィデオを手がけました。これは後に『インターステラ5555』という"アニメイション・オペラ"としてもリリースされました。そして2012年にはフランス芸術文化勲章シュバリエを受章しました。

そんな松本氏は、2019年11月半ばにイタリア北部トリノで体調を崩して入院したことが話題となりました。12月上旬には退院し、帰国しました。そして先日、新型コロナウイルスが拡散される中、宇宙海賊キャプテンハーロックのイラストをオークションにかけ、810,000円で落札されたそうです。この金額は、自分が入院して治療を受けたイタリアの病院へ寄付されるそうです。

※松本零士は2023年2月13日に亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。


CINEMA & THEATRE #042

松本零士が手掛けた大規模な“スペース・オペラ” 『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』 – 世界的に評価されている日本人のアニメイション制作者 (4)


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