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オルタナティヴ・ヒップ・ホップとネオ・ソウル (後編) 
 セクシーでスピリチュアルなネオ・ソウルのアーティストたち
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (8)
  - ディアンジェロ/エリカ・バドゥ/フランク・オーシャン/ジャネール・モネイ | MUSIC & PARTIES #024
2022/01/17 #024

オルタナティヴ・ヒップ・ホップとネオ・ソウル (後編)
セクシーでスピリチュアルなネオ・ソウルのアーティストたち
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (8)
- ディアンジェロ/エリカ・バドゥ/フランク・オーシャン/ジャネール・モネイ

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Mickey K.
風景写真家(公益社団法人・日本写真家協会所属)

目次


前編はこちら


7.ヒップホップがどんどん商業的になる中でアーティスト性を追究したザ・ルーツ

ア・トライブ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルを中心としたヒップホップ集団ネイティヴ・タングズは、1996年にジャングル・ブラザーズのシングル『How Ya Want It We Got It (Native Tongues Remix)』のために再結成します。このシングルが収録されているアルバムには、ヒップホップ界では珍しくバンド形式をとっているザ・ルーツが参加しており、『Brain』という曲を提供しました。

ザ・ルーツは、メンバーの高い演奏力によってヒップホップにジャズの要素を取り入れ、生音で表現することで90年代半ばから注目されるようになりました。初期の頃はジャム・バンドの側面が強かったですか、「“ジャズ・ヒップホップ"というジャンルを標榜しながらヒップホップ文化の中心にあるサンプリングやスクラッチが用いられていない」、という批判からバンドの音は少しずつ変化していきます。一般的にラップの歌詞というものは、黒人社会が抱える問題などをテーマにしたものが多いですが、このバンドは「人は知識を得ることでそういったものを乗り越えていける」という希望のあるメッセージ性で知られています。(こういったラップのことを「コンシャス・ラップ」と呼びます。)

ザ・ルーツが一般的にブレイクするきっかけとなったのが、1999年にリリースされた4枚目のオリジナル・アルバム『シングズ・フォール・アパート』です。この作品はジミヘンのエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングされました。それまでの作品のルーズな“ジャム・セッション感"に比べ、よりまとまりのあるサウンドが評価され、それによってバンドは広く知られるようになりました。

『シングズ・フォール・アパート』(1999年)
ザ・ルーツの4枚目のスタジオ・アルバムです。

本作はジャズ・ラップをよりサイケデリックな方向性に進化させ、バンドの可能性を開花させただけでなく、同時期に制作されていたディアンジェロらの“ネオ・ソウル"に道を切り開きました。

現在ザ・ルーツはアメリカのテレヴィ局NBCで放送されている人気深夜トークショー番組『The Tonight Show Starring Jimmy Fallon』のハウス・バンドを務めています。これは彼らにとって昇格なのか降格なのかは、賛否両論ありますが、ザ・ルーツのような個性的なバンドが毎晩全米で放送されるテレヴィに出演しているということは、とても大きな意味を持つと言えるでしょう。


8.ネオ・ソウルの申し子、ディアンジェロ

ネオ・ソウルの申し子と謳われるディアンジェロは、アメリカ合州国ヴァージニア州リッチモンドで宣教師の息子として生まれました、幼い頃から教会の合唱団でゴスペルを歌い、独学でピアノ、ベイス、ギター、ドラムなどを取得しました。彼のルーツには南部の黒人教会のゴスペル・サウンドやスピリチュアリティがあり、そこにソウル・ミュージックのセンシュアリティやファンクのグルーヴ感、ジャズの自発性、ヒップホップのヴァイブ(雰囲気)などが加わり、そうして「ネオ・ソウル」が生まれました。

そんな彼が2000年に発表した2枚目のオリジナル・アルバム『ヴードゥー』は、現代R&Bとヒップホップの歴史的名盤とされています。

『ヴードゥー』 (2000年)
ディアンジェロの最高傑作とされる2作目のオリジナル・アルバムです。当時のR&Bがメインストリーム(日本でいう“売れ線")寄りになりすぎていたことに対するアンチテーゼとして、ディアンジェロは60年代~70年代のクラシックなR&Bを意識し、更に遡ってアフリカ文化やヴードゥー教を彷彿させるスピリチュアリティを盛り込みました。

この作品は4年間にも渡ったスタジオでのジャム・セッションから生まれたものです。ディアンジェロはザ・ルーツのドラマーのクエストラヴを共同制作者として迎え、ジミ・ヘンドリックスのエレクトリック・レディ・ストゥディオズでジミヘン、マーヴィン・ゲイ、ジェイムズ・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジョージ・クリントンなどの音源や映像の要素を吸収しました。当時の第一線で活躍するR&Bやジャズのスタジオ・ミュージシャンを迎えてセッションを行いこの作品を完成させます。また、ディアンジェロが自分のアイドルとして名を挙げているプリンスの影響もサウンドにもヴォーカルにも強く現れています。ディアンジェロのセンシュアルな歌声は現代のR&Bでファルセットが多用されるようになるきっかけとなりました。

収録曲『アンタイトルド(ハウ・ダズ・イット・フィール)』のミュージック・ヴィデオは裸のディアンジェロの上半身のみからなっている刺激的な作品です。当時のヒップホップやロックのミュージック・ヴィデオは、過度に男らしい振る舞い(ハイパーマスキュリニティー)やビキニの女性など、男性のファンタジーを描いたものが多かったのに対して、黒人男性の体を優しく扱い、女性ウケを狙った内容は画期的でした。ところが、この映像よって音楽そのものよりディアンジェロの肉体が注目を集めるようになります。ライヴでは女性ファンが、彼の足や股間をつかもうとしたり、「脱いで!」と騒ぐようになりました。自分がセックス・シンボルとして見られるようになったことで精神的に不安定となり、その後ソロ活動を一時事実上休止することとなりました。

その後しばらく暗い時期を過ごすこととなります。ディアンジェロはアルコール依存症になり、更に2005年にはコカイン所持で逮捕されました。2010年代に入って再びツアーをするようになり、2014年には実に14年ぶりとなるオリジナル・アルバム『ブラック・メサイア』を発表しました。この作品ではディアンジェロ自身のギター・プレイが以前に増して目立つようになっており、重厚感のあるファンク・サウンドはスライ&ザ・ファミリー・ストーンの『暴動』の現代版とも評されました。もともとディアンジェロは本作を2015年に発表する予定だったそうですが、白人警察官が黒人男性を窒息死させるなど警察官の暴力事件(エリック・ガーナーの死亡や、マイケル・ブラウン射殺事件)が相次いだことを受けて、発売日を繰り上げてリリースしたそうです。

『ブラック・メサイア』(2014年)
ディアンジェロの3枚目のオリジナル・アルバムです。


9.ネオ・ソウルのファースト・レディ、エリカ・バドゥ

テキサス州生まれのエリカ・ライトはラップのMCになりたくてティーネイジャーの頃から「エリカ・バドゥ」という名義で音楽活動を始めました。本名の「エリカ」は“Erica"と綴られますが、それは「奴隷の名前」みたいだという理由から、綴りを“Erykah"と改めました。「バドゥ」はお気に入りのジャズ・スキャットの音に由来するそうです。

バドゥは1994年にディアンジェロがテキサス州・フォートワースで開催したコンサートのオープニングをつとめことをきっかけにレコード会社と契約を結ぶこととなりました。1997年にリリースしたデビュー・アルバム『バドゥイズム』はグラミー賞「最優秀R&Bアルバム賞」などを受賞し、ディアンジェロと共にネオ・ソウルのジャンルを確立させました。スピリチュアルな歌詞と都会的な感性、頭に布を巻きつけたアフリカを意識したファッション・スタイルで知られるようになりました。本人は題名についてこのように説明しています。「私が影響を受けてきた“ヒップホップ"という文化においては、“イズム"というのはマリファナを意味するスラングなの。『バドゥイズム』のコンセプトは、音楽を通して聞いている人をハイにさせることだった。」

『バドゥイズム』(1997年)
エリカ・ボドゥのデビュー・アルバムです。

1998年にバドゥとアウトキャストのアンドレ3000との間に息子が生まれますが、2作目のアルバムの制作に取り掛かり始めた頃には、2人の関係は既に破局しておりました。そんな中で出来上がった『ママズ・ガン』は、2000年前後のアメリカ社会及び黒人コミュニティの間に漂っていた漠然とした不安を表現しています。ザ・ルーツの『シングズ・フォール・アパート』やディアンジェロの『ヴードゥー』とほぼ同時期に、ジミヘンが立ち上げたエレクトリック・レディ・スタジオでレコーディングは行われます。これらの作品には重複した演奏者のコラボレイションにより、共通している特徴的なサウンドとヴァイブがあります。

『ママズ・ガン』 (2000年)
エリカ・ボドゥの2枚目のオリジナル・アルバムです。

シングルとしてリリースされた『バッグ・レディ』は、バドゥ初の全米チャートトップ10入りを果たし、グラミー賞の最優秀女性R&Bヴォーカル・パフォーマンス賞と最優秀R&Bソングにノミネイトされました。歌詞の冒頭の一節を紹介します。

Bag lady you gone hurt your back
Draggin all them bags like that
I guess nobody ever told you
All you must hold onto, is you, is you, is you
バッグ・レディ、それじゃ背中を痛めるよ
あれだけのバッグを引きずり回して
誰もあなたに伝えてあげなかったのかしら
あなたがしっかりつかまえておかなきゃいけないのは「自分自身」だけだよ

「バッグ・レディ」とは、所有物を全てビニールの買い物袋に詰め込んで持ち歩くホームレスの女性を指す英語のスラングです。確かにアメリカでは黒人をはじめとするマイノリティ人口におけるホームレスの割合は、全人口における割合に比べて非常に多い傾向があります。しかしバドゥが歌っているのは、ホームレスの女性だけでなく、心の中に余計なものを抱え込んでしまっている女性、あるいは社会から様々な“荷物"を背負わされている女性のことなのではないのでしょうか。また、「モノ」にこだわり過ぎてた物質主義に対して「執着心を捨てなさい」というメッセージも込められているのでしょう。バドゥイズムはブディズムとも共通点が多いようです。


10.実験的なR&Bで自分の道を切り開くフランク・オーシャン

オーシャンはカリフォルニアで生まれ、5歳の時にルイジアナ州ニュー・オーリーンズに家族と共に移住しました。若い頃から地元のジャズ・バーを出入りするようになり、自分も音楽業界に関わりたいと思うようになりました。2006年には大学を中退し、ロス・アンジェレスに引っ越してソングライターとしてのキャリアをスタートさせます。ポップやR&Bのアーティストに曲を提供するうちに名門レコード・レイベルのデフ・ジャムの目に止まり、2009年に契約を結びます。しかし、自分の思うようにデビュー・アルバムの制作に取り組ませてもらえず、そのままではいけないと思ったオーシャンは、ミックス・テイプをレイベルを通さずにリリースし、注目を集めるようになりました。

2011年にはビヨンセのアルバム『4』やカニエ・ウエストとジェイZのコラボ・アルバム『Watch the Throne』のレコーディングに参加し、2012年にデビュー・アルバム『Channel Orange』をデフ・ジャムからリリースしました。ヒップホップ、ラップ、ソウル、R&B、サイケデリック・ミュージック、ファンクを融合したサウンドはアヴァンギャルドR&Bとして評価され、本作はビルボードチャートで2位を獲得し、グラミー賞6部門にノミネイトされ、最優秀アーバン・コンテンポラリー・アルバム賞を受賞しました。英国ではCDリリースに先駆けてデジタル版がリリースされ、その売り上げだけで全英音楽チャートで2位を獲得しました。

『チャンネル・オレンジ』(2012年)
フランク・オーシャンのデビュー・アルバムです。

オーシャンはこのアルバムをリリースする数日前に、SNSプラットフォーム「タンブラー」で初恋の相手が男性だったことを告白しました。その数ヶ月後に、男性ファッション/ライフスタイル雑誌『GQ』のインタヴューで、その告白を投稿した日の夜には「赤ん坊のように泣きじゃくった」ことを明かしました。黒人の男性アーティストの間では過度に男らしく振る舞うこと(ハイパーマスキュリニティー)が蔓延していて、同性愛嫌悪がまだ強く残っていた当時のヒップホップ界において、自身がバイセクシャルであることをカミングアウトしたことは大きな話題となりました。ところが、一躍名声を得たこと、レイベルにおける自分の立場など、L.A.を中心とした音楽業界に対して幻滅を感じるようになり、オーションはツイッター・アカウントを閉鎖し、その後数年間は、公な活動から身を引きました。

オーシャンは2016年8月に、アップル・ミュージック限定でヴィデオ・アルバムをリリースしたことで、レイベルへの契約上の義務を終えます。そこから48時間も経たないうちにオリジナル・アルバム『ブロンド』を自身のレイベルからリリースしました。このため、たちまちヴィデオ・アルバムの存在感は薄くなりました。オリジナル・アルバムは全体を通してゆったりとした幻想的な雰囲気が漂い、内省的な歌詞と実験的なサウンドはザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンを彷彿させると評されました。レイベルに対する対抗心については、アーティスト名の変更を余儀なくされたプリンスを連想させるところがあります。

『ブロンド』(2016年)
フランク・オーシャンの2枚目のスタジオ・アルバムです。

リリース直後、オーシャンはプロモーションをほとんど行わず、作品をグラミー賞に提出しませんでした。そのことについて「ニューヨーク・タイムズ」のインタヴューで次のように語っています。「ノスタルジーという意味ではグラミー賞の式典は確かに重要だよ。ただ、そこでは俺の生まれた場所や俺が表現するようなことはあまり評価されていないようで。」


11.“アンドロイド"のペルソナでブレイクしたジャネール・モネイ

サイケデリック・ミュージックやネオ・ソウルの系統を2010年代以降引き継いでいるのがシンガー・ソングライターのジャネール・モネイです。モネイはカンザス州で生まれ、近所の黒人教会の聖歌隊で歌いながら育ちました。アメリカのミュージカル界で一番有名な専門学校とされるアメリカンミュージカル&ドラマティックアカデミーに、同年の唯一の黒人として進学しました。しかし、周囲に同調し、丸くなることを恐れてこの学校を中退し、南部のジョージア州アトランタに移住しました。そこで作曲をしながらライヴ演奏をするようになり、アウトキャストのビッグ・ボーイの目に止まりました。アウトキャストの6枚目で最後のアルバム『アイドルワイルド』へのゲスト出演を経て、ショーン・コムズのレコード・レイベル「バッド・ボーイ・レコード」と契約を結びました。

モネイは、2010年にアルバム『アークアンドロイド』をリリースし、サイケデリック・ソウル、オルタナティヴR&B、ファンクなど幅広い要素を取り込んだサウンドで大ブレイクしました。本作はフリッツ・ラング監督が製作した1927年のSFの名作『メトロポリス』から着想を得ており、モネイは「シンディ・メイウェザー」という、人々を解放するために未来からやってきたアンドロイド(人造人間)のペルソナを掲げています。アフロフューチャリズムのコンセプトは、Pファンクやデイヴィッド・ボウイとも通じる演出といえます。

『アークアンドロイド』(2010年)
ジャネール・モネイのデビュー・スタジオ・アルバムです。

2013年のアルバム『エレクトリック・レディ』ではプリンスやエリカ・バドゥをゲストとして迎えたことが話題となりました。バドゥと共演した『Q.U.E.E.N.』はLGBTQ+のコミュニティ、貧困者、移民、黒人などのマイノリティをテーマとした曲で、ミュージック・ヴィデオではプリンスを彷彿とさせるモネイの女性的でもなく男性的でもないファッション・スタイルが披露されています。

『エレクトリック・レディ』(2013年)
ジャネール・モネイの2枚目のオリジナル・アルバムです。

その後、モネイはプリンスが2016年に亡くなるまで共に音楽制作を続け、2018年にリリースしたアルバム『ダーティ・コンピューター』はプリンスの影響が色濃く現れています。それが一番よくわかるのがシングルとしてリリースされた『メイク・ミー・フィール』です。プリンスの周りからは数々のミュージシャンが世に送り出されていったことで知られますが、モネイは彼の最後の“弟子"と言えるでしょう。(プリンスはヴァニティ6やシーラ・Eなど数々のアーティストをプロデューサーとして手掛ると同時に、多くの楽曲を他のアーティストに提供しました。)

『ダーティ・コンピューター』(2018年)
ジャネール・モネイの3枚目のスタジオ・アルバムです。


12.エピローグ

これまでのこのシリーズで紹介してきたように、60年代後半のヒッピー・ムーヴメントから生まれたサイケデリック・ミュージックは、“白人音楽"ではあったものの、その後の黒人音楽に多大なる影響を与えました。当初は黒人社会に受け入れられていなかったジミ・ヘンドリックスの曲も、ヒップホップでサンプリングされたり、彼が作ったレコーディング・スタジオはコンテンポラリーR&Bの数々の名作が生まれた場所ともなりました。

60年代後半から70年代初頭のサイケデリック・ミュージックは「意識を解放」するためのものでした。人々が一丸となり、社会の様々な問題を超越しようという希望が満ち溢れていました。それに対して90年代のオルタナティヴ・ヒップホップには、ありのままの自分を称えながらも、知識を得ることで世の中の問題を乗り越えて行こうというメッセージがありました。2000年代のネオ・ソウルはよりセンシュアルでスピリチュアルな方向に進みました。そして2010年代のアーティストとなると、自分たちの精神病や性的アイデンティティに関して臆面もなく歌うようになりました。

時代が経つにつれ、サイケデリック・ミュージックの視点が「外側」や「宇宙」から「内側」や「ソウル」へシフトし、詞の内容もより内省的なものとなっていったことが興味深い点です。

サイケデリック・ミュージックはどの時代にもメインストリーム(売れ線)に対するカウンターカルチャー・ムーヴメントという位置付けにおかれ、それを作るものは、どの時代も“アウトサイダー"とされるものでした。黒人音楽というものもメインストリームに対する“オルタナティヴ"なものとされ、黒人ミュージシャンは様々な意味でアウトサイダー扱いされてきました。今回取り上げたミュージシャンの多くがアメリカ南部出身であることがそれを物語っています。

ただ、これはあくまで“売れ線"から見るサイケデリック・ミュージックや黒人音楽です。そもそも、アメリカ南部という土地は、ブルーズやジャズの発祥地であり、彼ら“アウトサイダー"の音楽こそが“本物"であり、商業的な成功を狙ったメインストリームの音楽が“ニセモノ"だという見方もできるでしょう。歴史の観点から見ると、アメリカの音楽の根底にあるのは、黒人奴隷による霊歌や労働歌であり、白人の支配者階級が自分たちのパーティーを盛り上げさせる目的で黒人奴隷に演奏させたものなのです。そういった文化的・歴史的背景が、白人によるメインストリーム音楽によって消されかけていたことに対して異議を唱えたのが、90年代前後のヒップホップですし、形骸化しつつあった音楽に “ソウル"を再び吹き込んだのがネオ・ソウルのアーティストたちだったのではないでしょうか。

もう1つ興味深い点は、オタク気質が強い黒人アーティストが多くなってきていることです。アウトキャストはアメコミをイメージしたアルバムのジャケットが話題となりましたし、カニエ・ウエストは村上隆にジャケットのデザインを依頼しました。ディアンジェロはもともとシャイな性格ですし、音楽制作から遠ざかっていた期間中はヴィデオ・ゲイムで遊んでいたそうです。最後に取り上げたフランク・オーシャンやジャネール・モネイも正真正銘のオタクです。彼らがメンタル・ヘルスやLGBTQ+について恥じらいなく歌えるのは、SNSで自分の思っていることをためらいなく打ち明けるデジタル・ネイティヴ世代だからなのではないでしょうか。もちろん、この2人が受け入れられた背景には、先駆者が黒人社会の意識を解放してきたことが影響しているはずです。

現在、新型コロナウイルスの大流行で世界中の人々が外出を自粛し、引きこもっています。そんな中、人々のメンタル・ヘルスがこれまで以上に大きなテーマとして注目されるようになっています。今回取り上げたオルタナティヴ・ヒップホップやネオ・ソウルのアーティストの音楽こそ、そんな私たちが必要としている癒しの“薬"なのかもしれません。


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