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欧米のサイケデリック・ロックに影響された日本の“ニュー・ロック"
  - サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (9)
  - 内田裕也/フラワー・トラベリン・バンド/はっぴいえんど/カルメンマキ/クリエーション | MUSIC & PARTIES #025
2022/01/24 #025

欧米のサイケデリック・ロックに影響された日本の“ニュー・ロック"
- サイケデリック・ミュージックの真骨頂 (9)
- 内田裕也/フラワー・トラベリン・バンド/はっぴいえんど/カルメンマキ/クリエーション

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BigBrother
プランナー / エディター / イヴェント・オーガナイザー

目次


1.プロローグ

これまでMUSIC & PARTIESでは60年代後半にアメリカ合州国カリフォルニア州のサン・フランシスコから生まれたサイケデリック・ロックと、その影響を受けて発展を遂げた欧米の様々なサイケデリック・ミュージックについて取り上げてきました。そのコラムの一覧をリストアップします。

ビート・ジェネレイションの作家とヒッピー・ムーヴメントの関係性 (#013)
サン・フランシスコのフラワー・チルドレンが確立したサイケデリック・ロック (#014)
北カリフォルニアと南カリフォルニアの違いが生んだサイケデリック・ロック (#015)
英国の異質なものに対する憧れと差別意識 (#016 / #017)
“英国的なロック・サウンド"を目指したプログレッシヴ・ロックという実験 (#018 / #019)
ロック・ミュージックの4大黒人ギタリストの葛藤 (#020)
サイケデリック・ソウルとファンク (#021 / #022)
オルタナティヴ・ヒップ・ホップとネオ・ソウル (#023 / #024)

今回は、60年代後半~70年代前半の欧米のサイケデリック・ロックが日本に与えた影響について取り上げます。70年代前半に台頭とした日本のロック・ミュージシャンを紹介すると共に、彼らがその後の日本の音楽シーンにどのような影響を与えたかについても言及します。^


2.「ニュー・ロック」と「ニュー・ミュージック」と日本のロックは何語で歌うべきかの論争

そもそも日本のヒッピー・カルチャー/カウンターカルチャーの中心地となったのが、東京・新宿でした。1967年に、薄汚れたTシャツやジーパンに素足、ヒゲや長髪といったヒッピー・ファッションを身に纏った若者たちが新宿の街にたむろするようになりました。彼らは、そのファッションから「サイケ族」、あるいは定まった仕事がなく自由気ままなライフスタイルを送っていることから「フーテン族」とも呼ばれるようになりました。

60年代後半に音楽面では、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズなど英国のロック・バンドの人気が高まっていました。66年の6月にビートルズが実際に来日公演を果たしたことの影響もあり、リード・ヴォーカル+エレクトリック・ギター+エレクトリック・ベイス+ドラムズという編成を基本とした「グループ・サウンズ」と呼ばれるロック・グループが次々と誕生しました。

こうしたグループは、普段は自分たちの好きな洋楽ロックのカヴァーを中心に演奏していたのですが、所属していたレコード会社はプロの歌謡曲の作曲家・作詞家に曲の依頼をすることが多く、ライヴ・コンサートでは自分たちがやりたい音楽を演奏できない状況となっていました。1968年の夏頃にこのグループ・サウンズ・ブームはピークを迎えるものの、長髪やエレクトリック・ギターという要素が不良や浮浪者のイメージに結び付けられ、グループ・サウンズのコンサートを観に行くことを禁止する中学校や高校が続出しました。グループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体も現れるようになりました。こうして70年ごろにはグループ・サウンズのブームは終焉を迎えることとなります。

しかし、新宿から誕生した日本のヒッピー・カルチャーやロック・ミュージックの文化は、JR中央線沿いの高円寺・吉祥寺・国分寺・荻窪などに広まります。現在も含め、数多くのミュージシャンやアーティスト、芸人がこのエリアに棲息するようになります。中にはヒッピー的な自給自足なコミュニティを目指す集団も生まれ、地方から上京した学生の憧れの場所となりました。この中央沿線のエリアにライヴ・ハウスやジャズ喫茶、小劇場、古着や古本といったアングラ(アンダーグラウンド)でボヘミアン(社会の規範や常識にとらわれず、自由で放浪的な生活をする人を指す言葉)な文化が今でも強く根付いているのにはこういった背景があります。

70年代のアングラ・シーンで活動していたミュージシャンの中には、その活動を通して、アメリカや英国のロックにより一層のめり込んでいった人たちがいました。英国のハード・ロックやプログレッシヴ・ロックの要素を積極的に取り入れたミュージシャンたちの音楽は、「ニュー・ロック」と呼ばれるようになりました。このニュー・ロックを代表するミュージシャンといえば、内田裕也と彼がプロデュースしたフラワー・トラベリン・バンドが挙げられるでしょう。

一方で、反戦を歌っていたアメリカのフォーク・ロック・ミュージシャンやシンガー・ソングライター、もしくはビートルズのようにロックとポップを自由に行き来しながら確かなアーティスト性を持ち続けていたバンドに憧れたミュージシャンたちの音楽は「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。ニュー・ミュージックの代表的なミュージシャンといえば、はっぴいえんど、井上陽水や吉田拓郎です。彼らは「ニュー・ロック」のミュージシャンたちに比べて“ドラッギー"な部分は少なかったものの、その分“カウンターカルチャー"的なメッセージを強く持っていました。

70年代はじめの日本では、ロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかという論争がこの2大勢力の間に起きました。サウンドを重視していたニュー・ロック派を代表していた内田裕也は、日本語の歌詞はロックのリズムに乗らないと主張し、世界を目指すのであれば英語しかないと考えていました。一方、メッセージ性を大事にしていたニュー・ミュージック派のミュージシャンたちは、日本人のリスナーの共感を得るためには日本語の歌詞がふさわしいと考えていました。この議論は音楽雑誌『ニューミュージック・マガジン』などの活字メディアの座談会などでも大いに繰り広げられました。

結局、はっぴいえんどが1971年にアルバム『風街ろまん』において、ロックのサウンドにドラムズ担当の松本隆が作った日本語の歌詞を結びつけることで、一定の成功を得たため、この議論は沈静化していました。フラワー・トラベリン・バンドは、カナダへ渡り、ライヴ活動を通して評価を上げ、アメリカのアトランティック・レコードと契約しました。1971年にはアルバム『SATORI』をリリースし、欧米のロックの単なる真似では終わらない、日本のロックの可能性を示しました。しかし、日本の音楽シーンにおいては、70年代という年代は「ロックの時代」ではなく、「フォークの時代」でありました。1972年以降は、日本語でロックを歌うことが当たり前な時代が始まりました。そして80年代以降は、J-POPやJ-ROCKの時代が到来したことからもわかるように、日本のロック・シーンは「世界で勝負できるバンドを目指す」ことではなくあくまでも「日本人向けにメッセージを発信する」路線を選択したのです。


3.欧米のサイケデリック・ミュージックの影響を受けた70年代の日本のロック・ミュージシャンたち

内田裕也とフラワーズ

今では樹木希林の夫として有名な内田裕也は、エルヴィス・プレスリーに憧れてミュージシャンを目指すために大阪の高等学校をドロップアウトし、1959年に渡辺プロダクションに所属し、歌手としてプロ・デビューを果たしました。その後バンドを渡り歩きながら、ベンチャーズやビートルズの影響を受け、よりロック色を強めていきました。1966年にビートルズが日本公演を行なった際に、グループ・サウンズのバンドのメンバーなどから特別に編成されたバンドの一員として前座を務め、その縁でジョン・レノンとも仲良くなります。1967年の春頃に3ヶ月ほどヨーロッパに渡り、各国を放浪しながら、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ピンク・フロイドなどのロックを生で体験し、強い衝撃を受けました。

帰国後に「フラワーズ」というバンドを結成し、ジャズ喫茶でのライヴ活動を通してジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンなど、欧米のサイケデリック・ロックを日本に紹介しようとしました。1969年には、ジャケットにメンバーのヌード写真を使用したカヴァー・アルバム『チャレンジ!』をリリースするものの、セールズには繋がりませんでした。翌年に内田はプロデューサー役にシフトし、世界的に勝負できるバンドを作るために、他のグループ・サウンズのバンドに所属していたヴォーカル担当の"ハーフ"のジョー山中やギタリストの石間秀樹をスカウトし「フラワー・トラヴェリン・バンド」として再編成しました。

フラワー・トラヴェリン・バンド

新しく編成されたフラワー・トラヴェリン・バンドは、1970年にデビュー・アルバム『エニーウェア』をリリースしました。(こちらのアルバム・ジャケットでもメンバーが裸で登場しています。)収録曲はアメリカのサイケデリック・ロック・バンドのブラック・サバスや、英国のプログレッシヴ・ロック・バンドのキング・クリムゾンなどのカヴァー曲が中心となっているものの、それを単なるコピーで終わらせようとしない、音楽性の高いスタンスが表れている作品です。ちょうどその頃、大阪万博でライヴをするために来日したカナダのロック・バンド「ライトハウス」の目にとまり、「カナダに来てみないか?」と誘われます。その結果、前述の通り、フラワー・トラヴェリン・バンドは「日本発の海外進出バンド」となり、大傑作アルバム『SATORI』が生まれることとなりました。

北米で一定の成功を得たフラワー・トラヴェリン・バンドは、日本に帰国後も精力的にライヴ活動を続けました。1973年にはローリング・ストーンズの来日ツアーの前座を務める予定となっていました。しかし、ドラッグ問題でミック・ジャガーのヴィサは許されず、来日は中止となり、更なるステップ・アップのチャンスを逃してしまいます。同年に半分ライヴ演奏、半分ストゥディオ録音のアルバム『Make Up』(1973年)をリリースしました。このアルバムは熟成したサウンドを聴かせてくれる名盤ですが、日本の音楽シーンは既にロックではなくフォークにシフトしていたこともあり、セールズ的には失敗し、バンドは活動を中止することとなりました。テレヴィCMにも使用された収録曲『Make Up』は日本のロック史上ナンバー・ワンの楽曲であります。

バンドのメンバーの中でもヴォーカルのジョー山中はその後もソロ・ミュージシャンとしての活動を続け、俳優業も行います。1977年の角川映画『人間の証明』には、俳優として出演するだけでなく、主題歌『人間の証明のテーマ』を歌いました。本作は母への愛を切なく歌ったバラードなのですが、そこにはジョー山中が小学生時代に母を亡くしたこと、日本に進駐していたアメリカ軍の父親の顔も名前も知らずに育ったことや、“混血児"(いわゆる“ハーフ")として経験してきた生きづらさが伝わってくる魂の叫びが聴きどころです。しかし、山中は大麻取締法違反容疑で逮捕され、この曲のレイディオでのオンエアは自粛され、彼がこの歌をテレヴィで歌うことは当時叶いませんでした。それでも映画のテレヴィCMとして頻繁に流されたことがヒットへと繋がり、ミリオンセラーとなりました。

はっぴいえんど

1969年に結成された「はっぴいえんど」は、サウンドの面ではフォーク・ミュージックとサイケデリック・ロックを融合したことで知られるアメリカのロック・バンド「バファロー・スプリングフィールド」を強く意識しています。メンバー体制からするとむしろビートルズに近いとも言えるかもしれません。ヴォーカル/ギターの大瀧詠一とヴォーカル/ベイス担当の細野晴臣の音楽に対するこだわりはジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビを彷彿とさせますし、はっぴいえんど解散後にもギタリストとして第一線で活躍し続けている鈴木茂はジョージ・ハリソン的な存在ともいえます。その後、数々の歌謡曲やニュー・ミュージックの作詞を行うドラムズ担当の松本隆はその歌詞を通してメンバーそれぞれの個性的なサウンドを音楽としてまとめ上げたという点で、ビートルズの中和剤的な存在であったリンゴ・スターに似ているともいえるかもしれません。いずれにせよ、この4人の活動は長期的に見ると、日本におけるロックとフォークと歌謡曲を隔てていた壁をとっぱらったといえます。言い換えると、後のJ-POP/J-ROCKへの道を切り開いたのがはっぴいえんどなのです。

このことは、はっぴいえんど解散後の活動を見ると一目瞭然です。大瀧詠一は、米軍基地のある福生(やはり中央線沿い)のレコーディング・ストゥディオをベイスにソロ活動を続け、1981年には1曲を除いて全ての歌詞が松本隆によって手がけられたアルバム『A LONG VACATION』で大ヒットを記録します。また、彼のナイアガラ・レーベルからは、山下達郎のデビュー作となったシュガー・ベイブの『SONGS』(1975年)などがリリースされました。細野晴臣は、鈴木茂や今やユーミンの夫で自動車評論家としても有名な松任谷正隆とキャラメル・ママというバンドを組み、一方で荒井由実などのプロデュースも行いました。更に、『HOSONO HOUSE』など自身のソロ活動に加え、80年代にはストゥディオ・ミュージシャンの坂本龍一と元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏とY.M.O.を結成し、世界的な人気を得るようになりました。

鈴木茂は、70年代半ばにロス・アンジェレスに渡り、アメリカのミュージシャンを起用して初めてのソロ・アルバム『BAND WAGON』を発表しました。その後もアレンジャーやセッション・ミュージシャンとして数多くのレコーディングに参加しています。

松本隆は松田聖子、薬師丸ひろ子、中山美穂からKinki Kidsまで、数多くのアイドルなどに詞を提供し、20世紀後半の日本の歌謡曲界を代表する作詞家の1人となりました。

カルメンマキ

アメリカ人の父と日本人の母の間に鎌倉市で生まれたカルメン・マキは、1968年に高校を中退した後、寺山修司が主宰していたアングラ劇団「天井桟敷」の舞台に感銘を受けて入団し、新宿で行われた初舞台でCBSソニー関係者の目に止まり、歌手として契約します。1969年に寺山が作詞を手がけた『時には母のない子のように』でデビューし、いきなりミリオンセラーを記録する大ヒットとなります。同年末のNHK紅白歌合戦ではジーパン姿でステージに登場し、話題を呼びました。成功のご褒美としてCBSソニー社長からプレゼントされたレコード・プレイヤーと数多くのLP盤の中にあったジャニス・ジョプリンのLPに衝撃を受け、ロックへの転向を決意します。1971年にブルーズ・ロック・バンドの「ブルース・クリエイション」と組んで『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表し、妖艶な雰囲気や哀愁のある歌いっぷりで日本の女性ロッカーの草分け的な存在となります。その後、70年代末まで「カルメン・マキ&OZ」のヴォーカルとして活動します。中でも1975年のファースト・アルバム『カルメン・マキ&OZ』はフォークの時代の真っ只中に置いて異例のロック・アルバムの大ヒットとなりました。

クリエイション

ヴォーカル/ギターの竹田和夫を中心としたブルーズ・クリエイションは、カルメン・マキとのコラボレーション後に解散しますが、メンバーの数人が1年も経たないうちに「クリエイション」と名前を改めて再結成します。1975年には東芝EMIより、内田裕也のプロデュースで、ファースト・アルバム『クリエイション』をリリースし、更にハード・ロック色の濃いサウンドを目指しました。この作品のジャケットには全裸の男の子たちが並んで立ちションベンをしている写真が使用されています。

クリエイションはライヴ活動をする中でアメリカのハード・ロック・バンド「マウンテン」のベイス担当のフェリックス・パパラルディに誘われて渡米します。米国でセカンド・アルバム『クリエイション・ウィズ・フィリックス・パパラルディ』をレコーディングしました。このリリースに伴ってクリエイションは全米ツアーを行い、一方で日本人単独アーティストとして初の武道館コンサートを行うという成果を上げます。日本のロック史に残るクリエイションの名作とされるのが、ファンクやソウルの要素を多分に含んだサード・アルバムの『ピュア。エレクトリック。ソウル』(1977年)です。本作のジャケットにもやはり、全裸の男の子たちが登場しています。

四人囃子

日本の若者の間で圧倒的に人気だったのがフォークだった中、フラワー・トラヴェリン・バンドやはっぴいえんどが既に活動中止、あるいは解散してしまいます。しかし、そうした中、日本独自のサイケデリック・ロック/プログレッシヴ・ロックのバンドも誕生しました。その代表例が「四人囃子」です。欧米におけるプログレの最盛期とも言える1974年にリリースされたデビュー・アルバム『一触即発』は、日本のロックの名盤とされています。

四人囃子は欧米のロックを内在化した上で、そこに日本的な感性を持ち込むことで日本独自のロックを生み出しました。四人囃子というバンド名に、能や歌舞伎、寄席や祭で演奏される“囃子"を連想させる言葉が用いられているように、彼らのシュールな日本語の歌詞は、日本のありふれた日常的な風景の中に潜む非日常を感じさせます。例えばザ・ドアーズの『ライダーズ・オン・ザ・ストーム』を彷彿とさせる『空と雲』の歌詞にはこんな一節があります。「そのあたりには 古いお寺がたくさんあって/子供たちが楽しげに遊んでいた」。さらに、『一触即発』の3曲目の題名は、『おまつり』です。他にも「夏の蝉の声」という歌詞であったり、ピンポン玉が弾む凛とした効果音など、外国人には“ノイズ"としか聞こえないサウンドに音楽的な魅力を感じる日本人独特の感性が全体的に感じるということができるのが四人囃子のロックの特徴です。

バンドのメンバーの中でも特筆すべきなのが、ギターの森園勝敏と、ベイスの佐久間正英です。森園は繊細なサウンドからアグレッシヴサウンドを引き分けられる個性的なギタリストで、ハスキーな歌声も音楽の世界観とマッチングしています。森園は後にジャズ・フュージョン・バンドでギタリストの和田アキラ率いる「PRISM」に参加したり、セッション・ミュージシャンとして広く活動しています。佐久間はベイス以外にもキイボードやギターも弾けるマルチ・プレイヤーで、後に「BOØWY」「ザ・ブルーハーツ」「GLAY」「JUDY AND MARY」「エレファントカシマシ」など数々のJ-POPのアーティストたちを手掛けた名プロデューサーとして活躍します。

サディスティック・ミカ・バンド

60年代後半に活躍していたザ・フォーク・クルセダースのリーダーの加藤和彦は、ある日楽屋に押しかけてきた大ファンの福井ミカと出会い、その後恋仲となり、結婚まで至りました。この2人を中心に1971年に「サディスティック・ミカ・バンド」が結成されました。72年には後にY.M.O.のメンバーとなったドラマーの高橋幸宏や、ベイスの小原礼が加わり、翌年にファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』をリリースします。この作品は当時、日本でのセールズは伸びなかったものの、英国で評判となり、後に“逆輸入"という形で日本でも評価されるようになりました。当時ビートルズやピンク・フロイドを手掛けたことで知られていた英国の音楽プロデューサーのクリス・トーマスは、本作をとても気に入り、サディスティック・ミカ・バンドにプロデュースの話を持ちかけます。その結果生まれたセカンド・アルバム『黒船』は日本のロック史に残る名盤とされています。この作品ではギタリストの高中正義のプレイも輝いています。

ところがミカは英国ツアー中にトーマスと恋愛関係になり、加藤と離婚したことによりバンドは1975年末に解散しました。「サディスティック・ミカ・バンド」という名前はそもそもジョン・レノンとオノ・ヨーコの「プラスティック・オノ・バンド」をもじったものだったのですが、世界進出を目前にした矢先での空中分解は、正にバンド名が予言した通りとなってしまいました。

バンドはその後も1985年には松任谷由実を加えた「サディスティック・ユーミン・バンド」、2006年には木村カエラを迎えて「サディスティック・ミカエラ・バンド」などの名義で度々再結成しています。加藤和彦は、後に作詞家の安井かずみと再婚するのですが、最期は心の病によって自殺してしまいました。

Char

東京品川区に生まれ、耳鼻咽喉科・眼科の開業医を母に持ったCharは、子供の頃からピアノやギターを習い始めます。ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどのプレイに感銘を受けて徐々にピアノよりもギターに没頭するようになりました。60年代後半、まだティーネイジャーになったばかりの頃からローリング・ストーンズやクリームなどの洋楽をカヴァーするバンドを結成し、アマチュア・ミュージシャンとして活動を始めました。1971年、16歳の時にヤマハ・ライトミュージックコンテストに出場し、オリジナル曲で地区ブロックで2位を受賞したことをきっかけに、ストゥディオ・ミュージシャンとして働くようになりました。

セッション・ミュージシャンとして活躍する一方で自身のバンドも組み、70年代半ば頃には内田裕也が主宰していたロック・イヴェントやその他のロック・フェスにも呼ばれるレヴェルまで業界内の評判を高めていたものの、バンドは結局解散してしまいます。70年代後半には歌謡ロックのアイドル的なギタリスト&ヴォーカリストとしてソロで・デビューし、代表曲『Smoky』などが収録されたアルバム『Char』をリリースし、人気を博しました。しかし、テレヴィの歌番組に出演することが増える中で、本人の本来の指向とは異なる歌謡曲のアイドル的な活動が嫌になり、見切りをつけて新たに本格的なロック・バンドを結成することにします。

その矢先に、覚せい剤取締法違反の嫌疑がかけられたことで、一時活動休止を余儀なくされてしまいます。1979年にカルメン・マキが落ち込んでいたCharに声をかけ、彼女のツアー・メンバーとして復帰することとなります。その後、80年代初頭に金子マリ&バックスバニーのメンバーだったジョニー吉長と、グループ・サウンズの重要なバンドであった「ゴダイゴ」で有名となったミッキー吉野も所属していた「ゴールデン・カップス」のメンバーだったルイズルイス加部と共に「ジョニー・ルイス&チャー」 (後に「ピンク・クラウド」と改名)を結成しました。Charは、様々なスタイルのバンド活動をする一方で、他のミュージシャンのプロデュースも手掛けるようになりました。

井上陽水

福岡県出身の井上陽水は、小学生時代にはエルヴィス・プレスリーなどの洋楽を聴くようになり、中学生時代からビートルズに熱中するようになり、音楽への道を歩みだします。歯科医だった父親の後を継ぐことを期待されていたために、九州歯科大学を受験するものの3回も失敗し、大学進学を諦めて上京し、シンガー・ソングライターになるための活動に専念します。1969年にレイディオ番組『スマッシュ!!11』に持ち込んだ自宅録音の曲が数多くリクエストされたことを受けて、CBSソニーから正式デビューすることとなるものの、この曲は不振に終わります。しかしこの頃にフォーク・シンガーの小室等や後にRCサクセションの忌野清志郎と出会い、親交を深めました。小室からはボブ・ディランを勧められ、少しずつフォーク色が濃くなって行きました。

井上は1972年にポリドール・レコードから再デビューを果たし、名曲『傘がない』が収録されたファースト・アルバム『断絶』をリリースし、1973年のシングル『夢の中へ』で初のヒット作を記録しました。その後は70年代のフォーク・ブームが起こり、井上はその独特な歌詞の世界観と哀愁漂う歌声で一躍スター歌手となりました。

井上はその後もソロ活動に加え、80年代には彼のバックバンドを務めていた、玉置浩二を中心とした安全地帯がデビューしたり、中森明菜などの他の歌手に歌詞や曲の提供も行うようになりました。90年代にはPUFFYに提供した曲『アジアの純真』をヒットさせたり、同じくシンガー・ソングライターの奥田民生ともコラボレーションをするなど、現在も音楽業界で中心的な存在として活動を続けてきました。


4.エピローグ

今回、このコラムで見てきたように、60年代終盤、70年代前半に台頭した日本のロック・ミュージシャンには、様々な葛藤がありました。それは歌詞を英語にするべきか、日本語にするべきという表面的な問題のみならず、ロックという音楽の魅力をどのように歌謡曲好きな日本人に伝えるか、という根本的な問題です。日本独自のハード・ロックやサイケデリック・ロックのサウンドを追求し、英語歌詞で海外進出への手がかりを手にしていた「ニュー・ロック」のバンドたちは全て、一時的な成功しか手に入れることができず、そのほとんどが解散してしまいました。結局、日本国内でもバリバリなロックは広く受け入れられず、欧米のロックやフォークと日本の歌謡曲の要素をブレンドした「ニュー・ミュージック」のアーティストたちが人気を集めるようになりました。

彼らの葛藤は、テレヴィの音楽番組に出演するかしないか、という点でも伺うことができます。アメリカや英国のテレヴィ番組に積極的に出演していた欧米のロック・ミュージシャンとは違って、日本のロック・ミュージシャンの間ではテレヴィには出たくないという反骨精神のようなものありました。欧米のロック・ミュージシャンには、例えテレヴィ局に嫌われようと、自分たちの個性を前面に出す覚悟があったのに対して、ヒッピー文化などのカウンターカルチャーが「政治的な運動」としてではなく「ファッション」として流行った日本のロック・ミュージシャンの間には、それだけの覚悟がなかったのかもしれません。

一方で、フォーク界でも吉田拓郎を筆頭に「テレヴィ出演拒否」が貫かれました。フォーク系のミュージシャンの場合は、歌謡曲の要素を多く取り込んでいたことからそもそも日本の若いリスナーには違和感なくそれを受け入れていたにも関わらず、「テレヴィ出演拒否」することでむしろ自分を神格化させるための戦略だったのかもしれません。ところがこうしたミュージシャンも、00年代以降、生き残るために進んでテレヴィに出演するようになります。

また、この時代のミュージシャンたちの間には「戦勝国のアメリカの文化に対する憧れ」もありました。岩手県出身の大瀧詠一はアメリカン・ポップスに夢中になり、レイディオを自作して米軍極東放送(FEN)の番組を聴き込みました。大瀧も細野晴臣も、はっぴいえんど解散後に米軍基地付近のいわゆる「アメリカ村」(大滝は福生、細野は埼玉県狭山市)に自宅兼ストゥディオを構えるようになったのもその例です。中には、名前も顔も知らない米軍の兵士を父に持ったジョー山中や、ジャニス・ジョプリンに強く憧れたカルメン・マキのように、「戦後の日本で“混血児"として生きていくこと」という難しさを原動力としたミュージシャンもいたことを忘れてはならないのでしょう。

サイケデリック・ミュージックが日本の音楽界に及ぼした影響を語る上で、麻薬や覚醒剤などのドラッグの問題も決して忘れてはならない点です。1977年には内田裕也やジョー山中、井上陽水も大麻取締法違反容疑で逮捕されています。はっぴいえんどの鈴木茂も、バンド解散後の頃から大麻の使用を始め、2009年に大麻取締法違反で逮捕されました。70年代後半にはCharに覚せい剤取締法違反の嫌疑がかけられ、一時活動休止を余儀なくされています。前述の金子マリとジョニー吉長の息子であり、1997年に下北沢で結成されたロック・バンド「RIZE」のベイス担当であるKenKenと、バンドのヴォーカル/ギター担当のCharの息子のJESSEも、2019年に大麻取締法違反の容疑で逮捕されました。同年にはテクノ・ポップ・グループの電気グルーヴのピエール瀧がコカインを使用したとして麻薬取締法違反容疑で逮捕され、2020年2月には槇原敬之が覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕されました。

欧米のサイケデリック・ミュージックの影響を受けた日本のミュージシャンの間で、ドラッグ問題が後を絶えないのは、上記の葛藤が少なからずとも関係しているのは間違い無いでしょう。海外の音楽シーンを実際に目の当たりにした日本のスターたちの中には、そこに乗り越えられない壁を感じ、挫折を味わってドラッグに手を伸ばしてしまった人もいるのでしょう。

同時に、前述した歴史からも分かるように、この世代のミュージシャンこそが、現在のJ-POP市場の基盤を作り、その子供たちが今日本を代表するスターとなっているケースもあります。彼らのドラッグ使用は日本では違法でありますが、彼らが生み出した音楽を否定することはできないのです。日本や欧米のみならず、世界的に見ても、人々を魅了したり、世の中を変える表現というものには、社会一般のモラルに反する行動をとる人たちのパッションがどうしてもあるようです。


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